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本編

07 優しい面差し

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 いつものでいいですか? そう聞く強一きょういちに、原子は「ええ」と答える。しばらくして珈琲豆をミルでく心地よい音と、かぐわしいエスプレッソの香りが漂いはじめた。

「──それで、はじめちゃんの具合はどうなの?」
「元気ですよ。起きてるときはね」

 話しながら、れたてのエスプレッソが入ったカップをテーブルにコトンと置いて、強一は窓辺に寄りかかる。街道を歩くはじめと麗子の姿はもう見えない。

「六時間」
「強一さん?」
「六時間が今のはじめが起きていられる時間です」
「もうそんなに……」
「はい。寝てしまう時間はランダムなので、あまり気付かれにくいですが……」
「はじめちゃんは明るいからね。全然そんな風に感じなかったわ」
「……そうですね」

 店内でも、どこでも突然眠ってしまう息子。
 接客中も気を失うように眠ってしまうはじめを腫れ物扱いするでもなく、それが普通の事として自然に接してくれる。ここを訪れるお客さんはみんなそうだ。暖かい人柄に感謝してもしきれない。

 強一は、はじめ青夢病せいむびょうを発症したのを機に、それまで築き上げてきたキャリアも、資産家で財閥ざいばつ創業者でもあるはじめの祖父、小樽おたる総一朗そういちろう──その跡継ぎとしての立場も、何もかも捨てて息子を選んだ。しかしそうしてこの喫茶店に来たことを、強一は少しも後悔していない。

はじめは麗子さんと付き合うようになってから、以前にも増して明るくなりました。それに……症状しょうじょうの進行が少し遅くなったような気がします」
「ええ、ええ、そうでしょうね。分かるわ。分かりますとも。やっぱり好きな人がいると頑張らなくちゃって、気持ちがふるい立つものなのよ」

 強盗とは無縁の猫茶丸では、今まで擬似ぎじカメラを設置していたのだが、強一ははじめが起きていられる時間を計るため本物に替えた。
 それで強一は二人が付き合っていることを偶然知ってしまったのだが、監視カメラが本物になっていると気付いたはじめとの会話は……強一が思っていたよりも、あっさりしたものだった。
 自分とは正反対の気質をした、面倒臭い事柄もひょうひょうとかわしていく世渡り上手の息子が、年相応そうおうの照れたような顔をした。驚く強一に、はじめは……

「その気持ち、貴方あなたにも覚えがあるでしょう?」
「はい……もう随分ずいぶん昔のことですが……」

 恋人の話をして、幸せそうに笑ったはじめの顔に、強一は自分が酷く安心していることに気付いた。
 
「時間を計ること以外、何もしてやれない。俺は父親失格ですね」
「強一さん……そんなことはないですよ」

 仕切り直すように、原子がガマ口の長財布をパチリと開ける。中から二つ折りの古ぼけた写真を取り出して、強一に開いて見せた。

「今日はね。家の物置を整理していたら、貴方たちが出会った頃の写真が出てきたから持ってきたのよ。ほら、若い頃の二菜になさんと強一さん。はじめちゃんにも見せてあげたらと思ってね」

 懐かしい写真に写る、優しい面差おもざしがはじめと重なる女性──二菜ははじめの母親で、同じ青夢病せいむびょうで亡くなった。

「二菜さんもきっと、今の貴方を見て心強く思っているわ。二菜さんは最期さいごまであの頃と同じ幸せそうな顔をしてたもの」

 そしてもしも青夢病せいむびょうが発症したとき、息子を最期まで見守ることは、彼女との約束でもあった。
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