海抜ゼロ

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第5章

衝突の日

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 田所は黒部川水泳場に到着してから1時間ほど泳いでいた。自然の川を利用して作られたプールである。24時間泳ぐことが可能である。ソーラー照明でプールだけがくっきりと暗黒の川辺に浮かび上がる。
 研究が忙しい彼は、毎日1時間だけ泳ぐが、講義がない日は、丸1日泳ぐこともあった。泳いでいると、新しい発見をしたりすることもあり、日課のように続けていた。泳ぎ疲れたら、力を抜いて水の上に漂う。何からも力を受けない空間に漂う。宇宙に行ったことのない田所ではあったが、宇宙にいると、こういうような気持ちかな、と思うのだった。
 魂の浄化が済んだ田所は、清々しい気持ちで、プールサイドに上がった。用意していた握り飯をバッグから出して、テーブルに置いた時、携帯電話が鳴った。着信は助手の兵藤からである。通話ボタンを押して繋がるなり、兵藤が大きな興奮した声で話してきた。
「先生、例のM78星群のα星の輝度が今までと比べようもない増加をしています。地球に接近したという現象でしょうか?」
 田所はα星の動向には注意をするように、何か小さな異変でもあれば、時間を気にせず連絡するよう、前々から兵藤たちに指示を出していた。それがつい1ヶ月ほど前から微量ではあるが、輝度の増加を観測していた。微量な増加の原因を特定することに全力をあげることで、兵藤と見解が一致していた矢先である。α星の直径は、太陽の10倍である。遠くとは言え、これほどの星が爆発したとしたら周囲への影響は大きい。星の破片の拡散は元より、爆発の衝撃波は計り知れない。α星と地球は35億光年も離れているが、重力のない空間では拡散が弱まることはない。何処までも影響は継続され、何処かのそれ以上の巨大な星にぶつからない限り、衝撃波は止まらない。つまり、ビリヤードで玉は何処までも進みやがてポケットに落ちる。ポケットはブラックホールである。ブラックホールはそのエネルギーを蓄え、別の出口で放出する。宇宙空間では爆発の無限連鎖反応が行われている。それが宇宙空間だ。35億年、何処からも爆発の巻き沿いを食らわなかったラッキーな地球も、最後の時を迎えるのだろうか。ノアの箱舟の話を思い出す。やはり、理論は正しかったのであろうか。照りつける夕日が当たる田所のはげ上がった額に、汗が噴き出して顎から垂れた。
「すぐ戻る」
 田所はそれだけ、兵藤に言うと、握り飯をテーブルに残したまま、車に飛び乗った。
  *
 黒部川水泳場から車を走らせていた田所は、車内ラジオのスイッチを入れた。夕方軽音楽の番組が流れていた。そこへ突然、緊急放送が入った。
「たった今、入った情報です。ハワイの電波天文台の発表によりますと、直径1千キロの彗星が地球の軌道上を超光速で通過するという計算結果が出ているという事です。あくまで軌道上ですので、衝突する確率は大変低いという予測です。地球の直径の12分の1ほどの彗星ですので、かなりの大きさになります。接近すれば、肉眼で確認できる大きさです。情報が入り次第、緊急放送でお伝えいたします」
 いよいよ大爆発の前哨戦が始まったようだ。α星の細かな欠片が地球に向けて飛び散っている。田所はこれから怒るであろう恐怖で、思考が追いつけなくなってしまった。ニュースに内容に気を取られていた田所は、センターラインを大きく外れた。気が付いて慌ててハンドルを戻しすぎて、側道の茂みに突っ込んで止まった。樹木にぶつかった衝撃で、セーフティーバッグが膨らんだ。車から降りた田所は、外へ出て車の状態を見た。ボンネットが跳ね上がり、閉まらなくなった。それに、前輪タイヤが両方ともパンクした。
「よりによって、こんなときにへまをやっちまったな」
 本来であるなら警察に連絡をするところだが、兵藤から連絡されたα星の動きが気になる。無線タクシーを呼んで直ぐにでも大学へ向かったほうがいいだろう。そう考えていた直後、けたたましいクラクションを突然、鳴らされた。音のする方向へ振り向くと、白塗りのセダンの窓から、上半身を乗り出した若者3人が、気勢を上げている。
