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第一章
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しおりを挟む検査結果の報告を聞き終わり、赤い顔をしてブツクサ言い訳をしている身重の玲一を、問答無用で車に押し込み兄の元へ送り返した。
あとは二人で勝手にやってろ。俺はもう知らねぇよ。こっちだって色々忙しいんだ。あんな面倒くさい大人達に構ってる暇はない。
やれやれと頭を振りながら気持ちを切り替える。
今日こそは上手く話せるといい。出来ればちゃんと目を合わせて聞いて欲しい。
「よし。それじゃ、向かいますか」
ふぅ…、と一つ息を吐き、林檎の花の香を纏う愛しい番の元へと足を向けた。
広々とした個室にはたくさんのお見舞い品が置かれている。
色とりどりの花々や果物の詰まった盛籠。
毎日のように誰かしらが、手土産を持ってここに顔を出しに来る。
お陰で随分と物に溢れた賑やかな病室になった。
眠っている葵の枕元には、千津がクレヨンで描いた葵の似顔絵が飾られている。
一昨日ここを訪れた千津は、早く元気になってねと、照れながらそれを渡していた。
『ままだいすき』と辿々しい文字で書かれたそれを、葵は宝物のように一文字一文字指で辿りながら聖母のように微笑みを浮かべては、ポロポロと涙を溢した。
まだ、本当の意味では俺は蚊帳の外だ。
千津にとっても、母親からの話でしか知らなかった“ぱぱ”と俺を、同じ人物だと認めきれないのではないかと思っている。
何しろ『おーじさま』だ。……ハードルが高過ぎる。実際は三十路のオジちゃんだもんな。なんか、スマンね。少女の夢を壊したみたいで心苦しいよ。
ただし遺伝子は嘘を吐かなかった。
疑うようで多いに不本意ではあったが、親類縁者一同に余計な横槍を入れさせない為に、俺と千津、それから葵と千津のDNA鑑定をした。
まぁ、結果は言わなくても判っていたし、何の問題もなく99.9%親子だと太鼓判を押されただけだ。
母や兄妹は勿論、あの父でさえ、葵が一命を取り留め、無事に戻って来た事を喜んだ。15歳の子供だった小さな小間使いの帰還は、今の宝条家にとって大きな話題だ。共に働いていた使用人達も皆、早く顔を見たいと待ち侘びている。
表面上は丸く収まったように見えるが、正直そう簡単にはいかないのが人の心というもので……───。
「ん………、」
「っ、……葵」
薄っすらと瞼を開いた葵に声をかけると、ひゅっと息を吸い込んで布団を被って隠れてしまった。
やれやれ……。まだ、駄目か。
目覚めてから今日まで、起きてる葵としっかり目を合わせたのはほんの数回。こうして直ぐに布団に潜るか両手で顔を覆うか。中々その瞳を向けてはくれない。
これにはさすがに参ってる。一体どうしたもんか………。
拗らせた想いを未だ燻ぶらせている葵。
林檎の甘やかな香りを纏う、もう一人の頑固者。
柴田が話してくれた「顔向け出来ない」誤解については、もう解けたはずだ。
あれから何度か言って聞かせた。俺にとって怜一は、共に戦う戦友みたいな者だ、と。怜一本人からも「誤解を招くような事になって済まなかったね」と、兄と二人で謝罪を貰ってる。葵の方も随分と恐縮しながら、それを受け取っていた。
だからこれは、きっと俺に対するモニョモニョな感情なんだとは理解はしてる。 してはいるんだが……。
「なぁ、葵。起きたんなら、少し外に散歩に行かないか? 車椅子が嫌なら、俺が抱えてやるから、」
「いいぃぃ、い、行きません!」
くぐもった声で即答かよ……。
「あー……、じゃあ…。あ、メロン食べるか? 昨日兄さんが持って来たんだ、」
「いいぃぃっ、要りません!」
また即答か……。ふむ……。
「……………………」
「………………………ず、」
「ん? なぁに?」
「……………………ちず…、は? 」
「ちず? ああ、千津ならそろそろ来るんじゃないか。もう保育園は終わってる時間だしな」
