54 / 109
其の肆 涙雨のあとは
十
しおりを挟む
鳥居をくぐり、境内末社の隣を抜け、社務所の前まで来て、初名と老人は参道に立った。本来は参道の中央に立つべきではないとされていたが、老人を支えながらだと難しかったので、今回だけ見逃してもらえまいかと祈りながら歩いた。
お参りをして、境内に設置されたベンチに老人を座らせ、初名も女性も一息つくことが出来た。老人はいつまた叫び出すかと案じていたが、意外にも、境内では穏やかな様子だった。それどころか一言も話そうとしない。
ベンチに座り、老人を挟んで初名と女性が、にこやかに話をしていた。
「ごめんねぇ付き合わせてもうて」
「いえ、自分から言い出したことなので」
「許してくれるか」
老人は、静かにそう言って、初名を見上げた。その瞳は、やはり初名を映しているようで、別のものを見つめているように見えた。
「……いいですよ。これぐらい、お安い御用です」
そう、初名が答えると、老人の目にうっすらと涙が浮かんだ。そして、初名の手をとり、両手でぎゅっと握りしめた。先ほどのように、信じられない膂力で握られて、振り払うことが出来なかった。
「ほんなら、あの男はやめて、わしと一緒になってくれるな?」
「……は?」
老人は涙を浮かべながら、笑っていた。その背後では義理の娘という女性が目を見開いて立ち上がっていた。
「お父さん、何言うてるの! こんなところで、こんな若い子に……!」
「ま、待ってください!」
無理矢理引き剥がしてしまおうとする女性を、初名は止めた。そして握りしめた手のひらごしに、老人の瞳をまっすぐに見つめた。
「ごめんなさい、久しぶりに会ったからわからないんです。私、どんなお約束をしていたんですか?」
老人は、一瞬悲しそうな顔をしたが、再び語り始めた。
「わしは……あんたのご両親に言うたんや。あんたと結婚させてください、て。店も継ぐ、て。そやけど、わしに赤紙が来て戦争に行ってる間に、あんたは……!」
老人の手に、さらに力がこもった。初名の手が、握りつぶされそうに圧迫されている。その片手が離れて、初名の髪に伸びた。
「こんな……タンポポなんか、はずしたらええ。わしが、もっと似合う花を……そうや、あんたの好きな撫子の花を挿したるさかい」
「いや、この花は……」
初名は咄嗟に片手を引き抜き、髪にかざったままだったタンポポを押さえた。それを見た老人は、急にわなわなと震えだした。拒絶されたと、受け取ったように。
「なんでや……あんた、撫子の方が好きやったやろ。なんでそんな、雑草みたいな花を……」
「そうじゃなくて、これは人から貰ったものなので」
「わしがいくらでも、綺麗な花挿したるて……何回も何回も、言うたのに。あんたはいつも……何でや……!」
「お父さん、ええ加減にして!」
女性が、老人の腕を掴んで強引に引っ張った。今度こそ引き剥がそうと。だが、老人は微動だにしない。体格で見れば明らかに女性の方が力は強そうなのに、だ。
「なんでや……なんで……!」
女性の制止になど見向きもしない。老人の声も視線も、ただ初名に向かっていた。いや、初名を通した、誰かに。
「い、痛……!」
初名の手が、いよいよ痛みで悲鳴を上げた。その時、何かが、老人を止めようとする女性の手に覆い被さった。そして、老人の手が驚くほど軽く引き離されたのだった。
驚き呆然としている初名の耳元に、静かな声が聞こえてきた。
「大丈夫? 痛くない?」
声とともに、何かが初名の手を優しく包み込んだ。人の手だった。だが不思議と手のひらの温もりとは少し違う。こたつや布団の中のように、初名の手のひらをじんわりと温めてくれている。そんな感じがしていた。
見ると、目の前には男の子が立っていた。先ほど、地下街で会った、あの男の子……清友が。
