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第一章 巨乳登壇

チラ見注意報の夜

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 研究会、飲み会に続けてのファミレスでの一夜だった。席に案内されてもノートPCを開く気になれない。
 オーダーが先にきた。
 グレーのメイド服風上半身に、下半身はスラックスか? 左ヒップのうえに吊ったタブレット端末は、やはり紙のメモ帳に比べ風情がないな、などと思いながら、真人は、相手の顔を見あげた。
 すっきりした細面を、未だ無粋なマスクが隠しているが……。
 仁美だった。
 瑞々しく白い額が深夜のファミレスでは蝋のようになってしまっている。アルバイトのフロア係としてはマニュアル違反だろうが、他の客は奥の席の学生風の男だけ──。声を落としながらも、意外と不遠慮に話しかけてくる。
「先生、お疲れ? 急ぎの仕事?」
 微かにノートPCを顎で指す素振りを見せる。
「いや、今日もリポーターの一人だったんだが、そりゃ終わったよ。部屋に若いコ、泊まってるんだ。終電なくなっちゃったとかでね。それでベッドを明け渡してきたってわけだが、こんなオッサンのベッドじゃ眠らないだろう。朝までスマホでも観てんじゃないかな? 押入れにゃタオルケットも入ってるって教えてきたんだけどね……」
「今日初めて会ったコ? 部屋開けてきちゃって大丈夫なの?」
「ここ半年間皆勤賞ってコだよ。研究熱心なコだよ。ま、れいの場所は、あまり見ないようにっていってきたんだけどね。君のときだって──」
「私は勝手に観たりなんかしなかったよ。ちゃんと観せてっていって、そのあとだって、ちゃんと奴隷契約書、交わしたでしょ?」
「ああ……」
 れいの場所というのは、本棚のSM雑誌の棚なのだった。スチール製本棚のした二段──。そこだけカーテンをかけてある。結果的に仁美のようなM女性には、ある種の誘いになってしまっているようなところがあるのだが……。
 彼らが、そしていま部屋に残してきた彼女が関わっているのは、至極真っ当な英米文学の研究会だった。初めはイーグルトンの『文学とは何か?』の読み合わせ会だったのだが、そこからデリダ、ド・マン、スピヴァクなどへ……。そんな時代だった。
 真人はすでに、初期メンバーが学部生だった頃から落ちこぼれだった。英米文学研究などと称しながらフランス現代思想中心の当時の文芸批評界の雰囲気に、どうしても馴染めなかったのだ。従がって学部も中退である。
 だがメンバーの一人の岡崎という男が、彼を強く引っ張ってくれた。
 その男が手がけていたストーカー、ウェルズ、そして映画製作会社のハマー・プロについてのHPの立ちあげなどにも誘ってくれ、いま彼は、一応ウェブデザイナーという肩書きになっている。
 さらに問題の研究会で同会のHPの運営状況などを報告するので、仁美など若い世代のメンバーたちにとっては、やはり先生方サイドのひとといった位置づけになっているのだった。
 とはいえあのオッサン、実際のところ何やってるひとなの? といったヒソヒソ話は絶えない。紙の本になるものではないが、軽目の翻訳なども手がけているのだが……。
 そんな彼のセカンドワークが、海外有料アダルトサイトへの誘導のブログだった。いわゆるエログである。そこには下手な自作小説なども載せてしまっているので、とても知り合いに見せられるものではないのだが、仁美はそこから跳べるチャットのサクラなどもやってもらっている女性なので、この店でも深夜、そのブログの作業をすることがあった。
 本当に店員としてはレッドカードだと思うのだが、真人が当該ブログで紹介する動画を観ていたりすると、コーヒーを換えにきた彼女がフンッと鼻を鳴らしたりする。堂々と身を屈め、……というのは少々矛盾した表現だが、なんら悪びれることなく取りあえず客である彼のPC画面を覗き込んでいるのである。
『先生ってホント、こういうひと好きね。完全オバサンじゃない。私だってもう三十四だけどさ』
『完熟オバサン……。公称五十一ってんだから、ひょっとして六十、いってんじゃないかな。左の乳首が真っ直ぐ勃たず、四時のほう向の乳輪のボツボツの大きいのに引っ張られちゃってる感じが、味があるだろ?』
『いやらしい──』
『確かに──。でも悪趣味じゃないよね? いい趣味だ』
『悪趣味だよ。当然──』
 仁美も先述の研究会のメンバーだったわけだが、真人とそうした関係になってからは、あまりそこでは見かけなくなってしまった。
 そしてある日、ここの近所のスーパーでバッタリ──。近くに越してきたのだという。真人にとって実は怖い状況なのかもしれなかったが、そんな風に考えるのもなんだか〝しょってる〟な、などと反省し、こうして会えば、他愛ない会話を交わしたりしているのだった。
 さらに、プレイへの誘いはメールでくる。
 ──今夜、空いてる?
