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さらば煙草
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「先生、本当にやめられるんでしょうか?」
「大丈夫です。もうここへ来たこと自体やめられたようなもんです」
「そうですか。安心しました。下手をするとクビになるかもしれないんです」
患者の名前は 出雲崇太郎といい、某大手健康食品の課長である。まだ、27才。会社ではかなりの切れ者で通っており、将来を嘱望されている。もちろん、ライバルは多く彼を隙あれば蹴落とそうとてぐすねを轢いているのである。
出雲崇太郎は社内でも愛煙家として知られていた。中学生から吸い続けている煙草は止められるものでない。既に彼の手と煙草は一体となっていた。
崇太郎のライバルたちは「自分の健康管理のできないやつに人間の管理ができるわけがない」と陰口をたたいた。「まして健康食品を売る会社に健康を損ねる煙草を吸っているのは印象を悪くする」などと中傷した。陰口は崇太郎の耳にも入った。筋が通っているだけに会社の中でも居心地が悪かった。特に管理職で煙草を吸っているのは崇太郎だけだった。幸いなことに、管理職の崇太郎は、個室を与えられていた。書類もすべてEメールやテレビ電話でやりとりしているから、だれとも接触することもなかった。
2、3日前、直属の上司である健康部長から進められたのが、この病院だった。
「どうだね。出雲君、きみも上を目指すなら、ここらで煙草をきっぱりやめて意志の強いところを部下に見せてみたらどうだろうかね。無理だったら、こういう病院もあるから」
健康部長から差し出されたパンフレットには
「健康な思い出を作りましょう。覚せい剤、煙草をやめて、みんなで楽しい生活を。政府がお手伝いします。費用は無料です」
というような見だしで書かれていた。
そんなわけで仕方なくこの病院へやって来たという次第である。
先ほどから彼の手からは労働者の代名詞になっているハイライトの煙が、絶え間なく医務室をいぶし続けていた。
医師はと言えば、口に酸素マスクを付け、酸素ボンベを背負っていた。10帖ほどの広さの医務室は崇太郎の吐き出す煙で霞んでいた。空気清浄機は動いていたが、崇太郎の吸う煙草の量は半端ではなかった。煙草の火がフイルターまで差し掛かるころには次の煙草を箱から抜き出し、新しい煙草に吸い掛けの煙草の火を使ってつけるのである。いつも大事そうに持ち歩いている崇太郎の黒のアタッシュケースには、ハイライトの箱がぎっしりと詰まっていた。
「それでは入院は明日からということでよいですね。病院なんていう大げさなものじゃありません。専門のリハビリ施設と思ってください。これからあなたの過去の記憶を抽出しますが、痛みはありません。終わったら会計で施設の案内をもらって帰って結構です」
「入院費用は本当に無料なのでしょうか?」
「生命保険加入書と契約書にサインを頂ければ一切無料です。覚せい剤、煙草は社会悪ですから。国が費用を全額負担します。保険料はもちろん当方で支払います。無事退院の暁には解除いたします。もちろん、記憶障害が起きなければですが…。まあ、心配ありません」
それにしても、余りにもうまい話だが、きっと画期的な方法で煙草をやめられるに違いないと思った。
崇太郎は一瞬間を置いてうなずいた。はっきり言えば迷っていた。煙草を吸った思い出なんてたかが知れている。消し去ったところでどうってことはないと思った。重い足取りで病院の玄関を出た。外の心地よい風が顔をなでていった。ポケットからハイライトを引っ張り出すと、マッチを擦り、火が消えないように手で被い火をつけた。煙草を思いきり深く吸い込んだ。間を置いて思いきり煙を吐き出した。この解放感が明日から味わえないのかと思うと今まで心地よかった風が妙に冷たく感じた。
「やーね。こんな往来で堂々と有害な煙を吐き出して。良男ちゃんは、あんな人になってはいけませんよ」