「い、痛くない……です」
「良かった」
清友はにっこり笑うと、ふわりと視線を老人に移した。初名に向けたものとは真逆の視線を。
「この子は、きみの探す人とは違う」
清友の視線と声を、老人は呆然としながらも受け止めていた。
「きみの探す人は、もうこの世にはいない。きみが、殺したんやから」
初名は、息をのんだ。それと同時に、老人はまるでナイフで刺されたかのような悲痛な面持ちに変わった。
驚いているのではない。重い事実を突きつけられた。そう、見て取れる顔だ。
その言葉の意味を問おうと清友を振り返ると、清友は再び微笑んだ。
「その花を贈った人らに、お礼を言ってくれへんかな」
「これですか? あれ……?」
指さされ、髪に挿した花にそっと触れると、なんだかカサカサした感触にあたった。先ほどまで黄色く鮮やかに咲いていたタンポポは、枯れてしまっていたのだ。
「力を貸して貰ったから。でも、そのせいで枯らしてしもた。ごめんて、そう伝えて貰てええかな」
「伝えるって……誰に?」
清友は、答えず微笑みで返した。
「困ったことがあったら、またおいで」
そう言って、清友は手を振った。そしてその数秒後には、溶けるように姿が消えていった。
(そうか、助けてくれたんだ)
理屈も何もわからないが、初名は漠然と、そう感じたのだった。もう見えなくなった少年に向かい、頭を下げると、別の声が響いてきた。
「お父さん、どないしたん? 大丈夫?」
女性の、必死に老人を呼ぶ声が初名の意識をも呼び戻した。女性は、目の前で男の子が消えたことなど何も気にせず、老人の身を案じていた。
(この人には、あの子……清友さんが見えてないんだ)
だが、おそらく老人ははっきりと見ていた。声も、聞いたのだろう。
清友が語った言葉に、怯え、恐れ、震えているのだから。
お参りをして、境内に設置されたベンチに老人を座らせ、初名も女性も一息つくことが出来た。老人はいつまた叫び出すかと案じていたが、意外にも、境内では穏やかな様子だった。それどころか一言も話そうとしない。
ベンチに座り、老人を挟んで初名と女性が、にこやかに話をしていた。
「ごめんねぇ付き合わせてもうて」
「いえ、自分から言い出したことなので」
「許してくれるか」
老人は、静かにそう言って、初名を見上げた。その瞳は、やはり初名を映しているようで、別のものを見つめているように見えた。
「……いいですよ。これぐらい、お安い御用です」
そう、初名が答えると、老人の目にうっすらと涙が浮かんだ。そして、初名の手をとり、両手でぎゅっと握りしめた。先ほどのように、信じられない膂力で握られて、振り払うことが出来なかった。
「ほんなら、あの男はやめて、わしと一緒になってくれるな?」
「……は?」
老人は涙を浮かべながら、笑っていた。その背後では義理の娘という女性が目を見開いて立ち上がっていた。
「お父さん、何言うてるの! こんなところで、こんな若い子に……!」
「ま、待ってください!」
無理矢理引き剥がしてしまおうとする女性を、初名は止めた。そして握りしめた手のひらごしに、老人の瞳をまっすぐに見つめた。
「ごめんなさい、久しぶりに会ったからわからないんです。私、どんなお約束をしていたんですか?」
老人は、一瞬悲しそうな顔をしたが、再び語り始めた。
「わしは……あんたのご両親に言うたんや。あんたと結婚させてください、て。店も継ぐ、て。そやけど、わしに赤紙が来て戦争に行ってる間に、あんたは……!」
老人の手に、さらに力がこもった。初名の手が、握りつぶされそうに圧迫されている。その片手が離れて、初名の髪に伸びた。
「こんな……タンポポなんか、はずしたらええ。わしが、もっと似合う花を……そうや、あんたの好きな撫子の花を挿したるさかい」
「いや、この花は……」
