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第二楽章 虹色オクターヴ
第三小節 蜂鳥の囀り
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蓮華 響一の場所は探さなくても分かる。
彼はとにかく人気のない場所を探すのが得意なのだ。
授業開始まで時間がない。
この時間なら多分屋上の渡り廊下だ。
ドアを開くと、やはり響一はいた。空を見上げて、ぽつり。
「今日は暑くなる」
「先輩!!」
アイリスは叫んだ。
「どうした?」
それは恐ろしいほど普段と同じく優しく微笑む響一だった。
『どうした』
その問いにアイリスは言葉を止める。
ちょっと待て。
本当に何故、響一が何かをしなければならない。
彼は梓の言う通り部長だ。
けれど彼自身に部員の部活を続ける辞める、そんな意思を判断する訳はない。
「君も俺は可笑しいと思うか?」
「え……」
「いるんだ。時々。俺に吹奏楽部入ろうか迷ってて……と話す奴。そんなこと知るか。それぐらい自分で決めてくれ」
冷たい言葉かもしれない。しかし良く考えればそうだ。
「最終的に俺が間違っていると言われる。間違っていると言ってくるくせに。解決策も希望も言うだけ言って俺が何故そこまでするんだ。俺にはもう、分からないんだ」
彼は苦悩した表情で言った。
「……先輩」
「俺には分からない。何故、正樹が辞めたのか。何故、峠 つばめは入部に俺の許可が必要なんだ」
その時アイリスは思った。何かが違う。確かに。響一は何も間違えてない。
峠つばめにしたって。
勝手に辞めたのは彼女で。
勝手に戻りたいと思っているのも彼女なのだ。
「いいえ。先輩は間違ってない。……それを……」
あの二人は理解していないのだ。これは確かに少し難しい問題だ。恋愛の縺れであることは確かだが。
「先輩。先輩は確かに分からない。最低限しか動けない。でも使えないカードが無い訳じゃない」
アイリスの言葉を響一は否定しない。
「まあ、そうだな」
「選択肢の一つとして自分で動くか。もう一つ、夜宵先輩に頼むか。朝倉先輩に頼むか。逆月先輩に頼むか。真実を知る方法はいくらでもある。先輩って本当に人望に恵まれてますね」
「それはそうだな。否定しないよ。実際、そういう手もある。しかし俺は基本的には他人の決断を受け入れる。最悪であっても最善であっても。それが部長だと俺は思っている」
「でも先輩にだって蓮華先輩にだって本心はあるでしょう?」
アイリスは必死に響一の胸にすがった。この人から話を聞きたいなら。直接聞くしかない。当たって、ぶつかるしかないのだ。
「ああ。出来れば、あの二人が部活を辞めず丸く収まってくれればそれでいい」
「その役目。私に任せてくれませんか?」
「……アイリス?」
「失敗はしません。先輩にはちょっと動いてもらうけど」
「どうした珍しい」
「……その、先輩。本当はもっと、柚の兄貴と親しいですよね?」
「……そうだな」
「知ってること教えて欲しいんです。この件。どうにかして見せます」
アイリスはそのまま踵を返した。
「アイリス!?」
部長だ、部長だから。
部長だから当然。
部長なのに何もしていない。
違う。
何故、分からないのか。
響一は同じだ。合奏と同じで、限り無く必要なことをしているだけなのだ。
言いたいことがあるなら、本人に言わなければ伝わらない。
何故、上川 すみれは響一を殴ったのか。何が原因で。何が問題なのか。アイリスは必死に考えた。
愛?
本当に、峠 つばめを想って、上川 すみれは響一を殴ったのだろうか?
盲目。それは何に?
流石に暑くて途中で止まる。
汗が滴り落ちた。汗を拭う。
そんな時トランペットの音が聴こえてアイリスは顔を上げる。
自由曲のソロ部分だ。
「……巧い……けど蓮華先輩じゃない……」
確かに日が射すと今日は暑かった。
そのトランペットの音に導かれて辿り着いたのは中庭にある藤棚。
季節的に花は限界だが、それでもまだ咲いている。
そしてトランペットを奏でていたのは夜宵だった。
あの頃より数段良くなった音。
まだ音量は響一の足元に及ばないレベルだが、それでも細部が丁寧で綺麗な演奏だった。
そのまま儚い音を聴いていたら、また分からなくなる。ぐしゃぐしゃと絡まった糸は強引に引っ張っても解けない。
「何で、何で皆自分の事ばっかり! どうして、蓮華先輩が、響一が!? 意味わかんない!!」
最後はフランス語で叫んでいた。
「そら、分からんよ」
「え……」
「辞める方なんて自分の事しか考えとらんもん」
そこに立っていたのは予想外の人物、瀬戸内 夜宵だった。
どうやら見つかってしまったらしい。
しかし夜宵の反応を見るとそれはお互い様、と言った感じだ。
「お上手ですね」
「そんな気使わんで……」
「いえ。私も時々ソロパートは吹こっそりきます」
「なあ、アイリスちゃん、ここの息、どうしてるん?」
「あ、そこは……」
「ちょ待って」
彼女はアイリスを見つめるとペットボトルのミネラルウォーターを持ってぱぁ、とアイリスの顔を引っ張る。
「ひぇんぱい、顔、どうひて、ひっぱるのー」
「うっわ、なにこれ、もっちもちー、若さ吸収してええ?」
「ええ訳無いです! こんな所で何してるんですか?」
「今日は午前中授業ないんよ。個人戦」
ここで個人練習ではないのが夜宵らしい。
「へー」
「せやから相談乗ったるよ」
「え、私はこれから授業~!」
「ええやん。サボり付き合ってあげるよ?」
「頼んでなーい!!」
藤棚の藤は散る寸前でも美しい。
「凄い。まだ咲いている」
「それより、アイリスちゃん座りなさい。後、水」
「え……」
「今日も部長の朝練付き合って、朝練して、そんで走ったら熱中症になってまうよ。今日、暑いて」
「あ……」
必死だったせいで忘れていた。頬は赤くなり、汗が滴り落ちる。ポケットのハンカチタオルを探しだしアイリスは木陰になっている椅子に座った。
「ありがとうございます」
「何にでも夢中で必死で正直なんがアイリスちゃんのええとこやわ」
アイリスは照れながらも頷いて一気にペットボトルの蓋を空け一気に飲んだ。
「ぷはっ、ありがとうございます」
「ここ、校舎で全体的に日陰で一番涼しいんよ。少し涼んだらええ」
と夜宵はポケットからハンカチを取り出し、アイリスに向かって扇いだ。
温く優しい風が汗で少し湿った髪を揺らす。
「瀬戸内先輩は……平気ですか?」
「平気……? ああ、今回は平気やわ。ウチ関係ありそうでないやん?」
「そう……ですね」
そして、夜宵は足を組んで少し明後日の方向を向いて答える。
「それに、ウチ……結構部長の事は信頼も尊敬もしとるから正直ウチもアイリスちゃんの意見に賛成やわ」
「そ、そうなんですかー!?」
それは衝撃の真実だ。
最近の様子を見れば、ボケとツッコミの漫才感が凄いのだが。
「そら三年同じパートやったし。皆、部長に求め過ぎやわ。ただの中間管理職やで?」
「けど……同好会……」
「それも。当時偶然、同好会。皆、辞めたくないけど続ける意味も分からんくて。でも楽器は触っていたいっちゅうなウチのワガママやわ。部長には迷惑かけてしもうたな」
「そんなこと、ないと思います! ……その、蓮華先輩は間違っていないけど、ちょっと言葉足らずだし。それで同じ三年で、あれだけ巧くて。そりゃあ嫉妬もしますよね」
「ウチはそこまででも無くてな」
「そうなのー!?」
「てか前に言ったけど、ウチ琴やっとって。トランペットは高校からなんよ」
「それは知りませんでした」
「うちらの上級生はうちらよりやる気もない連中でな。コンクール銅常連高校とまで言われとったんや」
そして、その先輩が卒業した途端、部活動は一年間完全停止。
「……うわー……」
「よう持ち直したわ。流石、あの指揮者は違うと思うで」
「……あの」
「ん?」
「ずーっと気になっていたんですけれど。瀬戸内先輩は蓮華先輩のこと好きじゃないんですか?」
アイリスの問いに、夜宵の大きな瞳は点になる。
そして奇妙な時間が数分経過する。
その後、夜宵は大爆笑してアイリスの肩をバンバン叩いた。
「あははははは!!」
「ちょ、いたい!!」
「ああ、ごめん、ごめん。そらないわ。そもそも、ウチ自分と部長の実力の差に気が付かへんかったんやで。あらへん。そうやなぁ……今やったらトランペットが上手な無口で寡黙な、お兄ちゃん、かな」
「……お兄ちゃん」
「仕方あらへんよ。部長は元々大人っぽいし。人間出来てるから。同性はともかく女子だとな。モテない訳やないんや。けど……」
「けど?」
「ウチは中学生以下の少年がターゲット層なんや! 同学年の男子なんて……」
「え……それは……」
「そう。可愛いのは子猫、子犬。児童!! 見守るべきは部活に青春かけとる運動部中学生!!」
これは……まさか。
「先輩って……」
「ウチは自他共に認めるショタコンや」
なんて残念な性癖だ。アイリスはガックリと項垂れる。
お兄ちゃん。言っている事は分からなくもないが。
一応、夜宵と響一は同学年なのだが。
「それにアイリスちゃんが結構稀やねぇ。あんなにくるくる回る部長は始めて見たわ」
「くるくるですか……」
「そらもう、あっち、こっち、よう引っ張るわ。部長あんなに動いたんやな」
「そんな壊れかけのロボットみたいに……」
「そやったよ」
「……え?」
「部長も言わんけど当時、篠宮……(兄貴)が突然辞めた時は随分ショックやったんや」
「……どうして」
夜宵が分かるのだろう。緩やかな微風にアイリスの銀髪と藤の花が揺れる。
「あら。意外と束縛するんやな」
「ちっがーう!! そもそも蓮華先輩が壊れかけのラジオみたいで、でも実はそこからは正しい第九が流れているのにみんな分かっていない。そんな、なんていうかそんな感じ!!」
