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三冊目 眠れない夜のジュークボックス ~不器用な少年を見守る大人たち

……⑧

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観たこともないほど大きくて広い観客席。それを埋め尽くすかのように集まりざわつく黒い塊たち。
上から下まで全部がライブハウス、なんならコンサートホールとも言える建物だった。入口もまるでおしゃれな劇場のようである。二階、三階と、上にいくつもステージフロアがあって、いきなりフロアガイドをにらめっこするところから始まった。ようやく目的のフロアにたどり着いた時には、今西光はもうすっかり人混みに気圧され疲弊していた。ずんずんと先に進む勝行についていくだけで必死だ。

「おい勝行……これほんとにライブハウス?」
「そうだよ。つか、お前の知ってるライブハウスって、オーナーの店ぐらいなもんだろ。規模が違うんだよ、あっちは個人経営なんだから」
「そ、それもそうか」
「まあお前が地元で遊んでた店も、普通の音楽喫茶だったし……広くてびっくりしただろう?」
「お、おう……」

挙動不審に辺りを見渡しながら、光は繋いだ勝行の手を何度も握りしめた。
知らない土地に知らない人間だらけ。ここで迷ったら最後、もう二度と会えなくなる気がしてどことなく怖いのだ。その後ろからは、相羽家御用達の護衛、片岡荘介も黒スーツ姿で同行していた。まもなく四十路を迎える彼すらも、心なしか浮足立っているようである。

「綺麗な施設ですね。私もこういうところは初めてです」

黒スーツに黒グラサンの厳ついいで立ちをしているが、これは仕事用の武装姿。片岡の中身は割と穏やかで物腰の柔らかい男だ。濃いグラサンの下に、垂れた目尻を更に緩めた笑顔を隠している。

「へえ。片岡さんは博識だから、申し訳ないけど休日遊び人のイメージでした」
「そ、そうですか? 確かに、音楽アーティストのコンサートはまあ未経験ではありませんが……」
「クラシックばかりではないでしょう?」
「若気の至りというやつで、昔クラブには行ったことありますね」
「オッサンって、勝行の護衛する前は何やってたんだ?」
「私ですか? もとはできの悪い警察官でした」
「へーえだから強いのか」

とりとめのない会話を三人で交わしつつ、人混みに紛れて前に進む。入り口で交換されたドリンクは紙コップでそっけなく渡され、愛想の悪い店員は何も言わない。豪華な建物の割に、サービスは悪いなと思いながら、光は急いで勝行の後を追った。
もうライブイベントは既に始まっている。

ドアを開けるなり、ドン、と響く轟音。
普段聴いているものとは比べ物にならないぐらいのボリュームで耳に反響する歓声と爆音が空中に渦巻いている。
何もかもの規模が大きすぎて、一瞬くらりと眩暈を起こしそうになった。

「っと、大丈夫ですか光さん」
後ろから片岡に背を支えられ、光は慌てて意識を手繰り寄せた。
「だ……だいじょう、ぶ」
「さすがに大きな施設はきちんと客席まで分煙完備してるし、機材も軒並み揃ってる。ここなら保さんに買ってもらった大型ワークステーションが余裕で置けるじゃないか。ああ、メインスピーカーのあの位置は微調整できるのかな」
「え。なんて?」

勝行が興奮気味に何か言っているが、ほとんど聴こえない。
いつもなら、演奏中でもステージで話せばちゃんと聴こえるし、仕事中はインカムを使うので困らない。けれどこんなにも色んな音が上から下から大音量で混じり合ってしまっては、何一つ聞き取ることができなかった。

(うるさい……)

大好きな音楽なのに、そう思うのはなぜだろう。

(勝行の声、きこえない)
(歌? ――これは、なに?)

休みなく叩かれ揺れるドラムのヘッドのように、光の心臓がびりびりと振動する。何団体も出場するイベントだったため、MCが適宜合間に出てきて派手な見た目のバンドマンを紹介するたび、観客から声援やヤジが次々と飛び交っていく。
ぐわん、と反響ばかりする音源たちが、光の耳元で打っては慣れ合わず、まるで喧嘩しているようだった。

「なあ、光。俺たちもここでライブしたいと思わないか。お前のピアノ、これぐらいの大きな会場に響かせて、客席中俺たちの音楽で埋め尽くしてさ、みんなに聴かせたいよ。ここ、二階席も開けたら最大六千人も入るんだって。初ライブでこのキャパはありえないよ。いつもの小さいインストアライブとか、ゲリラ枠とは違う、本物のコンサートライブでさ。お前をあのステージに立たせてあげたい。絶対すごいことになる」

嬉しそうに何か語ってくれるが、勝行が何と言っているのか全然わからない。
後ろにいる片岡はどうだろうと思って振り返ると、彼は勝行とうまく会話をしながら過ごせているようだ。二人で二、三言葉を交わしているようだが、やはり何も聞き取れなかった。

なぜ自分だけ、今一番聴きたい音が、ちゃんと聴こえてこないのだろうか。

(こんなに近くにいるはずなのに……)

勝行の存在が、遠い。
届かない。

(……寂しい)

離れまいと懸命に握っていた手も、いつの間にか離れていた。もう一度手を伸ばしてみたけれど、たくさんあるうちのどれが勝行なのか、それすらもわからない。
黒い塊の集合体の中に、勝行が溶けて消えてしまったような感覚に陥っていく。
誰だか知らない塊の肉片が身体に触れるたび、わけもなく背筋に寒気が走る。

「光、さっきからどうした? ぼうっとして。――ライブに夢中で、全然聞いてないだけか」
「本当に音楽がお好きなんですねえ」

一人握りしめた光の手のひらは、生ぬるい汗でびっしょり湿っていた。
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