初名は咄嗟に片手を引き抜き、髪にかざったままだったタンポポを押さえた。それを見た老人は、急にわなわなと震えだした。拒絶されたと、受け取ったように。
「なんでや……あんた、撫子の方が好きやったやろ。なんでそんな、雑草みたいな花を……」
「そうじゃなくて、これは人から貰ったものなので」
「わしがいくらでも、綺麗な花挿したるて……何回も何回も、言うたのに。あんたはいつも……何でや……!」
「お父さん、ええ加減にして!」
女性が、老人の腕を掴んで強引に引っ張った。今度こそ引き剥がそうと。だが、老人は微動だにしない。体格で見れば明らかに女性の方が力は強そうなのに、だ。
「なんでや……なんで……!」
女性の制止になど見向きもしない。老人の声も視線も、ただ初名に向かっていた。いや、初名を通した、誰かに。
「い、痛……!」
初名の手が、いよいよ痛みで悲鳴を上げた。その時、何かが、老人を止めようとする女性の手に覆い被さった。そして、老人の手が驚くほど軽く引き離されたのだった。
驚き呆然としている初名の耳元に、静かな声が聞こえてきた。
「大丈夫? 痛くない?」
声とともに、何かが初名の手を優しく包み込んだ。人の手だった。だが不思議と手のひらの温もりとは少し違う。こたつや布団の中のように、初名の手のひらをじんわりと温めてくれている。そんな感じがしていた。
見ると、目の前には男の子が立っていた。先ほど、地下街で会った、あの男の子……清友が。
「い、痛くない……です」
「良かった」
清友はにっこり笑うと、ふわりと視線を老人に移した。初名に向けたものとは真逆の視線を。
「この子は、きみの探す人とは違う」
清友の視線と声を、老人は呆然としながらも受け止めていた。
「きみの探す人は、もうこの世にはいない。きみが、殺したんやから」
初名は、息をのんだ。それと同時に、老人はまるでナイフで刺されたかのような悲痛な面持ちに変わった。
驚いているのではない。重い事実を突きつけられた。そう、見て取れる顔だ。
その言葉の意味を問おうと清友を振り返ると、清友は再び微笑んだ。
「その花を贈った人らに、お礼を言ってくれへんかな」
「これですか? あれ……?」
指さされ、髪に挿した花にそっと触れると、なんだかカサカサした感触にあたった。先ほどまで黄色く鮮やかに咲いていたタンポポは、枯れてしまっていたのだ。
「力を貸して貰ったから。でも、そのせいで枯らしてしもた。ごめんて、そう伝えて貰てええかな」
「伝えるって……誰に?」
清友は、答えず微笑みで返した。
「困ったことがあったら、またおいで」
そう言って、清友は手を振った。そしてその数秒後には、溶けるように姿が消えていった。
(そうか、助けてくれたんだ)
理屈も何もわからないが、初名は漠然と、そう感じたのだった。もう見えなくなった少年に向かい、頭を下げると、別の声が響いてきた。
「お父さん、どないしたん? 大丈夫?」
女性の、必死に老人を呼ぶ声が初名の意識をも呼び戻した。女性は、目の前で男の子が消えたことなど何も気にせず、老人の身を案じていた。
(この人には、あの子……清友さんが見えてないんだ)
だが、おそらく老人ははっきりと見ていた。声も、聞いたのだろう。
清友が語った言葉に、怯え、恐れ、震えているのだから。
0
お気に入りに追加
16
あなたにおすすめの小説
戸惑いの神嫁と花舞う約束 呪い子の幸せな嫁入り
響 蒼華
キャラ文芸
四方を海に囲まれた国・花綵。
長らく閉じられていた国は動乱を経て開かれ、新しき時代を迎えていた。
特権を持つ名家はそれぞれに異能を持ち、特に帝に仕える四つの家は『四家』と称され畏怖されていた。
名家の一つ・玖瑶家。
長女でありながら異能を持たない為に、不遇のうちに暮らしていた紗依。