「そら中々面白い言い方やんな。うーん、元々部長は無口やったんや。けど篠宮の兄貴はめっちゃ明るいヤツでな。部長のトランペットが一番巧い! って言い切って。アイリスちゃん並みに部長動かすんは上手かったな」
「篠宮 正樹……」
「それで朝倉と三人。時々九条寺。そんな感じで男子はめっちゃ仲良くて楽器も上手い連中だったんやな。今でも名残はあるけど」
「……だった」
「そう。部長は元々、確かに自己評価が低いし暗い思考回路はしとったけど。本当は違う。アイリスちゃんなら知っとるやろうけど。本当はとびきり優しくて。良く笑う時々残念で無邪気で天然な人や。正直、柚姫ちゃんの兄貴が辞めたんは部員に対してあそこまで興味無くした原因やと思うで。最近は柚姫ちゃんがおるし九条寺もおるし自粛してるんやろな」
「……ありがとうございました夜宵先輩」
「お?」
すくり、とアイリスは立ち上がる。
「少し、ごちゃごちゃしてイライラしていましたがスッキリしました」
「その顔は腹、決めた顔やな」
アイリスは頷いた。
「すみれの花」
「それは科学室」
「つばめの巣」
「それは今日、放課後パート練習に顔出す、聞いたで」
そんな夜宵の様子にアイリスは呆れる。
「先輩はスパイですか?」
「似たようなもんやわ」
また、ころころと笑う。
「放課後には決着付けます」
「って、そない物騒な言い方」
「物騒? 当然。これは戦争ですよ。恋の」
夏風が藤の花とアイリスの銀髪を揺らす。それは美しい光景だった。
ぐちゃぐちゃした糸を紐解くように。
その紐に触れる瞬間の如くアイリスは走った。
まずは科学室。
時間は昼前。何故そんな時間にそんな場所にいるのか。この状況で夜宵が提示した居場所だ。おそらく一人だろう。
木造部分の多い藤堂高校だが科学室は違っていた。少し棟が離れ渡り廊下の先にある技術教室棟の端。
窓もちゃんとしており現代風の教室には黒い長机が並ぶ。
アイリスはその扉を開いた。
近付けば、あの旋律が響く。この曲は知っている。この曲はポロヴェッツ人の踊りのフルートだ。
日本語だと『ダッタン人の踊り』、『韃靼(だったん)人の踊り』。
有名なクラシックで主にオーボエとフルートで構成される。
また一人では吹けない曲だ。少し控え目に。だらだらと曲は続く。アイリスは無性に腹が立った。
響いていたフルートの音が止まる。
科学室の水道連の手前。儚く、その銀色のフルートに見合った美女が顔を上げた。
「一年生、上手い子、トランペット」
単語を並べるな、とアイリスはまた怒りが湧いた。
「ど、どうして……怒ってる……の?」
「被害者のフリをするな」
思った以上にアイリスの声は大きく、そして冷たく響いた。
すみれは怯えるように下がる。
「そうやって。びくびくして。怯えて。私、可哀相です、って表情で。そうしていれば、いつでも誰かが助けてくれた? そうやって。いつか、いつかって」
「何」
「……逃げんなこら」
怯えるすみれの手をアイリスは掴む。
「こ、怖い……ご、ごめ」
「自分の何が悪いか分かってないくせに謝んな!!」
アイリスは叫んだ。
「ムカつくんですよ! そうやって本音隠してるくせに! 本当は、こうなれば良いな、って表情で一番欲深いくせに、それを包み隠して!!」
「……ど、どうして」
「ふん。フランス人を舐めないで欲しいです。先輩、好きですよね?」
アイリスは数分、間を置いた。
その間ずっと腕の震えは止まらず目は伏せられ。
「自分で言えもしないの?」
「……私は、」
「上川 すみれ先輩。好きですよね、蓮華先輩が。ずっと好きだったんですよね」
コチコチ時計の針が動く音がやけに大げさに聞こえる。
「……ど、どうして」
その瞬間、手の震えが止まる。
「分かりますよ。だって私が好きな人です」
そして上川すみれは崩れる。
「どうして……ずっと誰にも分からなくて。言っては駄目で。私はつばめを応援する応援するから」
「そう決めたなら最初から貫き通して下さいよ」
「分かってるよ!」
その瞬間すみれから涙が弾けぽたぽたと彼女の制服の上に落ちて滲む。
「だから……話して下さい」
「え」
アイリスは同じ位置まで屈んで、すみれと視線を合わせる。
「怒って……ない」
「そう。怒ってない。言いたいことを言っただけ。私の好きな人を殴らないで。貴女も好きなのに、どうしてあんなことをするの?」
そして優しく問う。童話を聞かせるように、ゆっくり。フランス語を日本語に翻訳するように。
「怒らない? 貴女と同じ人。好きなのに」
「……怒らないですよ。つまり私と同じ、ってことでしょう? その……男性の趣味が」
「貴女と同じ……好き?」
「そうです」
「私、私、ずっと一人だった。他人と話すの、苦手。とろくて遅くて。地味で。でも中学で、私……」
「……中学?」
すみれは泣きながら頷いた。
その涙は、怯えや、恐怖から来るものではない。
「私、吹奏楽部で、一人だった。けれど、蓮華先輩は違う。私に声をかけてくれて」
「……声?」
「おはよう」
「……それだけ?」
「そう、そうなの。でも貴女なら分かるでしょう? 優しいの、すごく。声、怖がらせないように、目線ちゃんと合わせてくれて。私、無視するかもしれないのに。『おはよう』って。私、その時涙が出そうで、返せなかった。そしたら、今度は」
『大丈夫か?』
アイリスとすみれの声が綺麗にハモる。
響一ならば様子のおかしいすみれを見てそうするだろう。
「それでね、この曲……一緒に吹いた」
「え、ダッタン人の曲を?」
すみれは頷く。
「中学の最後のコンクール。オーボエの子が難しくて出来なくて。私に合わせるのが無理で。だからこうやって吹いた」
先程の囁くような感じ。あんな風に吹いていた、ということだ。
「その、ずっと私に大きな音出すな皆が迷惑だって」
すみれの言葉にアイリスは顔をしかめる。
「でも、その子……当日、風邪で……」
「……嘘」
「かもしれない」
「……先輩は分かっていたんですね」
すみれは頷いた。
「でも私……一人だから。どうしようも無くて」
すみれは、その当時をそのまま語った。
とにかく何故かすみれはいつも一人だった。
吹奏楽部でも誰も彼女に声をかけなかった。
それは実はそのオーボエが彼女に嫉妬し、行われていたいじめだったのだ。
すみれは薄々その事実に気が付いていたそうだ。
アイリスの憶測だが、すみれは美人だ。好きな男が見とれでもしたか更にフルートのソロパートの担当で人気者になるのが気に食わなかったのか。
そんな状況のコンクール。
「……最低」
「とにかく、その人しかオーボエがいなかった。皆が誰も、私と吹けなかった。けど……」
その時スッと何でもないように蓮華 響一は立ち上がった。誰もが無言の状態で。
「言ったの。『俺で良ければ代わりに吹きます。正式な構成ではありませんけど』って」
また響一なら言いそうだし吹けるだろう。
「あー、うん、何となく分かった」
「本当? でも、みんな驚いて、うわぁ、って感じで。でもコンクールは金だったの。ダメ金だけど」
「見事、やってくれた訳ですね」
アイリスの言葉にすみれは必死に頷いた。
「そう。そうなの。私に、変に気を使わず好きに吹いてくれって……それで、あんな、……貴女、違う。アイリス、アイリスちゃんなら分かるでしょう?」
すみれは必死にアイリスの腕を掴む。その顔は涙でぐしゃぐしゃで、でもその表情は恋する乙女だ。
「うん」
アイリスは素直に頷いた。
「最後、『お疲れさん。合わせてくれてありがとな』って、頭に手、ぽんぽんされて、惚れるよね? 惚れない方がおかしいよ!!」
「先輩、そんな大きな声、出せたんですね」
「アイリスちゃん、可愛いのに。ちょっといじわる」
「気持ちは分かりますけど一応は恋敵だし」
アイリスはよっくらせ、と水道連に腰掛けた。
すみれはもう涙は止まり日射しに隠れるように同じ向きで腰掛けた。
チャイムの音が聴こえるが、これは予鈴かどうかも分からない。
「高校では、つばめが一番に話しかけてくれた。蓮華先輩のトランペット聴いて、『あの人が一番上手だよね!』って。私、それだけで嬉しかった……最初は」
「……最初は」
そう。最初は。最初は、つばめは気さくにすみれに話しかけ二人はすぐに友人になったそうだ。
すみれは中学の頃のいじめが原因でやはり人との関わりは苦手だったが、つばめはそれにもめげず、すみれに話しかけてくれた。
けれど、それは。
「ねぇ……どうなったら友達だと思う? 友達って、どこからが友達だと思う?」
「それはまた難しい質問です」
「同じよ。友情と恋。どちらが大切だと思う?」
「先輩は……友情を選んだ」
すみれは頷く。
「怖かった……また一人は嫌、嫌。嫌なの。でも、私が蓮華先輩に告白したって、多分覚えてない。つばめが私に優しいのは蓮華先輩が好きだから。私と蓮華先輩が同じ中学で、それで、たくさん、私に聞けた……から」
「でも、駄目」
「……え?」
「つまり。先輩はずーっと蓮華先輩にSOSを送っていたんです。無意識に。あの時と同じように、本当は違うのに。弱々しくいればまた声、かけてくれるかもって」
「……うん、そうだ。そうだね、私……ずるい」
すみれは体育座りで更に顔を腕の中に伏せた。
「いいえ! 男を落としたいなら、それでは駄目です! 蓮華先輩なら尚更」
予想に反してアイリスは立ち上がりビシリと人差し指をすみれに向ける。
「え……」
「あの人、そんな回りくどいの分かりませんって。まず先輩と同じですけれど蓮華先輩は自分は好かれてないだろうと思っている状態でからのスタートですよ! 絶好のチャンスだったのに」
「え、……あの……」
「だから、ダッタンやった時。そのまま、弱々しく迫れば大正解! 先輩の大勝利。苛められてます、って言っちゃえば良かったのに」