子供連れの女がわざとらしく崇太郎に聞こえるように通り過ぎていった。崇太郎は帰宅途中までの2時間ほどの間、煙草を吸う人間をついに一人も見なかった。たばこ屋ももう町からは消えてしまった。崇太郎の煙草は、医療機関から煙草中毒に対する処方せんを書いてもらって、政府から買っているのである。
その晩、崇太郎は母親へ電話した。母親は地方の町に住んでいた。父親は煙草が原因で肺ガンになった。3年前から肺ガンの治療で入院していた。崇太郎は大学入学を機に東京へ来て、そのまま東京にある健康食品メーカーに就職したのである。
「母さん、元気?」
「父さんは、そう。相変わらずかい。俺、今度、リハビリ施設に入るから」
「え、煙草やめんだよ。出世にひびくから。心配するなよ」
「え、記憶障害になったらどうすんだって」
「一応、保険に入るから」
「うん、正月には帰るから」
「じゃ、電話きるよ」
翌朝、リハビリ施設の前に立った崇太郎は、ハイライトをポケットから出すといつものように火を付け最後の煙草を胸の奥の奥まで深く吸い込んだ。玄関前で建物を見上げた。なんともばか高い。先が鉛筆の先のようになって、その途中は雲にところどころ隠れていた。こんな大きな施設が必要なのだろうか、と崇太郎は思った。
「では、かねてよりご説明しておりました契約書に署名捺印をよろしく」
出雲崇太郎は契約書兼生命保険加入書に署名をし、判を押すと、書類を受付嬢に渡した。
「あのー 治療はやっぱり危険なのでしょうか? 生命保険に入るのは、やっぱりそのためなのでしょうか?」
「心配ありません。万が一のためですから。それでは出雲さんのお部屋にご案内いたします」
崇太郎は受付嬢の後について歩く。エレベーターのドアが開き受付嬢は先に入るように促した。崇太郎はエレベーターに乗ってからエレベーターの外に立ったままの受付嬢を見た。
「あなたは乗らないのですか?」
「ドアが開きましたところに案内係がおりますので、その者の指示にしたがってください。では、ご無事で」
何とも大袈裟な言い方であると思った。ドアが開くと男が待っていた。
「ようこそいらっしゃいました。私、花岡と申します。退院までお世話させていただきます」
無表情な顔をした男だった。案内された部屋は20帖ほどで、大きめのベッドがあり、デスク、テレビ、冷蔵庫、バスルームがあって、どれもアンティークで落ち着いた雰囲気を醸し出していてちょっとした高級ホテル並だった。
「先生が説明をされますのでテレビの前でお待ち下さい」
男は部屋へ案内すると一言言うなり深く一礼して部屋から出ていった。崇太郎は一人きりになってみて気が付いた。部屋に窓がないのである。そう思ったとき、テレビの電源が勝手に入り画面が明るくなった。
「はじめまして、出雲さん。爆薬取扱主任の矢田です。それではここの治療方法をこれからご説明いたします。生命保険に入っていただいたのには訳があります。つまりあなたが煙草を吸うと、あるものが爆発します。あるものが何かはお教えできません。この恐怖が煙草をやめさせるために効果があります。つまり、きっかけにすぎません。すでにこの一年間で56人もの方がこの方法でやめております。記憶障害もありません」
医師は真面目な顔をして言う。
「おい、冗談だろう」
出雲崇太郎は顔をひきつらせながら笑った。テレビの男はさらにしゃべる。
「この部屋は地下200メートルの位置にあります。出入りは乗って来られたエレベーターだけです。先ほども、ご説明しましたが、吸ったときは爆発する仕掛になっています。しかしながら、当方もリハビリ施設ですので、命にかかわらないように十分配慮しております。爆薬等危険物取扱認定資格者のスタッフ3人が、火薬を調整しておりますので、どうぞご安心ください。では元気なお身体でお会いできることを願っております」
テレビの医師は一方的にしゃべり終えると、画面は暗くなった。
出雲崇太郎は大笑いした。冗談に決まっている。煙草を吸えば分かることである。崇太郎はサイドボードのそばに近づいた。色々な国の煙草がぎっしりと並んでいた。
