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夏の花火は、今年も上がる
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真夏の夜空に上がる花火はとても綺麗で華やかで、そして儚げだ。
色とりどりに花開きシュンと散る姿はまるでひと夏の恋を具現化したような、そんな印象を抱いてしまう。
白峰(しらみね)さゆり。
彼女と出会った夏を、僕は忘れることはないだろう。
※
その年は、例年に比べ酷暑の夏だった。
35度を超える猛暑日が連日続き、セミすらも元気のない声をあげている。そんな夏だった。
そんな中、日中家にいたばあちゃんが急に倒れてしまった。
日頃の不摂生が祟ったのだろう。
家中が大騒ぎをして、近所の人たちまで駆けつけてくる始末だった。
すぐに救急車を呼び病院に担ぎ込まれたものの、幸い命に別状はなく、しばらく様子見が必要ということで入院を余儀なくされた。
そんな中、僕が彼女と出会ったのはばあちゃんが入院して3日目のことだった。
「ばあちゃん、きたよ」
いつものようにお見舞いの品を持って病室に行くと、いつも隣のベッドで寝ていたはずの女性が上半身を起こして窓から外を眺めているのに気が付いた。
長い黒髪をひとつに束ね、胸の前におろしている。
白い肌は不健康そうで、見るからに顔も青い。
その儚げな瞳で外を眺める彼女の横顔は寂しそうでもあり、悲しそうでもあった。
「さとる、今日も来てくれたんだねえ」
ばあちゃんの言葉は聞こえていたつもりだったけど、僕はなぜか隣のベッドに座る彼女から目が離せなかった。
「さとる? さとるやい?」
ばあちゃんの一言でハッと我にかえった。
「え、あ、ああ。ばあちゃん。ごめん」
そう言って慌てて持ってきたまんじゅうの箱を空ける。
「これ。ばあちゃんの好きな文化堂のまんじゅう」
「わあ、ありがとねえ、さとる」
「これ食べて、早く元気になりなよ」
「うんうん」
ばあちゃんは頷きながらさっそくひとつ手に取り、口に入れた。
お団子サイズの小さなまんじゅうは、食べやすい上にあんこがたっぷりでお年寄りはもちろん、女性や子供にも大人気のまんじゅうだ。
案の定、ばあちゃんは「おいしいおいしい」と言って幸せそうな顔をしていた。
病人とは思えないその至福の表情に、僕は「ふふっ」と笑ってついでに持ってきたペットボトルのお茶をストロー付きのカップに注いだ。
「賞味期限はまだあるけど、早めに食べなね。こんなにあるんだから」
「そうだねえ。でもこんなには食べられないよ」
ばあちゃんはそう言うと、ひょいと横をむいて突然隣の彼女に声をかけた。
「孫がまんじゅうを持ってきたんだけど、食べるかい?」
声をかけられた彼女がビクッと肩を震わしてこちらを振り向く。
その瞬間、思わず目と目が合ってしまった。
すごく。
すごくきれいな女性だった。
30歳くらいだろうか。
すべてを包み込むような柔らかい雰囲気を全身から醸し出していた。
痩せこけた青白い顏は、逆になぜか神秘的で美しく見えた。
「いいんですか?」
彼女は戸惑いがちにそう尋ねてくる。
小さくも透き通ったきれいな声だった。
「遠慮せんで、食べとくれ」
逆に遠慮せずにぐいぐいと箱を押し付けるばあちゃん。
その強引さに観念したのか、彼女は雪のような真っ白い手を伸ばしまんじゅうを一つ掴んだ。
「ありがとうございます。いただきます」
そう言って、その小さな口で静かに頬張った。
「あ、おいしい」
サッと口に手を当てて目を丸くする彼女の動作があまりにも素敵で、僕は彼女にお茶を差し出すのも忘れて見惚れてしまった。
「ほれ、さとる。お茶お茶」
「あ、ああ」
ばあちゃんに呼びかけられて、慌てて紙コップにお茶をすすいで彼女に手渡す。
「どうぞ」
「ありがとう」
紙コップを渡す際に思わず手と手が触れ合ってしまい、僕は心の中で悲鳴を上げた。
「あ、あの、すいません。ばあちゃんがいきなり声をかけてしまって……」
そんな形だけの謝罪に彼女はニコッと笑うと「いいえ」と首をふった。
「こちらこそ、おいしいおまんじゅうでした」
そう言ってぺこりと頭を下げられる。
すごくいい人だと思った。
ばあちゃんはそれを見て満足そうに頷くと
「さゆりさんはいつも礼儀正しいねえ」
と嬉しそうに笑った。
「さゆりさん? なんだ、ばあちゃんの知り合いだったの」
親しみのこもった言い方だったので思わずそう尋ねると、ばあちゃんは「うんにゃ」と首をふった。
「いま初めて口きいた人だよ」
「ちょ、ばあちゃん!」
僕はばあちゃんにツッコミをする素振りを見せながら改めて彼女に頭を下げた。
「すみません、うちの祖母が……」
「いえいえ。仲が良くてうらやましいです」
うふふと微笑みながら袖を口に当てる姿が、なんというかもうドストライクだった。
「さゆりさん、とおっしゃるんですか?」
「はい。白峰(しらみね)さゆりと言います」
よく見るとベッドの枕元の名札には「白峰さゆり」という名前が綴られていた。
なるほど、ばあちゃんはこれを見たのか。
「僕は……」
自己紹介しようとすると、さゆりさんが先に言った。
「さとるさん、ですよね?」