「……さ、流石、フランス人……」
「良いですか。恋は早い者勝ちです。そのまま、相談する日々を送れば良かったのに。変に見栄を張るから」
「うっ……だって……苛められてるなんて……言えなくて」
「それに。峠先輩だってそうだぜ。先に言っちゃえば良かったのに。中学の時から初恋の人で、ってさ。そしたら立場逆転ですよ」
「うっ……ううぅ……」
「さて、続き。聞きたい?」
「え……教えてくれるの?」
「そうですね。今回は特別。先輩もいじめられてた訳だし。同じ物が好き同士」
アイリスはすみれの手を握り立ち上がらせる。
「……え、それって嫌じゃないの?」
「ま、私は。例えば同じ食べ物が好き。同じ本が好き。同じ曲が好き。男の趣味が近い。別に。全く。むしろ楽しいじゃないですか」
「そう……なの……」
「嫉妬はしますけど。負けない自信もあるしね」
と、アイリスはウィンクする。
「はい。これで先輩は人じゃない。今はもう。一人じゃない」
「え……う、うん」
「だから、決断しなきゃいけない。先輩はこのまま、峠 つばめ先輩の付属品でいるのか」
「ふ、付属品……」
「そうでしょ? それか戦うか。良いですか? 恋は早い者勝ち、恋は戦争です。いつまでもウジウジしていたら始まりもしない。しかも相手は蓮華先輩だ。余計駄目ですって」
「……どうして?」
「もー! それじゃあ、何の気もない夜宵先輩以下ですよ!」
「ふぇええ……」
「蓮華先輩は遠回しな言い方だと全く伝わらないの。私は元々、ハッキリ言うから理解してくれただけ。あの人、つばめ先輩の気持ちにすら気が付いてないですよ」
「え……うそ……」
「本当です。そういう意味じゃ、ぶん殴ったのは正解ですよ。直接的だし」
「あ、あの……それは……」
「つまり先輩は怒ってたんですよね。本当は直接ぶん殴った蓮華先輩に直接怒っていたんですよ。ずーっと信号送っているのに、気が付け鈍感!! もう、これ以上は無理! って」
「う、……そうです」
「でも暴力は駄目ですって」
「うん、そうだよね……乱暴は……」
「印象が悪い。更に大勢の前ってのも。使えない手ではないですけれど。印象が悪くなるデメリットの方が多い」
「ふぇええ……」
「あのね。私のこと計算高い、とか恋愛上手~って思ってるでしょう?」
「え、違うの?」
「違います。ノンノンです。私は直接聞くし、言うだけ。それに素直に返してくれる人が好きだから、そういう人としか交流しないだけ。一応、日本に来てからは空気は読んでるんですよ。これでもすごく」
「え、えっと……お疲れ様です?」
アイリスは自分の胸に手を当てて高らかに言った。
「当然です。労って下さい。後でつばめ先輩にも蓮華先輩にも請求しなきゃ。柚は友達割引」
「請求って……面白い。可愛いのにズバズバ言っちゃうし、格好良くて、かわいい……」
「え、あ、ありがとうございます? でも、つばめ先輩もそうかもしれないでしょう?」
「……え?」
「やっぱり。先輩って蓮華先輩に盲目で他が見えてませんね」
「う……ごめんなさい」
「つまり私と同じタイプかも、ってこと」
「同じ……」
「まぁ、このままを貫くか言うかは決めないと更に印象が悪いですね。一応、最後にアドバイスするなら言っちゃえば良いんです。先輩は」
彼女は立ち上がり、くるり、とすみれの方を向いた。そして気だるそうな表情で肩に掛かった髪を退ける。
その姿は正に女王のように毅然としているのだ。銀髪が日射しに反射し輝く。
「え……」
次の瞬間アイリスはすみれの胸ぐらを掴んだ。
「とにかく、つばめ先輩も蓮華先輩の印象は同レベルですので。後、今回は相談料込みで殴ったことは許します。けど次はどっちもでもいい。あの人を殴ったら私は殴り返します」
「貴女に……その権利があるの?」
そんな視線に怯まず、すみれはアイリスを睨む。
「らしくなったじゃないですか。ええ、まぁ。ありますよ。だって、今、彼に一番好かれているのは私ですので」
「……すごい自信……」
「それだけのことはしてますし。男なんて殴るより胸でも押し付けた方が早いのに全くもう」
「そっ、……え」
「だから早い者勝ち。おかしいと思った。夜宵先輩の言う通りだ。モテない訳ないんだよなぁ。本人が気が付いていないだけで」
「そ、……そんなに鈍いの?」
「そうなんです。ね?」
アイリスはそのまま、くるりと回り、扉を開いた。科学室の、ただの扉。
しかし、そこからひょっこり峠 つばめが顔を出した。
「……つ、つばめ!?」
「あ、ははは、なんか、呼ばれて、その……」
「全部?」
「う、うん。その、私だけじゃないの……」
「え?!?」
「何、やってるんですか」
ひょっこり、教室の外で立っている響一の服をアイリスは引っ張った。
「君、君な、こんな所に普通呼ぶか!? こんな、ただの修羅場だろ、これ!?!?」
「だから、呼んだんですよ! 修羅場にならないように。ほら蓮華先輩、普通に、思ってるでしょうことを言って下さい!」
「ちょっと待ってくれ……」
「何。一応。先輩も部長としてやろうかな、と思ってたことぐらいあるでしょ。それとも何、本当に何もしない気でいた?」
「あるけど……」
『あるの!?!』
と、全員が言葉を同時に発した。
つまり全員がいかに響一が鈍いかを理解し共有した瞬間だ。
仕方なく響一は自ら教室に入り峠 つばめの前に入部届けを一枚差し出した。
「え……私……」
「入部したい。ああ、好きにしろ。何故、俺の同意が必要だ」
「あの……っ、私、あんな自分勝手に、自慢気に先輩に突っかかって……怪我して……それで、部活出来なくなって……っていうかもう部活も出来なくなって……それでも辞めなくて……」
つばめは顔を真っ赤にしながら言った。
心配するようにおどおどするすみれ。二人を同時に見て響一は溜め息を吐いた。
「すまん。それじゃ全く分からない」
『え!?』
「ともかく、えーと……一度部活と関係あるか、ないかだけでも決めておいてくれないか。判断に困る」
「それは……」
「俺はゴールポストだ。辞めるなら辞める。入部したいならそれ書け。他に出来ること? その紙をセレスタンに届けるぐらいだ」
二人は、ぽかーんと蓮華 響一を見上げた。
「決断するのは君たちだ。その基準ぐらいは自分で決めてくれ」
いつまでも呆然としている二人にイライラしてアイリスは言った。
「だ、そうですが。私は入部しちゃった方がいいと思いますけど。全くの他人から同じ吹奏楽部員にはなれますね」
「は、はい! 入部する!」
つばめは即効入部届けを書き出した。
「他は?」
「他? そうだな。俺、個人に何かあるなら直接言ってくれ。あの……色々、遠回しな言い方や行動をされても正直迷惑だ。出来れば個人感情は切り離して部活に参加して欲しい」
『は、はい!!』
二人は同時に返事をした。
「そういう蓮華先輩は個人感情はないんですよね?」
「当然だ」
「へー」
「何だ。不満そうだな」
「べつにー。ただ、こういう時に君の為だよ? なーんて言ってくれれば手っ取り早いのに、と思っただけです」
「な、……そ」
流石の響一も照れて明後日の方向を向いた。
そんな姿を二人はまた呆然と見つめる。
「ほら、盲目じゃ駄目ですって。この人、普段からこんな感じです。こんな顔してるの。本当にロボットか」
アイリスはペシペシと響一の頭を叩いた。
「いや、参加は、な、ほら……」
「男は言い訳しない!」
「はい、君の為です」
「ん。よろしい」
二人はその姿を見て同時に顔を合わせた。
「ぷ、あはははは、なんだろ夫婦漫才みたい。そっか駄目か。ぜーんぜん駄目っぽいよ。すみれ」
「う、うん。ぜーんぜん、駄目みたい。私、つばめならって思ってたのに」
「うっそお、私、すみれならって思ってたよ。やっぱり、中学校のって強い手なのに何で使わなかったの?」
「だって覚えてないんだもん、あの人」
「あーね。やっぱり。私も怪我した時、救急車呼んで運んでくれたんだよ」
「ねー。流石にそれぐらいは覚えているかなって……」
『ねー?』
二人の視線に響一はタジタジだ。
「いや、そ……っ、部活があるので、俺は失礼する!!」
峠 つばめの入部届けを持って、響一は颯爽、ではなく格好悪くその教室から去った。
またもや二人は同じ顔でぽかーんとしている。
アイリスは一人、大爆笑した。
「あはははは、何、あれ、格好悪い! 途中まで格好良かったのに。見ました、あれ」
「みた」
「うん」
アイリスは誇らし気にそんな二人に向かって言った。
「と、いう訳で、今現在の状況は私の一人勝ちです。ご理解、ご納得頂けました?」
それは否定しようがない事実で、二人は同時に頷くしかない。
「何故、こんなことをしたか? 一番手っ取り早いからですよ。一番、分かりやすく、誰も傷付かない方法を選んだだけです。そう望んでるから。あの人が。これぐらい、やらないと一番美味しい木の実は早い者勝ち、横取りされちゃいますよ」
「もー、参ったよ。何て言うか、君、格好良いねー」
つばめの言葉にすみれは頷く。
「はぁ? そうですか? とにかく入部した以上、仲良くはしといた方がいいと思いますよ。そういうの一番苦手だし。印象が悪い行動はそのまま受け止められますから」
「その辺はご心配なく。ね、すみれ」
「うん、つばめちゃん」
と、並んで二人は寄り添う。その先の手は握られていた。アイリスはやれやれ、と踵を返す。
「なら、結構。私は今回分を仕方ないので蓮華先輩にまとめて請求します。お二人は仲良くどうぞ」
「え、それは」
「悪いよ……」
「いいえ? しばらく私の鞄持ち、キスとセックス付きです。先輩たちなら、んー、そうですね、鞄持ちとお昼奢ってもらおうかな」
