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笄
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『今宵は、月が美しいのね』
『そうですね』
『でもね、わたくし、月は嫌いなのよ』
藤の君は盃を傾けた。
其処には、誰もいない。溢れた酒は地に染み込んで、何事もなかった様に、元に戻る。
「珍しいことですね、君様が月を眺めていらっしゃるだなんて」
「そうかしら」
「月を見るのは、嫌いだと、仰った」
久光は藤の君の隣に座る。
「そうね」
久光は藤の君の盃に酒を注いだ。藤の君はそれをゆらゆらと揺らす。水面には、ぼんやりと月が映る。
「夜は、感傷的に、なってしまうから」
踊る舞姫。巡る盃。紅い装束。花嫁。それを迎える花婿。
全てが、夜だった。月が浮かんでいる。
妹と想い人は、仲睦まじく、そこに割り込むのは、ほぼ不可能だった。
黒い装束に、ザンバラの髪。それを、醜いと笑った。手首に残る鎖の痕を、晒された。
この世で最も憎む母と名乗る女は、この世で一番憎む、もう一人の女の為に踊った。
―わたくし、何がしたかったの?
莫迦だ。
どうして、そんなことさえ理解出来なかったのだろう。
どうして、恋などしてしまったのだろう。
初めて生きた人並みの生活は、残酷な謀りによって、引き裂かれた。
彼の人がくれた銀の歩揺を叩き割る。
何も、特別な何かが欲しかったのではない。ただ、人並みに幸せに生きていたかっただけなのに。人を、愛してみたかっただけなのに。
どうして、それさえも赦してもらえない。
生きる価値さえ無いこの人生は、あと、どれだけ続くのだろう。
溜め息をついた。
誰もいない、静かな場所。小さな湖があった。古い小舟に乗り出て、一人酒をあおった。
衝動にかられ、飛び込んだ。
明日になったら、膨れ上がった醜い死骸になるのだろうか。それとも、生き永らえてしまうのか。
恋の痛手を耐えるより、死ぬ方がいっそ幸せだった。
「君様」
随分と長いこと感傷に浸っていたらしい。
久光が此方に手を伸ばす。何なのかと目を閉じれば、彼の手に握られていたのは、銀の笄だった。
「美しい笄ですね。いつも御髪に挿してらっしゃる。気に入っておられるのですか?」
女性はあまり髪を結わない。下ろしたままだ。それに、笄は、男が使う物らしい。それが不思議だったのだろうか。
「頂き物よ。形見と言えば、形見ね」
愛する男からの、貰い物。その時は、有頂天にもなった。
「殿方から簪を頂くのは……特別な意味があったから」
「そうなのですか」
久光はそれを、箱に入れて、女房に手渡した。
「それを、どうするの?」
「暫く、預かります……」
決まり悪そうに、顔を背けると、「先に、行っています」とだけ言って、寝所へと行ってしまった。
「少将」
藤の君は遠慮がちに、帳台に入る。
「君様」
隣で横になる藤の君に背を向けたまま、呟くように、声をかける。
「何?」
「先程の話は、誠なのですか?」
「先程……簪のこと?」
「はい。それは、懇ろであった男からの物ですか?」
「…………そうなるわね」
笄は、男が使う物。それはそうだ、男からの贈り物なのだから。
『殿方から簪を頂くのは………』
その後、何と言っただろうか。
「もしかして、悋気?」
「………」
彼は、何も言わない。悋気。つまり、嫉妬のことだ。
「だんまり?」
やはり、口を開かない。
大人びていたために忘れていたが、そういえば、この人はまだ十七だった。
「おやすみなさい」
そう言って、衣を掛けてやる。
何があって、この少年が、自分に好意を示してくれるのか、分からなかった。
それにまだ、この若君とは、歳が離れていて、恋人、とは思えなかった。
『そうですね』
『でもね、わたくし、月は嫌いなのよ』
藤の君は盃を傾けた。
其処には、誰もいない。溢れた酒は地に染み込んで、何事もなかった様に、元に戻る。
「珍しいことですね、君様が月を眺めていらっしゃるだなんて」
「そうかしら」
「月を見るのは、嫌いだと、仰った」
久光は藤の君の隣に座る。
「そうね」
久光は藤の君の盃に酒を注いだ。藤の君はそれをゆらゆらと揺らす。水面には、ぼんやりと月が映る。
「夜は、感傷的に、なってしまうから」
踊る舞姫。巡る盃。紅い装束。花嫁。それを迎える花婿。
全てが、夜だった。月が浮かんでいる。
妹と想い人は、仲睦まじく、そこに割り込むのは、ほぼ不可能だった。
黒い装束に、ザンバラの髪。それを、醜いと笑った。手首に残る鎖の痕を、晒された。
この世で最も憎む母と名乗る女は、この世で一番憎む、もう一人の女の為に踊った。
―わたくし、何がしたかったの?
莫迦だ。
どうして、そんなことさえ理解出来なかったのだろう。
どうして、恋などしてしまったのだろう。
初めて生きた人並みの生活は、残酷な謀りによって、引き裂かれた。
彼の人がくれた銀の歩揺を叩き割る。
何も、特別な何かが欲しかったのではない。ただ、人並みに幸せに生きていたかっただけなのに。人を、愛してみたかっただけなのに。
どうして、それさえも赦してもらえない。
生きる価値さえ無いこの人生は、あと、どれだけ続くのだろう。
溜め息をついた。
誰もいない、静かな場所。小さな湖があった。古い小舟に乗り出て、一人酒をあおった。
衝動にかられ、飛び込んだ。
明日になったら、膨れ上がった醜い死骸になるのだろうか。それとも、生き永らえてしまうのか。
恋の痛手を耐えるより、死ぬ方がいっそ幸せだった。
「君様」
随分と長いこと感傷に浸っていたらしい。
久光が此方に手を伸ばす。何なのかと目を閉じれば、彼の手に握られていたのは、銀の笄だった。
「美しい笄ですね。いつも御髪に挿してらっしゃる。気に入っておられるのですか?」
女性はあまり髪を結わない。下ろしたままだ。それに、笄は、男が使う物らしい。それが不思議だったのだろうか。
「頂き物よ。形見と言えば、形見ね」
愛する男からの、貰い物。その時は、有頂天にもなった。
「殿方から簪を頂くのは……特別な意味があったから」
「そうなのですか」
久光はそれを、箱に入れて、女房に手渡した。
「それを、どうするの?」
「暫く、預かります……」
決まり悪そうに、顔を背けると、「先に、行っています」とだけ言って、寝所へと行ってしまった。
「少将」
藤の君は遠慮がちに、帳台に入る。
「君様」
隣で横になる藤の君に背を向けたまま、呟くように、声をかける。
「何?」
「先程の話は、誠なのですか?」
「先程……簪のこと?」
「はい。それは、懇ろであった男からの物ですか?」
「…………そうなるわね」
笄は、男が使う物。それはそうだ、男からの贈り物なのだから。
『殿方から簪を頂くのは………』
その後、何と言っただろうか。
「もしかして、悋気?」
「………」
彼は、何も言わない。悋気。つまり、嫉妬のことだ。
「だんまり?」
やはり、口を開かない。
大人びていたために忘れていたが、そういえば、この人はまだ十七だった。
「おやすみなさい」
そう言って、衣を掛けてやる。
何があって、この少年が、自分に好意を示してくれるのか、分からなかった。
それにまだ、この若君とは、歳が離れていて、恋人、とは思えなかった。
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