「もし今の話が本当だとしたら…… 」
崇太郎は手にした煙草を元に戻した。
「いや、嘘に決まっている。でも、本当だったら。ここで吸って…… 爆死ということも…… 」
崇太郎は今までの経過を分析してみた。もしかしたら、俺を会社から抹殺するためにライバルの誰かが殺し屋を雇ったのだろうか。色々な考えが逡巡する。
「大体爆発させると言ったら部屋のどこかに爆薬が仕掛けてあるのだろうか。まさか、生命保険。受取人が誰かよく確認しなかったぞ。受け取りはこの病院か。このビルの大きさ、異常だったよなあ」
崇太郎は一人ぶつぶつ言っていた。しゃべっていないと落ち着かなかった。
ドアをノックする音がした。
「だ、だ、だれだあ!」
「失礼します。お食事をお持ちしました」
先ほどの花岡という男がワゴンに食事を乗せて入ってきた。
「ねえ、私は急用を思いだした。帰るから。入院はまたの機会にするよ。今、すぐに禁煙しなくてもいいし」
「左様で…。しかしながら、契約書に捺印されました。国家衛生局からの指導もありまので、そのご希望には応えられません。残念でございます」
突然、崇太郎は花岡の胸をつかむと、思いきり顔を殴った。花岡はその勢いで後ろに跳んだ。ゴツン。壁に頭が当たって、いやな音が聞こえた。花岡は壁にもたれたまま、じっとしていた。崇太郎はエレベーターに駆け寄り、呼び出しボタンを押そうとしたが、ボタンがなかった。
「何なんだあ、ふざけんじゃない! 」
崇太郎は階段を探した。崇太郎のいた部屋の隣にドアがあった。崇太郎はドアの把手を回した。なんと、部屋中にテレビがびっしり置かれている。よく見ると、電気屋の前だった。高校の帰り道に通った見覚えのある電気屋だ。ここで、よくテレビを見ていた。同級生とたむろしていたのだ。同級生の高田が、崇太郎の前に煙草を差し出していた。ショートホープだった。
「やれよ」
そういう高田の口には煙草がくわえられ、煙がたちのぼっていた。通りすぎる町の人がけげんそうに見ていく。学生服を着て、突っ張っているところ見せるのが、愉快だった。
「やるか」
高田の手に握られた箱から煙草とライターを受け取る。煙草をくわえ、ライターで火を付けようとした。
「まてよ。こんなところで爆発したら大変なことになる。吸えないんだ」
「そうか、じゃ、やめろ」
崇太郎は煙草とライターを高田に返した。
「俺、帰るよ」
崇太郎だけ、そのグループの輪からはなれて歩きだした。
崇太郎はとぼとぼと廊下を歩いていた。また、ドアがあった。把手を回して部屋に入った。突然、山の上にいた。
「ここから見る景色。どこかで見た記憶がある」
「出雲やったぞ。ついに頂上だ」
隣に大学時代の友人鈴木がいた。ここは北海道の旭岳だ。よく、鈴木とは2人で山に登った。頂上にある石の上に、崇太郎たちは座った。
「さあ、一服するかあ」
「だめなんだ」
「お前、煙草好きだったろう?」
「すえないんだ。吸ったら、おまえもいなくなってしまうかもしれない」
「そうか…」
2人で何時間、北海道の空と雲海を眺めていたろうか。
「行くか?」
「ああ」
鈴木は立ち上がると、歩きだした。崇太郎も後に続いた。また、廊下にいた。
「このドアは何なんだろう?」
果てしなく廊下は、一直線に伸びていた。先は見えない。崇太郎は廊下に座った。見ると、ドアが果てしなく廊下と同じに続いていた。崇太郎は立ち上がって、ドアに向かって歩いた。崇太郎は次のドアを開けた。
崇太郎が小学生のころ遊んだ、公園だった。子どもたちが、砂場で砂いじりをしている。ブランコに乗っている子もいる。崇太郎は公園にポツンとあるベンチに腰掛けた。何時間も座っていたような気がする。誰かが隣に座った。
「母さん!」
男の子が大声を上げながら駆けてきた。崇太郎はびっくりした。男の子は、小学生のころの崇太郎だった。隣を見ると、若いころの母が座っていた。
「母さん、逆上がりできるようになったよ。見てよ」
男の子は母の手を引いて、鉄棒の方へ引っ張っていった。崇太郎も鉄棒のあるところまで歩いた。初めて、逆上がりができたときだ。
「うれしかったなあ。そういや、このころ煙草は吸ってなかったなあ。当り前か。変なおじさんが来て、坊や上手だねえ、と言っていたのを覚えているが、それは俺だったのかあ」
崇太郎は、鉄棒をやっている小さいころの崇太郎とそれを見守る母を眺めていた。小さいころの崇太郎は、ついに疲れて帰っていった。崇太郎はまた歩き始めた。
また、廊下にいた。
ドアが見える。おそるおそる把手を回して開けた。
「何なんだこの部屋。いやに懐かしい」
どこかのうちの玄関みたいだった。見覚えがあった。
「ここって、俺が高校まで住んでいた家の玄関だ。玄関を上がると廊下の先に親父の書斎があるんだ。懐かしいなあ」
崇太郎は書斎の前を通る。書斎のドアが開いていた。崇太郎はびっくりした。崇太郎の父がいたのだ。
「おう、帰ったのか? ちょっと来なさい」
父は文机に向かって、煙草をふかしていた。崇太郎は父の脇に座った。
「どうだ、勉強の方は? 」
「まあまあです」
「そうか」
「父さん、それうまいですか? 」
「おお、おまえも吸うか? 」
崇太郎は、父の吸いかけの煙草を一口吸おうとした。
崇太郎は、思い出した。俺が初めて煙草を吸ったのは、父親に勧められてからだった。
「父さん、俺が煙草吸うと、爆発するらしいんです。父さんまで巻き添えにはできません」
「そうか…」
「おれ、煙草は吸いません」
「そうか…」
崇太郎が書斎を出ると、また廊下だった。
まだまだ、ドアは続くようだった。崇太郎は泣いた。いくつもの大切な思い出が消えていったような気がした。もう、何日もこの廊下を歩いているような気がしてきた。いったいいくつのドアに入ったろう。
「この部屋はぼくの人生そのものなんだ」
そのとき、花岡が歩いてきた。
「治療は済みました」
「そうですか…」
崇太郎はリハビリ施設の玄関を出た。建物を見上げた。
「建物がなんでこんなに高いのかなあ。ところで、何しに、ここへ来たんだっけなあ」
崇太郎は持っていたアタッシュケースを開いた。空っぽだった。何か大切なものが入っていたような気がしたが……
「大丈夫です。もうここへ来たこと自体やめられたようなもんです」
「そうですか。安心しました。下手をするとクビになるかもしれないんです」
患者の名前は 出雲崇太郎といい、某大手健康食品の課長である。まだ、27才。会社ではかなりの切れ者で通っており、将来を嘱望されている。もちろん、ライバルは多く彼を隙あれば蹴落とそうとてぐすねを轢いているのである。
出雲崇太郎は社内でも愛煙家として知られていた。中学生から吸い続けている煙草は止められるものでない。既に彼の手と煙草は一体となっていた。
崇太郎のライバルたちは「自分の健康管理のできないやつに人間の管理ができるわけがない」と陰口をたたいた。「まして健康食品を売る会社に健康を損ねる煙草を吸っているのは印象を悪くする」などと中傷した。陰口は崇太郎の耳にも入った。筋が通っているだけに会社の中でも居心地が悪かった。特に管理職で煙草を吸っているのは崇太郎だけだった。幸いなことに、管理職の崇太郎は、個室を与えられていた。書類もすべてEメールやテレビ電話でやりとりしているから、だれとも接触することもなかった。
2、3日前、直属の上司である健康部長から進められたのが、この病院だった。
「どうだね。出雲君、きみも上を目指すなら、ここらで煙草をきっぱりやめて意志の強いところを部下に見せてみたらどうだろうかね。無理だったら、こういう病院もあるから」
健康部長から差し出されたパンフレットには
「健康な思い出を作りましょう。覚せい剤、煙草をやめて、みんなで楽しい生活を。政府がお手伝いします。費用は無料です」
というような見だしで書かれていた。
そんなわけで仕方なくこの病院へやって来たという次第である。
先ほどから彼の手からは労働者の代名詞になっているハイライトの煙が、絶え間なく医務室をいぶし続けていた。
医師はと言えば、口に酸素マスクを付け、酸素ボンベを背負っていた。10帖ほどの広さの医務室は崇太郎の吐き出す煙で霞んでいた。空気清浄機は動いていたが、崇太郎の吸う煙草の量は半端ではなかった。煙草の火がフイルターまで差し掛かるころには次の煙草を箱から抜き出し、新しい煙草に吸い掛けの煙草の火を使ってつけるのである。いつも大事そうに持ち歩いている崇太郎の黒のアタッシュケースには、ハイライトの箱がぎっしりと詰まっていた。
「それでは入院は明日からということでよいですね。病院なんていう大げさなものじゃありません。専門のリハビリ施設と思ってください。これからあなたの過去の記憶を抽出しますが、痛みはありません。終わったら会計で施設の案内をもらって帰って結構です」
「入院費用は本当に無料なのでしょうか?」
「生命保険加入書と契約書にサインを頂ければ一切無料です。覚せい剤、煙草は社会悪ですから。国が費用を全額負担します。保険料はもちろん当方で支払います。無事退院の暁には解除いたします。もちろん、記憶障害が起きなければですが…。まあ、心配ありません」
それにしても、余りにもうまい話だが、きっと画期的な方法で煙草をやめられるに違いないと思った。
崇太郎は一瞬間を置いてうなずいた。はっきり言えば迷っていた。煙草を吸った思い出なんてたかが知れている。消し去ったところでどうってことはないと思った。重い足取りで病院の玄関を出た。外の心地よい風が顔をなでていった。ポケットからハイライトを引っ張り出すと、マッチを擦り、火が消えないように手で被い火をつけた。煙草を思いきり深く吸い込んだ。間を置いて思いきり煙を吐き出した。この解放感が明日から味わえないのかと思うと今まで心地よかった風が妙に冷たく感じた。
「やーね。こんな往来で堂々と有害な煙を吐き出して。良男ちゃんは、あんな人になってはいけませんよ」
子供連れの女がわざとらしく崇太郎に聞こえるように通り過ぎていった。崇太郎は帰宅途中までの2時間ほどの間、煙草を吸う人間をついに一人も見なかった。たばこ屋ももう町からは消えてしまった。崇太郎の煙草は、医療機関から煙草中毒に対する処方せんを書いてもらって、政府から買っているのである。
その晩、崇太郎は母親へ電話した。母親は地方の町に住んでいた。父親は煙草が原因で肺ガンになった。3年前から肺ガンの治療で入院していた。崇太郎は大学入学を機に東京へ来て、そのまま東京にある健康食品メーカーに就職したのである。
「母さん、元気?」
「父さんは、そう。相変わらずかい。俺、今度、リハビリ施設に入るから」
「え、煙草やめんだよ。出世にひびくから。心配するなよ」
「え、記憶障害になったらどうすんだって」
「一応、保険に入るから」
「うん、正月には帰るから」
「じゃ、電話きるよ」
翌朝、リハビリ施設の前に立った崇太郎は、ハイライトをポケットから出すといつものように火を付け最後の煙草を胸の奥の奥まで深く吸い込んだ。玄関前で建物を見上げた。なんともばか高い。先が鉛筆の先のようになって、その途中は雲にところどころ隠れていた。こんな大きな施設が必要なのだろうか、と崇太郎は思った。
「では、かねてよりご説明しておりました契約書に署名捺印をよろしく」
出雲崇太郎は契約書兼生命保険加入書に署名をし、判を押すと、書類を受付嬢に渡した。
「あのー 治療はやっぱり危険なのでしょうか? 生命保険に入るのは、やっぱりそのためなのでしょうか?」
「心配ありません。万が一のためですから。それでは出雲さんのお部屋にご案内いたします」
崇太郎は受付嬢の後について歩く。エレベーターのドアが開き受付嬢は先に入るように促した。崇太郎はエレベーターに乗ってからエレベーターの外に立ったままの受付嬢を見た。
「あなたは乗らないのですか?」
「ドアが開きましたところに案内係がおりますので、その者の指示にしたがってください。では、ご無事で」
何とも大袈裟な言い方であると思った。ドアが開くと男が待っていた。
「ようこそいらっしゃいました。私、花岡と申します。退院までお世話させていただきます」
無表情な顔をした男だった。案内された部屋は20帖ほどで、大きめのベッドがあり、デスク、テレビ、冷蔵庫、バスルームがあって、どれもアンティークで落ち着いた雰囲気を醸し出していてちょっとした高級ホテル並だった。
「先生が説明をされますのでテレビの前でお待ち下さい」
男は部屋へ案内すると一言言うなり深く一礼して部屋から出ていった。崇太郎は一人きりになってみて気が付いた。部屋に窓がないのである。そう思ったとき、テレビの電源が勝手に入り画面が明るくなった。
「はじめまして、出雲さん。爆薬取扱主任の矢田です。それではここの治療方法をこれからご説明いたします。生命保険に入っていただいたのには訳があります。つまりあなたが煙草を吸うと、あるものが爆発します。あるものが何かはお教えできません。この恐怖が煙草をやめさせるために効果があります。つまり、きっかけにすぎません。すでにこの一年間で56人もの方がこの方法でやめております。記憶障害もありません」
医師は真面目な顔をして言う。
「おい、冗談だろう」
出雲崇太郎は顔をひきつらせながら笑った。テレビの男はさらにしゃべる。
「この部屋は地下200メートルの位置にあります。出入りは乗って来られたエレベーターだけです。先ほども、ご説明しましたが、吸ったときは爆発する仕掛になっています。しかしながら、当方もリハビリ施設ですので、命にかかわらないように十分配慮しております。爆薬等危険物取扱認定資格者のスタッフ3人が、火薬を調整しておりますので、どうぞご安心ください。では元気なお身体でお会いできることを願っております」
テレビの医師は一方的にしゃべり終えると、画面は暗くなった。
出雲崇太郎は大笑いした。冗談に決まっている。煙草を吸えば分かることである。崇太郎はサイドボードのそばに近づいた。色々な国の煙草がぎっしりと並んでいた。
「もし今の話が本当だとしたら…… 」
崇太郎は手にした煙草を元に戻した。
「いや、嘘に決まっている。でも、本当だったら。ここで吸って…… 爆死ということも…… 」
崇太郎は今までの経過を分析してみた。もしかしたら、俺を会社から抹殺するためにライバルの誰かが殺し屋を雇ったのだろうか。色々な考えが逡巡する。
「大体爆発させると言ったら部屋のどこかに爆薬が仕掛けてあるのだろうか。まさか、生命保険。受取人が誰かよく確認しなかったぞ。受け取りはこの病院か。このビルの大きさ、異常だったよなあ」
崇太郎は一人ぶつぶつ言っていた。しゃべっていないと落ち着かなかった。
ドアをノックする音がした。
「だ、だ、だれだあ!」
「失礼します。お食事をお持ちしました」
先ほどの花岡という男がワゴンに食事を乗せて入ってきた。
「ねえ、私は急用を思いだした。帰るから。入院はまたの機会にするよ。今、すぐに禁煙しなくてもいいし」
「左様で…。しかしながら、契約書に捺印されました。国家衛生局からの指導もありまので、そのご希望には応えられません。残念でございます」
突然、崇太郎は花岡の胸をつかむと、思いきり顔を殴った。花岡はその勢いで後ろに跳んだ。ゴツン。壁に頭が当たって、いやな音が聞こえた。花岡は壁にもたれたまま、じっとしていた。崇太郎はエレベーターに駆け寄り、呼び出しボタンを押そうとしたが、ボタンがなかった。
「何なんだあ、ふざけんじゃない! 」
崇太郎は階段を探した。崇太郎のいた部屋の隣にドアがあった。崇太郎はドアの把手を回した。なんと、部屋中にテレビがびっしり置かれている。よく見ると、電気屋の前だった。高校の帰り道に通った見覚えのある電気屋だ。ここで、よくテレビを見ていた。同級生とたむろしていたのだ。同級生の高田が、崇太郎の前に煙草を差し出していた。ショートホープだった。
「やれよ」
そういう高田の口には煙草がくわえられ、煙がたちのぼっていた。通りすぎる町の人がけげんそうに見ていく。学生服を着て、突っ張っているところ見せるのが、愉快だった。
「やるか」
高田の手に握られた箱から煙草とライターを受け取る。煙草をくわえ、ライターで火を付けようとした。
「まてよ。こんなところで爆発したら大変なことになる。吸えないんだ」
「そうか、じゃ、やめろ」