「へ?」
「さっき、おばあさまがおっしゃってましたから」
「は、はい、西嶋(にしじま)さとると言います」
「いい名前ですね」
こんなきれいな人に「いい名前ですね」なんて言われると照れてしまう。
きっと今の僕は顔を真っ赤に染めていることだろう。
すると、それを察したばあちゃんが笑いながら言ってきた。
「ありゃま、照れちゃってるよこの子は」
「ば、ばあちゃん」
「どうだい、さゆりさん。まだ社会人に毛が生えた子だけど、付き合ってみる気はないかい?」
「ばあちゃん!」
思わず叫んでしまう。
初対面の人になんてことを言うんだ、この人は。
けれどもさゆりさんは気分を害した様子もなくクスクスと笑った。
「ええ、機会があったらぜひ」
にっこりとほほ笑むその顔に、僕は自分の目を手で覆いたくなった。
それほどまでに、彼女の笑顔は輝いていた。
「ええと、ばあちゃんがほんとすいません。変なこと言って。気にしないでください」
「ふふふ。面白いおばあさまですね」
「いえいえ、ほんともう、こんな祖母でお恥ずかしい」
「あらま。自分の祖母に対してなんてこと言うんだい、この子は」
「ばあちゃんは黙ってて!」
そんなやりとりを、さゆりさんは口に手を当てて笑った。
「短い間ですが、よろしくお願いします」
「はい、よろしくお願いします」
季節は夏真っ盛りだったけど、その瞬間、僕は春の到来を感じた。
※
それからというもの、僕は毎日のようにばあちゃんのお見舞いにいった。
いや、ばあちゃんのお見舞いというのは口実だ。
さゆりさんに会いに行っていたのだ。
というとばあちゃんに怒られそうだが、実際にそうなのだから仕方がない。
ばあちゃんの好きそうな和菓子を見繕いながら、さゆりさんにもお裾分けできそうなものをチョイスし、持って行く。
そのたびにさゆりさんは喜んでくれた。
不思議なのは、さゆりさんがなんの病気で入院しているのかさっぱりわからなかったことだ。
僕が持って行く和菓子も洋菓子も、さゆりさんは病人とは思えない食欲でペロリとたいらげていた。
さゆりさんはなんにでも興味を示し、どんなものでもおいしそうに食べてくれた。
「すごくおいしいです」
「不思議な味ですね」
「んー、これ最高です!」
彼女がおいしそうに食べる姿はとてもきれいで可愛らしく、僕はドキドキしながら見惚れていた。
「さとる、わしゃ和菓子が食べたいんじゃがのう」
ばあちゃんがそう愚痴るほどに、僕の見舞いの品は和菓子から洋菓子へ、ばあちゃん好みからさゆりさんが好みそうなものへと変化していった。
けれども、日が経つにつれ元気になるばあちゃんとは対称的に、彼女は日々やつれていった。
白かった肌はいっそう白くなり、やせこけた頬はさらにやせこけていく。
上半身を起こして僕がお見舞いに来るのを待っていることも少なくなり、ベッドの中でにっこりとほほ笑んでいることが多くなった。
そしてついに彼女は病室を移った。
大部屋から個室に。
ナースステーションから離れた場所から、近くへと。
それを知った僕は、彼女がもう長くないことを感じ取った。
※
それは、さゆりさんが個室へと移動した翌日だった。
「ばあちゃん、来たよ」
いつものようにお見舞いにいくと、ばあちゃんは少し怒った顔をしていた。
「さとる、何しに来たんだい」
「何しにって……。ばあちゃんのお見舞いだろ?」
「あたしゃ、大丈夫だよ。それよりも、あんたが見舞わなきゃいけない相手は他にいるんじゃないかい?」
「………」
ばあちゃんの声は少し寂しそうでもあり、悲しそうでもあった。
「さゆりさんのところに行ってあげな」
そう言うばあちゃんに、僕は「うん」とつぶやいてさゆりさんのもとへと向かった。
大部屋から出て、個室へと向かっていく。
それは今までウキウキしながらお見舞いにいっていた時とは大違いで、そこに向かえば向かうほど、じっとりとした暗い闇が心の中に広がっていった。
僕は改めて、ここが病院だという事を思い知らされた。
さゆりさんの個室はすぐにわかった。
ナースステーション近くの個室。入り口の名札には「白峰さゆり」と書かれている。
僕はさゆりさんのいる扉の前で、コンコンとノックした。
すぐに扉を開けて顔を出したのは、見知らぬ中年の女性だった。
誰? と思ったがすぐにわかった。
さゆりさんのお母さんだ。
その中年女性は僕の顔を見るなり怪訝そうな顔をしたが、すぐに顔を輝かせた。
「もしかして、さとるさん?」
「へ?」
「さゆりから聞いてます。この病院でできたお友達と」
「お、お友達……?」
その言葉に嬉しくもあり、恥ずかしくもあった。
「はじめまして。さゆりの母です」
「は、はじめまして。西嶋さとるです」
ペコリと頭を下げる姿が、さゆりさんと重なる。
「あなたには感謝しています。いつも病室で塞ぎがちだったあの子が、あなたがお見舞いに来るようになってからすごく明るくなって。毎日が楽しそうなんです」
「え、あ、いや、僕は別に……」
「あの子の話は、いつもあなたの話題でいっぱいなんですよ」
初耳だった。
そんな話、さゆりさんから聞いたことがない。
僕は、ばあちゃんの隣のベッドでおいしそうに洋菓子を頬張るさゆりさんの姿しか見ていない。