「よ、おっさん、こんな山道でエンコでっか?」
 立ち止まった田所は、若者の顔を見て青ざめた。完全に剃り上げた頭部に、鷲が羽を広げている絵の入れ墨をしていた。まともな人間の格好ではない。それがゆっくりと、田所の立っている場所に向かって車を走らせてくる。
「おっさんよー、俺たちさ、これから町へ遊ぶにいく所なんだけどさ、軍資金がないんだー。ちょっと寄付してくれる?」
 隕石衝突の公表からこういう暴力集団が、あらゆる場所に出没するようになった。いわゆる自暴自棄の集団である。こんな地方の郊外にも出現するようになってしまった。田所はその声から遠ざかるように、徐々に走り始めた。相手は車に乗っている。山中へ逃げるしか道はない。何をされるか分からない、という恐怖を感じた。田所は道路から脇の草むらに入った。
「あらら、おっさん、何処行くの? 繁みでおしっこ?」
 田所は駆け出す速度を上げると、右膝に激痛が走った。さっきの衝突で膝をひねったらしい。その場で、バランスを崩し、前につんのめって倒れた。慌てて起き上がると、体勢を立て直し、右足を引きずりながら、森の奥へと進んだ。
「へへ、おっさん、俺たちから逃げるつもりなの? おーい、待ってよー、置いてかないでえー」
 声の聞こえない所へ向かって、田所は痛みをこらえながら全力で走った。
「おっさん、手を焼かすんじゃねえよー、俺たちを怒らすと怖いぞー」
 走っても走っても、男達は執拗に追って来た。痛む片足をかばうように、飛び跳ねて逃げた。飛んではバランスを崩し倒れた。
「くそ、おっさん、この辺で遊びはおしまいにしようぜ、俺たちはそんな暇じゃねえんだよ」
 走っていた男の一人が立ち止まると、胸の中へ手を入れた。胸から出したのは拳銃だった。それを知らない田所は、男達からひたすら走って逃げていた。拳銃を手にした男は、身構えると、目の前を走る田所に照準を合わせ、引き金を引いた。数発ほど撃ったが当たらない。何発目かが田所の右足に当たり、田所はひっくり返った。倒れてから右足を引きずりながら、近くの大木に身を隠した。田所は大木に背を当てて、息を整え気配を消す。
「おっさん、鬼ごっこ、終わりにしたら、今度は隠れん坊かい? いいねえ、楽しもうよ」
 そんな声が聞こえてきた。田所は願った。もう、こんな年寄りなんか諦めろ。額から汗が噴き出している。目に汗が流れ込む。目をつぶり、震えながら祈った。
「悪夢であってくれ、すべて嘘だ」
 田所が繁みに隠れてから5分は経っただろうか。目を開けてみた。目の前に男が笑いながらしゃがんでこちらを見ていた。
「おっさん、見っけた。はい、ゲームセット」
 にたにた笑いながら男は田所の額に銃口をゆっくり当てた。冷たい銃口がほてった田所の額に当てられた。
「おっさん、これ、罰ゲーム。玉が残ってたら、オッサンの最後だから」
 笑っていた男は、真剣な顔になった。目の前の男の右腕の指が、引き金を動かそうとしているのが見える。カチ、鈍い音が出て、銃弾は発射されなかった。
「あら、弾切れ?」
 男は拳銃の弾倉を取り出して確認した。
「やっぱり、弾切れか、おっさん、ついてると思ったー? 足、大丈夫? 血が一杯出ちゃってるけど、止めないとやばいよねー」
 男は田所のジャケットに手を掛けると、内ポケットから財布を見つけた。財布には5万円ほど入っていた。
「おっさん、しけてるな、もてないぞ、ま、いいか? もう、死ぬんだし」
 別の男が追いついてきた。その男に現金を見せると、男はにやにや笑った。そして、元来た道を二人は揃って引き返していった。後から来た男が、拳銃の男に話し掛けている。
「兄貴、あのおっさん、俺たちの顔、見てるけど、やばくない?」
「ばーか、お前、あの足の出血だぞ、ほっといても時期、死ぬさ。それとも、てめえが、仕留めるか?」
 そう言いながら、男は空になった弾倉を外し、新しい弾倉をベストから引っ張り出して充填した。
「ほれ、撃たしてやるよ」
 男は後から来た舎弟の腹に銃口を突きつけた。
「いや、いいよ」
 銃口を突きつけられて前のめりになった舎弟は、首を上げて男を見つめると、無言のまま、首を大きく左右に振る。