「千津に、……食べさせてあげてください。………メロン」
葵はこうして常に“母親”でいる。
それはきっと正しい。正しいのだけど……。
「千津の分は、昨日持ち帰ってちゃんと食べさせたぞ。───ねぇ、葵」
ベッドの端に腰掛け膨らんだ布団の上に手を置いた。丁度肩の辺りだろうか。ピクンと手の平に振動が伝わってきた。
「俺さ、千津に頼まれたんだよ。 ママにもメロン、ちゃんとあげてね、…って。 あの子は葵に似て優しいな。皿に乗せた自分のメロンを、半分残してそう言ったんだ」
段々と小刻みに伝わってくる振動を、宥めるようにゆっくりと撫で擦りながら言葉を探した。
「お前があの子を大事に想うのと同じ様に、千津だって、ママを大事に想ってるんだ。だからさ、ちゃんと食べて早く元気な姿をみせてやろうよ。そしたら退院して、また一緒に暮らせるぞ」
葵は中々食が戻らなかった。
元から食の細い子ではあったが、長年の不摂生に加えて、一時はその生命を危ぶまれる程に身体機能が低下した。医師達の懸命な治療と愛娘の励ましで、3ヶ月経った今はもう、命の危険はない。あとはしっかり食べて、体力を付けるだけのところまで来た。だがそれが、遅々として進んでいないのが現状だ。無理に食べても吐き出してしまい、返って体力を消耗してしまう。
『ストレスが原因でしょう。何か気に病むことがあるんだとは思うんですが……』
担当医の言葉が胸を刺す。葵の抱えている心の重責が何なのか、それは想像するしか出来ない。まぁ、間違いなく俺や宝条家に起因しているんだろう。それが分かっているからもどかしい。
「なぁ…、もしもさ。もしも……、葵が俺と居るのが苦痛だって言うなら、千津と二人で静かに過ごせるよう…」
「違います!そんな事、思ってな、……っ!」
ガバッと布団を捲り上げた葵は、違うと言いながら俺と目が合うとまた、再び布団を被って丸まった。
………ふむ。
これはもう、アレだ。久々に俺を見て、色々と恥ずかしさに耐えきれないって事だな、きっと。
自惚れだろうが、そう思う事にする。じゃなきゃ、前に進めない。
本当はちゃんと目を合わせて、顔を見ながら伝えようと思っていた。
だけどそんな拘りなんか、もうどうでもいい。
とにかくこの気持ちを今伝えたい。この声が届くならそれが何処で、何時であるかなんか些末なものだ。
もう一度布団の上に手を置いて、その塊をゆっくりと撫でながら静かに語りかけた。
「なぁ、葵。俺もそろそろ、仲間に入れてくれないか? 俺もお前と…、葵と千津の、家族になりたい」
ふるふると布団の中身が大きく揺れた。
───『オメガだったらよかったな』
そう願うほど、家族に焦がれていたよな。子供が欲しいだけなら、父親の話をあんなに娘に聞かせたりはしなかっただろう?
「3人で……、家族で一緒に暮らしたい。俺は新米パパだからさ、葵に色々教えて欲しいんだ。千津のこと。それから、俺の可愛い番のことも」
ちゃんと聞こえたかな。伝わったかな。
「おーい、葵ぃ。葵くーん? 聞こえてるぅ?」
ぐすぐすと鼻を鳴らす布団の膨らみを、そっと上から抱きしめた。
このバリケードは葵の鎧だ。今までずっと一人で背負って一人で頑張ってきた、母親の矜持でもあるだろう。
俺に対しての心の距離でもありそうだが、まぁいいさ。無理矢理剥ぐなんて事はしないよ。
「俺と葵と千津、3人で、幸せな家族になろう」
「…ふ、…ぅぅ、」
ふわふわと漂う優しい林檎の花の香り。
俺が唯一嗅ぎ取れる、甘やかな幸せの香り。
それを胸いっぱいに吸い込みながら、そう遠くない未来に、親子3人で笑い合える日を想像して、布団ごと抱きしめた愛しい塊に頬擦りをする。
「好きだよ、葵。愛してる」
どうか届いてくれますように…と囁いたその言葉に、消え入りそうな程小さな声が「ボクも」と応えてくれた。
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