と、さゆりさんのお母さんの背後から静かな声が聞こえてきた。
「お母さん、いつまでさとるさんとお話してるの?」
さゆりさんの声だった。
「ああ、ごめんね。いつかお礼を言いたかったから。じゃあ、さとるさん、娘をお願いします」
さゆりさんのお母さんはそう言うと、頭を下げてどこかへ行ってしまった。
僕はそれを見送ると、病室のドアからするりと中に入った。
「―――ッ!?」
中に入るなり、僕は絶句した。
個室の中にいた彼女はまるで別人のように痩せ細っていたからだ。
たくさんの栄養パックが吊るされ、彼女の腕に伸びている。
全身につながれた管が、見るからに痛々しい。
けれども、そんな状態でにっこりとほほ笑む彼女の姿は、美しさすら感じられた。
「お見舞いに来たよ」
そう言う僕にさゆりさんは「嬉しい」と喜んだ。
今までとは違い、二人きりだとわかったとたんに重苦しい空気が僕を包み込む。
こういう時、なんて言えばいいのだろう。
明るく声をかければいいのだろうか、悲しい口調で声をかければいいのだろうか。
うつむく僕に、さゆりさんが明るい口調で聞いてきた。
「今日は、どんなお土産を持って来てくれたの?」
いつも通りの声に、安堵する。
「まんじゅう。文化堂の」
「わあ。ありがとう」
「……ごめん。こんなので」
「ううん、文化堂のおまんじゅう、私好きよ」
僕はまんじゅうの箱を開けると、ベッドに横になったまま口を開けるさゆりさんの口元へ持って行った。
「食べられる?」
「うん、食べたい」
はむっと半分かじりとるさゆりさんの小さな口は、すごく弱々しかった。
もごもごと口を動かすさゆりさんは、なんだか大変そうだった。
僕はハッとしてペットボトルを取りだした。
「お茶もあるよ。飲む?」
「うん」
ストロー付きのカップに移し、彼女の口にストローをつける。
弱々しい力でお茶を飲むさゆりさんを見ていると、僕はなんだか猛烈な悲しみに包まれていった。
「ああ、おいしい。やっぱりここのおまんじゅう、最高」
幸せそうな顔を見せる彼女に、僕は自然と涙があふれ出た。
「さとるさん?」
「さゆりさん……」
言わなきゃ。
なんでもいいから、何か言わなきゃ。
そう思えば思うほど、涙が止まらなかった。
苦しくて、悲しくて、どうしようもなくなって胸を抑え込む。
すると、さゆりさんが言った。
「さとるさん、ダメ」
「え……?」
「笑って。いつもみたいに」
「………」
「私、笑ってる顔のさとるさんが好きなの」
「………」
「だから笑って。お願い」
さゆりさんの言う「好き」は「Like」のほうなのか「Love」のほうなのか。
「Love」のほうがいいなと思いつつ、僕は笑った。
涙を拭きながら、ニッコリと微笑んだ。
さゆりさんはそれを見て「ありがとう」と言った。
それからは、何度も僕はさゆりさんの病室を訪ねた。
日に日に、目に見えて弱っていく彼女。
けれども、何もできない自分がふがいなくて、情けなくて、お見舞いの帰りには必ず泣き崩れた。
そんなある日、彼女は言った。
「さとるさん。実は私ね、もうあまり長くないの」
「さゆりさん……」
「自分でもわかるの。ああ、私もうじき死んじゃうんだって」
「………」
重い。
重い告白だった。
なんて言えばいいのかわからかった。
「でもね、死ぬのは全然怖くないのよ。人間、誰でも死ぬんですもの。それが早いか遅いかの違いだけ」
「僕は、怖いよ。さゆりさんがいなくなったらと思うと」
「さとるさん」
「だから……だから、死なないでよ」
「本当にありがとう。大好きよ、さとるさん」
僕はその瞬間、悟った。
彼女は、すでに死を受け入れているんだと。
覚悟を決めているんだと。
そう気づいた瞬間、思わず尋ねていた。
「さゆりさん、何かしたいことある? やってみたいこととか、見てみたいこととか、何かある?」
さゆりさんは僕の言葉にきょとんとしていたが、やがて笑みを浮かべてこう言った。
「花火……」
「………?」
「花火が見たい」
「花火?」
「今夜、町の花火大会があるんだって。ここじゃ見られないから」
そういえば、今夜だった。
毎日さゆりさんのお見舞いに来ていたから、日にちの感覚がなくなっていたことに気が付く。
僕は病室の窓から夕焼けに染まる空を見上げながら言った。
「見よう、さゆりさん。花火」
「……え?」
「僕が連れてってあげる。花火大会」
「本当?」
「本当だとも。待ってて、準備してくるから」
「うん」
僕は今夜迎えに来ることを約束し、さゆりさんのお母さんに事情を説明した。
さゆりさんのお母さんは、何度も僕に礼の言葉を述べ、病院側にはさゆりさんのお母さんが許可をもらうということで、僕は一足先に家に帰った。
町の花火大会。
その準備のために浴衣を引っ張り出し、入念に髪の毛をセットする。
思えば、女の人とこうした約束をするのは初めてだった。
ドキドキと高鳴る心臓を抑えながら、僕は病院へと戻った。
※
「わあ」
さゆりさんの病室の扉を開けて僕は目を奪われた。
そこには、ピンク色のかわいい浴衣を着たさゆりさんがいた。
恥ずかしそうに顔を赤らめている。
「どうしたの、それ」
「お母さんが用意してくれたの。どう? 似合う?」
「うん! 最高にきれいだよ」
