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其の肆 涙雨のあとは
十四
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「この花の贈り主……あのおじいさんが、琴子さんと礼司さんを……? でも、いくら何でも今の今まで捕まらずにいられるわけが……」
「指名手配犯どころか、犯人がわからんまま時効成立っちゅう事件も、地上ではけっこうあるんやなかったか?」
そう言った辰三の言葉は事実だが、この上なく意地の悪い響きだった。
「でも……毎年来ていたって……そんなことをする人が、二人を殺して、しかも隠していたなんて……」
「裏で何しとるかわからんのが人間や。人間の方が、あやかしよりもずっと狡猾なんやで」
「で、でも……そうだとしても……許して欲しいって言ってました。自分が憎いだろうって……きっと罪を償う気が……」
「俺は、そうは思わん」
初名の言葉を遮ったのは、憤った辰三の声ではなく、風見の静かな声だった。その声音は穏やかなようでいて、同時に厳しい響きが含まれていた。
「きっとその男は、自分のために許して欲しいんや。自分が罪の重さに耐えられへんかったから。早く楽になりたいから。お前が憎い、死んでしまえと罵倒される方が心が軽くなるんや。なぜなら、それで罰を受けた気になれるから。それに……優しい琴子や礼司なら、許してくれると思てるかもしれへん。そんな打算が、透けて見えるわ」
「そんな……そんなことばっかりじゃないです、きっと。あの人、戦災孤児を引き取って育てていたらしいです。だから隠していたし、罪の意識もずっと抱いて……」
「だから何や。人数で帳消しにできるもんやない。『許して欲しい』なんぞ、よくも言えたもんや。自分のくだらん嫉妬で二人もの人間の将来を奪っておいて、よくも……!」
風見の面持ちが徐々に歪んでいく。決して醜くはない。だが荒ぶる形相は、まるで炎のようだった。触れただけで、燃え尽きてしまいそうな業火のようだ。
「し、嫉妬……ですか?」
「二人を殺した時、あの男はなんて言うてたかわかるか?『これは報いや。わしから離れた……わしからこの人を奪った報いや』……そう言うとった。好いた男と女が、戦後の過酷な中で手を取り合って夢を叶えようとしとった。それの、いったい何が罪なんや。そして、そんな二人が殺された罪は、どうして裁かれへんのや。俺は、見ているしかできへんかった。だから、ちいともわからんわ。人間どもにとって、いったい何が良くて何が悪いんか……ちいともな」
吐き捨てるようなその声に、初名は竦んだ。いつも機嫌の良い風見の、こんなにも憤った様子を、初めて目の当たりにした。
それは一時の感情に振り回されたものではない。琴子と礼司という横町の仲間を思うからこそ抱いている憤りなのだ。だから、その憤りを止めろとはどうしても言えなかった。
何も、言えなかった。
「……黙るなや。お前のことを言うてるんとちゃう」
「いえ……でも、私これで失礼します」
初名は立ち上がり、店から出て行った。背後で琴子が引き留める声が聞こえたが、振り切って走った。
風見たちが老人を憎む気持ちは理解できた。琴子たちのことを思うがゆえの感情なのだ。だからこそ、あの言葉の数々が、自分にも突き刺さった。
もう、これ以上聞いていたくない。これ以上聞いていたら、自分を保てなくなってしまいそうだった。
逃げ出したのだ。
ぼんやりと照らされた道を抜け、真っ暗で長い長い階段を駆け上り、ようやく眩いほどの光の下に戻った。
先ほど、風見たちがあの老人のことを責め立てようとしていたことも、何もかも夢だったように思える。
そんなことを考えてしまい、嫌になった。両手で頬をパチパチたたき、痛みをはっきり感じた。
「やめようやめよう。あの人はあの人、私は私!」
切り分けて考えねば。そう考えたその時ーー
「何がや?」
声は、正面から聞こえた。おそるおそる見ると、そこには涼しげな顔をした風見が立っていた。
「指名手配犯どころか、犯人がわからんまま時効成立っちゅう事件も、地上ではけっこうあるんやなかったか?」
そう言った辰三の言葉は事実だが、この上なく意地の悪い響きだった。
「でも……毎年来ていたって……そんなことをする人が、二人を殺して、しかも隠していたなんて……」
「裏で何しとるかわからんのが人間や。人間の方が、あやかしよりもずっと狡猾なんやで」
「で、でも……そうだとしても……許して欲しいって言ってました。自分が憎いだろうって……きっと罪を償う気が……」
「俺は、そうは思わん」
初名の言葉を遮ったのは、憤った辰三の声ではなく、風見の静かな声だった。その声音は穏やかなようでいて、同時に厳しい響きが含まれていた。
「きっとその男は、自分のために許して欲しいんや。自分が罪の重さに耐えられへんかったから。早く楽になりたいから。お前が憎い、死んでしまえと罵倒される方が心が軽くなるんや。なぜなら、それで罰を受けた気になれるから。それに……優しい琴子や礼司なら、許してくれると思てるかもしれへん。そんな打算が、透けて見えるわ」
「そんな……そんなことばっかりじゃないです、きっと。あの人、戦災孤児を引き取って育てていたらしいです。だから隠していたし、罪の意識もずっと抱いて……」
「だから何や。人数で帳消しにできるもんやない。『許して欲しい』なんぞ、よくも言えたもんや。自分のくだらん嫉妬で二人もの人間の将来を奪っておいて、よくも……!」
風見の面持ちが徐々に歪んでいく。決して醜くはない。だが荒ぶる形相は、まるで炎のようだった。触れただけで、燃え尽きてしまいそうな業火のようだ。
「し、嫉妬……ですか?」
「二人を殺した時、あの男はなんて言うてたかわかるか?『これは報いや。わしから離れた……わしからこの人を奪った報いや』……そう言うとった。好いた男と女が、戦後の過酷な中で手を取り合って夢を叶えようとしとった。それの、いったい何が罪なんや。そして、そんな二人が殺された罪は、どうして裁かれへんのや。俺は、見ているしかできへんかった。だから、ちいともわからんわ。人間どもにとって、いったい何が良くて何が悪いんか……ちいともな」
吐き捨てるようなその声に、初名は竦んだ。いつも機嫌の良い風見の、こんなにも憤った様子を、初めて目の当たりにした。
それは一時の感情に振り回されたものではない。琴子と礼司という横町の仲間を思うからこそ抱いている憤りなのだ。だから、その憤りを止めろとはどうしても言えなかった。
何も、言えなかった。
「……黙るなや。お前のことを言うてるんとちゃう」
「いえ……でも、私これで失礼します」
初名は立ち上がり、店から出て行った。背後で琴子が引き留める声が聞こえたが、振り切って走った。
風見たちが老人を憎む気持ちは理解できた。琴子たちのことを思うがゆえの感情なのだ。だからこそ、あの言葉の数々が、自分にも突き刺さった。
もう、これ以上聞いていたくない。これ以上聞いていたら、自分を保てなくなってしまいそうだった。
逃げ出したのだ。
ぼんやりと照らされた道を抜け、真っ暗で長い長い階段を駆け上り、ようやく眩いほどの光の下に戻った。
先ほど、風見たちがあの老人のことを責め立てようとしていたことも、何もかも夢だったように思える。
そんなことを考えてしまい、嫌になった。両手で頬をパチパチたたき、痛みをはっきり感じた。
「やめようやめよう。あの人はあの人、私は私!」
切り分けて考えねば。そう考えたその時ーー
「何がや?」
声は、正面から聞こえた。おそるおそる見ると、そこには涼しげな顔をした風見が立っていた。
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