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第三章 争奪戦

第85話 魔物の誘惑

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「サリオン……」

 背後から耳朶を食むようにして囁かれ、目尻にキスを落とされる。
 咄嗟につぶった目蓋にも、頬にも唇を押し当てられ、肌を吸われて離される。
 サリオンは、身じろぎひとつ出来ずにいた。

 享受も拒否も示せない。

 自分の気持ちに触れかけるたびに、それらはすっと遠ざかる。
 サリオンは棒杭のように突っ立って、息をしているだけだった。


「俺の気持ちは変わらない。この手で抱いて愛したいのは、お前と俺の二人の子だ。お前にこうするようにキスして、あやして、笑わせて……」

 
 かすれて聞こえたアルベルトの訴えは、懇願に近かった。
 目を閉じたアルベルトの睫毛の震えが頬に伝わり、サリオンの胸まで震わせる。
 アルベルトに覆い被さるようにして抱き込まれ、天井を仰ぎ見る。

 背中に感じる太い腕。汗ばんだ逞しい体躯から立ち昇る濃艶な香油の匂い。
 うなじにかかる熱い息。

 それらは強固なはずの決意をあっけなく打ち砕く悪魔の導き。誘惑だ。

 顔を伏せたサリオンは、瞬きだけをくり返す。

 
 もし今、抱擁に応えるように目を閉じてしまったら、後には引けなくなるだろう。
 二度と彼には、あらがえない。

 この、限りなく魅惑的な男の手中にはまり、戻れない。

 サリオンの眦まなじりから、涙が一粒伝い流れた。唇が戦慄いた。


 それでもの言葉が聞こえる気がする。はっきりと。
 項垂れるの姿が 単語ルビ 眼裏まらうらに蘇る。鮮明に。

 アルベルトにゆだねる前に、遠い昔、はるかなる過去で既にすべてをに捧げている。
 だから、どちらも選べない。

 ここから一歩も踏み出せないから辛いのだ。


「サリオン……?」

 
 アルベルトは、サリオンの苦悶に満ちた涙の筋に驚いたように呟いた。
 二の腕を強く掴まれて、涙の訳を問うような熱い視線に炙られる。瞬きするたび、涙が雫のように滴った。

 止められなかった。

 偽れなかった。


「お前は俺がレナにこうしてキスして、ベッドの中で絡まって、俺の子をレナが孕んで産んでもいんだな?」

 
 責め立てられたサリオンは息を呑む。
 沈黙したまま瞠目し、緑の瞳を震わせた。

 涙はいつしか止んでいた。
 泣いても泣いても目の前の現実は変えられない。サリオンはアルベルトの胸に手をついた。

 両肘を一気に伸ばして退けた。
 一瞬抱き戻そうとするように、アルベルトの手が空を掻く。

 けれどもそれをサリオンは、ピンと張った両腕で拒絶しながら項垂れた。


 現実は無情で残酷だ。

 その厚い壁に突き当たり、自分の無力を知った時、泣いても無駄だと体が悟る。だから涙が止まるのだ。

 サリオンの緩い巻き毛の金髪が、はらりと顔にかかる。
 ベールのように表情を覆い隠してくれていた。


「サリオン……」

 という、失意を帯びた呟きを、耳にしながら頭を振った。

 ゆっくりと。
 しかし、はっきり左右に動かした。

 左右に二度振り、きつく奥歯を食いしばる。左右に振ると、頭の中まで揺れた気がした。

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