「さとるさんの浴衣姿も、素敵」
その言葉に、思わず顔から火が出そうになった。
素敵だなんて、最高の褒め言葉じゃないか。
僕はドキドキしながら言った。
「じゃあ、いこっか」
病室のドアを開けて誘い出そうとすると、さゆりさんは頭を下げた。
「あ、ごめんなさいさとるさん。実は病院からはね、許可が出なかったの……」
「え?」
「外は……何が起きるかわからないからって……」
「そっか……」
残念がる僕に、さゆりさんはニコリと微笑んだ。
「でも、病院の屋上はOKだって」
「そ、そうなの?」
「うん! 今晩だけ……今晩だけは、付き添いがあればいいって」
「そっか。よかった」
「だから……一緒に行ってくれる?」
「もちろん」
僕は嬉しそうに微笑むさゆりさんの手を握りしめると、支えるように歩き出した。
彼女の真っ白くて痩せ細った腕は僕には眩しくて、手を取って歩くだけで緊張した。
「大丈夫?」
「ええ……」
一歩一歩慎重に歩く。
彼女の弱々しい足取りに、僕は一生懸命歩調を合わせた。
急がず、せかさず、ゆっくりと。
二人で手を取り合い歩きながらさゆりさんは言った。
「嬉しい。まるでデートみたい」
震えながらも、嬉しそうに微笑むその姿に胸が熱くなる。
「何言ってるの? デートに決まってるじゃん」
僕は、胸をつまらせながら伝えた。
「これはデートだよ」
僕の言葉に、彼女は「うん」と言って僕の胸に身体を寄せた。
僕らは、薄暗くなっていく病院の中をゆっくりと歩いた。
屋上に向かう階段は果てしなく長く、時折休んでは一歩一歩慎重に登っていった。
そして、ついに屋上についた僕たちは、扉を開けた。
瞬間、満天の星空が目に飛び込んでくる。
息をつくほどのきれいな夏の夜の空だった。
「わあ、きれい」
「ほんとに」
屋上には誰もいなかった。
病院側があらかじめ手を打っていたのだろう。
すぐ近くに彼女が座れそうな車いすが置かれていた。
「座って」
「うん」
僕はそっとさゆりさんをその車いすに座らせると、その隣にしゃがみ込んで一緒に夜空を見上げた。
夜空に輝く満天の星は、まるで僕たちを祝福しているかのように見えた。
「最期にこんな素敵な思い出ができるなんて……。嬉しい」
「………」
僕はなんて答えればいいのかまるでわからなかった。
「さとるさん、本当にありがとう。私、最高に幸せでした。最期にあなたに会えて、本当に……」
「さゆりさん」
僕の胸に頭を寄せてくるさゆりさん。
と、同時に甲高い音を響かせて花火が上がった。
そして、僕らの目の前で大きな花が咲き開く。
ドンッ! という爆発音が、少し遅れて振動と共に伝わってきた。
「きれい……」
さゆりさんがそれを眺めながらそっとつぶやく。
「うん」
僕もうなずいた。
大きな花火は、夏の夜空に何度も何度も打ちあがった。
色とりどりできれいな花の輪っかは、まるで僕らだけのために上がっているかのようだった。
「さゆりさん」
僕は打ちあがる花火を見上げる彼女に言った。
「あの、こんな時に不謹慎かもしれないけど……」
「……?」
「僕は……さゆりさんのことが好きです」
とたんにさゆりさんの目がパッと見開く。
「心から、愛してます」
その言葉を伝えると同時に、さゆりさんの目から涙がこぼれ落ちた。
「嬉しい……」
「できれば一生、そばにいたいです」
「でも私、もうすぐ……」
「生きて欲しい。ワガママなお願いだっていうのはわかってる。けれども、生きて欲しい。僕のために」
僕はそう言って、細い彼女の身体を抱きしめた。
強く握れば折れてしまいそうな華奢な身体は、それでも温かくて命の輝きを放っていた。
「生きて欲しい。精一杯最後まで」
「……はい」
彼女はそう言うと、僕の唇に唇を寄せた。
初めてのキスの味は、夏の夜に打ちあがる花火のように、切なかった。
※
「ばあちゃん、きたよ」
あの時の夏と同じく、今年もばあちゃんが入院した。
今年は食べ過ぎ飲み過ぎという、元気すぎる理由での入院だった。
「さとる、今日も来てくれたんだねえ」
「まったく、食べ過ぎで入院てなんなんだよ。家族の身にもなってほしいよ。恥ずかしい」
「いいじゃないか、夏は冷えたものがいっぱい欲しくなるんだよ」
「少しは自重しなよ。今日は珍しいお客さんも連れてきてるんだから」
僕はそう言うと、後から入ってきた女性の手を取って中に迎え入れた。
「おやまあ。もしかして?」
「ふふふ、おばあさま。ご無沙汰です」
「まあまあ、お久しぶり。さゆりさん」
西嶋さゆり。旧姓・白峰さゆり。
僕の妻となった彼女は、元気な姿でばあちゃんに文化堂のまんじゅうを差し出した。
「これ、おばあさまの好きな文化堂のおまんじゅうです」
「わあ、ありがとね、さゆりさん」
ばあちゃんは、さゆりさんのきれいな手からまんじゅうの箱を受け取ると、幸せそうに微笑んだ。
「やっぱり、さゆりさんはいつも礼儀正しいねえ」
その言葉に僕は「ぷっ」と笑う。
「外ではね。僕と二人っきりだと、すっごく甘えん坊なんだから」
「ちょ、さとるさん!」
顔を赤らめてツッコミを入れる彼女の姿に、ばあちゃんは口に手を当てて大笑いした。
「おやまあ、仲がよくて羨ましいねえ」
かつてさゆりさんが僕とばあちゃんに言ったこの言葉。