「だいたい、てめえは撃つ度胸もねえくせに大きな口をたたきすぎるぞ」
 二人が立ち去るのを見た田所は安堵した。身体を折り曲げようとしたが、全く、反応しない。かろうじて動く右手を使って上着の内ポケットを探り、携帯電話をひねり出した。震える指で登録してある兵藤へ向けて通信ボタンを押した。
  *
 兵藤は田所に電話連絡してから、田所が戻ったら分析結果を報告しようと、研究室の野中達と落ち着かない気持ちを抑え、待っていた。兵藤たちは帰りの遅い田所を心配し、何度も腕時計を見ていた。そこへ田所からの携帯電話が鳴った。兵藤は急いで携帯の通信ボタンを押した。
「先生ですか? 今、どちらに」
 苦しそうな低い声の田所からの電話である。
「よ、良く、聞いて、くれ、兵藤君。もう、君に、伝えられんかも、し、知れんから、今、言うことを、め、メモしてくれ」
 兵藤は何かいつもと違う声の田所に危機感を感じながら、メモ帳のあるデスクに飛びつくと、ペンを掴んだ。
「先生、どうぞ」
 言われた言葉は、田所のパソコンのパスワードだった。
「き、君に、話していた、と、お、思うが、わ、わしが、ど、独自に、ぶ、分析し、予測して、つ、作らせた、あ、アプリを、い、インストール、してある。あ、後は、で、データを、いい、入れれば、……か、かなり、精度の、た、高い、しょう、衝突日が、よ、予測できる。で、データ、入力は、き、君に任せる。そ、その後の、た、対応も、君に、お、お願い、する。……わ、わしは、もう、長くない。……せ、世話に、なったな、……あ、あ、ありがとう……」
 それを最後に田所の言葉は聞こえなかった。
「先生、どうされたのですか? いらっしゃる場所を仰ってください」
 何かとんでもないことが起きたことは間違いなかった。兵藤は地元の警察署で懇意にしている富山県警の山田に電話を入れた。
「あ、兵藤君か? 先生はお元気かな?」
 警備課長の山田とは、天文イベントの警備依頼のため、田所に付いていって顔見知りになっていた。大学で夏休みに実施している、地域主催の星を見る、町興しのイベントであった。
 兵藤は、田所からの切羽詰まった電話と、今までの経過を、かいつまんで伝えた。
「よし、携帯からいる場所を特定しよう。安心したまえ」
 山田はいい報せをするから心配しないで待っていろ、と言って電話を切った。
  *
 富山県警黒部警察署地域課・鈴木はパトカーで県警本部から帰るところだった。車道から外れて脇の茂みに車が止まっているのを発見する。路上駐車にしては斜めに繁みに前部を入れ、後部は道路にはみ出した、乱暴な止め方である。近づくにつれ、ボンネットが追突の衝撃だろうか、上がって変形している。
「あの車の手前で止めてくれ」
 鈴木は運転席に座る後輩・飯岡に指示を出す。飯岡はスピードを減速させ、事故車の手前20メートルでパトカーを静かに停止させた。車から出ると辺りを見た。上り下りとも車の往来は少ない。おまけに車道から外れているだけに気が付く車もいなかったようだ。鈴木は携帯を取り出すと、署に事故車発見の報告をした。後ろから追い掛けてきた飯岡に振り返って言った。
「運転手が車の中にいないから、何処かに倒れているかも知れん。命に関わると大変だ、先の車道を至急見て来てくれ。俺は車の中をもう少し調べる」
 鈴木はゆっくり車の周囲を回りながら内部に不審な物がないことを確認してから運転席を開けた。リアトランクを開けてみた。何も見当たらない。運転手は何処へ消えたのか? しばらくしてから飯岡が鈴木の所へ戻ってきた。
「百メートルほど、車道両側の繁みを見ましたが、倒れている様子はありません」と飯岡は報告をして来た。
 鈴木はこの状況に頭をひねった。負傷した人間なら大抵車の中にいるか、軽傷なら車のそばで通りかかる車を待つのが常套手段だろう。携帯電話は誰でも持つ時代だ。連絡すれば署で直ぐに対応する。何故、乗員が見当たらないか? 鈴木には嫌な予感がした。パトカーに戻ると、無線で署に報告を入れる。乗員の行方が不明であることを伝えた。すると、直ぐに返答があった。