アイリスの言葉に当然二人はキョドる。しかし数分だがアイリス式恋愛講義を受けた後だ。二人は素早く同時に反応した。
「え、お昼、奢るよ!」
「鞄持ち、するよ!」
「結構です。では」
ひらひら手を振ってアイリスは颯爽とその教室を去った。
すみれとつばめはただ見とれる。
「すごい。格好いい子だね。日本って自分の国と全然違うだろうに」
「うん。すごい。何でもハッキリ言えて……私が、わざとらしく蓮華先輩を殴ったのもきっと分かってるよ」
「ううん、きっと、私がそれに便乗しただけってきっと分かってるよ」
二人は笑う。
「あんなの勝てないよ」
「本当に」
そして同時に言った。
『あんなのが相手じゃ仕方ないや』
「え?」
「あら?」
「うーむ。もしかして、これがあの子の策かも」
「うん、……私もそう思う」
アイリスはやれやれと教室を出ながら、そう言えば今は何限目だろうか、と足を止める。
一気に駆け抜けたせいでスマートフォンを持っておらず色々あったせいで時間など気にしている余裕はない。
今更、教室に戻る訳にも行かず。
アイリスがおろおろしていると後ろからの影に捕まる。
「うわっ……って、先輩か! びっくりした。もー、そうやって気配消して後ろから来るのはなんなの? 先輩は忍者ですか?」
「びっくりしたのは俺だ」
「そこは否定しませんけど。だって、面倒だったんでしょう?」
アイリスの言葉に響一は否定しない。
「旧校舎。あそこなら今、誰もいない。トランペット持って行くぞ」
「はーい」
アイリスは大人しく、響一に捕まえられた。と、言うかぴょん、と響一の背中の上に乗る。
「はー。俺の皆勤賞が……」
「だって部活サボるのとどっちが良いですか?」
「部活よりマシです」
「んで。先輩一人であの二人をまとめて解決出来ました?」
「無理です」
「面倒だなんて良く言ったものです。普通に、やろうと思えば美女三人のハーレムが作れるのに。夜宵先輩だってアプローチすれば靡くだろうに」
そう。確かに響一は鈍い。鈍いが頭が悪い訳でも空気が読めない訳でもない。
実際あの二人から好意を寄せられているんだろうなぁ、とは思っていた。
ただ、ここまで部活と絡められると、それはもう面倒で困っていたのだ。
「仕方ないだろう。君にしか興味がないんだ」
「ん。その答えは百点です」
とん、とアイリスは旧校舎前に着地する。何故か響一は旧校舎の鍵を持っていた。
「あ、ずっるーい!」
「部長特権。音は出せないからメンテの指導になるが」
「良いですよって、うわっ!!」
旧校舎の中にアイリスは押し込められた。正確には扉が開いた途端アイリスは抱き締められた。
「すまん。俺は何か間違えただろうか?」
「いいえ? 部長として立派に片したじゃないですか。先輩が言っていることは何も間違っていませんよ。そこは信頼しています。全く完璧。誰に仕込まれたのか」
アイリスは優しく肩に置かれた響一の頭を撫でた。
今回ばかりは少し気の毒でもあった。あの二人は部活と恋愛がごっちゃごちゃになっていて下手な扱いをすれば二人共に辞めていただろう。大会前にそんなことは出来ない。それが響一の本心だ。
「完璧……? 何が?」
「女性の扱いだけは完璧ですよ」
「なら、お袋と姉貴だ」
「へぇー」
「変な意味に捉えるな。全くアイツらは教育だ、何だと俺に対して女性の扱いについてはグチグチと五月蝿くて」
「それは正解だけど。全く。全員平等じゃ駄目ですって」
「それも分かっている。しかし俺だって所詮高校生で君に必死で他、なんて考える余裕はないんだ」
響一はぎゅっとアイリスを抱く腕に力を入れた。何故、女子の夏服の中間着はこうもひらひらしているのか。
「こら、力入れないで。都大会前ですよ。一応。だから……その、もう少し、待てません?」
「無理だ」
「あれ。反抗して来るとは珍しい」
「珍しいだろう。正樹を思い出してな。流暢にしている余裕もないな」
「柚の兄貴……やっぱり知ってるの?」
「そうだ。アイツは普通に変なヤツで、おちゃらけてふざけた奴に見えるが本当は逆だ」
「そうなの? でも不倫……したんだっけ?」
「ああ。それはウソっぱちさ。実際、顧問は不倫はしていただろうけど。正樹はもう、それはもう一人の後輩を可愛がっていた」
「そうなの!?」
「ああ。実際、彼が一番大切なのは逆月 稔だ」
「え、……っ! どういうこと!?!」
「そこは俺も推察でしかないが彼は稔君を守る為に自ら悪役を選んだのではないかと思って、とりあえず自分を納得させている」
「え?」
「その……不倫した教師は正樹と稔君の所属していた美化委員会の顧問をしていて吹奏楽部の顧問もしていた。巻町という先生だ。この程度なら調べれば分かる。しかし、その巻町という先生がまた問題で」
「と、いうと?」
「うん。うーむ、何と言えばいいか。悪い先生ではないよ。ただ快活な美人で、それは男子にモテた。しかし彼女は何と言うかあからさまで。ああ。美形が好きなんだと一発で分かった。誰にも思わせ振りな態度で本命は逆月 稔だったのさ」
咳き込むアイリスを見て響一は旧校舎の教室の机の埃を払い換気のため窓を開けた。古いカーテンが風に揺れる。
「あー。まあ、言いたいことは分かります。いますよ。誰にでもちやほやされるのが当然、みたいな人。また、そう振る舞うのが上手いんですよね」
「そう。しかも困ったことに巻町先生は本当に美人で。男ならコロッと微笑んで一発さ。しかし、稔君も聡明だ。簡単な罠には引っ掛からない」
「おー!」
「そんな感じだった。俺が知る限りは。彼は非常に賢くてな。防衛に正樹を選んだ、か偶然転がっていたかはともかく。彼の動機はそんなものだろう。所がどっこい冗談だと思っていたら。本当に正樹に惚れられてしまったんだな」
「あの……詳しいですね?」
「ま。俺も正樹とは付き合いが長い方だし。朝倉もいたし。基本的に正樹は俺達には隠していなかった。いや、むしろ相談というか自慢気に話すぐらいだ」
「へぇー」
「稔君がどこまで正樹を好いていたかは分からない。少なくとも普通の後輩、先輩の範疇は越えていただろう」
「あれ、そういうの……あれ、それ!!」
「ああ。何と言うんだ。女性同士なら百合、男性は……薔薇か。とにかく、そんな感じ」
「あ、あっれー、でもですね。柚と聞いた話と違います。聡明な方なんですよね?」
「ああ」
「けど今回の推理は間違ってました。最初、柚はすみれ先輩はつばめ先輩が好きなんじゃないか、って」
「ああ驚いた。稔君に言われれば誰だって信じる。と、言うか君が良く分かったな」
「へへ。フランス人の女の勘を侮ってはいけませんよ」
そんなアイリスの頭を響一は優しく撫でた。
「まあ、分かってはいたんだ。俺は基本的に他人に嫌われる、ことは少ない。むしろ直接文句を言ってくる奴は結構好きだし。変なことはされないだろうと。最終的に何かあれば朝倉がいるし」
そう。彼の最終防衛ラインに朝倉 宗滴が存在するのだ。何故なら彼は頭脳、という以前に真実しか言わない。
そして何故かは分からないがその真実を知る目がずば抜けている。
特に親しい響一には尚更だ。
「そーですねぇ。蓮華先輩を騙せるほどの愚か者がいるとは思えません。朝倉先輩という必殺カードもある。でも今回はその最強カードを使わず、私を頼ってくれたんですね」
「うん。使えない手ではない、けれど。流石に真相は『まさかお前、ハーレムかよ! しかも、どっちも蹴るけど部活は辞めさせない、とはふざけた注文だな!』ってボコられる運命からたまには逃れてみたくて」
「何、ソレ。超言いそう」
アイリスの嫌そうな顔に響一は苦笑する。
「最近は貞を捨ててからちょっとウザかったしな」
「うわぁ、ウザそう。でも、どうして逆月先輩は間違えたのかな?」
「多分わざとだろう」
「わざと?」
「そう。俺が思うに。これから篠宮 柚姫に自分と兄貴の関係を迫られることは明白だ。素直に全てを言うことは危険だ。まず、篠宮 柚姫という人間性をある程度知らなければならない。そのための防衛措置かな」
「ほう。柚の彼氏は?」
「残念ながら九条寺は賢くはないんだ。良いヤツではあるが手間ではある」
「ふーん。本当にどんな関係だったんだろう。ちょっと興味あるなぁ。男同士かぁ」
「それは妹が直接聞くべきだ。性格を考えても、稔君と相性は良いだろうし関係を否定しないのであれば酷いことはされないよ」
「そーなの? 寝取ったりは?」
「無いと思うが。あれだけ草花を一途に紳士に育てるんだ。恋愛もそうだろう」
「へぇ。蓮華先輩って逆月先輩が結構好きなんですね」
「まあな。正樹が色々と褒めるものだから。それに彼が面倒を見ている藤棚は素晴らしい」
「あれ、逆月先輩がお世話しているの!?」
「そうだ。どんな枯れた花も彼に預けると一週間で復活するとか」
「花咲か爺さん……」
「言うと思った」
久しぶりにアイリスは響一の無邪気な笑顔を見た。
「先輩が吹奏楽部に拘る理由、少し分かったかも」
「拘って……いたのか」
「いたでしょう。部員はたくさん辞めるけれど先輩は本当の本当は辞めて欲しくないんですね。自分の好きな音楽を」
アイリスは響一の胸元に寄りかかる。
「ああ」
これが響一の本心だ。
自分の感情を殺してゴールポスト等と言っているが本当は彼は音楽が好きなのだ。
「全国にでも行けば正樹に俺の音が届くかな。チラリとでいい。名前がきっかけでいい。俺は正樹に聞きたいことがあるんだ」
「それは柚姫に関係なく?」
響一は頷いた。
静香な時が過ぎる。
真夏の夕暮れ時。
蝉の鳴き声。
運動部の掛け声。
夏服で抱き締めるとより一層、お互いの鼓動が聴こえる。
今はこれで充分だ。
「先輩は優しいですね」
「……そうか?」
「何もしないんじゃない。何もしなかった。勝手に同好会を作った夜宵先輩や吹奏楽部に残る部員の為に文句を一手に引き受けて」