それを思い出し、僕とさゆりさんも笑った。
いつまでも、いつまでも。
夏の花火は、今年も上がる。
色とりどりに花開きシュンと散る姿はまるでひと夏の恋を具現化したような、そんな印象を抱いてしまう。
白峰(しらみね)さゆり。
彼女と出会った夏を、僕は忘れることはないだろう。
※
その年は、例年に比べ酷暑の夏だった。
35度を超える猛暑日が連日続き、セミすらも元気のない声をあげている。そんな夏だった。
そんな中、日中家にいたばあちゃんが急に倒れてしまった。
日頃の不摂生が祟ったのだろう。
家中が大騒ぎをして、近所の人たちまで駆けつけてくる始末だった。
すぐに救急車を呼び病院に担ぎ込まれたものの、幸い命に別状はなく、しばらく様子見が必要ということで入院を余儀なくされた。
そんな中、僕が彼女と出会ったのはばあちゃんが入院して3日目のことだった。
「ばあちゃん、きたよ」
いつものようにお見舞いの品を持って病室に行くと、いつも隣のベッドで寝ていたはずの女性が上半身を起こして窓から外を眺めているのに気が付いた。
長い黒髪をひとつに束ね、胸の前におろしている。
白い肌は不健康そうで、見るからに顔も青い。
その儚げな瞳で外を眺める彼女の横顔は寂しそうでもあり、悲しそうでもあった。
「さとる、今日も来てくれたんだねえ」
ばあちゃんの言葉は聞こえていたつもりだったけど、僕はなぜか隣のベッドに座る彼女から目が離せなかった。
「さとる? さとるやい?」
ばあちゃんの一言でハッと我にかえった。
「え、あ、ああ。ばあちゃん。ごめん」
そう言って慌てて持ってきたまんじゅうの箱を空ける。
「これ。ばあちゃんの好きな文化堂のまんじゅう」
「わあ、ありがとねえ、さとる」
「これ食べて、早く元気になりなよ」
「うんうん」
ばあちゃんは頷きながらさっそくひとつ手に取り、口に入れた。
お団子サイズの小さなまんじゅうは、食べやすい上にあんこがたっぷりでお年寄りはもちろん、女性や子供にも大人気のまんじゅうだ。
案の定、ばあちゃんは「おいしいおいしい」と言って幸せそうな顔をしていた。
病人とは思えないその至福の表情に、僕は「ふふっ」と笑ってついでに持ってきたペットボトルのお茶をストロー付きのカップに注いだ。
「賞味期限はまだあるけど、早めに食べなね。こんなにあるんだから」
「そうだねえ。でもこんなには食べられないよ」
ばあちゃんはそう言うと、ひょいと横をむいて突然隣の彼女に声をかけた。
「孫がまんじゅうを持ってきたんだけど、食べるかい?」
声をかけられた彼女がビクッと肩を震わしてこちらを振り向く。
その瞬間、思わず目と目が合ってしまった。
すごく。
すごくきれいな女性だった。
30歳くらいだろうか。
すべてを包み込むような柔らかい雰囲気を全身から醸し出していた。
痩せこけた青白い顏は、逆になぜか神秘的で美しく見えた。
「いいんですか?」
彼女は戸惑いがちにそう尋ねてくる。
小さくも透き通ったきれいな声だった。
「遠慮せんで、食べとくれ」
逆に遠慮せずにぐいぐいと箱を押し付けるばあちゃん。
その強引さに観念したのか、彼女は雪のような真っ白い手を伸ばしまんじゅうを一つ掴んだ。
「ありがとうございます。いただきます」
そう言って、その小さな口で静かに頬張った。
「あ、おいしい」
サッと口に手を当てて目を丸くする彼女の動作があまりにも素敵で、僕は彼女にお茶を差し出すのも忘れて見惚れてしまった。
「ほれ、さとる。お茶お茶」
「あ、ああ」
ばあちゃんに呼びかけられて、慌てて紙コップにお茶をすすいで彼女に手渡す。
「どうぞ」
「ありがとう」
紙コップを渡す際に思わず手と手が触れ合ってしまい、僕は心の中で悲鳴を上げた。
「あ、あの、すいません。ばあちゃんがいきなり声をかけてしまって……」
そんな形だけの謝罪に彼女はニコッと笑うと「いいえ」と首をふった。
「こちらこそ、おいしいおまんじゅうでした」
そう言ってぺこりと頭を下げられる。
すごくいい人だと思った。
ばあちゃんはそれを見て満足そうに頷くと
「さゆりさんはいつも礼儀正しいねえ」
と嬉しそうに笑った。
「さゆりさん? なんだ、ばあちゃんの知り合いだったの」
親しみのこもった言い方だったので思わずそう尋ねると、ばあちゃんは「うんにゃ」と首をふった。
「いま初めて口きいた人だよ」
「ちょ、ばあちゃん!」
僕はばあちゃんにツッコミをする素振りを見せながら改めて彼女に頭を下げた。
「すみません、うちの祖母が……」
「いえいえ。仲が良くてうらやましいです」
うふふと微笑みながら袖を口に当てる姿が、なんというかもうドストライクだった。
「さゆりさん、とおっしゃるんですか?」
「はい。白峰(しらみね)さゆりと言います」
よく見るとベッドの枕元の名札には「白峰さゆり」という名前が綴られていた。
なるほど、ばあちゃんはこれを見たのか。
「僕は……」
自己紹介しようとすると、さゆりさんが先に言った。
「さとるさん、ですよね?」
「へ?」
「さっき、おばあさまがおっしゃってましたから」
「は、はい、西嶋(にしじま)さとると言います」
「いい名前ですね」
こんなきれいな人に「いい名前ですね」なんて言われると照れてしまう。