「ナンバーから捜索願の出されている田所教授だと思われます。今朝、そちらの方面に出掛けたまま、消息を絶っています。今、携帯のGPSから所在が判明し、そちらに職員と救急車を向かわせていますが、場所の地図をそちらのパソコンに送信しますので、至急救援に向かってください」
 鈴木が車載モニターの表示を出した。周辺地図が表示され位置関係を確認するため、モニターを外した。GPSの発信場所に向かって走った。鈴木は走りながら、教授は事故を起こしてから何でこんな山の中へ入り込んだのだろう、という疑念が湧いた。5分ほど走った所で、GPSの発信場所に到達した。切り株の影から横たわった人影が見えた。走り寄った鈴木は、倒れている田所の鼻に顔を近づけた。息をしていなかったが、体温がある。しかし、心肺は停止している。右足からは大量の出血がある。足を背後から撃たれた跡だ。こんな山の中に入った訳が鈴木には容易に予測できた。誰かから逃げてきたんだ、と鈴木は直感した。鈴木は携帯で飯岡に、救急隊が到着したら発信場所に誘導するよう伝える。直ぐに、署に電話し、県道の先に非常配備を敷くよう、事件の要点を伝えた。
「時間はそう経っていない。逃げられると思うなよ」
 そう言いながら田所の大腿の脇に膝を下ろすと、鈴木は田所のズボンのベルトを外すと田所の大腿をベルトで縛り上げて止血を施した。
「これで出血は止まるが、これからが本番だぞ」
 鈴木は仰向けに横たえた田所の胸に両手を添えると、体重を掛けて心臓マッサージを開始した。
「イチ、ニ、サン、イチ、ニ、サン、戻ってくれよ」
 遠くのほうでサイレンの音が聞こえてきた。
  *
 兵藤は田所から聞いたパスワードのメモを持って、田所のデスクのPC端末の前に座った。PCの電源を入れると、プログラムが進み、パスワードを入れる画面が表示された。兵藤はパスワードを入れた。
 PCの画面は、隕石シュミレーションソフトを立ち上げますか、と聞いてきた。田所が1年前にソフト開発会社に依頼していたものらしい。兵藤は過去のM78星に関するデータを兵藤の端末から転送していった。過去10年分のデータ送信が完了すると、端末は分析を開始する、と表示された。解析結果終了までの経過時間が、画面に表示されている。カウントダウンする時間を見て、兵藤は心臓の鼓動が速まるのを感じた。数分してその画面が表示された。兵藤は自分の目を疑った。衝突日時は、数日で、その時間になる。兵藤は頭を抱えた。
「先生、この結果にどう対応したらいいのでしょうか?」
 田所が不在の今、この結果を誰に伝えるべきか、判断できないでいた。そこへ野中の兵藤を呼ぶ声がした。兵藤が声のほうへ顔を向けると、野中が携帯電話を持ち、笑いながら駆け寄ってきた。
「兵藤さん、先生が見つかりました。発見当初は心臓が止まっていたようですが、回復し、今、病院へ搬送されている最中のようです。先生が話したいそうです」
 野中から電話を受け取った兵藤は、何から話したらいいのか困った。
「先生、ご無事で何よりでした」
「兵藤君、心配掛けてすまんな。わしはもう元気だ。死なんよ。ところで、わしのPCのアプリにデータは入れてくれたか?」
 田所の声は幾分かすれていたが、いつもの田所の話し方だった。
「先生、データは可能な限り入力し、解析結果が出でいます。しかし、電話でお話できる内容ではないと思いますが」
 田所の反応が鈍かった。田所も予想していた事なのであろう。結果を話すよう言われた兵藤は、ありのままを話した。
「そうか。予想通りだったな。しかし、人類は神に見捨てられなかった」
「それはどういうことでしょうか?」
「以前、君にノアの箱舟の話をしただろう。救済策を神は考えていた。つまり、衝突の衝撃波と熱は局地の氷を溶かし、地球は水で覆い尽くされるだろう。人類は水に吞まれて死ぬ。溺れて死ぬのだよ。しかし、神は人類に鋼鉄の船という乗り物を下さった」
「先生、それに乗れる人類など、高が知れています。私たちは絶滅するのではないでしょうか。かつての恐竜のように」
「後、数日でその結果が出る。それまでやるべきことをやろう。そうだ、また、会えたら、一緒に泳ぎにいくか?」
 田所の口調には深刻さがなかった。田所には地球の危機などないのでは、と兵藤には思えた。