「結果的にそうなっただけさ。俺は何もしないからな」
「ぶっ、先輩らしい言葉」
彼はとにかく人気のない場所を探すのが得意なのだ。
授業開始まで時間がない。
この時間なら多分屋上の渡り廊下だ。
ドアを開くと、やはり響一はいた。空を見上げて、ぽつり。
「今日は暑くなる」
「先輩!!」
アイリスは叫んだ。
「どうした?」
それは恐ろしいほど普段と同じく優しく微笑む響一だった。
『どうした』
その問いにアイリスは言葉を止める。
ちょっと待て。
本当に何故、響一が何かをしなければならない。
彼は梓の言う通り部長だ。
けれど彼自身に部員の部活を続ける辞める、そんな意思を判断する訳はない。
「君も俺は可笑しいと思うか?」
「え……」
「いるんだ。時々。俺に吹奏楽部入ろうか迷ってて……と話す奴。そんなこと知るか。それぐらい自分で決めてくれ」
冷たい言葉かもしれない。しかし良く考えればそうだ。
「最終的に俺が間違っていると言われる。間違っていると言ってくるくせに。解決策も希望も言うだけ言って俺が何故そこまでするんだ。俺にはもう、分からないんだ」
彼は苦悩した表情で言った。
「……先輩」
「俺には分からない。何故、正樹が辞めたのか。何故、峠 つばめは入部に俺の許可が必要なんだ」
その時アイリスは思った。何かが違う。確かに。響一は何も間違えてない。
峠つばめにしたって。
勝手に辞めたのは彼女で。
勝手に戻りたいと思っているのも彼女なのだ。
「いいえ。先輩は間違ってない。……それを……」
あの二人は理解していないのだ。これは確かに少し難しい問題だ。恋愛の縺れであることは確かだが。
「先輩。先輩は確かに分からない。最低限しか動けない。でも使えないカードが無い訳じゃない」
アイリスの言葉を響一は否定しない。
「まあ、そうだな」
「選択肢の一つとして自分で動くか。もう一つ、夜宵先輩に頼むか。朝倉先輩に頼むか。逆月先輩に頼むか。真実を知る方法はいくらでもある。先輩って本当に人望に恵まれてますね」
「それはそうだな。否定しないよ。実際、そういう手もある。しかし俺は基本的には他人の決断を受け入れる。最悪であっても最善であっても。それが部長だと俺は思っている」
「でも先輩にだって蓮華先輩にだって本心はあるでしょう?」
アイリスは必死に響一の胸にすがった。この人から話を聞きたいなら。直接聞くしかない。当たって、ぶつかるしかないのだ。
「ああ。出来れば、あの二人が部活を辞めず丸く収まってくれればそれでいい」
「その役目。私に任せてくれませんか?」
「……アイリス?」
「失敗はしません。先輩にはちょっと動いてもらうけど」
「どうした珍しい」
「……その、先輩。本当はもっと、柚の兄貴と親しいですよね?」
「……そうだな」
「知ってること教えて欲しいんです。この件。どうにかして見せます」
アイリスはそのまま踵を返した。
「アイリス!?」
部長だ、部長だから。
部長だから当然。
部長なのに何もしていない。
違う。
何故、分からないのか。
響一は同じだ。合奏と同じで、限り無く必要なことをしているだけなのだ。
言いたいことがあるなら、本人に言わなければ伝わらない。
何故、上川 すみれは響一を殴ったのか。何が原因で。何が問題なのか。アイリスは必死に考えた。
愛?
本当に、峠 つばめを想って、上川 すみれは響一を殴ったのだろうか?
盲目。それは何に?
流石に暑くて途中で止まる。
汗が滴り落ちた。汗を拭う。
そんな時トランペットの音が聴こえてアイリスは顔を上げる。
自由曲のソロ部分だ。
「……巧い……けど蓮華先輩じゃない……」
確かに日が射すと今日は暑かった。
そのトランペットの音に導かれて辿り着いたのは中庭にある藤棚。
季節的に花は限界だが、それでもまだ咲いている。
そしてトランペットを奏でていたのは夜宵だった。
あの頃より数段良くなった音。
まだ音量は響一の足元に及ばないレベルだが、それでも細部が丁寧で綺麗な演奏だった。
そのまま儚い音を聴いていたら、また分からなくなる。ぐしゃぐしゃと絡まった糸は強引に引っ張っても解けない。
「何で、何で皆自分の事ばっかり! どうして、蓮華先輩が、響一が!? 意味わかんない!!」
最後はフランス語で叫んでいた。
「そら、分からんよ」
「え……」
「辞める方なんて自分の事しか考えとらんもん」
そこに立っていたのは予想外の人物、瀬戸内 夜宵だった。
どうやら見つかってしまったらしい。
しかし夜宵の反応を見るとそれはお互い様、と言った感じだ。
「お上手ですね」
「そんな気使わんで……」
「いえ。私も時々ソロパートは吹こっそりきます」
「なあ、アイリスちゃん、ここの息、どうしてるん?」
「あ、そこは……」
「ちょ待って」
彼女はアイリスを見つめるとペットボトルのミネラルウォーターを持ってぱぁ、とアイリスの顔を引っ張る。
「ひぇんぱい、顔、どうひて、ひっぱるのー」
「うっわ、なにこれ、もっちもちー、若さ吸収してええ?」
「ええ訳無いです! こんな所で何してるんですか?」
「今日は午前中授業ないんよ。個人戦」
ここで個人練習ではないのが夜宵らしい。
「へー」
「せやから相談乗ったるよ」
「え、私はこれから授業~!」
「ええやん。サボり付き合ってあげるよ?」
「頼んでなーい!!」
藤棚の藤は散る寸前でも美しい。
「凄い。まだ咲いている」
「それより、アイリスちゃん座りなさい。後、水」
「え……」
「今日も部長の朝練付き合って、朝練して、そんで走ったら熱中症になってまうよ。今日、暑いて」
「あ……」
必死だったせいで忘れていた。頬は赤くなり、汗が滴り落ちる。ポケットのハンカチタオルを探しだしアイリスは木陰になっている椅子に座った。
「ありがとうございます」
「何にでも夢中で必死で正直なんがアイリスちゃんのええとこやわ」
アイリスは照れながらも頷いて一気にペットボトルの蓋を空け一気に飲んだ。
「ぷはっ、ありがとうございます」
「ここ、校舎で全体的に日陰で一番涼しいんよ。少し涼んだらええ」
と夜宵はポケットからハンカチを取り出し、アイリスに向かって扇いだ。
温く優しい風が汗で少し湿った髪を揺らす。
「瀬戸内先輩は……平気ですか?」
「平気……? ああ、今回は平気やわ。ウチ関係ありそうでないやん?」
「そう……ですね」
そして、夜宵は足を組んで少し明後日の方向を向いて答える。
「それに、ウチ……結構部長の事は信頼も尊敬もしとるから正直ウチもアイリスちゃんの意見に賛成やわ」
「そ、そうなんですかー!?」
それは衝撃の真実だ。
最近の様子を見れば、ボケとツッコミの漫才感が凄いのだが。
「そら三年同じパートやったし。皆、部長に求め過ぎやわ。ただの中間管理職やで?」
「けど……同好会……」
「それも。当時偶然、同好会。皆、辞めたくないけど続ける意味も分からんくて。でも楽器は触っていたいっちゅうなウチのワガママやわ。部長には迷惑かけてしもうたな」
「そんなこと、ないと思います! ……その、蓮華先輩は間違っていないけど、ちょっと言葉足らずだし。それで同じ三年で、あれだけ巧くて。そりゃあ嫉妬もしますよね」
「ウチはそこまででも無くてな」
「そうなのー!?」
「てか前に言ったけど、ウチ琴やっとって。トランペットは高校からなんよ」
「それは知りませんでした」
「うちらの上級生はうちらよりやる気もない連中でな。コンクール銅常連高校とまで言われとったんや」
そして、その先輩が卒業した途端、部活動は一年間完全停止。
「……うわー……」
「よう持ち直したわ。流石、あの指揮者は違うと思うで」
「……あの」
「ん?」
「ずーっと気になっていたんですけれど。瀬戸内先輩は蓮華先輩のこと好きじゃないんですか?」
アイリスの問いに、夜宵の大きな瞳は点になる。
そして奇妙な時間が数分経過する。
その後、夜宵は大爆笑してアイリスの肩をバンバン叩いた。
「あははははは!!」
「ちょ、いたい!!」
「ああ、ごめん、ごめん。そらないわ。そもそも、ウチ自分と部長の実力の差に気が付かへんかったんやで。あらへん。そうやなぁ……今やったらトランペットが上手な無口で寡黙な、お兄ちゃん、かな」
「……お兄ちゃん」
「仕方あらへんよ。部長は元々大人っぽいし。人間出来てるから。同性はともかく女子だとな。モテない訳やないんや。けど……」
「けど?」
「ウチは中学生以下の少年がターゲット層なんや! 同学年の男子なんて……」
「え……それは……」
「そう。可愛いのは子猫、子犬。児童!! 見守るべきは部活に青春かけとる運動部中学生!!」
これは……まさか。
「先輩って……」
「ウチは自他共に認めるショタコンや」
なんて残念な性癖だ。アイリスはガックリと項垂れる。
お兄ちゃん。言っている事は分からなくもないが。
一応、夜宵と響一は同学年なのだが。
「それにアイリスちゃんが結構稀やねぇ。あんなにくるくる回る部長は始めて見たわ」
「くるくるですか……」
「そらもう、あっち、こっち、よう引っ張るわ。部長あんなに動いたんやな」
「そんな壊れかけのロボットみたいに……」
「そやったよ」
「……え?」
「部長も言わんけど当時、篠宮……(兄貴)が突然辞めた時は随分ショックやったんや」
「……どうして」
夜宵が分かるのだろう。緩やかな微風にアイリスの銀髪と藤の花が揺れる。
「あら。意外と束縛するんやな」
「ちっがーう!! そもそも蓮華先輩が壊れかけのラジオみたいで、でも実はそこからは正しい第九が流れているのにみんな分かっていない。そんな、なんていうかそんな感じ!!」
「そら中々面白い言い方やんな。うーん、元々部長は無口やったんや。けど篠宮の兄貴はめっちゃ明るいヤツでな。部長のトランペットが一番巧い! って言い切って。アイリスちゃん並みに部長動かすんは上手かったな」