きっと今の僕は顔を真っ赤に染めていることだろう。
すると、それを察したばあちゃんが笑いながら言ってきた。
「ありゃま、照れちゃってるよこの子は」
「ば、ばあちゃん」
「どうだい、さゆりさん。まだ社会人に毛が生えた子だけど、付き合ってみる気はないかい?」
「ばあちゃん!」
思わず叫んでしまう。
初対面の人になんてことを言うんだ、この人は。
けれどもさゆりさんは気分を害した様子もなくクスクスと笑った。
「ええ、機会があったらぜひ」
にっこりとほほ笑むその顔に、僕は自分の目を手で覆いたくなった。
それほどまでに、彼女の笑顔は輝いていた。
「ええと、ばあちゃんがほんとすいません。変なこと言って。気にしないでください」
「ふふふ。面白いおばあさまですね」
「いえいえ、ほんともう、こんな祖母でお恥ずかしい」
「あらま。自分の祖母に対してなんてこと言うんだい、この子は」
「ばあちゃんは黙ってて!」
そんなやりとりを、さゆりさんは口に手を当てて笑った。
「短い間ですが、よろしくお願いします」
「はい、よろしくお願いします」
季節は夏真っ盛りだったけど、その瞬間、僕は春の到来を感じた。
※
それからというもの、僕は毎日のようにばあちゃんのお見舞いにいった。
いや、ばあちゃんのお見舞いというのは口実だ。
さゆりさんに会いに行っていたのだ。
というとばあちゃんに怒られそうだが、実際にそうなのだから仕方がない。
ばあちゃんの好きそうな和菓子を見繕いながら、さゆりさんにもお裾分けできそうなものをチョイスし、持って行く。
そのたびにさゆりさんは喜んでくれた。
不思議なのは、さゆりさんがなんの病気で入院しているのかさっぱりわからなかったことだ。
僕が持って行く和菓子も洋菓子も、さゆりさんは病人とは思えない食欲でペロリとたいらげていた。
さゆりさんはなんにでも興味を示し、どんなものでもおいしそうに食べてくれた。
「すごくおいしいです」
「不思議な味ですね」
「んー、これ最高です!」
彼女がおいしそうに食べる姿はとてもきれいで可愛らしく、僕はドキドキしながら見惚れていた。
「さとる、わしゃ和菓子が食べたいんじゃがのう」
ばあちゃんがそう愚痴るほどに、僕の見舞いの品は和菓子から洋菓子へ、ばあちゃん好みからさゆりさんが好みそうなものへと変化していった。
けれども、日が経つにつれ元気になるばあちゃんとは対称的に、彼女は日々やつれていった。
白かった肌はいっそう白くなり、やせこけた頬はさらにやせこけていく。
上半身を起こして僕がお見舞いに来るのを待っていることも少なくなり、ベッドの中でにっこりとほほ笑んでいることが多くなった。
そしてついに彼女は病室を移った。
大部屋から個室に。
ナースステーションから離れた場所から、近くへと。
それを知った僕は、彼女がもう長くないことを感じ取った。
※
それは、さゆりさんが個室へと移動した翌日だった。
「ばあちゃん、来たよ」
いつものようにお見舞いにいくと、ばあちゃんは少し怒った顔をしていた。
「さとる、何しに来たんだい」
「何しにって……。ばあちゃんのお見舞いだろ?」
「あたしゃ、大丈夫だよ。それよりも、あんたが見舞わなきゃいけない相手は他にいるんじゃないかい?」
「………」
ばあちゃんの声は少し寂しそうでもあり、悲しそうでもあった。
「さゆりさんのところに行ってあげな」
そう言うばあちゃんに、僕は「うん」とつぶやいてさゆりさんのもとへと向かった。
大部屋から出て、個室へと向かっていく。
それは今までウキウキしながらお見舞いにいっていた時とは大違いで、そこに向かえば向かうほど、じっとりとした暗い闇が心の中に広がっていった。
僕は改めて、ここが病院だという事を思い知らされた。
さゆりさんの個室はすぐにわかった。
ナースステーション近くの個室。入り口の名札には「白峰さゆり」と書かれている。
僕はさゆりさんのいる扉の前で、コンコンとノックした。
すぐに扉を開けて顔を出したのは、見知らぬ中年の女性だった。
誰? と思ったがすぐにわかった。
さゆりさんのお母さんだ。
その中年女性は僕の顔を見るなり怪訝そうな顔をしたが、すぐに顔を輝かせた。
「もしかして、さとるさん?」
「へ?」
「さゆりから聞いてます。この病院でできたお友達と」
「お、お友達……?」
その言葉に嬉しくもあり、恥ずかしくもあった。
「はじめまして。さゆりの母です」
「は、はじめまして。西嶋さとるです」
ペコリと頭を下げる姿が、さゆりさんと重なる。
「あなたには感謝しています。いつも病室で塞ぎがちだったあの子が、あなたがお見舞いに来るようになってからすごく明るくなって。毎日が楽しそうなんです」
「え、あ、いや、僕は別に……」
「あの子の話は、いつもあなたの話題でいっぱいなんですよ」
初耳だった。
そんな話、さゆりさんから聞いたことがない。
僕は、ばあちゃんの隣のベッドでおいしそうに洋菓子を頬張るさゆりさんの姿しか見ていない。
と、さゆりさんのお母さんの背後から静かな声が聞こえてきた。
「お母さん、いつまでさとるさんとお話してるの?」
さゆりさんの声だった。
「ああ、ごめんね。いつかお礼を言いたかったから。じゃあ、さとるさん、娘をお願いします」
