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倭の女王
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久光付きの女房に、倭と呼ばれる女がいる。女王という、この上ない身分があるのに、彼女は女房でしかない。
それを、哀れに思った久光の父は、倭をとても優遇していた。落ち着いたら、彼女を典侍か尚侍として出仕させようと思っていた。一人の女房として命を終うには勿体ない人だった。
艶やかな黒髪。小さく、形の良い唇には、紅をしている。目を細め、扇を口元に当てている姿が、あでやかで美しい。宮廷に上がっても、一二を争えるだろう。
倭は今年で二十歳だ。
(まさか、ここまで落ちるとは、思わなかったわ)
彼女は大きく、ため息をつく。
まだ父が生きていた頃、倭は、自分はてっきり、王女御として入内するのだと思っていた。豊かな才覚で、とても噂だった。引く手数多なほどに。
少女だった頃は、自分に、叶わない物など無いと思っていた。現実を知るには、あまりにも遅すぎた。
父宮の役職は、既に形骸化の道を歩んでいた。名ばかりの名誉職。そんな物に踊らされていたのかもしれない。
母は幼くして亡くし、有力な後ろ盾を手にすることもなく、家は没落していった。
仕えていた者達は、手当り次第、邸の物を持ち去ってしまって、殺風景で荒れていた。
悪い夢だと思った。
着ている物は、襤褸。見栄と自尊心が、何とか姫君としての体面を保っていた。松の襲(表が緑、裏が紫)という、年中着れる衣裳をずっと着ていた。風流など、感じている暇さえなかった。
宮姫、倭の女王様、は、消えてしまいそうだった。
本当に全てを失い、邸も朽ち果ててしまった。維持でも住み続けていたが、雨風に晒され、崩落寸前まで陥った。
(もう、死ぬのかもしれない)
女房は一人。乳母が一人、残ってくれていた。だが、その乳母さえも、暇をとってしまった。もう、お終いだった。
「随分と朽ち果てた邸だな」
「宮様が、住んでいらっしゃったらしいですよ」
「鬼でもいそうだな」
何人かの男の声がする。
(人が来てしまう!)
こんな姿を見られては、笑いものにされる。それだけは、耐えられない。
「そう言えば、この邸、女王様がおられたうな」
「そんな話もあったな」
身震いしたらしかった。まさか、自分の噂が、仇となるなんて-
「今もいらっしゃるのだろうか」
「まさか」
一人がケラケラと、笑う。
「こんな襤褸邸に住まうなんて、笑い物だよ、女房仕えでもすれば、ましだろうに、お高くとまってるから、何も出来ないのだよ」
惨めだった。本当に、情けなかった。倭は泣いた。心の奥まで、傷つけられた。もう、生きてゆくのも耐えられない。
このまま、あの男達は来るのだろう。こんな夜に、物好きもいるものだ。そして、晒し者にされるだろう。何て、情けない。
「やめた方がよいのではないか?」
一際高い声の男だった。
「もし、仮に女王様がまだおられたとして、お前達の話をお聞きになっていたら、どうする。きっと、御心を痛めるだろう」
「…………」
「女王様は隠れられたという噂はない。まだ、生きておられる。入内の予定もあった姫君だ。世間知らずな可能性もあるだろう。だったら、此処にいらっしゃるだろうな」
笑っていた男のうちの一人が言った。
「そうだな」
声の高い男は唸る。
「東の対におられると聞いたことがある。もしかしたら、其方におられるかもしれないよ」
男二人は、其方にと去った。残ったのは、声の高い男が、一人。
倭が居たのは、東の対ではない。西の対だ。何故、嘘をつく。
「女王様」
びくりと、鳥肌が立つ。
「おられるのでしょう」
ゆったりとした声だ。
「私は、右近衛少将の橘久光と申します」
わざわざ丁寧に、申し出までする。見ず知らずの姫を助けるために、嘘をつく。
「お前は、わたくしを、笑いものにはしないのですか」
御簾と几帳の裏から、微かに女の声。倭だ。
「それは、おかしな話です」
きっぱりと橘少将は言った。
「何がどうして、貴女様を笑うのです?」
倭は振り返った。
「此処には、素晴らしい女王様がおられるのです。ずっと噂になっておりました。学問に通じ、美しく、賢い、宮姫様がおられると」
倭は立った。はしたないと分かっているのに。
「女王様、此処から、出ませんか?」
嬉しいお誘いだ。だが、それに乗るなど、はしたない。誇り高き女王がすることではない。
「突然に、無礼でしょうね。ですが、この辺りは、盗人もいるのですよ」
知っている。もう、既に盗まれている。物騒だが、頼るところもないのだ。
「女王様」
倭は目を閉じた。もう一度開くと、几帳を押しのけ、衵扇片手に御簾をあげた。
美しい女だ、少将は、思った。髪は艶やかに、背丈よりも長く、十九と聞いていたが、既に色香の漂う、艶やかな女人だった。
「女王様…………」
「倭」
倭は言った。
「あたくしは、倭と呼ばれていました」
「倭の女王様」
少将は手を差し伸べ、女王を車まで案内する。そして、物好き男二人はおいて、一条の邸に向かった。
自分でも、驚いていた。