「篠宮 正樹……」
「それで朝倉と三人。時々九条寺。そんな感じで男子はめっちゃ仲良くて楽器も上手い連中だったんやな。今でも名残はあるけど」
「……だった」
「そう。部長は元々、確かに自己評価が低いし暗い思考回路はしとったけど。本当は違う。アイリスちゃんなら知っとるやろうけど。本当はとびきり優しくて。良く笑う時々残念で無邪気で天然な人や。正直、柚姫ちゃんの兄貴が辞めたんは部員に対してあそこまで興味無くした原因やと思うで。最近は柚姫ちゃんがおるし九条寺もおるし自粛してるんやろな」
「……ありがとうございました夜宵先輩」
「お?」
すくり、とアイリスは立ち上がる。
「少し、ごちゃごちゃしてイライラしていましたがスッキリしました」
「その顔は腹、決めた顔やな」
アイリスは頷いた。
「すみれの花」
「それは科学室」
「つばめの巣」
「それは今日、放課後パート練習に顔出す、聞いたで」
そんな夜宵の様子にアイリスは呆れる。
「先輩はスパイですか?」
「似たようなもんやわ」
また、ころころと笑う。
「放課後には決着付けます」
「って、そない物騒な言い方」
「物騒? 当然。これは戦争ですよ。恋の」
夏風が藤の花とアイリスの銀髪を揺らす。それは美しい光景だった。
ぐちゃぐちゃした糸を紐解くように。
その紐に触れる瞬間の如くアイリスは走った。
まずは科学室。
時間は昼前。何故そんな時間にそんな場所にいるのか。この状況で夜宵が提示した居場所だ。おそらく一人だろう。
木造部分の多い藤堂高校だが科学室は違っていた。少し棟が離れ渡り廊下の先にある技術教室棟の端。
窓もちゃんとしており現代風の教室には黒い長机が並ぶ。
アイリスはその扉を開いた。
近付けば、あの旋律が響く。この曲は知っている。この曲はポロヴェッツ人の踊りのフルートだ。
日本語だと『ダッタン人の踊り』、『韃靼(だったん)人の踊り』。
有名なクラシックで主にオーボエとフルートで構成される。
また一人では吹けない曲だ。少し控え目に。だらだらと曲は続く。アイリスは無性に腹が立った。
響いていたフルートの音が止まる。
科学室の水道連の手前。儚く、その銀色のフルートに見合った美女が顔を上げた。
「一年生、上手い子、トランペット」
単語を並べるな、とアイリスはまた怒りが湧いた。
「ど、どうして……怒ってる……の?」
「被害者のフリをするな」
思った以上にアイリスの声は大きく、そして冷たく響いた。
すみれは怯えるように下がる。
「そうやって。びくびくして。怯えて。私、可哀相です、って表情で。そうしていれば、いつでも誰かが助けてくれた? そうやって。いつか、いつかって」
「何」
「……逃げんなこら」
怯えるすみれの手をアイリスは掴む。
「こ、怖い……ご、ごめ」
「自分の何が悪いか分かってないくせに謝んな!!」
アイリスは叫んだ。
「ムカつくんですよ! そうやって本音隠してるくせに! 本当は、こうなれば良いな、って表情で一番欲深いくせに、それを包み隠して!!」
「……ど、どうして」
「ふん。フランス人を舐めないで欲しいです。先輩、好きですよね?」
アイリスは数分、間を置いた。
その間ずっと腕の震えは止まらず目は伏せられ。
「自分で言えもしないの?」
「……私は、」
「上川 すみれ先輩。好きですよね、蓮華先輩が。ずっと好きだったんですよね」
コチコチ時計の針が動く音がやけに大げさに聞こえる。
「……ど、どうして」
その瞬間、手の震えが止まる。
「分かりますよ。だって私が好きな人です」
そして上川すみれは崩れる。
「どうして……ずっと誰にも分からなくて。言っては駄目で。私はつばめを応援する応援するから」
「そう決めたなら最初から貫き通して下さいよ」
「分かってるよ!」
その瞬間すみれから涙が弾けぽたぽたと彼女の制服の上に落ちて滲む。
「だから……話して下さい」
「え」
アイリスは同じ位置まで屈んで、すみれと視線を合わせる。
「怒って……ない」
「そう。怒ってない。言いたいことを言っただけ。私の好きな人を殴らないで。貴女も好きなのに、どうしてあんなことをするの?」
そして優しく問う。童話を聞かせるように、ゆっくり。フランス語を日本語に翻訳するように。
「怒らない? 貴女と同じ人。好きなのに」
「……怒らないですよ。つまり私と同じ、ってことでしょう? その……男性の趣味が」
「貴女と同じ……好き?」
「そうです」
「私、私、ずっと一人だった。他人と話すの、苦手。とろくて遅くて。地味で。でも中学で、私……」
「……中学?」
すみれは泣きながら頷いた。
その涙は、怯えや、恐怖から来るものではない。
「私、吹奏楽部で、一人だった。けれど、蓮華先輩は違う。私に声をかけてくれて」
「……声?」
「おはよう」
「……それだけ?」
「そう、そうなの。でも貴女なら分かるでしょう? 優しいの、すごく。声、怖がらせないように、目線ちゃんと合わせてくれて。私、無視するかもしれないのに。『おはよう』って。私、その時涙が出そうで、返せなかった。そしたら、今度は」
『大丈夫か?』
アイリスとすみれの声が綺麗にハモる。
響一ならば様子のおかしいすみれを見てそうするだろう。
「それでね、この曲……一緒に吹いた」
「え、ダッタン人の曲を?」
すみれは頷く。
「中学の最後のコンクール。オーボエの子が難しくて出来なくて。私に合わせるのが無理で。だからこうやって吹いた」
先程の囁くような感じ。あんな風に吹いていた、ということだ。
「その、ずっと私に大きな音出すな皆が迷惑だって」
すみれの言葉にアイリスは顔をしかめる。
「でも、その子……当日、風邪で……」
「……嘘」
「かもしれない」
「……先輩は分かっていたんですね」
すみれは頷いた。
「でも私……一人だから。どうしようも無くて」
すみれは、その当時をそのまま語った。
とにかく何故かすみれはいつも一人だった。
吹奏楽部でも誰も彼女に声をかけなかった。
それは実はそのオーボエが彼女に嫉妬し、行われていたいじめだったのだ。
すみれは薄々その事実に気が付いていたそうだ。
アイリスの憶測だが、すみれは美人だ。好きな男が見とれでもしたか更にフルートのソロパートの担当で人気者になるのが気に食わなかったのか。
そんな状況のコンクール。
「……最低」
「とにかく、その人しかオーボエがいなかった。皆が誰も、私と吹けなかった。けど……」
その時スッと何でもないように蓮華 響一は立ち上がった。誰もが無言の状態で。
「言ったの。『俺で良ければ代わりに吹きます。正式な構成ではありませんけど』って」
また響一なら言いそうだし吹けるだろう。
「あー、うん、何となく分かった」
「本当? でも、みんな驚いて、うわぁ、って感じで。でもコンクールは金だったの。ダメ金だけど」
「見事、やってくれた訳ですね」
アイリスの言葉にすみれは必死に頷いた。
「そう。そうなの。私に、変に気を使わず好きに吹いてくれって……それで、あんな、……貴女、違う。アイリス、アイリスちゃんなら分かるでしょう?」
すみれは必死にアイリスの腕を掴む。その顔は涙でぐしゃぐしゃで、でもその表情は恋する乙女だ。
「うん」
アイリスは素直に頷いた。
「最後、『お疲れさん。合わせてくれてありがとな』って、頭に手、ぽんぽんされて、惚れるよね? 惚れない方がおかしいよ!!」
「先輩、そんな大きな声、出せたんですね」
「アイリスちゃん、可愛いのに。ちょっといじわる」
「気持ちは分かりますけど一応は恋敵だし」
アイリスはよっくらせ、と水道連に腰掛けた。
すみれはもう涙は止まり日射しに隠れるように同じ向きで腰掛けた。
チャイムの音が聴こえるが、これは予鈴かどうかも分からない。
「高校では、つばめが一番に話しかけてくれた。蓮華先輩のトランペット聴いて、『あの人が一番上手だよね!』って。私、それだけで嬉しかった……最初は」
「……最初は」
そう。最初は。最初は、つばめは気さくにすみれに話しかけ二人はすぐに友人になったそうだ。
すみれは中学の頃のいじめが原因でやはり人との関わりは苦手だったが、つばめはそれにもめげず、すみれに話しかけてくれた。
けれど、それは。
「ねぇ……どうなったら友達だと思う? 友達って、どこからが友達だと思う?」
「それはまた難しい質問です」
「同じよ。友情と恋。どちらが大切だと思う?」
「先輩は……友情を選んだ」
すみれは頷く。
「怖かった……また一人は嫌、嫌。嫌なの。でも、私が蓮華先輩に告白したって、多分覚えてない。つばめが私に優しいのは蓮華先輩が好きだから。私と蓮華先輩が同じ中学で、それで、たくさん、私に聞けた……から」
「でも、駄目」
「……え?」
「つまり。先輩はずーっと蓮華先輩にSOSを送っていたんです。無意識に。あの時と同じように、本当は違うのに。弱々しくいればまた声、かけてくれるかもって」
「……うん、そうだ。そうだね、私……ずるい」
すみれは体育座りで更に顔を腕の中に伏せた。
「いいえ! 男を落としたいなら、それでは駄目です! 蓮華先輩なら尚更」
予想に反してアイリスは立ち上がりビシリと人差し指をすみれに向ける。
「え……」
「あの人、そんな回りくどいの分かりませんって。まず先輩と同じですけれど蓮華先輩は自分は好かれてないだろうと思っている状態でからのスタートですよ! 絶好のチャンスだったのに」
「え、……あの……」
「だから、ダッタンやった時。そのまま、弱々しく迫れば大正解! 先輩の大勝利。苛められてます、って言っちゃえば良かったのに」
「……さ、流石、フランス人……」
「良いですか。恋は早い者勝ちです。そのまま、相談する日々を送れば良かったのに。変に見栄を張るから」