 もともと岡崎の院生の一人だった。
 結構優秀だったのに文学研究もやめてしまって……。岡崎には知られたくないストーリーだった。
 この席での滞留がやはり長くなり過ぎていたのだろう。彼女はコホッと咳払いすると、
「ホットコーヒーでいい?」
 と、もう端末を操作している。
「こんな時間に悪いんだけど、なんでもいいから、食べられないかな? ビールのエグ味が、妙に残っちゃってて……」
「了解……。適当でいい?」
「ウン。とにかく面倒くさくないヤツでいいから……」
 彼女はすでに踵を返し、手を振りながら去っていくところだった。大した接客態度だな、と思いながらも、真人は妙にホッとしてしまうのだった。
 ?
 十数分後、運ばれてきた料理はオムライスだった。
 ところで、いま部屋にいる彼女のほうなのだが、彼女もまた文学部関係の院生のようだ。英文だったか仏文だったか? もう単位取得済みだといっていたから、社会的身分はかえって不安定なのかもしれない。
 仁美の顎のラインはややシャープ過ぎるのだが、問題の彼女のほうは本当に整った美人だった。さらに幼気な一面もあって、研究会後の飲み会がダラダラし始めた頃、隣りで腕時計を見つつ、
『あっ、終電……。帰れなくなっちゃった……』
 と呟いた姿は、保護欲唆り捲くりの子猫のようだった。
 だが真人はあえて無視した。
 俯いて左腕の静脈辺りを見るそんなポーズでさえ、彼女がジャケットを脱ぐ際などの白いブラウスのロケット巨乳を想起させるものなのだった。そのように、自分の魅せ方を本能的に知っている女性は、概してファム・ファタールだ。
 くわばらくわばら、と思っていると、彼女のさらに隣りの岡崎が、すでに大学教員になっている者としてはなんとも不用心な台詞を吐く。
『ならウチ、泊ってく?』
『エッ? だって先生、パートナーの方、いらっしゃるんでしょう?』
『ウッ……。いきなり核心、突いてきたね。でもそれじゃ逆に、こりゃいけそうだなって誤解与えちゃうよ?』
『ええ、確かに私、こういった会合のあと一人になるの、とっても寂しいんです』
『ウヒョヒョッ』
 真人は、何がウヒョヒョだ、と心のなかで舌打ちしながら、もう泡がなくなってしまったビールをチビチビやっていた。
 岡崎はその女性の指導教官というわけではないのだが、一応立場が立場であり、他ほう彼女はおそらく就職難に喘いでいるだろう博士後期課程の院生なのだから、あとになってセクハラだなんだという話になれば、結果は一目瞭然である。
 馬鹿だなあ……。岡崎……。
 としみじみ思っていると、耳に入ってくる彼女たちの会話が、妙なほう向に流れていく。
『残念です、岡崎先生……。私、中央線じゃないんですよ……』
『いやだから、ゆっくりしてってくれていいんだって……。連れ合いも城南大の助教授なんだけどね、いま学会で遠征中だし、僕だって彼女だってなんたって『なんクリ』世代だからね……。ちょっと古いテクストだけど、『なんクリ』、分かるよね?』
『それについては当然の助動詞〝べし〟なんですけどね』
『でしょ? だからさあ……』
『でも翌朝また新宿にでてっていうの、やっぱちょっと、辛いんですよ……』
『そう? 彼女帰ってくんの来週なんだけど……。そうすっと二晩あるわけだよ、僕たち……。去年フランクフルトで撮ってきたベンヤミンの書き込み入りの蔵書のコピーだって、見せたいしさあ……。ピレネーの黒い鞄以外にあんな資料、でてくるなんてねえっ……。ソレルの『暴力論』なんかもあってさ、ベンヤミンの『暴力批判論』の成立過程、丸解りだよっ』
『でも……』
『それじゃ君、そもそもどこへ帰るんだっけ? また新宿にでてってことは……。そっちの彼……。葛城君……。そっちの彼は京王線だよっ』
