紅花の煙

戸沢一平

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第七話

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 七右衛門は夜が明ける前に目が覚めた。身支度をしているとその背に枯れた声のたかが囁いた。

「もう行くの」

 七右衛門は振り返った。昨晩とは違って不安が心を支配していた。そのうわずった心を悟られないように努めて明るく、ゆっくり口を開いた。
「吉報を待っていろよ」

 三浦屋を出て粟屋に寄り勘定を済ませると湊に急いだ。人通りはなく空が白みかけている。どこか遠くで犬が鳴いている。

 ふと七右衛門は足を止め、徐に方向を変えて日本橋に向かった。浅吉の仕事ぶりを見てみようと思ったのだ。
 やがて、早朝には相応しくないざわつきが耳に入ってきた。立ち止まり様子を伺うと、遠目からも各店の奉公人たちが慌てふためいているのが分かる。大声で喚きながら血相を変えて店を出、店に入りを繰り返していた。彼らが顔を向ける通りの彼方此方には白い紙が張られていた。

 七右衛門はブルッと体が震え、胸が高なった。いよいよ始まったという実感が湧いてきた。それと同時に不安が消えていった。踵をかえして湊に向かった。
 浅吉は既に一仕事終えたとばかりに板の間に座り悠然と構えていた。七右衛門を見ると立ち上がり姿勢を正して微笑んだ。

「先刻、十人ほどで完了しました」
 七右衛門は頷きながら、まあ楽にしろと右手で座るよう促した。

「見てきた。派手にやってくれたようだね。連中はもう大騒ぎをしていたよ」
「柿川屋の前には、これ見よがしに何枚も貼ってやりやしたからね」
「喧嘩を買ったことは十分に伝わっただろうな。それで、もう一つのほうはどうだい」
「巳の刻には海岸に運ぶよう手配しています」

 七右衛門は頷いた。気持ちが一段と昂っていた。
「なら、我らもその時刻に行くか」

 陽が高くなった。

 品川の海岸には既に黒山の人だかりが出来ていた。人足により運び込まれている荷が一つまた一つと積まれて高くなるにつれて、群衆のどよめきも大きくなっていく。商人と思われる者達も何箇所かに集団で固まっていた。七右衛門が海岸に入っていくと群衆の視線が集中した。

 七右衛門が荷の側に立つと同時に、繁太郎が問屋の面々を引き連れて近づいて来た。不敵な笑みを浮かべながら荷物に眼をやった。

「島田屋さんよ、そう熱り立たなくても良いだろう。何も買わないとは言っていない。安ければ買い手はいくらでもいるのだから」
「そう言われても、投げ売りなどする気はないもので」
「ああ、何だ、そんな事を真に受けたのか。あれは言葉の綾だ。思い切って安くすれば売れるという意味だ。全く、田舎の商人はこれだからなぁ」

 繁太郎が呆れたとばかりに首を振った。七右衛門が首を傾げた。

「そうは受け取れなかったけどな」
「まあ良い。どうだ、他産並みの二十両で買う。燃やすよりは良いだろう」
「最高品質の出羽最上産のものを、そんな値段では売るつもりは無い」
「であれば、多少色を付けて二十五両だな。これなら文句はないだろう。これで手を打とう」

 七右衛門が首を横に振ると、繁太郎が周囲に目を配り不適に笑みを浮かべた。

「意地を張るな。売れなければ損するだけだぞ」
「損得は考えていない。これは、もはや商売とはいえないからな」
「どういう意味だ」
「それはこちらが聞きたいことだ。こうしたのはそっちだろう、違うかい」

 繁太郎が顔色を変えて身構えた。

「何だとぉ、妙な言い掛かりはやめてもらおうか」

 七右衛門も身構えて繁太郎を睨みつけた。

「ほう、とぼけるのも良い加減にしろよ。其方は頭領として、皆が昨日の競に出るのを禁じたそうじゃないか。なんなら、そこに控える問屋さんの面々に聞いても良いのだぜ」

 繁太郎が慌てて七右衛門をなだめるように手を差し出した。

「まあ、落ち着け、確かにそういうことも言ったかも知れない。だが、商売とて駆け引きだ、安く買うための方策を講じたまで。商売人としては当然だろう。悪いかい」

「それを言うなら、こちらも高く売るための駆け引きだ」
「それがこの騒動か。あまり利口なやり方じゃないな。田舎の商人の考えることだ」
「それに釣られて、天下の江戸の商人がこの大騒ぎか」

 繁太郎と七右衛門が睨み合った。
 しばらくして場がざわついてきた。問屋の数名が繁太郎に耳打ちすると、繁太郎がスッと力を抜いて軽く頷いた。

「分かった。商売の話をしよう。そっちとしては、二十五両でも売らないのなら、いくらだったら売る気なのだ」

 七右衛門が積まれた紅花の荷に手を掛けた。
「そうだな、四十両なら売っても良い」

 問屋や商人からおおっと驚きの声が上がった。繁太郎が薄ら笑いを浮かべて首を振った。

「馬鹿な、そんな値で誰が買うか。ふざけるのも良い加減にしろ」
「ふざけてはいない。四十両で買わないのなら燃やすまでさ」
「どう考えても四十両などあり得ない。燃やす気は無いくせに見え透いたこけおどしはやめな。ハッタリなのは分かっている。そのような手は我ら江戸の商人には通じ無いぞ」

 問屋の数名が繁太郎に近付いて耳打ちした。繁太郎が渋い表情になったが頷いた。

「仕方がない。落とし所は三十両。最大限譲ってこれで買っても良い。それならあんたの顔も立つだろう」

 七右衛門は一瞬迷った。正直そこまで譲るとは思っていなかったからだ。
 通常であれば初競としては悪く無い値だった。出羽最上産として恥ずかしい額では無い。その心の動揺が顔に出たのだろう。厳しい視線を向けていた繁太郎がピクリと反応して、気付いたとばかりに表情が急に柔らかくなり白い歯を見せた。

「ほうら、良く考えな、どうだ」

 この値なら、喧嘩としても負けたとまで言えない。繁太郎の後ろに控えている問屋や商人の連中が固唾を飲んで見つめていた。その食い入るような目を見ると、余計に七右衛門の気持が揺れた。

「カッカッカ、決まりだな。燃やすとか四十両とか、やはり値を上げるためのハッタリではないか。まあ良い、それで三十両までつりあげた訳だからな、カッカッカ」

 乾いた不快な笑い声が七右衛門の迷いを振り払った。この男には少しでも譲るべきではないと思った。自身の勝手な思い込みが満たされないといった不純な気持ちを神聖な商売に持ち込んだ男などに、情けは無用だと思った。

 七右衛門はゆっくりと振り向いて浅吉に合図した。

 浅吉が松明に火をつけて七右衛門に渡した。それを手に取ると高々と掲げて、ゆっくりと積まれた荷に付けた。あっという間にメラメラと火が全体に広がって行った。大きなどよめきが品川の海岸に響いた。

 青く晴れ渡った夏の空に白い煙が高く昇って行った。
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