「そうですね。今度は何処へ行っても水浸しで泳ぐしかないようです。ご一緒しましょう」
 兵藤も軽いジョークを言える自分が不思議だった。これから深刻な状況になるというのに。
 電話を切った田所は、付き添ってくれていた鈴木巡査部長に携帯電話を手渡した。それを受け取った鈴木が、田所に言った。
「先生はお年の割に、強靭な身体をお持ちのようですね、驚きました。心臓マッサージをしていて分りました。撃たれた拳銃の後もすごい回復力で消えてしまった。まるで人間じゃないみたいです。人間じゃない、そんなわけ、ないですよね」
 鈴木は真顔で話していて、自分の言っている事が、途中で馬鹿らしいと思えたのか、大笑いして話を終えた。そう言われた田所は、電話を持つ自分の手を見た。電話が掴みにくいと思ったら、指の間に薄い皮が出来ていた。
「何じゃろうね。本当に人間じゃないみたいだ」
  *
#セダン後部座席に座っている太田邦夫は、隣に座る安住恵子の耳に付けたピアスをいじりながら、外の景色を目を細めて眺めている。そして、おもむろに、
「大輔、今度、手頃なレストランを見つけたら突撃するからな、通り過ぎるんじゃねえぞ」
 左足を助手席の背もたれに掛けていた太田は、運転している野口大輔の後頭部に、その足のつま先を右に移動し小突いた。
「てめえ、俺が言ってるのに、しかとしてるんじゃねえよ」
「あ、やめてくださいよー、髪が汚れちゃいますよ」
 野口は金髪に染めた長髪を右手で撫でなで上げた。
「あ、まじい、さっき、ウンコ踏んだんだっけ」
「ひえー、まじっすか?」
 野口は、右手で後頭部全体を、恐る恐る撫で始めた。
「おめえはホントに糞野郎だな、なわけ、ねえだろ」
「いやー、冗談っすか? 兄貴、勘弁してくださいっすよー」
「ほんと、おめえの脳みそは、糞だな」
「ヒャー、それほど上等なものでないっすよ」
 そのやりとりを聞いていた恵子は、腹を抱えて笑い転げた。
「兄貴、あそこにレストランが見えてきやしたぜ、ちょっと高そうなので、次にしやすか?」
「ほんと、おめえは糞だな。突撃するんだから、高級レストランがいいに決まってるだろうが」
「はあ? 兄貴、お金は大事に使わないと、すぐ、なくなっちゃいますぜ」
「ばーか、突撃ってのはだなー、あそこのお宝を頂くってことだ」
「へえ? 兄貴、何ですか、おタカラって、うまいんすか?」
「お前、ほんまもんの糞だな、まあ、てめえはここで待ってろ、客全員の金を巻き上げてくるから」
「へえ? それ、まずいっすよ、レストランの中で、お金を蒔いちゃったら、お客さん、困りやすよ」
「ああ、面倒くせえな、おめえは、おめえ、さっきのオヤジ、どうなったか、見当、付いてるだろ?」
 野口大輔は、田所をただ置き去りにして来た、と思っていた。
「あのオヤジはな、俺が天国に送ってやった、分かったか? いや、今頃、苦しんでるから地獄かもな、フヘエヘヘヘ」
 そう言って、太田が苦笑いしているのを聞いて、また、野口も良く分からないなりに笑うのだった。
「もう、いいから、おめえは、ここにいて、俺たちが戻ったら、直ぐ発車させるんだ、いいな」
 太田兄弟は2人揃ってセダンから下りた。
 下りるとセダンのリヤナゲッジの黒のボストンバッグを開ける。拳銃を数丁取り出すと、ズボンのベルトに引っ掛けた。
 片手に1丁ずつ持つと内ポケットへ忍ばせた。2人はサングラス、マスクを掛ける。
「達夫、行くぞ」
 大田兄弟はレストランのエントランスの自動ドアを通る。受付担当の品のよさそうな男性店員が2人の姿を見て、不信そうにゆっくり近づいて来た。
「あのう、お食事でございますか?」
 2人は、店員の前で立ち止まってから、店員の言葉には答えず、店内を見回した。
「何なんだよ、夕飯時だってえのに、客が誰もいねえじゃねえか? くそ、どうなってるんだ」
 店員はどう答えていいか、考えあぐねたが、笑って答えた。
「隕石衝突報道からぱったり観光客が減ってしまってまして……」
 店員が答え終わらないうちに、邦夫は店員に向かって内ポケットに隠していた拳銃を取り出して言った。
「とっとと、金を出せ」
 店員は口を大きく開け、後ずさりした。邦夫は拳銃の銃口を店員に向けた。
「てめえ、死にてえのか? 」