 真人がついついそちらを見てしまうと、彼女とばっちり眼が合ってしまった。
 その向こうの岡崎は、グラスを掲げ、ニカッと笑っている。彼の脳内では己れの欲望を抑え、旧友のためナイスアシストを決めてやった、などといったストーリーができあがっていたのだろう。未だバブル時代の馬鹿学生気分なのだ。愛すべき男ではあるのだが……。お互いもうアラ還なのである。
 ところで、真人のその部屋は仕事部屋だ。
 実際の塒はといえば彼はいわゆる〝子ども部屋おじさん〟だった。
 それにしても問題の彼女だ。
 近距離で視線を合わすと、クリッとした瞳はまさに黒曜石──。鼻すじもギリギリで可憐さを保つ高さで、もう少し高くなるとやや驕慢な感じか? 柔らかそうな頬はどちらかといえば可愛らしさのほうに流れていて、唇は意外と肉感的なのだが、さらにしたに控えているのが、先にも触れた白いブラウスのロケット巨乳なのだ。岡崎などは迂闊なもので、堪らんなあああっなどとなん度も口走ってしまっている。
 紺のジャケットを羽織れば意外と大人し気な女性に変身するのだが、それとて禁断の果実の魅力だ。
 ゆえにくだんの部屋へのエスコート時も、ずいぶん気を使わなければならなかった。終電前の空いた各停だけが、今夜の帰りの唯一の救いだった。
 しかし真人が仁美にいった研究熱心なコだという印象もまた、あながち世辞ではない。駅前からの歩きでも、弛みなく文学談義が続いた。
『ピレネー越えの黒い鞄に代わる新資料──。ベンヤミンについてもMEGAみたいな全集、でるんでしょうか?』
『全集って、マル・エン全集? いまでもまだドクターってことにもなると、あんなモン読まなきゃなんないんですかね……』
『ええまあ、振りぐらいは……。先生の今日の報告だって、『資本論』通読、前提だったじゃないですか……。アシモフの心理歴史学の批判だったのに……』
『先生って、俺? いやあれは、ただの経済原論ですよ。日高さんの……。有斐閣の……』
『経済原論、私、岩波全書のを読みました……』
『エッ? それじゃかえって解り難かったでしょ? 教祖様なんですがね、ありゃやっぱ、悪文ですよ。でも今日の俺のあれ、あのひとのシュムペーター批判の焼き直しなんですけどね……。ああでも当然、マル経なんか知らなくたって、ちゃんと分かるようにしてるつもりだったんですけど……』
 そんな回想に浸っていたためか? ここで済まそうとしていた作業はまったく進まなかった。ラップトップをあげるくらいは一応していたのだが、もうずっと節電のための黒い画面だ。
 日がだいぶ長くなっている。
 花壇の向こうに見える歩道が、アッという間に攻撃的光を放つようになる。
 やがてそこに、意外と高かったんだな、……という黒い靴のヒールが通りかかる。
 あまり鼻のしたが伸びないよう意識しながらあのロケット巨乳どうようピッチピチのヒップを拝んでおこうかと視線をあげたところ、歩み去りつつ、彼女が手を振っている。
 真人がいることに気づいていたようだ。
 仁美の場合もそうだったのだが、こういう一見雑な感じが、逆に安心できるのだった。でなければやはり、駅まで送ったほうがいいのかな? などと考え、アラ還には辛い選択を強いられることになっていただろう。
 とはいえ彼は、立ちあがって部屋に帰らなければならない。ドアのうえの隙間に差してもらっているはずの鍵も回収しなければならない。
 PCを終了させるためタッチパッドに触れると、どうやらお礼のメールが届いているようだ。
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