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第三節 友だちのエチュード

#40 友だちの練習曲 -光 side-

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「あれえ今西くん? どうして学校に来たの」
「……え?」
「今日は修学旅行の代休よ。代休って、意味わかってる?」

ふるふる、と横に首を振った光は、保健室で今日が休みであることを知った。西畑は呆れた顔で笑いながら、それでも音楽室の使用許可を出してくれた。

「授業には出ないのに毎日登校してピアノ弾きにくるとか。やっぱり好きなんじゃない」
「好きじゃねえよ」
「へんなの。じゃあどうして学校にきたの?」
「……なんとなく」

適当な回答を残して光は久しぶりの第二音楽室に入り、グランドピアノの前に座った。
それから、少し開けっぱなしにしたままのドアを一度振り返った。

(……来るわけない、か)

修学旅行は無駄に色々あって目が回るほど疲れた。
久しぶりに戻ってきたこの何気ない日常が妙に落ち着く気がする。
弟の源次はまだ旅行から帰ってこない。いつ戻ってくるのかも知らない。一人の留守番なんて慣れていたはずなのに、最近あまりにも賑やかなひと時を過ごしすぎたせいか、がらんとした家に籠っていると息苦しくなって居ても経ってもいられなくなった。

「……ただいま」

一言もしゃべらないピアノに向かって、呟いてみる。返事はないけれど、指を動かせば鍵盤が音で返してくれる。
ゆらゆらと優しく撫でつけるように鍵盤の上で指を躍らせた。

「外、暑かった。いっぱい歩いて、疲れた。でも、山の上から見る空は近くて……綺麗だった」

ぽつり、ぽつりと独り言を零しながら、昨日まで見た景色の数々をゆっくりとピアノにしみ込ませ、音楽に変換していく。タラララン、と甘いメロディに合わせて光は目を閉じ、スローテンポのリラクゼーションミュージックに浸り続ける。

「そういえばキーボード……久しぶりに弾けたな……」

その奥でギターをかき鳴らしていた男のメロディも思い出し、光は思わずにやりと口角を上げた。あの時見せた彼の屈託ない笑顔だけは、忘れない。重厚な黒いギターをかき鳴らしてカッコつけていたくせに、子どもみたいにはしゃいで何度も色んな曲をリクエストしてきた。弾くと必ず、ピアノとは違うコードで邪魔せずに同じ曲を演奏してくれる。ああ、こいつも音楽が好きなんだろうな、というのが傍から見てもわかるぐらい、笑っていた。
いつもは何を考えているのかわからない、胡散臭い笑顔ばかり見せるくせに。

(――優しいんだか、冷たいんだか。わけわかんねえよ、あいつ)

楽しかったことだけを思い出したいけれど、嫌な思い出も走馬灯のように流れてくる。そのたびピアノの鍵盤を叩く手が、重苦しくゆっくり低音を鳴らす。

「今日の曲は、結構ゆったりした感じだね。疲れが残ってるのかな」

ふいに、聞き覚えのある声がピアノの音色に紛れて聴こえてきた。光は驚いて演奏の手を止め、教室の入り口に視線を送る。

「……なんでお前、くんの」
「もしかしたら、休みなんてお構いなしにピアノ弾きに来てるんじゃないかなあって思って。当たった?」
「……」

行動をまるごと見透かされていたことにも驚いたが、自分がここに居る確信がないまま音楽室に来たことにも吃驚きっきょうする。

「どうしたの、いつもなら気にもしないくせに。俺に構わず、好きに弾いてくれてていいよ」

入口の扉を後ろ手に閉め、部屋の奥まで来ると、勝行は一脚の椅子を窓際に広げて腰掛けた。手持ちの鞄から書店カバーのついた新書を取り出し、カーテン越しに漏れる昼の日差しを蛍光灯代わりにして読書を始める。
だがいつまでも始まらない演奏に気づいて、もう一度こちらに視線を向けた。