 店員はカウンターに素早く移動すると、レジスターからつり銭の小銭3万円を掴んで差し出した。
「てめえ、なめてんのか? こんなはした金。てめえのを出せ」
 店員は泣きそうな顔になりながら、震える手で内ポケットから財布を引っ張り出して差し出した。それを達夫が、後ろから出てきてひったくると、中身を見た。万冊が束になって入っていた。
「お、こいつ、金持ちじゃん」
 邦夫がその札束を見ると、にんまり笑った。
「命拾いしたな、おっさん」
 邦夫は持っていた拳銃で店員の腹を突いた。店員が腰を追って体を丸めたところで、更に後頭部を拳銃で殴ると、店員はそのままくの字になって倒れた。倒れた店員の腹に邦夫は銃口を当て引き金を引こうとした。
「兄貴、何もそこまでしなくても」
「通報されたらまずいだろ?」
 銃声が鳴り響いた。
「さあ、引き上げるぞ」
 2人はマスクとサングラスをはずすと、意気揚揚とセダンに乗り込んだ。乗り込んできた邦夫を見るなり大輔が言った。
「兄貴、花火の音がしたけど、お祭りかしら?」
「何もない、大輔、直ぐに出せ」
  *
 県警を総動員した検問態勢が県道終端を重点的に敷かれていた。指揮者の中で警備課長の山田が苛立ちながらモニターを見つめていた。へリ2号が凶悪犯の乗るセダンのモニターの映像を送信していた。そこへ本部から入った音声が、スピーカーから流れた。
「現在逃走中のセダンは富山県スパーどんどこに駐車中、4名のグループに強奪された事が、セダンの運転手の証言により判明した。なお、襲われた運転手は軽症である。運転手の証言から犯人は拳銃を所持している可能性がある」
 その知らせを受ける前から、山田は全隊員に防弾チョッキの着用、拳銃の所持を許可していた。山田は田所教授を襲ったグループが拳銃を所持していると推測していた。
「いいか、必要とあれば発砲を許可する。凶悪犯だから気を引き締めて対応するように」
 県道の終端で上下のラインをすき間なく2重に装甲車で塞いだ。装甲車の屋根の上に選りすぐりの狙撃手4名が到着し待機した。
 やがてヘリの報告が指揮者のスピーカーから流れた。
「蛇行運転を執拗に繰り返しております。時速30キロメートル、バリケード地点までの到達距離2キロメートル」
 蛇行運転するセダンの映像がモニターで確認することができた。ヘリ2号から報告を受けた山田が全員に指令を出す。
「ネズミがやってきたぞ、総員、配置に付け」
 山田は指揮車に付けられたはしごを登り、屋根の上に上がった。県道は山道のため、カーブはうねっている。所々、県道が見え隠れしている。
 山田は双眼鏡を目元に上げて覗く。犯人が乗ったセダンはまだ見えない。山田は無線マイクを口元に運ぶと指令を出した。
「へり2号、投降を促せ、奴らの状況を説明してやるんだ」
  *
 太田邦夫率いるグループは県道を走っていた。富山県警ヘリコプター班の磯貝が操縦桿を握っていた。ナビゲーターは寺田である。
「磯貝機長、投降の呼びかけを開始します」
 機長に告げた寺田はスピーカーのスイッチを入れた。
「君たち、逃げ道はない。この先はバリケードで阻止しているから諦め投降しなさい」
 車の中で寝ていた太田邦夫が、その音に驚いて目を覚ました。
「何だ? うっせえな」
 邦夫は、拳銃を内ポケットから出して、窓ガラスを開けると、上半身を車の窓から乗り出し、拳銃をヘリのほうに向け、2発続けて撃った。驚いたヘリは急上昇して離れた。
「ざっとこんなもんよ」
 邦夫は得意そうに言った。撃った拳銃の弾は、ヘリの底部を直撃した。
「やられました」
 寺田の大腿部から出血していた。銃弾が当たった。
「至急、本部へ戻る」
 磯貝がヘリを上昇させる。下界が開けた。先にはアルプス連山が広がっている。空気が澄んでいた。太平洋の青く染まった広がりが、遠くに見えた。風のない日で、穏やかな海だった。
  *
 運転する野口は、フロントガラス越しに覗いて、ヘリコプターを見ようとするので、蛇行運転を繰り返していた。
「大輔、てめえはしっかり運転してればいいんだ。分かったか?」
「あい、分かりやした、兄貴」
「しっかし、おめえ、よくそんなんで運転免許、取れたよなあ」
