恋情を乞う

乙人

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暗躍

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「昔昔、或処に、憐れな大長公主様がいらっしゃって、体を壊され、義姉に殺されましたとさ。お終い。」
 上背のある美しい女が、鬢を手で弄びながら、笑って、そう呟いていた。

 永寧大長公主の熱は下がった。だが、身体は元に戻らず、左半身の麻痺も治らなかった。
「魖氏。そこの薬湯を取って頂戴。」
 永寧大長公主は決して魖氏を名で呼ばない。知っているが、口にしたくない程穢らわしい、そう思った。
(………)
 魖氏の掌は硬くなっていた。深窓の令嬢がこんな手をしているのは珍しい。
(まさか。)
 永寧大長公主は自分の掌を見た。やはり、硬くなっていた。武芸を鍛錬した末である。
(魖氏も………)
 どれだけ警戒していても、殺られる時は殺られる。まして、今は負傷している。明らかに不利だ。
 気休め程度に、枕元に愛用の剣を置いてあった。二度と持てないだろうそれは、父から頂いた物で、繊細な細工が美しく、とても気に入っていた。
 疑心暗鬼。自分の為にある様な言葉だ。これもそれも、全て太后のせいだ。この女のせいで、人を疑わずに信じるのは難しくなった。しかも、それを知ったのは、十になる前だった。

 絹の淡い青の襖裙を渡された。これを着ろとのことらしい。昔は襖裙を好んで着ていたのを思い出した。太后の下女をさせられた時に着た麻の衣は粗く、とても着心地が悪かった。絹は手触りが良くて、気慣れていた。それを有難がったのは、随分と久しぶりだ。
 侍女が呼ばれ、紅をさしてもらった。年増女は化粧無しで外に出られないと大長公主は思っていた。
 髪は結う程長く無いため、髢を使ってなんとか見目を繕った。
 ふわりと薫る香。旲瑓の愛用している物を特別に頂いた。鼻腔をくすぐる良い香りに、生きているのだな、と感じた。
 腕の良い侍女によって、下女珞燁らくゆうからさきの東宮、永寧大長公主になる。否、戻ると言うのが正しいのだろうか。
(私は誰なんだろうか。)
 誰か、教えてくれ、そう呟いていた。

「此処珞燁永寧大長公主の住んでた宮なのねぇ。」
 魖氏は永寧宮に居た。永寧宮は元々永寧大長公主の住まいである。永寧大長公主の名から由来している。元の名は承香宮。あまり名が気に入らなかったので改名した。歴代の高位の妃が住んでいたらしい。
「今では何とも言えないわ。」
 本来、妃の住まいである承香宮。今では殺風景で、それを感じさせない。
「あーぁ。如何して叔母様太后はこんなとこをあたくしにくれんのかなぁ。」
 呆れた。
 魖氏は育ちは良いが、襤褸を出しやすい。一人になると、素が出てしまう。
 永寧宮という名は好まないので、元の承香宮に名を戻した。
「あたくしを、妃、とねぇ。あはは。そりゃないわ。そんなん似合わない。」
 令嬢にしては随分と豪快に笑い飛ばす魖氏。魖氏が後宮に入れば、大変だ。
 対立している、櫖家と魖家。その血を受け継ぐ永寧大長公主と旲瑓。
 どうなるか、見てみたい、意地悪くけらけらと笑う。

(どうなるやら。)
 永寧大長公主は寝台に寝転がり、呆然と天蓋を眺めていた。
 長公主から大長公主になって、人の目が変わった。しかも、それは正式な儀を終えてのことでもないため、風当たりはきついものだった。
 妹であった姪達は、叔母であった永寧大長公主を見舞いに来たが、『何その髪!』と笑っていた。
 第一長公主-前の第二長公主-はそれを見て、『出家なさるのか?それなら、此方こなたは良い寺を知っておるぞ。』とからかっていた。
 ゴロリと寝返りをうった。暫し眠ろうと思った。

 ガトゴトと、微かに物音がした。
(誰かおるのか?)
 永寧大長公主は起き上がった。
 帳に、人影が映っている。細身の、背の高い者だ。永寧よりも五寸十五センチは高いだろう。腰に剣を下げているのが音で分かった。
(刺客か?)
 永寧は枕元にある剣を取った。右半身が健在で救いだ。永寧大長公主は右利き故に。
「誰かある!」
 永寧大長公主は帳を勢い良く捲った。黒服の刺客は驚いた。拍子抜けしている。
「誰だ!顔を見せよ!」
 刺客は顔を隠していた。永寧大長公主はそれを隠していた布を剥ごうとした。
「やめろ!」
 抵抗して来た。成程。声は聞いたことがある。
 ピンッと音がして、暗闇にきらりと光るのは、剣。それは刺客のすぐ隣に反射して煌めいていた。
「お前………」
 その後の台詞を、永寧大長公主は言わなかった。
 だが、その刺客が誰かは分かった。
 背高の、若い女だった。

 嫌な夢を見た、永寧大長公主はそう思った。
 女が文机に向かって、何か書き物をしていた。
『-、薨去。齢三十二。承香宮にて自害。諡を顕光大長公主とす。』
 そこには、そんなことが書かれていた。誰についての記述かは隠れていて読み取れなかったが、何となく、誰かは分かった。
 -大長公主。三十路に近い大長公主は、永寧大長公主以外に、存在しないのだ。
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