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第一話

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「これはヤバい」と思った。


 大学に向かう電車の中で、僕は完全に固まってしまっていた。
 別に命の危険にさらされているとか、危機的状況に陥っているとか、そういうわけではない。まあ、ある意味危機的状況ではあるのだけれど。

 吊革にぶら下がっている僕の目の前で、静かに本を読んでいるひとりの女性。
 どうやらその女性に一目惚れをしてしまったらしい。

 春らしい薄手のピンク色のカーディガンを羽織り、きれいな黒髪は肩から胸元まで伸びて艶やかな光を放っている。肌は白く、目はパッチリとした二重。鼻は小ぶりで唇も小さい。
 まるで恋愛小説の中から飛び出したヒロインのようだった。
 あまりの眩しさに目がくらむ。

 二十歳(はたち)くらいだろうか。
 目の前のシートに座る彼女に「きれい」だとか「かわいい」だとか、そういった形容詞は一切浮かんではこなかった。
 いや、実際に彼女は誰よりもきれいだし、かわいいのだろう。
 しかし吊革にぶら下がって見つめる僕の頭に浮かんだのはたった一つの単語だけだった。


 すなわち 「惚れた」 である。


 一目惚れの衝撃がこれほどまでとは思わなかった。 
 まるで頭をハンマーで叩かれたような衝撃だった。
 ぼうっと眺めている僕の視線に彼女は一切気づいていない。手にしている本を真剣なまなざしで読んでいる。
 どんな本かはわからなかったが、読みやすいのか読み慣れているのか、ぺらぺらとページをめくるスピードが速かった。普段から小説を好んで読んでいるのがよくわかる。

 名前はなんていうのだろう。
 学生なのだろうか。
 恋人はいるのかな。

 眺めているうちにいろいろな想いが頭の中を駆け巡りはじめる。
 好奇心とはまた違った危ない恋心。
 一歩間違えればストーカーになりそうな勢いに、僕はいよいよ本格的に「これはヤバい」と思った。

 慌てて別のことを考えようとポケットの中のスマホに手を伸ばす。
 こういう時は落ち着いてWeb小説でも読もう。
 
 そう思った矢先、急に電車が横に揺れた。

「わっ」

 あまりに不意な揺れで、僕は吊革にぶら下がったまま前のめりになった。
 瞬時に吊革を握った手に力を入れ、足を踏ん張らせる。
 幸いそれでなんとか持ちこたえたものの、気が付けば前のめりになった僕の顔と、驚いて顔を上げた彼女の顔はほんの数十センチの距離になっていた。

「あ……」

 目と目がバッチリと合う。
 きれいで吸い込まれそうな青い瞳だった。
 どこをどう見ても日本人なのに、瞳の色だけは西欧の血を受け継いでいるかのようだった。
 その不思議さが余計に僕の心をかき乱す。

 体温が2度ほど上がっただろうか。
 身体中が一気に火照った。
 きっと顔も真っ赤になっているに違いない。

 目の前の(文字通りすぐ目の前の)彼女の頬が、サッと赤みがかったのがわかった。

「え、と……」

 彼女がぽつりと呟いて、僕は瞬時に我に返った。

「あ、す、すいません……!!」

 慌てて身体を戻すと、真っ赤に染まっているであろう顔をうつむかせて謝った。

「い、いえ……」

 彼女はそれ以上何も言わなかった。
 ホッとすると同時に、少し残念でもあった。

 まわりを見渡せば、やはり僕と同じように急な揺れで何人かが体勢を崩していたらしく、車内が少しざわついていた。
 しかし電車は何事もなかったかのように動いている。
 どうやら、減速すべきカーブをじゅうぶんに減速せずに突っ込んだらしい。めったにないことだが、毎日のように乗っているとたまにこういったことがある。
 普段の僕なら「しっかり運転してくれよ」と思うのだが、今日に限ってはこの未熟な運転士にお礼を言いたかった。
 車内のざわつきも、次第におさまっていく。

 僕は「コホン」とわざとらしく咳をして吊革をしっかりと握りなおした。
 目の前の彼女は読んでいた本をパタンと閉じると、可愛らしいバッグにそれをしまって急にそわそわし始めた。
 さっきまでの静かさとは真逆の、落ち着かない様子だった。

 まずい、危ない人だと思われてしまったかもしれない。

 焦った僕は顔を上げて車内の広告を眺めるフリをした。別にやましいことをしたわけじゃないのに、白々しいほどの他人のフリだった。
 体勢を崩した時、すぐに元の姿勢に戻らなかったことを後悔する。

 警戒されてしまったら、どうしようもない。

 僕は目に映る広告を眺めながら、心の中でガックリと肩を落とした。


 その後、すぐに電車は駅に着いた。

『駒大(こまだい)、駒大(こまだい)です。お降りのお客様は……』

 車内アナウンスとともに、目の前の女性がパッと立ち上がる。
 小柄というわけではないが、僕よりも若干背が低く、華奢な感じだった。

 そして、ほのかにバラの匂いがした。

 彼女は僕を一瞥(いちべつ)するとそのまま駅のホームに降りていった。
 そう、明らかに僕を“一瞥”していた。
 それは敵意とか警戒とか、そういったものではなく、僕の顔を再確認したという印象だった。

 駅のホームに降りた彼女は、頬を真っ赤に染めながら手でパタパタと顔を扇いでいた。
 その仕草がとても可愛くて、僕は電車が走り出すまで彼女から目を離せられなかった。

 
 電車は走り出し、窓の外の景色が次々と移り変わっていく。
 僕は吊革を握ったまま目の前のぽっかりと開いたシートを眺めながら、途方に暮れていた。
 さっきまでここに座っていたあの女性。

 きっと、もう二度と会うこともないだろう。
 最後に見たあの姿が忘れられない。

 どうして。
 どうして、あとを追わなかったのか。すごく後悔した。

 ダメで元々。声をかけるべき……だったのかもしれない。

 しかし今となってはもう遅い。
 車窓から見える田園風景を眺めながら、僕は大きくため息をついた。
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