異母妹やその母親に虐げられながらも、自分の為に全てを失った母を守り、必死に耐えていた。
かつて小さな不思議な友と交わした約束を密かな支えと思い暮らしていた紗依の日々を変えたのは、突然の縁談だった。
『神無し』と忌まれる名家・北家の当主から、ご長女を『神嫁』として貰い受けたい、という申し出。
父達の思惑により、表向き長女としていた異母妹の代わりに紗依が嫁ぐこととなる。
一人向かった北家にて、紗依は彼女の運命と『再会』することになる……。
悪魔使い
邦幸恵紀
キャラ文芸
喫茶店『ゲーティア』。美青年・尾藤がマスターを務めるその店の裏の顔は、人の願いを気まぐれに叶える〈悪魔使い〉に会うための窓口。今日もまた〈悪魔使い〉に招かれた客が尾藤に合言葉を告げる。――ソロモンの小さな鍵をください。
ガダンの寛ぎお食事処
蒼緋 玲
キャラ文芸
**********************************************
とある屋敷の料理人ガダンは、
元魔術師団の魔術師で現在は
使用人として働いている。
日々の生活の中で欠かせない
三大欲求の一つ『食欲』
時には住人の心に寄り添った食事
時には酒と共に彩りある肴を提供
時には美味しさを求めて自ら買い付けへ
時には住人同士のメニュー論争まで
国有数の料理人として名を馳せても過言では
ないくらい(住人談)、元魔術師の料理人が
織り成す美味なる心の籠もったお届けもの。
その先にある安らぎと癒しのひとときを
ご提供致します。
今日も今日とて
食堂と厨房の間にあるカウンターで
肘をつき住人の食事風景を楽しみながら眺める
ガダンとその住人のちょっとした日常のお話。
**********************************************
【一日5秒を私にください】
からの、ガダンのご飯物語です。
単独で読めますが原作を読んでいただけると、
登場キャラの人となりもわかって
味に深みが出るかもしれません(宣伝)
外部サイトにも投稿しています。
皇帝陛下は身ごもった寵姫を再愛する
真木
恋愛
燐砂宮が雪景色に覆われる頃、佳南は紫貴帝の御子を身ごもった。子の未来に不安を抱く佳南だったが、皇帝の溺愛は日に日に増して……。※「燐砂宮の秘めごと」のエピローグですが、単体でも読めます。
【完結】愛するものがすべて。 愛しい姫君のために大納言さまに我が身を差し出す献女の正体は?
あっ ふーこ賦夘
ライト文芸
傷ついた小狐。
小狐を拾った貴族の姫君。
ちょっと変わってる二人が心を通い合わせるほのぼのストーリーです。
涙あり、笑いありのヒューマンドラマを書いてみました。
短いお話なので読んでくださると嬉しいです。
髪を切った俺が『読者モデル』の表紙を飾った結果がコチラです。
昼寝部
キャラ文芸
天才子役として活躍した俺、夏目凛は、母親の死によって芸能界を引退した。
その数年後。俺は『読者モデル』の代役をお願いされ、妹のために今回だけ引き受けることにした。
すると発売された『読者モデル』の表紙が俺の写真だった。
「………え?なんで俺が『読モ』の表紙を飾ってんだ?」
これは、色々あって芸能界に復帰することになった俺が、世の女性たちを虜にする物語。
※『小説家になろう』にてリメイク版を投稿しております。そちらも読んでいただけると嬉しいです。
学院のモブ役だったはずの青年溺愛物語
紅林
BL
『桜田門学院高等学校』
日本中の超金持ちの子息子女が通うこの学校は東京都内に位置する野球ドーム五個分の土地が学院としてなる巨大学園だ
しかし生徒数は300人程の少人数の学院だ
そんな学院でモブとして役割を果たすはずだった青年の物語である
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる