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第1章
2020年8月
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大川真一は仕事を終えると、例のごとく、隣のスポーツジムに向かった。エントランスから受付カウンターを見ると、顔なじみの職員・田島が接客している。そこから20メートルほど離れたロビーに、20人ほどの人だかりができている。カウンターまで行くと、大川は、田島に声を掛けた。
「ねえ、あの若い女の子って、誰かに似てるよね」
下を向いてPC端末を操作していた田島は、大川に素早く顔を向けてから、ゆっくり人だかりのほうへ顔を向けた。
「ああ、あの子ですよね? 大川さん、見たことないんですか? オリンピック候補の遠藤雅子さん。日本記録保持者でバリバリの21歳、もちろん、独身、女子大生、今、期待されている若手スイマー、恋人にしたい女性ランキング1位、まあ、こんなところですかね」
「へえ、やっぱり、そうなんだー」
「もう、有名人もいい所ですよね」
「いいなあ……」
大川は毎日泳いでいる遠藤雅子を、羨ましく思って出た言葉だった。それを田島は勘違いして「いいですよね? ルックスいいし、可愛いっし」と、大川が遠藤に好意を寄せたと勘違いした。
しかし、そう言われた大川は。彼女を改めて見たが、彼女の姿は人に紛れて良く見えない。雑誌に載った写真を見たりし、何となく容姿は記憶していた。注目されている彼女を遠い存在のスターと感じていた。田島は、さらに言葉を重ねる。
「僕ね、遠藤と大学の水泳部で一緒だったんです。僕が3年上の先輩ですが、記録はぜんぜん出ませんでしたので、先輩なんて余り言えませんけど。もう直ぐ、インタビューが終わりそうですから紹介しますね」
大川は遠目で遠藤の姿を見守る。時々、マスコミからの質問に笑みを見せながら、若い女性らしく答えている姿は、好感が持てた。2分ほど経って、遠藤は腰を深く曲げて、記者たちに礼を言っている。記者はそれぞれにメモやボイスレコーダーをポケットにしまうと、玄関を出ていった。遠藤だけが一人ロビーに取り残された形になった。誰もいなくなると、遠藤もカウンターの前に立つ大川の存在に、気が付いた様子だった。それを見た田島が、右手を上げて手を振った。
「雅子ちゃん、終わったー?、ちょっとこっちへおいでよ」
その田島の声に反応して、丸い目を、更に丸くして笑った。健康そうな白い歯が、輝いて見えた。小走りで、こちらへ近づいてきた。
「田島さん、今日は出勤日ですか?」
「おお、働かず者、食うべからずってな、きみみたいに、援助してくれる人、いませんから」
「やだ、援助って、人聞きの悪いこと、言わないで下さいよ」
そう言ってから、大川を見て言った。
「知らない人が聞いたら、誤解するではないですか? 違いますから」
必死に顔の前で手を振っている。笑っている顔を大川は見入ってしまった。そこへ田島が、「そう、マーちゃんに紹介するよ。こちらの方は大川さんって言うんだ、」
田島は彼女に声を掛けてから、大川のほうを見た。大川は少し慌てた。心構えができていなかった。突然、駆け寄って来た遠藤を間近に見ると、スターらしく眩しいほど輝いて見えた。オーラと言うのだろうか。
「こんにちは、遠藤です。遠藤雅子って言います。どうぞ、よろしく」
雅子ははきはきとした言葉で、大川に顔を向けて話してきた。大川は雅子の明るい屈託のない顔に、言葉を失った。大川は、つい、彼女を見つめてしまっていた。
「あ、大川です。大川、真一って言います。どうも」
仕事での接客は、そつなくこなしていた自分が、信じられなかった。こんなに心が動揺して、言葉も出ないなんて。そこに田島が割って入る。
「大川さんって、ここのお得意様。常連客ってところで、ほぼ毎日通ってくれているんだ。すごいでしょ? それもここへ来るとずっと泳いでるんだ」
雅子が目を丸くした。
「あら、あたしと同じ。あたしもほぼ毎日、泳いでますから。大川さんって、彼女、いないでしょ? 」
大川は、突然、初対面の若い女の子に明け透けにそんな事を言われて驚いた。
「あ、僕、プロのスイマーですから、彼女は必要ないです」
「プロのスイマーですか?」
そんなやり取りをしている間、田島は別の来客の対応に当たっていた。
「つまり、きみはアマのスイマー、僕はプロのスイマーってことです。働きながら泳いでますので」
雅子は良く分らないという表情をして首を傾げてから、また、笑った。
「大川さんって、毎日、ここで泳いでるんですか? 1年中、欠かさずですか?」
「そうです、僕はプロですから、まあ、病気という人もいますが…… 」
「わーすごい、私と同じですね。私も毎日泳いでますから、同類です。でも、今度、そのプロの泳ぎを見せてください。すごく関心ありますから」
「いやあ、関心がある、なんて、きみの泳ぎにはかなわないと思うけど、まあ、一応、僕はプロですから」
プロという言葉に、雅子の脳の何かに引っかかり、大きな声で噴き出した。涙まで流して笑っている。若い女の子には何でも可笑しく聞こえるに違いないと大川は思った。
「あたし、また、明日、来ますから、泳ぐの、ご一緒していいですか? 」
オリンピック選手がどうしてこんな男にこうまで好意を持ってくれるのか、大川は不思議に思った。もちろん、大川もどうしてこんな雲の上のような女の子に興味を持って話しているのか自分でも不思議だった。
「もちろんです。ここはスポーツジムですから、僕に断らずとも泳げます」
「あ、そうでしたよね…… 」
また、雅子は笑った。大川は雅子との会話が、しどろもどろになっていることを自覚していたが、頭が回らないのである。いつもの自分ではなかった。こんなに若い女の子の前でしどろもどろになっている自分が信じられなかった。どうしてこの子にこんなに惹かれてしまうのか? この子とずっと一緒にいたい、と心から思ってしまった。
突然、「雅子」と呼ぶ声で、彼女は声のするほうを向いた。雅子と同じ年格好の女子が、いつの間にか直ぐそばに3人立っていた。3人のうち、背の高い体のがっしりした一人が「お話し中、すみません。時間よ、もう行くわよ」と声を掛けてきた。
腕時計を高く上げ、もう一方の手で、時計を指差している。雅子は、大川に申し訳なさそうに会釈した。大川に体を向けて「では、また、明日…… 」と、言葉少なに、大川の顔を見上げて言った。大川も彼女の顔を見つめた。
「では、また、明日…… 」
雅子は後ずさりしながら少しずつ離れると、両手を高く上げて、大きく左右に振って離れて3人と合流した。
「何? あした、またって、雅子、どういう人なの? 帰ったら、反省会やるからな! 」
4人は大はしゃぎで大川の話で盛り上がりながら離れていった。田島が雅子を見送る大川のそばに、寄って来て耳元でささやいた。
「大川さん、彼女、いい子でしょ? 誰にでも明るい、これが天然に明るいんです」
そう言われて大川も納得する。彼女と話していたら、自分も明るい気持ちになった。不思議な子だった。遠藤の後ろ姿が視界から消えると、大川は田島の方を向いた。田島が顔を寄せてきた。
「援助っていうのは、彼女は、うちの会社がスポンサーになってるんです。社長がファンなんです。というより、彼女が小さいころからここの水泳教室に来ていたせいもあるんですけどね、それが縁でスポンサーになっているって訳です。ここの宣伝にもなりますから社長も抜け目ないです」
そう言ってから、田島は辺りを見回した。いるはずのない社長の耳を心配したんだろうか。
「ねえ、あの若い女の子って、誰かに似てるよね」
下を向いてPC端末を操作していた田島は、大川に素早く顔を向けてから、ゆっくり人だかりのほうへ顔を向けた。
「ああ、あの子ですよね? 大川さん、見たことないんですか? オリンピック候補の遠藤雅子さん。日本記録保持者でバリバリの21歳、もちろん、独身、女子大生、今、期待されている若手スイマー、恋人にしたい女性ランキング1位、まあ、こんなところですかね」
「へえ、やっぱり、そうなんだー」
「もう、有名人もいい所ですよね」
「いいなあ……」
大川は毎日泳いでいる遠藤雅子を、羨ましく思って出た言葉だった。それを田島は勘違いして「いいですよね? ルックスいいし、可愛いっし」と、大川が遠藤に好意を寄せたと勘違いした。
しかし、そう言われた大川は。彼女を改めて見たが、彼女の姿は人に紛れて良く見えない。雑誌に載った写真を見たりし、何となく容姿は記憶していた。注目されている彼女を遠い存在のスターと感じていた。田島は、さらに言葉を重ねる。
「僕ね、遠藤と大学の水泳部で一緒だったんです。僕が3年上の先輩ですが、記録はぜんぜん出ませんでしたので、先輩なんて余り言えませんけど。もう直ぐ、インタビューが終わりそうですから紹介しますね」
大川は遠目で遠藤の姿を見守る。時々、マスコミからの質問に笑みを見せながら、若い女性らしく答えている姿は、好感が持てた。2分ほど経って、遠藤は腰を深く曲げて、記者たちに礼を言っている。記者はそれぞれにメモやボイスレコーダーをポケットにしまうと、玄関を出ていった。遠藤だけが一人ロビーに取り残された形になった。誰もいなくなると、遠藤もカウンターの前に立つ大川の存在に、気が付いた様子だった。それを見た田島が、右手を上げて手を振った。
「雅子ちゃん、終わったー?、ちょっとこっちへおいでよ」
その田島の声に反応して、丸い目を、更に丸くして笑った。健康そうな白い歯が、輝いて見えた。小走りで、こちらへ近づいてきた。
「田島さん、今日は出勤日ですか?」
「おお、働かず者、食うべからずってな、きみみたいに、援助してくれる人、いませんから」