さゆりさんのお母さんはそう言うと、頭を下げてどこかへ行ってしまった。
僕はそれを見送ると、病室のドアからするりと中に入った。
「―――ッ!?」
中に入るなり、僕は絶句した。
個室の中にいた彼女はまるで別人のように痩せ細っていたからだ。
たくさんの栄養パックが吊るされ、彼女の腕に伸びている。
全身につながれた管が、見るからに痛々しい。
けれども、そんな状態でにっこりとほほ笑む彼女の姿は、美しさすら感じられた。
「お見舞いに来たよ」
そう言う僕にさゆりさんは「嬉しい」と喜んだ。
今までとは違い、二人きりだとわかったとたんに重苦しい空気が僕を包み込む。
こういう時、なんて言えばいいのだろう。
明るく声をかければいいのだろうか、悲しい口調で声をかければいいのだろうか。
うつむく僕に、さゆりさんが明るい口調で聞いてきた。
「今日は、どんなお土産を持って来てくれたの?」
いつも通りの声に、安堵する。
「まんじゅう。文化堂の」
「わあ。ありがとう」
「……ごめん。こんなので」
「ううん、文化堂のおまんじゅう、私好きよ」
僕はまんじゅうの箱を開けると、ベッドに横になったまま口を開けるさゆりさんの口元へ持って行った。
「食べられる?」
「うん、食べたい」
はむっと半分かじりとるさゆりさんの小さな口は、すごく弱々しかった。
もごもごと口を動かすさゆりさんは、なんだか大変そうだった。
僕はハッとしてペットボトルを取りだした。
「お茶もあるよ。飲む?」
「うん」
ストロー付きのカップに移し、彼女の口にストローをつける。
弱々しい力でお茶を飲むさゆりさんを見ていると、僕はなんだか猛烈な悲しみに包まれていった。
「ああ、おいしい。やっぱりここのおまんじゅう、最高」
幸せそうな顔を見せる彼女に、僕は自然と涙があふれ出た。
「さとるさん?」
「さゆりさん……」
言わなきゃ。
なんでもいいから、何か言わなきゃ。
そう思えば思うほど、涙が止まらなかった。
苦しくて、悲しくて、どうしようもなくなって胸を抑え込む。
すると、さゆりさんが言った。
「さとるさん、ダメ」
「え……?」
「笑って。いつもみたいに」
「………」
「私、笑ってる顔のさとるさんが好きなの」
「………」
「だから笑って。お願い」
さゆりさんの言う「好き」は「Like」のほうなのか「Love」のほうなのか。
「Love」のほうがいいなと思いつつ、僕は笑った。
涙を拭きながら、ニッコリと微笑んだ。
さゆりさんはそれを見て「ありがとう」と言った。
それからは、何度も僕はさゆりさんの病室を訪ねた。
日に日に、目に見えて弱っていく彼女。
けれども、何もできない自分がふがいなくて、情けなくて、お見舞いの帰りには必ず泣き崩れた。
そんなある日、彼女は言った。
「さとるさん。実は私ね、もうあまり長くないの」
「さゆりさん……」
「自分でもわかるの。ああ、私もうじき死んじゃうんだって」
「………」
重い。
重い告白だった。
なんて言えばいいのかわからかった。
「でもね、死ぬのは全然怖くないのよ。人間、誰でも死ぬんですもの。それが早いか遅いかの違いだけ」
「僕は、怖いよ。さゆりさんがいなくなったらと思うと」
「さとるさん」
「だから……だから、死なないでよ」
「本当にありがとう。大好きよ、さとるさん」
僕はその瞬間、悟った。
彼女は、すでに死を受け入れているんだと。
覚悟を決めているんだと。
そう気づいた瞬間、思わず尋ねていた。
「さゆりさん、何かしたいことある? やってみたいこととか、見てみたいこととか、何かある?」
さゆりさんは僕の言葉にきょとんとしていたが、やがて笑みを浮かべてこう言った。
「花火……」
「………?」
「花火が見たい」
「花火?」
「今夜、町の花火大会があるんだって。ここじゃ見られないから」
そういえば、今夜だった。
毎日さゆりさんのお見舞いに来ていたから、日にちの感覚がなくなっていたことに気が付く。
僕は病室の窓から夕焼けに染まる空を見上げながら言った。
「見よう、さゆりさん。花火」
「……え?」
「僕が連れてってあげる。花火大会」
「本当?」
「本当だとも。待ってて、準備してくるから」
「うん」
僕は今夜迎えに来ることを約束し、さゆりさんのお母さんに事情を説明した。
さゆりさんのお母さんは、何度も僕に礼の言葉を述べ、病院側にはさゆりさんのお母さんが許可をもらうということで、僕は一足先に家に帰った。
町の花火大会。
その準備のために浴衣を引っ張り出し、入念に髪の毛をセットする。
思えば、女の人とこうした約束をするのは初めてだった。
ドキドキと高鳴る心臓を抑えながら、僕は病院へと戻った。
※
「わあ」
さゆりさんの病室の扉を開けて僕は目を奪われた。
そこには、ピンク色のかわいい浴衣を着たさゆりさんがいた。
恥ずかしそうに顔を赤らめている。
「どうしたの、それ」
「お母さんが用意してくれたの。どう? 似合う?」
「うん! 最高にきれいだよ」
「さとるさんの浴衣姿も、素敵」
その言葉に、思わず顔から火が出そうになった。
素敵だなんて、最高の褒め言葉じゃないか。
僕はドキドキしながら言った。
「じゃあ、いこっか」
病室のドアを開けて誘い出そうとすると、さゆりさんは頭を下げた。
