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虫取り網
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少年時代に誰でも昆虫採取に野山を駆け回った記憶があるであろう。夢中になって虫を追いかけていたらいつの間にか陽が暮れる。この話に出てくる主人公斎藤守もその一人である。
「斎藤さん、また売り上げがどん尻になりましたので頑張ってください」
斎藤の上司である山川静雄が斎藤に言葉を掛けた。山川は斎藤の上司ではあるが同期でもある。いつも強い口調で言うことはなかった。それを知っている斎藤も非常に気まずい。
斎藤は机の引き出しを開ける。契約書は月の下旬になったがまだ一人だけである。
「はい、頑張ります」
頑張って一生懸命働いても契約が取れないときは取れない。
斎藤は小学生時代をふと思い出した。よく今は上司である山川とアゲハチョウ、カブトムシなどを取りに故郷東北の野山を駆け回ったものである。
「マーちゃん、あそこにカブトムシがいるよ」
「まかせておいてよ。今、取るから」
掛け声と同時に守の持っていた虫取り網の中にカブトムシは吸い込まれるように入った。静かに虫取り網を手繰り寄せる。艶のいいカブトムシが元気に動いていた。
「へへえ、どんなもんだい」
「マーちゃんは虫を取るのうまいなあ」
「さ、またな」
守と山川は観察が済むと、虫は野に放してやるのであった。放してやってやることで、カブトムシがさらにカブトムシを連れてくるからたくさん取れるんだ。そうやって二人は少年時代を過ごしてきた。
守と山川は小学校時代を東北地方の村に住んでいた。山川は小学校6年の時、父親の転勤に合わせ、東京に転校して行った。守は大学入学時期、東京に上京した。卒業するとそのまま東京のM自動車会社に就職した。配属先のK支店で山川と偶然に再会した。
山川は顧客を捕まえることがうまくとんとん拍子で出世していった。あんなに昆虫は捕まえるのが下手だった山川が自動車の顧客を捕まえることはうまかった。わずか10年足らずで山川はM自動車会社の支店長になった。成績の悪い守は係長のままであった。守がクビにならないのは山川がいつもかばってくれていたからにほかならないと守は思っていた。
ある時、守と山川が事務所に二人だけになった。
「マーちゃん」
そう言って支店長席に座っていた山川が親しそうに守のそばにやってきた。
「これ、覚えている」
差し出されたのは虫取り網だった。
「どうしたの? それ?」
「マーちゃんにもらったお守りさ。こんなにこの会社で役に立つなんて思っていなかった。何でも取れる網だって言ってくれたの忘れたかい? 僕が転校するとき、何だって取れるんだよ、って言ってくれたんだ。こうやって昇進ポストも契約も何だって取れた。マーちゃんのおかげさ。今度昇進し、本店で別の仕事に就くんだ。また、マーちゃんとお別れだね。お守りだったんだけど、今度はマーちゃんにお返しさ。十分役に立ったからマーちゃんに返すよ」
そう言った山川は1週間後本店に栄転していった。守はあの虫取り網をもらってから毎日眺めていた。
「お守りか? なんでも取れるお守り。そんなことすっかり忘れていたなあ。そういう大事なものをもらえるなんて、嬉しかった。きっと山川も小学生の時嬉しかったに違いない。だからこそ今まで持っていたんだ。ありがとう」
守は虫取り網を振ってみた。何でも取れそうな気がしてきた。
新支店長は誰かと思っていたら、守が何故か支店長に昇進した。山川が後継に守を推薦したという噂である。
さらに5年後、虫取り網が支店の壁に掛けられていた。守の成績は今一つパッとしなかったが、部下が支店の成績を押し上げ全国一の売り上げをあげていた。10年ぶりに山川から電話が入った。
「今度、取締役になった」
「おめでとうございます。役員ですか」
「これも斎藤さんのおかげです。虫取り網、今もここにあります。胸の中にね。そうだ、今度、人事部長で来てくれないか。部下の指導はきみにしかできないよ。日本一売り上げの高い支店の支店長だからね。じゃ」
それから数日後、守は本店の人事部長として異動することになった。
転任の日、守は支店の部下に向かって挨拶した。
「みなさん、虫を取っても、取った後が大事です。そのことを忘れないでください。標本にするか、生きている虫を観察し放してやるか、が大事です。どうか後者であってください。そういう仕事をこれからも毎日積み重ねていってください」
「斎藤さん、また売り上げがどん尻になりましたので頑張ってください」
斎藤の上司である山川静雄が斎藤に言葉を掛けた。山川は斎藤の上司ではあるが同期でもある。いつも強い口調で言うことはなかった。それを知っている斎藤も非常に気まずい。
斎藤は机の引き出しを開ける。契約書は月の下旬になったがまだ一人だけである。
「はい、頑張ります」
頑張って一生懸命働いても契約が取れないときは取れない。
斎藤は小学生時代をふと思い出した。よく今は上司である山川とアゲハチョウ、カブトムシなどを取りに故郷東北の野山を駆け回ったものである。
「マーちゃん、あそこにカブトムシがいるよ」
「まかせておいてよ。今、取るから」
掛け声と同時に守の持っていた虫取り網の中にカブトムシは吸い込まれるように入った。静かに虫取り網を手繰り寄せる。艶のいいカブトムシが元気に動いていた。
「へへえ、どんなもんだい」
「マーちゃんは虫を取るのうまいなあ」
「さ、またな」
守と山川は観察が済むと、虫は野に放してやるのであった。放してやってやることで、カブトムシがさらにカブトムシを連れてくるからたくさん取れるんだ。そうやって二人は少年時代を過ごしてきた。
守と山川は小学校時代を東北地方の村に住んでいた。山川は小学校6年の時、父親の転勤に合わせ、東京に転校して行った。守は大学入学時期、東京に上京した。卒業するとそのまま東京のM自動車会社に就職した。配属先のK支店で山川と偶然に再会した。
山川は顧客を捕まえることがうまくとんとん拍子で出世していった。あんなに昆虫は捕まえるのが下手だった山川が自動車の顧客を捕まえることはうまかった。わずか10年足らずで山川はM自動車会社の支店長になった。成績の悪い守は係長のままであった。守がクビにならないのは山川がいつもかばってくれていたからにほかならないと守は思っていた。
ある時、守と山川が事務所に二人だけになった。
「マーちゃん」
そう言って支店長席に座っていた山川が親しそうに守のそばにやってきた。
「これ、覚えている」
差し出されたのは虫取り網だった。
「どうしたの? それ?」
「マーちゃんにもらったお守りさ。こんなにこの会社で役に立つなんて思っていなかった。何でも取れる網だって言ってくれたの忘れたかい? 僕が転校するとき、何だって取れるんだよ、って言ってくれたんだ。こうやって昇進ポストも契約も何だって取れた。マーちゃんのおかげさ。今度昇進し、本店で別の仕事に就くんだ。また、マーちゃんとお別れだね。お守りだったんだけど、今度はマーちゃんにお返しさ。十分役に立ったからマーちゃんに返すよ」
そう言った山川は1週間後本店に栄転していった。守はあの虫取り網をもらってから毎日眺めていた。
「お守りか? なんでも取れるお守り。そんなことすっかり忘れていたなあ。そういう大事なものをもらえるなんて、嬉しかった。きっと山川も小学生の時嬉しかったに違いない。だからこそ今まで持っていたんだ。ありがとう」
守は虫取り網を振ってみた。何でも取れそうな気がしてきた。
新支店長は誰かと思っていたら、守が何故か支店長に昇進した。山川が後継に守を推薦したという噂である。
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