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其の肆 涙雨のあとは

十六

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「暗いですなぁ……」
 老人は、地下へと続く階段を下りながら、ぽつりと呟いた。
 だがそれ以外は特に何の感慨も示すことなく、ただ前を向いて歩き続けていた。彼を導く風見の背中と、その向こうにいるのであろう琴子の姿しか、目に入っていないようだった。
 初名が初めてこの横丁に足を踏み入れた時には、にこやかに返答した風見だったが、今は、憮然として振り返りもしない。
 少しでも止まれば置いていくぞと言わんばかりに、静かに歩を進めていた。
 横丁は、入り口から奥へ向かってずっと道が続いており、その道を挟んで両側に店が連なって続く。風見によると、新しい住民が増える度、奥に1軒ずつ増えていくのだそうだ。突き当りはなく、無限に続くのだという。
 入り口近くには弥次郎の「やじや」、辰三の「八百万」が見えたが、風見はそれらの店を通り過ぎ、奥へ奥へと進んでいく。
 横丁の面々は客引きをするようなこともないので、店の外はいたって静かだ。
 静寂が3人を包み込む中、長く続く道を、天井近くについた灯りがぼんやりと照らしていた。
 無言で歩き続けていた風見が、立ち止まった。入り口からもっとも遠い、最奥に当たる場所に構える店の前だ。
「ここや」
 そう言って風見が指したのは、すりガラスの両開きの引き戸のはまった、食堂。その看板に書かれてある文字は「おばんざい ことこと屋」。
 老人が、感嘆したかのような、ため息ともつかぬ声を吐き出したのが聞こえた。瞬きする老人の前で、風見はいつもと同じ調子で、ガラガラと引き戸を開いた。
 空いた戸の向こう側には、初名もよく見知った店内の風景が広がる。
 4人掛けの席とカウンター席がいくつか。店内に客はいない。誰もいないように見えたカウンターの奥から声が響いて来た。
「いらっしゃーい」
 その声が聞こえると、老人の体がぎゅっと強張ったのが初名には分かった。
 声と共に、ぱたぱたと軽やかな足音を鳴らして琴子がやって来た。髪には、昨日も着けていた黄色い鮮やかな花飾りがついていた。
 にこやかな空気が、さらに華やいで見えた。
「あら風見さん、戻ってきはったん? いや、初名ちゃんも……あら?」
 琴子はすぐに、風見の背後に視線を送った。
 初名に挨拶を告げようとして、すぐ傍にいた老人に目が留まった。ふんわり優しく弧を描いていた眉が、きゅっと中央へと寄った。
 そのまま、琴子は近づいて来た。風見の脇をすり抜け、老人に近づいて、その顔をじっと覗き込んでいる。
「いや……お客さん、もしかして……」
 老人が、琴子の顔を見て息をのんだのが、伝わってきた。 
 琴子の次の言葉に、初名は胸の奥がひりひりする思いだった。
 老人もまた、何かを覚悟したかのように、唇を引き結んでいた。
 その緊迫した顔に、琴子は告げた。
「もしかして初めて来はった人?」
「……え?」
「だって今まで見たことないお顔やもん。いやぁ嬉しいわぁ。新しいお客さんなんて」
 その声は、鈴がいくつも連なって転げたような愛らしい声音だった。
「う、嬉しい……ですか?」
 老人は声が上ずりながらも、どこか頬が緩みそうになっていた。琴子はそんな老人の手を取り、頷いた。
「そらそうですよ。色んなお客さんに、うちのお料理食べてほしいんやもん。さあ、こちらへどうぞ。お座りください」
 琴子は老人の手を取り、近くにあった4人掛けのテーブル席に連れて行った。老人の向かいの席に風見が、隣の席に初名がそれぞれついた。
 ほどなくして、琴子が3人分のお茶を持って戻って来た。
「何にしはります?」
 にこにこと答えを待つ琴子に、老人は尋ねた。
「……何がおすすめですか?」
「そうですねぇ……失礼ですけど、ご高齢のようやし、あんまりきついお味のもんは避けた方がいいですやろ? このお好み定食にしはって、おかずをこっちのお揚げさんの炊いたんとか、煮びたしとかにしはったらどうですやろか?」
「そうですなぁ。ほな、それでお願いします」
「はい、ちょっとお待ちくださいね。今、うちの人が美味しい美味しいコーヒーお持ちしますから」
『うちの人』という言葉に、老人はぴくりと身を固くした。じっと目を見開いたまま、老人は琴子のにこやかな顔を覗き込んだ。
「コーヒーを淹れてはるんですか? その……旦那さんは?」
「ええ、うちの人、昔から得意なんですよ。そやから初めて来てくれはったお客さんには、サービスで一杯ごちそうすることにしてますのや」
「そ、そうですか……」
 老人は、静かに視線をそらせた。
 琴子は老人の話が終わったとみたのか、風見と初名にも注文を聞き、またパタパタと音を立ててカウンターの奥に下がっていった。
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