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第五話

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「あー、ヤバい!」

 声を上げたのは、春野さんだった。
 腕にはめた時計を見ながら、何やら慌てていた。

「ど、どうしたの?」

 尋ねる僕に、彼女は言う。

「もう帰らなきゃ」
「え、まだ5時前だけど」
「門限があるんです」
「も、門限?」

 今時、珍しいなと思った。
 いや、こんなご時世だからこそ、か。

「6時までには帰らないと……」
「そりゃ大変だ」

 僕らは慌てて元来た道を引き返した。
 タタタタ、と軽やかに走る春野さんは、なんだか楽しそうだった。
 つられて僕も楽しくなる。
 と、春野さんがいきなり提案してきた。

「秋山さん、駅まで競争しませんか?」
「駅まで?」
「私、陸上部だったんですよ。こう見えて足が速いんです」

 こう見えての基準がわからなかったけど、もちろん僕はその挑戦を受けてたった。

「望むところ。僕だって、小学校の頃はクラスで5番めに速かったんだから」
「あはは、自慢になりませんて」
「ほっとけ」
「じゃあ、いきますよ。いちについて、よーい……」

 彼女の掛け声に、僕はグッと身体を沈ませる。
 こんなふうに走る前のポーズをとるなんて久しぶりだ。

「どん!」という掛け声を待っていると、春野さんは何も言わずに駆け出していた。それも、ものすごい速さで。

「あー! ずるい!」

 慌てて僕も追いかける。
 彼女はまるでスプリンターのように、颯爽と僕の目の前から消えていた。
 なんて。
 なんて速さだ。

 僕の全速力は、彼女の走るスピードにはかないそうもなかった。
 ずるっこする意味がわからない。正々堂々やっても負けるじゃないか。

 けれども、僕はそんな彼女のお茶目な一面を知って、にやける顔が止められなかった。



 出発を控える電車の中で、僕らは隣同士に座りながら発車を待っていた。
 発車を待ちながら、僕はすごくドキドキしていた。
 桜並木公園では、ほどよい距離を保っていたけれど、こうして電車のシートに座るとどうしても距離が近くなってしまう。
 その近さが、僕にはたまらなくキツかった。
 緊張しすぎて眩暈を起こしそうになる。

「秋山さんは、なんて駅で降りるんですか?」

 すぐ近くでささやく彼女の声に、ぞくりと背筋が震えた。

「は、はい! かしわ! かしわ駅! です!」

 明らかに緊張しまくっている。
 今は他の乗客は見えないが、後から乗ってくる人が見たらさぞ滑稽だろう。

「は、春野さんは?」

 尋ねる僕に、彼女はポツリとつぶやく。

「……同じ駅」
「え?」
「同じ、駅……」

 マジか。
 僕は思わず彼女に顔を向けた。

「そ、それ本当!?」
「はい」

 奇妙な偶然の一致に、僕の緊張感が一気に吹き飛ばされる。
 こんな偶然って、あるものなのだろうか。
 あまりに偶然すぎる。けれども、まったくないとは言い切れない。
 かしわ駅は小さい駅だけど、そのまわりにはアパートやマンションが多いからけっこう人は多い。
 もしかしたら、気づかない間に以前からどこかですれ違っていたのかもしれない。
 とにもかくにも同じ駅ということにビックリした。

「といっても先月、親の転勤で越してきたから住み始めたのは最近なんですけどね。まだどこに何があるかわからないんです」
「ああ、そうなんですか」

 なるほど、と納得する。
 なんだか僕は運命以上の何かを感じていて、「同じ駅で嬉しいです」と答えた。

「私も」とつぶやく彼女の言葉を、僕は聞き逃さなかった。


 電車に揺られながら、僕はにやける顔を必死におさえていた。
 車内は満員とまではいかないが、けっこうな乗客であふれている。
 きっとここにいるみんな、僕らのことをカップルと見ているに違いない。
 いや、そんなのはただの妄想だけど。

 しかし実際、コソコソとしゃべり合う僕らを、チラチラと羨望の眼差しで見てくる男の乗客が何人もいた。
 確かに春野さんは可愛い。美人だ。僕もこんな女性が恋人だったら、と思わずにはいられない。
 けれども、彼女とは昨日までは赤の他人で。
 いや、厳密には今日の午後2時までは赤の他人だった。
 それが、今では隣で親しげにおしゃべりしている。おもに彼女がしゃべる内容をただ「うんうん」とうなずくだけだが。

「今、お暇ですか?」

 終点で彼女がそう声をかけてくれなければ、今この時間はなかっただろう。
 運命の出会いに、僕は心から神様に感謝した。


『かしわ、かしわ』

 車内アナウンスが駅の到着を告げる。
 僕は未練惜しそうに春野さんとともに電車を降りた。

 バラバラと乗客たちがホームから改札へと向かう中、僕らは邪魔にならないようにホームの端に移動した。

「あの、今日はどうもありがとうございました。とても楽しかったです」

 お礼を言う彼女に、僕も頭を下げる。

「こ、こちらこそ。一人じゃつまらない花見でした。どうもありがとう」

 花見、という言葉がなんだか虚しく響いた。
 本当は電車に乗る彼女を追いかけたからで、結果的に花見になっただけなのだ。
 このままさよならしたくはなかったけれど、割り切らなくちゃと思った。

「それで、その……」

 彼女は言うか言うまいか迷った顔を見せながらも、言ってきた。

「また、会えますか?」

 その一言に、僕は顔を輝かせた。
 いいの? と思った。
 また会ってくれるの? と。

「も、もちろん!!」

 僕は大喜びで答えた。
 嬉しい。
 願っていたことを彼女の方から言ってくれるなんて。

「じ、じゃあ、ケータイ番号を……」

 いそいそとスマホを取り出そうとする僕に、彼女は言った。

「あ、ごめんなさい。私、ケータイ電話持ってないんです」
「え?」

 一瞬、固まる。
 まさか、今時ケータイ電話を持っていないなんて。
 しかし、門限がある子だから、もしかしたらそれもあり得るのかもしれない。
 きっと、親が厳しいのだろう。
 僕は察した。

「そ、そうなんだ……」
「ごめんなさい。でも、あの、番号だけでも教えてもらっていいですか?」
「う、うん……!」

 僕は大学ノートを取り出すと、ページを破ってでかでかと自分のケータイ番号を記入した。
 心の浮かれ具合がよくあらわれている。

「じゃあ、これ」
「ありがとうございます」

 春野さんは大事そうにそれを受け取ると、小さく折りたたんでバッグの中にしまい込んだ。

「私、北口なんですが、秋山さんは?」
「僕は南口」
「じゃあ、逆方向ですね」
「そうだね」

 お互いに改札を出ると、「それじゃあ」と頭を下げて離れ離れになる。
 去りゆく彼女の後姿を見送りながら、僕は追いかけたい衝動を必死におさえた。

 ここで追いかけたら、きっと警戒して連絡はしてくれないだろう。そんな臆病風に吹かれていた。
 僕もくるりと背を向けて、自分の住む1ルームのアパートへと向かう。


 春野めぐる。


 本当に、素敵な女性だった……。

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