「へえ? 運転免許ですか? よく分からないけど、何なんですかね、それ?」
「おめえ、運転できるって言ってたじゃねえか?」
「へい、ガキのころから父ちゃんの車を運転してやした」
「おめえ、話し、分かってねえな、冗談じゃ、ねえぞ、止めろ、止めろ」
 そんなやり取りをしているうちに、セダンの先に機動隊の装甲車が現れた。
「やっべ、ポリ公だ」
 後部座席の邦夫は、運転する野口の脇から前を覗いた。
「へえ、たくさん、いやす、豪勢でやすね、誰かパクルんすかね、兄貴」
 野口は口を大きく開けて笑って喜んでいる。
「馬鹿野郎、近づくんじゃねえ、大輔、バックしろ、バックだ」
 山田が、狙撃手にセダンのタイヤを狙って打つように、既に指示を出していた。セダンが、急ブレーキをして転回しようと横になったところで、前後のタイヤを全て完璧に狙撃手の銃弾が打ち抜いた。立ち往生しているところを見届けた山田は、マイクを取った。
「君たち、投降しなさい、抵抗をやめなさい」
 邦夫は窓ガラスを空けると、持っていた拳銃を窓から出して、四方八方に向けて、連続発射した。止まっていた装甲車の側面に数発が当たった。
「くそ、おい、銃を取れ、戦うぞ」
 邦夫が3人に声を掛ける。
「あたし、やだー、死にたくない」
 恵子が絶叫してセダンの後部座席からドアを勢いよく開けると、外に飛び出した。慌てて走るが、足がもつれて転がった。邦夫はそれを見た。
「恵子、裏切るのか? 許さん」
 邦夫は恵子の背中に向けて拳銃を発射した。恵子の背中から血しぶきが飛んだ。
「馬鹿、痛いよー、やだよー」
 転がった恵子は泣き叫んだ。しかし、その声も5秒も経つと、小さな声になっていって、いつしか無言になった。それを見ていた山田が、マイクを更に力強く握った。
「お前たち、仲間を殺すのか? やめるんだ」
 邦夫が腰に差し込んでいた拳銃を引っ張り出すと、窓から顔を出し、スピーカーに向けて、数発、拳銃を連続して発射した。先ほどから運転席のハンドルを抱いて震えていた野口が急に顔を上げた。
「あー、兄貴の馬鹿、恵ちゃんが死んじゃうよー」
 野口は叫びながらアクセルを思い切り踏んだ。セダンはガタガタ上下動をさせながら少しずつ道を塞いでいる装甲車に向かって走り出した。それを見た邦夫が叫んだ。
「大輔、てっめえ、何するんだ、気でも違ったのか?」
「気が違ったのは、兄貴だよー、恵ちゃん、撃つなんて、俺、許さないよー」
 セダンは装甲車に当たり、止った衝撃で邦夫たちは、フロントガラスのほうへ弾き飛ばされた。催涙ガスが車内に放り込まれて、全員が咳き込みながら車外へよたよたと逃げ出した。
 警官隊がいっせいに邦夫に覆いかぶさった。
「確保、全員、確保」
 警官隊が一斉に動いた。
「午後5時30分、容疑者、全て確保しました」
 指揮車内にいた山田に無線連絡が聞こえた。無言のまま握り締めていたマイクを机の上に置くと、そばにあった椅子に座ろうとしてふら付いた。
「おっと、俺も年を取ったか」
 ふらついたと思ったのは、指揮者が動いていたせいだった。揺れが大きくなり、山田はその場に倒れて起き上がれない。
「何だー、大きいぞ」
 太田に覆い被さっていた警官隊は激しい揺れのために押さえつけることができなくなった。誰もが立つことができなくて地面にしゃがんだ。周囲の山が動き出す。やがて、山道にひびが入り始め、亀裂が広がっていく。伏せていた山田は遠くの山道が崩れていくのを模型でも見るかのように見ていた。まるで砂山のようにあっさり崩れていく。山が大きく沈んでいくのが見える。指揮者のスピーカーから音声が流れていた。
「太平洋全域で大津波が発生。計測不能。アルプス山脈を越える大津波です。大津波の原因は巨大隕石の衝突によります。その衝撃波による地震も各地で発生しています。被害は推測不能です。皆さん、残念ですが避難する場所はありません」
 緊急地震速報が何回も同じ放送を流しているのを、山田は倒れながら、振動する大地の上で、聞いていた。

 午後5時15分、遠藤雅子は大阪道頓堀にあるプールで開催されていたオリンピック強化合宿に参加していた。その全日程が終了し、数人の女子選手達と梅田の青少年記念センターの大ホール・鳳凰の間に到着した。