こんな、真似をしてしまうだなんて。誇りを捨てるだなんて。だが、もう、疲れてしまっていたのだろう。全てを失くした女王様の立ち位置に。
それを、哀れに思った久光の父は、倭をとても優遇していた。落ち着いたら、彼女を典侍か尚侍として出仕させようと思っていた。一人の女房として命を終うには勿体ない人だった。
艶やかな黒髪。小さく、形の良い唇には、紅をしている。目を細め、扇を口元に当てている姿が、あでやかで美しい。宮廷に上がっても、一二を争えるだろう。
倭は今年で二十歳だ。
(まさか、ここまで落ちるとは、思わなかったわ)
彼女は大きく、ため息をつく。
まだ父が生きていた頃、倭は、自分はてっきり、王女御として入内するのだと思っていた。豊かな才覚で、とても噂だった。引く手数多なほどに。
少女だった頃は、自分に、叶わない物など無いと思っていた。現実を知るには、あまりにも遅すぎた。
父宮の役職は、既に形骸化の道を歩んでいた。名ばかりの名誉職。そんな物に踊らされていたのかもしれない。
母は幼くして亡くし、有力な後ろ盾を手にすることもなく、家は没落していった。
仕えていた者達は、手当り次第、邸の物を持ち去ってしまって、殺風景で荒れていた。
悪い夢だと思った。
着ている物は、襤褸。見栄と自尊心が、何とか姫君としての体面を保っていた。松の襲(表が緑、裏が紫)という、年中着れる衣裳をずっと着ていた。風流など、感じている暇さえなかった。
宮姫、倭の女王様、は、消えてしまいそうだった。
本当に全てを失い、邸も朽ち果ててしまった。維持でも住み続けていたが、雨風に晒され、崩落寸前まで陥った。
(もう、死ぬのかもしれない)
女房は一人。乳母が一人、残ってくれていた。だが、その乳母さえも、暇をとってしまった。もう、お終いだった。
「随分と朽ち果てた邸だな」
「宮様が、住んでいらっしゃったらしいですよ」
「鬼でもいそうだな」
何人かの男の声がする。
(人が来てしまう!)
こんな姿を見られては、笑いものにされる。それだけは、耐えられない。
「そう言えば、この邸、女王様がおられたうな」
「そんな話もあったな」
身震いしたらしかった。まさか、自分の噂が、仇となるなんて-
「今もいらっしゃるのだろうか」
「まさか」
一人がケラケラと、笑う。
「こんな襤褸邸に住まうなんて、笑い物だよ、女房仕えでもすれば、ましだろうに、お高くとまってるから、何も出来ないのだよ」
惨めだった。本当に、情けなかった。倭は泣いた。心の奥まで、傷つけられた。もう、生きてゆくのも耐えられない。
このまま、あの男達は来るのだろう。こんな夜に、物好きもいるものだ。そして、晒し者にされるだろう。何て、情けない。
「やめた方がよいのではないか?」
一際高い声の男だった。
「もし、仮に女王様がまだおられたとして、お前達の話をお聞きになっていたら、どうする。きっと、御心を痛めるだろう」
「…………」
「女王様は隠れられたという噂はない。まだ、生きておられる。入内の予定もあった姫君だ。世間知らずな可能性もあるだろう。だったら、此処にいらっしゃるだろうな」
笑っていた男のうちの一人が言った。
「そうだな」
声の高い男は唸る。
「東の対におられると聞いたことがある。もしかしたら、其方におられるかもしれないよ」
男二人は、其方にと去った。残ったのは、声の高い男が、一人。
倭が居たのは、東の対ではない。西の対だ。何故、嘘をつく。
「女王様」
びくりと、鳥肌が立つ。
「おられるのでしょう」
ゆったりとした声だ。
「私は、右近衛少将の橘久光と申します」
わざわざ丁寧に、申し出までする。見ず知らずの姫を助けるために、嘘をつく。
「お前は、わたくしを、笑いものにはしないのですか」
御簾と几帳の裏から、微かに女の声。倭だ。
「それは、おかしな話です」
きっぱりと橘少将は言った。
「何がどうして、貴女様を笑うのです?」
倭は振り返った。
「此処には、素晴らしい女王様がおられるのです。ずっと噂になっておりました。学問に通じ、美しく、賢い、宮姫様がおられると」
倭は立った。はしたないと分かっているのに。
「女王様、此処から、出ませんか?」
嬉しいお誘いだ。だが、それに乗るなど、はしたない。誇り高き女王がすることではない。
「突然に、無礼でしょうね。ですが、この辺りは、盗人もいるのですよ」
知っている。もう、既に盗まれている。物騒だが、頼るところもないのだ。
「女王様」
倭は目を閉じた。もう一度開くと、几帳を押しのけ、衵扇片手に御簾をあげた。
美しい女だ、少将は、思った。髪は艶やかに、背丈よりも長く、十九と聞いていたが、既に色香の漂う、艶やかな女人だった。
「女王様…………」
「倭」
倭は言った。
「あたくしは、倭と呼ばれていました」
「倭の女王様」
少将は手を差し伸べ、女王を車まで案内する。そして、物好き男二人はおいて、一条の邸に向かった。
自分でも、驚いていた。
こんな、真似をしてしまうだなんて。誇りを捨てるだなんて。だが、もう、疲れてしまっていたのだろう。全てを失くした女王様の立ち位置に。
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