「どうかしたの?」
「……いや……。お前って……いつも何しにくんのかなって……」
「なにそれ。2カ月かけてやっとその疑問?」

大真面目に思った本心を声に出した途端、ぷっと肩をすくめて笑われ、咄嗟に顔が熱くなる。やっぱりうまく会話なんてできやしない。もしかしたらコイツとなら、と一瞬思った淡い期待も速攻で砕けて消えた。
だが彼は読みかけた本をそっと閉じ、意味深にこちらを見つめて微笑んだ。

「修学旅行終わったし、俺なんかもう来ないと思ってた?」
「……」
「残念ながら、俺が君に近づいた当初の目的って、別に修学旅行が理由じゃなかったんだ」
「え……」
「旅行は体のいい口実。俺は単に光の友だちになりたくてここにいる」
「何で?」

思わずポロリと呟いてしまったが、本当は聞きたくなんかない。光ははっとして、「いややっぱいい」と視線を逸らした。
どうせこの男も、大人に言われたからだとか、お情けだとか、いつものやつだ。都合が悪くなったり付き合いが面倒になれば、いとも簡単に手を離し置いていく。時間が来ればそれぞれの在るべき場所に戻っていくし、夜は絶対家にいてくれない。
これ以上変な期待をして裏切られたら、今度こそ心が潰されそうだ。
だが勝行は、光の胸の内など何も知らないままするりと告白した。

「君のピアノが好きだから。理由はそれだけ」
ダメだった?

予想斜め上の返答に、光は絶句した。だが勝行はそんな反応などとっくに予想していたのか、そのまま話を続ける。

「毎日ずっとこうやってここでピアノを聴ける時間が欲しくて、さ。あわよくば仲良くなって、学校以外の場所でも、いつでもどこでも聴けたらいいなあって」
「それって別に、俺じゃなくても」
「ううん、光のピアノは独特だよ。聴いたらすぐにわかるんだ」
「……俺のピアノなんか、楽譜ねえし、めちゃくちゃで、いっつも適当に弾いてるのに?」
「やっぱり即興曲なんだね。でもそれが面白くて、好きなんだ。本当の即興とは思えないくらい、ハイレベルな……そうだなあ、練習曲エチュードのように感じてる。なんていうか、毎日勉強の代わりに、ピアノで生きていこうとしてるみたいな」
「へえ……」

随分大それた表現にピンとこないまま、気のない返事をする光を見た勝行は、これは嘘じゃないからね、と追加した。

「そうだ、君のピアノはさ。そのままでももちろんいいんだけど、本当はおれ、もっとやってみたいことがあるんだ。聞いてくれる?」

椅子から立ち上がりこちらに近づくと、ピアノの鍵盤に添えたままの光の指に手を乗せて、勝行は楽しそうにワンフレーズ演奏した。

「このフレーズさ、さっきお前が弾いてたやつだけど。例えばこのメロディラインをギターに変えて、こっちの伴奏はベースに変えて、リズム打ちを足して、ピアノは別ラインのこのあたりでタララ、タラララって弾いたらさ……」

いきなり始まる専門用語の連発に、光はさすがに困惑した。何を言っているのかさっぱりわからない。だが勝行のその顔はまさに、先日楽器屋で一緒に演奏した時の楽し気な笑顔そのものだった。

「一気に曲のイメージが変わるよ。だから一度、アレンジしてみてもいい?」
「……アレンジ?」
「そう、日本語でいうと、編曲ってやつ」

俺、そういうの作る遊びが好きなんだ。

そこまで一気に熱く語りきると、勝行は徐に胸ポケットからメモ手帳を取り出した。さらさらと何かを書いて一枚丁寧にちぎる。

「これ、俺の住所と携帯番号とメアド。光はケータイもってない? ……だよね。まあ今度の休みにでも電話かけてきてくれたらいいよ、俺いつも暇してるし、うちにもキーボードでよかったらあるから、演奏したい放題だよ」

光はそれを手渡されながら、初めて言われる言葉を耳にした。

「遊びにおいで、待ってる」

それは少しばかり湿り気の帯びた初夏の風が、光の渇ききった身体に水を与えてくれるような、不思議な音韻だった。

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