「今日お集まりいただきました皆様、彼らをしっかりした安心、大きな支援で送り出しましょう。皆様、よくご存じのあれを、目に見える形で貢献いただければ、と存じます。どうぞよろしくお願いいたします」
 寄付を勧誘する言葉を織り交ぜながらの水泳協会理事長の挨拶が、笑いを誘いながらまずますの滑り出しとなった。
 式次第は順調に進み、司会がオリンピック出場候補30名の名前を紹介する。名前を挙げられたものが壇上に上がる。ひいきの選手が壇上に上るにつれ、そこかしこから大きな力強い拍手が上がった。
「頑張ってー」「いけいけ」「ピーピー」
 拍手と声援が起こる度、選手は手を振り愛敬を振りまいた。やがて、候補者30名全員が壇上に整列し、全員が正面を向いて深く一礼をした。ひとしきり拍手が大きくなる。突然、会場のすべて照明が点滅を繰り返した。数10回点滅が繰り返された後、完全に照明が消灯し、卓上に飾られていたキャンドルだけが明るく浮かび上がった。
「おい、余興か?」
「壇上が真っ暗だぞ」
 集まった客の中から不安の声が上がる。スタッフと思われる声が、「今、状況を調べておりますので、皆様、その場から動かないようお願いいたします。これは余興ではございません。今しばらく、そのまま、動かずお待ち願います」
 数人のスタッフがポケットライトをジャケットから取り出すと、大ホールのドアから飛び出していった。
 やがて、会場全体が小刻みに震えだし、テーブルの上の食器がカタカタと音を出す。低い音が遠くから聞こえてくるような、地面からするような、何処からか特定できない低い音が聞こえる。
「おい、これは何の音だ」
 窓の近くにいた数人が窓際に寄った。外は満月が煌々と輝いていた。都心のネオンはない。町全体が息を消してしまった。ロープのように見えるのは車の明かりである。車のライトだけが生きていた。その街の遥か先からドーという低い音が、聞こえてくるようだった。聞こえると言うより、振動が建物全体を伝わってくる。
「何の振動でしょうね」
 そして、突然、建物全体が大きくバウンドした。身体が僅かに上に浮くほどの衝撃が起きた。その衝撃で建物の窓ガラスが一瞬にして飛び散った。風が室内に吹き込んだ。
「キャー」「ワー」
 誰もが思わず叫び声を上げていた。風に吹かれて窓際のカーテンがパタパタと音を立てている。天井も一部落下した。天井の下敷きになった人が、うめき声を上げていた。薄くらい室内に、窓からの月明かりが照らしていた。外の様子を見ようとして、何人かが窓際に寄って外を眺めた。月明かりに照らされて、遠くの方に黒い大きな水平線のような山が、ほのかに見えた。山鳴りのカーブを描いた綺麗な、巨大な塀のように見える。
「何だ、あの大きな山は?」
「あんな所に山なんてないわ、あっちは東京湾よ」
「まさか、津波か?」
「馬鹿言うな、ここは駒沢で東京の中心だぞ。そんなものがあんな近くに、見える訳がない」
 遠くに、東京タワーが月明かりに照らされて、浮かび上がっていた。それがいとも簡単に、黒い塊に飲み込まれ、東京タワーが傾くのが、遠目にも分かった。高層ビルのシルエットが一つ二つ、少しずつ、黒い壁に飲まれていく。
「そんな、あれが津波だとしたら、東京タワーより遥かに高い津波と言うことになる。考えられない大きさだぞ」
「でも、あなた、今、見えているでしょ?」
 窓際にいた人々は、恐怖におののいた。そして、誰もがこのような未曾有の津波に逃げる場所は、富士山しかないことを直感した。
 しかし、富士山までどう逃げる? 逃げる時間がない。いや、あの壁があとどのくらいの時間でここまで来るのか、全く見当がつかなかった。しかし、あれが途中で消えると言うことは考えられない。四角いシルエットを飲み込みながら、壁が近づいてくるのは確実に分かった。誰の目にも、数秒後に来るような勢いだった。
 会場に居合わせた人々の、それは絶望、諦め、恐怖、共通した意識だった。恐怖が支配し、誰もが危険を承知するが、どうすることもできず、途方に暮れ、誰も動く事が出来ない。誰かが叫んだ。
「祈ろう。神におすがりするのだ」
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