崇太郎は煙草とライターを高田に返した。
「俺、帰るよ」
崇太郎だけ、そのグループの輪からはなれて歩きだした。
崇太郎はとぼとぼと廊下を歩いていた。また、ドアがあった。把手を回して部屋に入った。突然、山の上にいた。
「ここから見る景色。どこかで見た記憶がある」
「出雲やったぞ。ついに頂上だ」
隣に大学時代の友人鈴木がいた。ここは北海道の旭岳だ。よく、鈴木とは2人で山に登った。頂上にある石の上に、崇太郎たちは座った。
「さあ、一服するかあ」
「だめなんだ」
「お前、煙草好きだったろう?」
「すえないんだ。吸ったら、おまえもいなくなってしまうかもしれない」
「そうか…」
2人で何時間、北海道の空と雲海を眺めていたろうか。
「行くか?」
「ああ」
鈴木は立ち上がると、歩きだした。崇太郎も後に続いた。また、廊下にいた。
「このドアは何なんだろう?」
果てしなく廊下は、一直線に伸びていた。先は見えない。崇太郎は廊下に座った。見ると、ドアが果てしなく廊下と同じに続いていた。崇太郎は立ち上がって、ドアに向かって歩いた。崇太郎は次のドアを開けた。
崇太郎が小学生のころ遊んだ、公園だった。子どもたちが、砂場で砂いじりをしている。ブランコに乗っている子もいる。崇太郎は公園にポツンとあるベンチに腰掛けた。何時間も座っていたような気がする。誰かが隣に座った。
「母さん!」
男の子が大声を上げながら駆けてきた。崇太郎はびっくりした。男の子は、小学生のころの崇太郎だった。隣を見ると、若いころの母が座っていた。
「母さん、逆上がりできるようになったよ。見てよ」
男の子は母の手を引いて、鉄棒の方へ引っ張っていった。崇太郎も鉄棒のあるところまで歩いた。初めて、逆上がりができたときだ。
「うれしかったなあ。そういや、このころ煙草は吸ってなかったなあ。当り前か。変なおじさんが来て、坊や上手だねえ、と言っていたのを覚えているが、それは俺だったのかあ」
崇太郎は、鉄棒をやっている小さいころの崇太郎とそれを見守る母を眺めていた。小さいころの崇太郎は、ついに疲れて帰っていった。崇太郎はまた歩き始めた。
また、廊下にいた。
ドアが見える。おそるおそる把手を回して開けた。
「何なんだこの部屋。いやに懐かしい」
どこかのうちの玄関みたいだった。見覚えがあった。
「ここって、俺が高校まで住んでいた家の玄関だ。玄関を上がると廊下の先に親父の書斎があるんだ。懐かしいなあ」
崇太郎は書斎の前を通る。書斎のドアが開いていた。崇太郎はびっくりした。崇太郎の父がいたのだ。
「おう、帰ったのか? ちょっと来なさい」
父は文机に向かって、煙草をふかしていた。崇太郎は父の脇に座った。
「どうだ、勉強の方は? 」
「まあまあです」
「そうか」
「父さん、それうまいですか? 」
「おお、おまえも吸うか? 」
崇太郎は、父の吸いかけの煙草を一口吸おうとした。
崇太郎は、思い出した。俺が初めて煙草を吸ったのは、父親に勧められてからだった。
「父さん、俺が煙草吸うと、爆発するらしいんです。父さんまで巻き添えにはできません」
「そうか…」
「おれ、煙草は吸いません」
「そうか…」
崇太郎が書斎を出ると、また廊下だった。
まだまだ、ドアは続くようだった。崇太郎は泣いた。いくつもの大切な思い出が消えていったような気がした。もう、何日もこの廊下を歩いているような気がしてきた。いったいいくつのドアに入ったろう。
「この部屋はぼくの人生そのものなんだ」
そのとき、花岡が歩いてきた。
「治療は済みました」
「そうですか…」
崇太郎はリハビリ施設の玄関を出た。建物を見上げた。
「建物がなんでこんなに高いのかなあ。ところで、何しに、ここへ来たんだっけなあ」
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「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
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