「うっ……だって……苛められてるなんて……言えなくて」
「それに。峠先輩だってそうだぜ。先に言っちゃえば良かったのに。中学の時から初恋の人で、ってさ。そしたら立場逆転ですよ」
「うっ……ううぅ……」
「さて、続き。聞きたい?」
「え……教えてくれるの?」
「そうですね。今回は特別。先輩もいじめられてた訳だし。同じ物が好き同士」
アイリスはすみれの手を握り立ち上がらせる。
「……え、それって嫌じゃないの?」
「ま、私は。例えば同じ食べ物が好き。同じ本が好き。同じ曲が好き。男の趣味が近い。別に。全く。むしろ楽しいじゃないですか」
「そう……なの……」
「嫉妬はしますけど。負けない自信もあるしね」
と、アイリスはウィンクする。
「はい。これで先輩は人じゃない。今はもう。一人じゃない」
「え……う、うん」
「だから、決断しなきゃいけない。先輩はこのまま、峠 つばめ先輩の付属品でいるのか」
「ふ、付属品……」
「そうでしょ? それか戦うか。良いですか? 恋は早い者勝ち、恋は戦争です。いつまでもウジウジしていたら始まりもしない。しかも相手は蓮華先輩だ。余計駄目ですって」
「……どうして?」
「もー! それじゃあ、何の気もない夜宵先輩以下ですよ!」
「ふぇええ……」
「蓮華先輩は遠回しな言い方だと全く伝わらないの。私は元々、ハッキリ言うから理解してくれただけ。あの人、つばめ先輩の気持ちにすら気が付いてないですよ」
「え……うそ……」
「本当です。そういう意味じゃ、ぶん殴ったのは正解ですよ。直接的だし」
「あ、あの……それは……」
「つまり先輩は怒ってたんですよね。本当は直接ぶん殴った蓮華先輩に直接怒っていたんですよ。ずーっと信号送っているのに、気が付け鈍感!! もう、これ以上は無理! って」
「う、……そうです」
「でも暴力は駄目ですって」
「うん、そうだよね……乱暴は……」
「印象が悪い。更に大勢の前ってのも。使えない手ではないですけれど。印象が悪くなるデメリットの方が多い」
「ふぇええ……」
「あのね。私のこと計算高い、とか恋愛上手~って思ってるでしょう?」
「え、違うの?」
「違います。ノンノンです。私は直接聞くし、言うだけ。それに素直に返してくれる人が好きだから、そういう人としか交流しないだけ。一応、日本に来てからは空気は読んでるんですよ。これでもすごく」
「え、えっと……お疲れ様です?」
アイリスは自分の胸に手を当てて高らかに言った。
「当然です。労って下さい。後でつばめ先輩にも蓮華先輩にも請求しなきゃ。柚は友達割引」
「請求って……面白い。可愛いのにズバズバ言っちゃうし、格好良くて、かわいい……」
「え、あ、ありがとうございます? でも、つばめ先輩もそうかもしれないでしょう?」
「……え?」
「やっぱり。先輩って蓮華先輩に盲目で他が見えてませんね」
「う……ごめんなさい」
「つまり私と同じタイプかも、ってこと」
「同じ……」
「まぁ、このままを貫くか言うかは決めないと更に印象が悪いですね。一応、最後にアドバイスするなら言っちゃえば良いんです。先輩は」
彼女は立ち上がり、くるり、とすみれの方を向いた。そして気だるそうな表情で肩に掛かった髪を退ける。
その姿は正に女王のように毅然としているのだ。銀髪が日射しに反射し輝く。
「え……」
次の瞬間アイリスはすみれの胸ぐらを掴んだ。
「とにかく、つばめ先輩も蓮華先輩の印象は同レベルですので。後、今回は相談料込みで殴ったことは許します。けど次はどっちもでもいい。あの人を殴ったら私は殴り返します」
「貴女に……その権利があるの?」
そんな視線に怯まず、すみれはアイリスを睨む。
「らしくなったじゃないですか。ええ、まぁ。ありますよ。だって、今、彼に一番好かれているのは私ですので」
「……すごい自信……」
「それだけのことはしてますし。男なんて殴るより胸でも押し付けた方が早いのに全くもう」
「そっ、……え」
「だから早い者勝ち。おかしいと思った。夜宵先輩の言う通りだ。モテない訳ないんだよなぁ。本人が気が付いていないだけで」
「そ、……そんなに鈍いの?」
「そうなんです。ね?」
アイリスはそのまま、くるりと回り、扉を開いた。科学室の、ただの扉。
しかし、そこからひょっこり峠 つばめが顔を出した。
「……つ、つばめ!?」
「あ、ははは、なんか、呼ばれて、その……」
「全部?」
「う、うん。その、私だけじゃないの……」
「え?!?」
「何、やってるんですか」
ひょっこり、教室の外で立っている響一の服をアイリスは引っ張った。
「君、君な、こんな所に普通呼ぶか!? こんな、ただの修羅場だろ、これ!?!?」
「だから、呼んだんですよ! 修羅場にならないように。ほら蓮華先輩、普通に、思ってるでしょうことを言って下さい!」
「ちょっと待ってくれ……」
「何。一応。先輩も部長としてやろうかな、と思ってたことぐらいあるでしょ。それとも何、本当に何もしない気でいた?」
「あるけど……」
『あるの!?!』
と、全員が言葉を同時に発した。
つまり全員がいかに響一が鈍いかを理解し共有した瞬間だ。
仕方なく響一は自ら教室に入り峠 つばめの前に入部届けを一枚差し出した。
「え……私……」
「入部したい。ああ、好きにしろ。何故、俺の同意が必要だ」
「あの……っ、私、あんな自分勝手に、自慢気に先輩に突っかかって……怪我して……それで、部活出来なくなって……っていうかもう部活も出来なくなって……それでも辞めなくて……」
つばめは顔を真っ赤にしながら言った。
心配するようにおどおどするすみれ。二人を同時に見て響一は溜め息を吐いた。
「すまん。それじゃ全く分からない」
『え!?』
「ともかく、えーと……一度部活と関係あるか、ないかだけでも決めておいてくれないか。判断に困る」
「それは……」
「俺はゴールポストだ。辞めるなら辞める。入部したいならそれ書け。他に出来ること? その紙をセレスタンに届けるぐらいだ」
二人は、ぽかーんと蓮華 響一を見上げた。
「決断するのは君たちだ。その基準ぐらいは自分で決めてくれ」
いつまでも呆然としている二人にイライラしてアイリスは言った。
「だ、そうですが。私は入部しちゃった方がいいと思いますけど。全くの他人から同じ吹奏楽部員にはなれますね」
「は、はい! 入部する!」
つばめは即効入部届けを書き出した。
「他は?」
「他? そうだな。俺、個人に何かあるなら直接言ってくれ。あの……色々、遠回しな言い方や行動をされても正直迷惑だ。出来れば個人感情は切り離して部活に参加して欲しい」
『は、はい!!』
二人は同時に返事をした。
「そういう蓮華先輩は個人感情はないんですよね?」
「当然だ」
「へー」
「何だ。不満そうだな」
「べつにー。ただ、こういう時に君の為だよ? なーんて言ってくれれば手っ取り早いのに、と思っただけです」
「な、……そ」
流石の響一も照れて明後日の方向を向いた。
そんな姿を二人はまた呆然と見つめる。
「ほら、盲目じゃ駄目ですって。この人、普段からこんな感じです。こんな顔してるの。本当にロボットか」
アイリスはペシペシと響一の頭を叩いた。
「いや、参加は、な、ほら……」
「男は言い訳しない!」
「はい、君の為です」
「ん。よろしい」
二人はその姿を見て同時に顔を合わせた。
「ぷ、あはははは、なんだろ夫婦漫才みたい。そっか駄目か。ぜーんぜん駄目っぽいよ。すみれ」
「う、うん。ぜーんぜん、駄目みたい。私、つばめならって思ってたのに」
「うっそお、私、すみれならって思ってたよ。やっぱり、中学校のって強い手なのに何で使わなかったの?」
「だって覚えてないんだもん、あの人」
「あーね。やっぱり。私も怪我した時、救急車呼んで運んでくれたんだよ」
「ねー。流石にそれぐらいは覚えているかなって……」
『ねー?』
二人の視線に響一はタジタジだ。
「いや、そ……っ、部活があるので、俺は失礼する!!」
峠 つばめの入部届けを持って、響一は颯爽、ではなく格好悪くその教室から去った。
またもや二人は同じ顔でぽかーんとしている。
アイリスは一人、大爆笑した。
「あはははは、何、あれ、格好悪い! 途中まで格好良かったのに。見ました、あれ」
「みた」
「うん」
アイリスは誇らし気にそんな二人に向かって言った。
「と、いう訳で、今現在の状況は私の一人勝ちです。ご理解、ご納得頂けました?」
それは否定しようがない事実で、二人は同時に頷くしかない。
「何故、こんなことをしたか? 一番手っ取り早いからですよ。一番、分かりやすく、誰も傷付かない方法を選んだだけです。そう望んでるから。あの人が。これぐらい、やらないと一番美味しい木の実は早い者勝ち、横取りされちゃいますよ」
「もー、参ったよ。何て言うか、君、格好良いねー」
つばめの言葉にすみれは頷く。
「はぁ? そうですか? とにかく入部した以上、仲良くはしといた方がいいと思いますよ。そういうの一番苦手だし。印象が悪い行動はそのまま受け止められますから」
「その辺はご心配なく。ね、すみれ」
「うん、つばめちゃん」
と、並んで二人は寄り添う。その先の手は握られていた。アイリスはやれやれ、と踵を返す。
「なら、結構。私は今回分を仕方ないので蓮華先輩にまとめて請求します。お二人は仲良くどうぞ」
「え、それは」
「悪いよ……」
「いいえ? しばらく私の鞄持ち、キスとセックス付きです。先輩たちなら、んー、そうですね、鞄持ちとお昼奢ってもらおうかな」
アイリスの言葉に当然二人はキョドる。しかし数分だがアイリス式恋愛講義を受けた後だ。二人は素早く同時に反応した。
「え、お昼、奢るよ!」
「鞄持ち、するよ!」
「結構です。では」
ひらひら手を振ってアイリスは颯爽とその教室を去った。