「あ、ごめんなさいさとるさん。実は病院からはね、許可が出なかったの……」
「え?」
「外は……何が起きるかわからないからって……」
「そっか……」
残念がる僕に、さゆりさんはニコリと微笑んだ。
「でも、病院の屋上はOKだって」
「そ、そうなの?」
「うん! 今晩だけ……今晩だけは、付き添いがあればいいって」
「そっか。よかった」
「だから……一緒に行ってくれる?」
「もちろん」
僕は嬉しそうに微笑むさゆりさんの手を握りしめると、支えるように歩き出した。
彼女の真っ白くて痩せ細った腕は僕には眩しくて、手を取って歩くだけで緊張した。
「大丈夫?」
「ええ……」
一歩一歩慎重に歩く。
彼女の弱々しい足取りに、僕は一生懸命歩調を合わせた。
急がず、せかさず、ゆっくりと。
二人で手を取り合い歩きながらさゆりさんは言った。
「嬉しい。まるでデートみたい」
震えながらも、嬉しそうに微笑むその姿に胸が熱くなる。
「何言ってるの? デートに決まってるじゃん」
僕は、胸をつまらせながら伝えた。
「これはデートだよ」
僕の言葉に、彼女は「うん」と言って僕の胸に身体を寄せた。
僕らは、薄暗くなっていく病院の中をゆっくりと歩いた。
屋上に向かう階段は果てしなく長く、時折休んでは一歩一歩慎重に登っていった。
そして、ついに屋上についた僕たちは、扉を開けた。
瞬間、満天の星空が目に飛び込んでくる。
息をつくほどのきれいな夏の夜の空だった。
「わあ、きれい」
「ほんとに」
屋上には誰もいなかった。
病院側があらかじめ手を打っていたのだろう。
すぐ近くに彼女が座れそうな車いすが置かれていた。
「座って」
「うん」
僕はそっとさゆりさんをその車いすに座らせると、その隣にしゃがみ込んで一緒に夜空を見上げた。
夜空に輝く満天の星は、まるで僕たちを祝福しているかのように見えた。
「最期にこんな素敵な思い出ができるなんて……。嬉しい」
「………」
僕はなんて答えればいいのかまるでわからなかった。
「さとるさん、本当にありがとう。私、最高に幸せでした。最期にあなたに会えて、本当に……」
「さゆりさん」
僕の胸に頭を寄せてくるさゆりさん。
と、同時に甲高い音を響かせて花火が上がった。
そして、僕らの目の前で大きな花が咲き開く。
ドンッ! という爆発音が、少し遅れて振動と共に伝わってきた。
「きれい……」
さゆりさんがそれを眺めながらそっとつぶやく。
「うん」
僕もうなずいた。
大きな花火は、夏の夜空に何度も何度も打ちあがった。
色とりどりできれいな花の輪っかは、まるで僕らだけのために上がっているかのようだった。
「さゆりさん」
僕は打ちあがる花火を見上げる彼女に言った。
「あの、こんな時に不謹慎かもしれないけど……」
「……?」
「僕は……さゆりさんのことが好きです」
とたんにさゆりさんの目がパッと見開く。
「心から、愛してます」
その言葉を伝えると同時に、さゆりさんの目から涙がこぼれ落ちた。
「嬉しい……」
「できれば一生、そばにいたいです」
「でも私、もうすぐ……」
「生きて欲しい。ワガママなお願いだっていうのはわかってる。けれども、生きて欲しい。僕のために」
僕はそう言って、細い彼女の身体を抱きしめた。
強く握れば折れてしまいそうな華奢な身体は、それでも温かくて命の輝きを放っていた。
「生きて欲しい。精一杯最後まで」
「……はい」
彼女はそう言うと、僕の唇に唇を寄せた。
初めてのキスの味は、夏の夜に打ちあがる花火のように、切なかった。
※
「ばあちゃん、きたよ」
あの時の夏と同じく、今年もばあちゃんが入院した。
今年は食べ過ぎ飲み過ぎという、元気すぎる理由での入院だった。
「さとる、今日も来てくれたんだねえ」
「まったく、食べ過ぎで入院てなんなんだよ。家族の身にもなってほしいよ。恥ずかしい」
「いいじゃないか、夏は冷えたものがいっぱい欲しくなるんだよ」
「少しは自重しなよ。今日は珍しいお客さんも連れてきてるんだから」
僕はそう言うと、後から入ってきた女性の手を取って中に迎え入れた。
「おやまあ。もしかして?」
「ふふふ、おばあさま。ご無沙汰です」
「まあまあ、お久しぶり。さゆりさん」
西嶋さゆり。旧姓・白峰さゆり。
僕の妻となった彼女は、元気な姿でばあちゃんに文化堂のまんじゅうを差し出した。
「これ、おばあさまの好きな文化堂のおまんじゅうです」
「わあ、ありがとね、さゆりさん」
ばあちゃんは、さゆりさんのきれいな手からまんじゅうの箱を受け取ると、幸せそうに微笑んだ。
「やっぱり、さゆりさんはいつも礼儀正しいねえ」
その言葉に僕は「ぷっ」と笑う。
「外ではね。僕と二人っきりだと、すっごく甘えん坊なんだから」
「ちょ、さとるさん!」
顔を赤らめてツッコミを入れる彼女の姿に、ばあちゃんは口に手を当てて大笑いした。
「おやまあ、仲がよくて羨ましいねえ」
かつてさゆりさんが僕とばあちゃんに言ったこの言葉。
それを思い出し、僕とさゆりさんも笑った。
いつまでも、いつまでも。
夏の花火は、今年も上がる。
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