「やだ、援助って、人聞きの悪いこと、言わないで下さいよ」
そう言ってから、大川を見て言った。
「知らない人が聞いたら、誤解するではないですか? 違いますから」
必死に顔の前で手を振っている。笑っている顔を大川は見入ってしまった。そこへ田島が、「そう、マーちゃんに紹介するよ。こちらの方は大川さんって言うんだ、」
田島は彼女に声を掛けてから、大川のほうを見た。大川は少し慌てた。心構えができていなかった。突然、駆け寄って来た遠藤を間近に見ると、スターらしく眩しいほど輝いて見えた。オーラと言うのだろうか。
「こんにちは、遠藤です。遠藤雅子って言います。どうぞ、よろしく」
雅子ははきはきとした言葉で、大川に顔を向けて話してきた。大川は雅子の明るい屈託のない顔に、言葉を失った。大川は、つい、彼女を見つめてしまっていた。
「あ、大川です。大川、真一って言います。どうも」
仕事での接客は、そつなくこなしていた自分が、信じられなかった。こんなに心が動揺して、言葉も出ないなんて。そこに田島が割って入る。
「大川さんって、ここのお得意様。常連客ってところで、ほぼ毎日通ってくれているんだ。すごいでしょ? それもここへ来るとずっと泳いでるんだ」
雅子が目を丸くした。
「あら、あたしと同じ。あたしもほぼ毎日、泳いでますから。大川さんって、彼女、いないでしょ? 」
大川は、突然、初対面の若い女の子に明け透けにそんな事を言われて驚いた。
「あ、僕、プロのスイマーですから、彼女は必要ないです」
「プロのスイマーですか?」
そんなやり取りをしている間、田島は別の来客の対応に当たっていた。
「つまり、きみはアマのスイマー、僕はプロのスイマーってことです。働きながら泳いでますので」
雅子は良く分らないという表情をして首を傾げてから、また、笑った。
「大川さんって、毎日、ここで泳いでるんですか? 1年中、欠かさずですか?」
「そうです、僕はプロですから、まあ、病気という人もいますが…… 」
「わーすごい、私と同じですね。私も毎日泳いでますから、同類です。でも、今度、そのプロの泳ぎを見せてください。すごく関心ありますから」
「いやあ、関心がある、なんて、きみの泳ぎにはかなわないと思うけど、まあ、一応、僕はプロですから」
プロという言葉に、雅子の脳の何かに引っかかり、大きな声で噴き出した。涙まで流して笑っている。若い女の子には何でも可笑しく聞こえるに違いないと大川は思った。
「あたし、また、明日、来ますから、泳ぐの、ご一緒していいですか? 」
オリンピック選手がどうしてこんな男にこうまで好意を持ってくれるのか、大川は不思議に思った。もちろん、大川もどうしてこんな雲の上のような女の子に興味を持って話しているのか自分でも不思議だった。
「もちろんです。ここはスポーツジムですから、僕に断らずとも泳げます」
「あ、そうでしたよね…… 」
また、雅子は笑った。大川は雅子との会話が、しどろもどろになっていることを自覚していたが、頭が回らないのである。いつもの自分ではなかった。こんなに若い女の子の前でしどろもどろになっている自分が信じられなかった。どうしてこの子にこんなに惹かれてしまうのか? この子とずっと一緒にいたい、と心から思ってしまった。
突然、「雅子」と呼ぶ声で、彼女は声のするほうを向いた。雅子と同じ年格好の女子が、いつの間にか直ぐそばに3人立っていた。3人のうち、背の高い体のがっしりした一人が「お話し中、すみません。時間よ、もう行くわよ」と声を掛けてきた。
腕時計を高く上げ、もう一方の手で、時計を指差している。雅子は、大川に申し訳なさそうに会釈した。大川に体を向けて「では、また、明日…… 」と、言葉少なに、大川の顔を見上げて言った。大川も彼女の顔を見つめた。
「では、また、明日…… 」
雅子は後ずさりしながら少しずつ離れると、両手を高く上げて、大きく左右に振って離れて3人と合流した。
「何? あした、またって、雅子、どういう人なの? 帰ったら、反省会やるからな! 」
4人は大はしゃぎで大川の話で盛り上がりながら離れていった。田島が雅子を見送る大川のそばに、寄って来て耳元でささやいた。
「大川さん、彼女、いい子でしょ? 誰にでも明るい、これが天然に明るいんです」
そう言われて大川も納得する。彼女と話していたら、自分も明るい気持ちになった。不思議な子だった。遠藤の後ろ姿が視界から消えると、大川は田島の方を向いた。田島が顔を寄せてきた。
「援助っていうのは、彼女は、うちの会社がスポンサーになってるんです。社長がファンなんです。というより、彼女が小さいころからここの水泳教室に来ていたせいもあるんですけどね、それが縁でスポンサーになっているって訳です。ここの宣伝にもなりますから社長も抜け目ないです」
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