すみれとつばめはただ見とれる。
「すごい。格好いい子だね。日本って自分の国と全然違うだろうに」
「うん。すごい。何でもハッキリ言えて……私が、わざとらしく蓮華先輩を殴ったのもきっと分かってるよ」
「ううん、きっと、私がそれに便乗しただけってきっと分かってるよ」
二人は笑う。
「あんなの勝てないよ」
「本当に」
そして同時に言った。
『あんなのが相手じゃ仕方ないや』
「え?」
「あら?」
「うーむ。もしかして、これがあの子の策かも」
「うん、……私もそう思う」
アイリスはやれやれと教室を出ながら、そう言えば今は何限目だろうか、と足を止める。
一気に駆け抜けたせいでスマートフォンを持っておらず色々あったせいで時間など気にしている余裕はない。
今更、教室に戻る訳にも行かず。
アイリスがおろおろしていると後ろからの影に捕まる。
「うわっ……って、先輩か! びっくりした。もー、そうやって気配消して後ろから来るのはなんなの? 先輩は忍者ですか?」
「びっくりしたのは俺だ」
「そこは否定しませんけど。だって、面倒だったんでしょう?」
アイリスの言葉に響一は否定しない。
「旧校舎。あそこなら今、誰もいない。トランペット持って行くぞ」
「はーい」
アイリスは大人しく、響一に捕まえられた。と、言うかぴょん、と響一の背中の上に乗る。
「はー。俺の皆勤賞が……」
「だって部活サボるのとどっちが良いですか?」
「部活よりマシです」
「んで。先輩一人であの二人をまとめて解決出来ました?」
「無理です」
「面倒だなんて良く言ったものです。普通に、やろうと思えば美女三人のハーレムが作れるのに。夜宵先輩だってアプローチすれば靡くだろうに」
そう。確かに響一は鈍い。鈍いが頭が悪い訳でも空気が読めない訳でもない。
実際あの二人から好意を寄せられているんだろうなぁ、とは思っていた。
ただ、ここまで部活と絡められると、それはもう面倒で困っていたのだ。
「仕方ないだろう。君にしか興味がないんだ」
「ん。その答えは百点です」
とん、とアイリスは旧校舎前に着地する。何故か響一は旧校舎の鍵を持っていた。
「あ、ずっるーい!」
「部長特権。音は出せないからメンテの指導になるが」
「良いですよって、うわっ!!」
旧校舎の中にアイリスは押し込められた。正確には扉が開いた途端アイリスは抱き締められた。
「すまん。俺は何か間違えただろうか?」
「いいえ? 部長として立派に片したじゃないですか。先輩が言っていることは何も間違っていませんよ。そこは信頼しています。全く完璧。誰に仕込まれたのか」
アイリスは優しく肩に置かれた響一の頭を撫でた。
今回ばかりは少し気の毒でもあった。あの二人は部活と恋愛がごっちゃごちゃになっていて下手な扱いをすれば二人共に辞めていただろう。大会前にそんなことは出来ない。それが響一の本心だ。
「完璧……? 何が?」
「女性の扱いだけは完璧ですよ」
「なら、お袋と姉貴だ」
「へぇー」
「変な意味に捉えるな。全くアイツらは教育だ、何だと俺に対して女性の扱いについてはグチグチと五月蝿くて」
「それは正解だけど。全く。全員平等じゃ駄目ですって」
「それも分かっている。しかし俺だって所詮高校生で君に必死で他、なんて考える余裕はないんだ」
響一はぎゅっとアイリスを抱く腕に力を入れた。何故、女子の夏服の中間着はこうもひらひらしているのか。
「こら、力入れないで。都大会前ですよ。一応。だから……その、もう少し、待てません?」
「無理だ」
「あれ。反抗して来るとは珍しい」
「珍しいだろう。正樹を思い出してな。流暢にしている余裕もないな」
「柚の兄貴……やっぱり知ってるの?」
「そうだ。アイツは普通に変なヤツで、おちゃらけてふざけた奴に見えるが本当は逆だ」
「そうなの? でも不倫……したんだっけ?」
「ああ。それはウソっぱちさ。実際、顧問は不倫はしていただろうけど。正樹はもう、それはもう一人の後輩を可愛がっていた」
「そうなの!?」
「ああ。実際、彼が一番大切なのは逆月 稔だ」
「え、……っ! どういうこと!?!」
「そこは俺も推察でしかないが彼は稔君を守る為に自ら悪役を選んだのではないかと思って、とりあえず自分を納得させている」
「え?」
「その……不倫した教師は正樹と稔君の所属していた美化委員会の顧問をしていて吹奏楽部の顧問もしていた。巻町という先生だ。この程度なら調べれば分かる。しかし、その巻町という先生がまた問題で」
「と、いうと?」
「うん。うーむ、何と言えばいいか。悪い先生ではないよ。ただ快活な美人で、それは男子にモテた。しかし彼女は何と言うかあからさまで。ああ。美形が好きなんだと一発で分かった。誰にも思わせ振りな態度で本命は逆月 稔だったのさ」
咳き込むアイリスを見て響一は旧校舎の教室の机の埃を払い換気のため窓を開けた。古いカーテンが風に揺れる。
「あー。まあ、言いたいことは分かります。いますよ。誰にでもちやほやされるのが当然、みたいな人。また、そう振る舞うのが上手いんですよね」
「そう。しかも困ったことに巻町先生は本当に美人で。男ならコロッと微笑んで一発さ。しかし、稔君も聡明だ。簡単な罠には引っ掛からない」
「おー!」
「そんな感じだった。俺が知る限りは。彼は非常に賢くてな。防衛に正樹を選んだ、か偶然転がっていたかはともかく。彼の動機はそんなものだろう。所がどっこい冗談だと思っていたら。本当に正樹に惚れられてしまったんだな」
「あの……詳しいですね?」
「ま。俺も正樹とは付き合いが長い方だし。朝倉もいたし。基本的に正樹は俺達には隠していなかった。いや、むしろ相談というか自慢気に話すぐらいだ」
「へぇー」
「稔君がどこまで正樹を好いていたかは分からない。少なくとも普通の後輩、先輩の範疇は越えていただろう」
「あれ、そういうの……あれ、それ!!」
「ああ。何と言うんだ。女性同士なら百合、男性は……薔薇か。とにかく、そんな感じ」
「あ、あっれー、でもですね。柚と聞いた話と違います。聡明な方なんですよね?」
「ああ」
「けど今回の推理は間違ってました。最初、柚はすみれ先輩はつばめ先輩が好きなんじゃないか、って」
「ああ驚いた。稔君に言われれば誰だって信じる。と、言うか君が良く分かったな」
「へへ。フランス人の女の勘を侮ってはいけませんよ」
そんなアイリスの頭を響一は優しく撫でた。
「まあ、分かってはいたんだ。俺は基本的に他人に嫌われる、ことは少ない。むしろ直接文句を言ってくる奴は結構好きだし。変なことはされないだろうと。最終的に何かあれば朝倉がいるし」
そう。彼の最終防衛ラインに朝倉 宗滴が存在するのだ。何故なら彼は頭脳、という以前に真実しか言わない。
そして何故かは分からないがその真実を知る目がずば抜けている。
特に親しい響一には尚更だ。
「そーですねぇ。蓮華先輩を騙せるほどの愚か者がいるとは思えません。朝倉先輩という必殺カードもある。でも今回はその最強カードを使わず、私を頼ってくれたんですね」
「うん。使えない手ではない、けれど。流石に真相は『まさかお前、ハーレムかよ! しかも、どっちも蹴るけど部活は辞めさせない、とはふざけた注文だな!』ってボコられる運命からたまには逃れてみたくて」
「何、ソレ。超言いそう」
アイリスの嫌そうな顔に響一は苦笑する。
「最近は貞を捨ててからちょっとウザかったしな」
「うわぁ、ウザそう。でも、どうして逆月先輩は間違えたのかな?」
「多分わざとだろう」
「わざと?」
「そう。俺が思うに。これから篠宮 柚姫に自分と兄貴の関係を迫られることは明白だ。素直に全てを言うことは危険だ。まず、篠宮 柚姫という人間性をある程度知らなければならない。そのための防衛措置かな」
「ほう。柚の彼氏は?」
「残念ながら九条寺は賢くはないんだ。良いヤツではあるが手間ではある」
「ふーん。本当にどんな関係だったんだろう。ちょっと興味あるなぁ。男同士かぁ」
「それは妹が直接聞くべきだ。性格を考えても、稔君と相性は良いだろうし関係を否定しないのであれば酷いことはされないよ」
「そーなの? 寝取ったりは?」
「無いと思うが。あれだけ草花を一途に紳士に育てるんだ。恋愛もそうだろう」
「へぇ。蓮華先輩って逆月先輩が結構好きなんですね」
「まあな。正樹が色々と褒めるものだから。それに彼が面倒を見ている藤棚は素晴らしい」
「あれ、逆月先輩がお世話しているの!?」
「そうだ。どんな枯れた花も彼に預けると一週間で復活するとか」
「花咲か爺さん……」
「言うと思った」
久しぶりにアイリスは響一の無邪気な笑顔を見た。
「先輩が吹奏楽部に拘る理由、少し分かったかも」
「拘って……いたのか」
「いたでしょう。部員はたくさん辞めるけれど先輩は本当の本当は辞めて欲しくないんですね。自分の好きな音楽を」
アイリスは響一の胸元に寄りかかる。
「ああ」
これが響一の本心だ。
自分の感情を殺してゴールポスト等と言っているが本当は彼は音楽が好きなのだ。
「全国にでも行けば正樹に俺の音が届くかな。チラリとでいい。名前がきっかけでいい。俺は正樹に聞きたいことがあるんだ」
「それは柚姫に関係なく?」
響一は頷いた。
静香な時が過ぎる。
真夏の夕暮れ時。
蝉の鳴き声。
運動部の掛け声。
夏服で抱き締めるとより一層、お互いの鼓動が聴こえる。
今はこれで充分だ。
「先輩は優しいですね」
「……そうか?」
「何もしないんじゃない。何もしなかった。勝手に同好会を作った夜宵先輩や吹奏楽部に残る部員の為に文句を一手に引き受けて」
「結果的にそうなっただけさ。俺は何もしないからな」
「ぶっ、先輩らしい言葉」
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