できそこないの幸せ

さくら/黒桜

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第十章 Trust me,Trust you

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咄嗟に相羽父子を疑った。以前、勝行を背後から鈍器で殴り、監禁したのは彼らかもしれないと聞いたからだ。
頭にきて、またかと病院内で叫んでしまった。けれど片岡の調べたところによると、父親も兄もこの件は寝耳に水だったらしく、気づけば本家は騒然としていた。
サイレンこそ鳴らないが、物々しい赤の警告灯が日の暮れた三鷹の閑静な街を照らしていく。相羽家の広い敷地内にパトカーや緊急車両が何台も停まった。それを見ただけで呼吸困難に陥った光は、玄関先でうずくまってしまった。足も震えて動けない。

「光さんを寝室に運ぶ、誰か医者と看護師を呼んでくれ」

知識のあるスタッフの一人が慣れた手つきで吸入器を装着し、相羽家の主治医を呼びに走る。片岡は「すみません、この姿勢は苦手でしょうが、今はこれが一番呼吸が楽だと思いますので」と丁寧に謝りながら、前かがみになった光を抱いて部屋に連れて行く。そんな逞しい護衛の腕に身を委ねながら、光は懸命に息を整えようとした。
今ここで自分がへばっている場合ではない。前のように、気が付いたら勝行が隣で寝ていて、笑顔で「大丈夫か、お前の方が重症じゃん」と手を差し伸べてくれることもないのだ。一刻も早く体調を整えて、彼を捜索しに行かなければ。
けれど上手く酸素を吸う方法がわからない。いつもはどうやって呼吸してたっけ――。

「ぁ……かっ……ぉ……かぁ……っ」
「大丈夫です、光さん、落ち着いて。まずは大人に任せてください」
「……っ」
「当主はこういう時にこそ、冷静かつ迅速に物事を判断します。あなたのお義父様でもあるあの方をまずは信じてください」

これは本当の誘拐事件なのですから。
片岡のその言葉は、忘れていた色んな事を辛辣に突き付けてくる。

相羽勝行は政治家一族の御曹司で、かつて光一人を救い出すためにヤクザの大物組織と麻薬の取引商社を全滅させた男。その身は危険と常に隣り合わせ。毎日屈強な護衛を何人も連れて歩き、その気になれば自ら銃も取り扱える――ただの高校生ではない、特別な存在なのだということを。

「身代金を用意するまで、どれくらい時間を稼ぐ必要があります?」
「これまでに脅迫状のようなものがあったのですか」
「犯人の心当たりは本当にないんですか」
「何時ごろから連絡が取れなかったのでしょうか」

通りすがり、警察の尋問のような話し声が廊下の隅から小さく聴こえてくる。嫌な思い出ばかりがフラッシュバックして、今にも気を失いそうだ。
光は縋るような気持ちで片岡のスーツの襟にしがみ付いた。片岡の言葉に従う以外、できることは何もなかった。

……
…… ……

時間だけがどんどんと過ぎ去っていく。
光に無理やり眠剤を打ち、相羽家の主治医だけでなく、かかりつけの星野や若槻にまで連絡を取っていた片岡は、気づけば戻って来なくなった。勝行の個室は現場検証のために封鎖されている。光は慣れない客室に押し込まれ、外をうっかり見ないようにとカーテンも閉ざされ、ドアには鍵もかけられた。一人蚊帳の外に放り出されたまま、一体何日、何時間過ぎたのかもわからない。

「なんで俺は出たらダメなんだよ」
『誘拐犯の心当たりを探ったところ、ターゲットはあなたに危害を加える可能性があることがわかりました。なので大事を取って、今はそこに居てください』

電話越しに片岡からそのようなことを告げられ、使用人と連絡をとることだけができる専用コールボタンが届けられた。食事や排泄に困ることはないが、実質軟禁状態とも言える。
部屋まで足を運んでくれた若槻が「本来なら僕らは在宅訪問しないんだけど、外に出ると君の命も危ないと聞いてね」と言いながら、光の話し相手として暫し付き添ってくれた。きっと片岡のつまらない気遣いだろう。

「いつも傍にいる人が、みんな居なくなったのか」
「それは怖かったね」
「きっと全員、君の元に帰ってくるよ。それまではゆっくり、カフェオレでも飲めばいい。待つのは退屈で苦しいだろうけど」

返事もせず、虚ろな目つきでベッドに座り込む光の頭を撫でながら、若槻は出されたコーヒーに口をつけた。

「ここのおうちのコーヒーは深煎りだね」
「……」
「そういえば。この前、嘘を見抜く方法を知りたがっていたね。どうしてだい」
「……人の気持ちばっか探ってるあんたなら、知ってるかと思って……」
「ははは、それが僕の仕事だからな」

若槻はコーヒーカップを皿に戻し、ふうとひと息ついた。それから光の方をじっと見つめ、一言ぽつりと疑問を投げかける。

「彼を取り戻したい?」
「……」

若槻がどこまで情報を知っているかわからず、光は無言で顔を向けた。視線だけが絡み合う。

「人はね、嘘を塗り重ねて綺麗な陶器を作る」
「陶器?」
「このカップのようなものだ。何度も何度も色を塗り、花を描き……化粧を施して綺麗なものへと錯覚させていく。元はただの粘土なのに」

高級そうな陶磁器のコーヒーセットを持ち上げ、若槻は意味深な笑みを浮かべる。

「言葉や行為もそう。何度も同じことを言って自分に言い聞かせたり、相手を説得しようとする。暗示のように「嘘」を繰り返して、真実を人工的に生み出そうとする。その裏に、隠さなければならない別の真実が隠れている」
「……」
「本物の嘘つきはね、嘘を真実にすり変える魔法が上手なんだよ」

それを悪とするか、正義というかは別の話だ。
話し終わると、陶器は再びテーブルの上に戻される。カチャンと高音を立てて。

「これ、元粘土とは思えない音だよね」
「……うん……」
「儚い音だと僕は思う。粘土だった時は、衝撃で割れずに済んだかもしれないのに……でもこれが粘土のままだと、僕らは美味しいコーヒーが飲めない。困ったもんだ」

若槻の不思議な話をぼんやり聞きながら、光は閉ざされた空間の中にいる自分の手をじっと見つめた。

(嘘を繰り返して……真実にすり替える……か……)

勝行が狂いそうなほどに毎日零す「好き」の言葉も、嘘だったのだろうか。何度も「好き」と言っていたのは、自分が好きだと思わせるための暗示だったとでも――。

(……駄目だ。わかんね……難しい)

それでも光は諦めたくなくて、若槻がいなくなったあとはずっとドアの前に座り込んだ。耳をそばだて、廊下の向こう側から聞こえてくる大人の話し声を全部記憶する。
相羽家に詰め込まれた無数の『嘘』を見抜くために。
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