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2 氷の魔女はものすごく鈍い
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一日の業務を終え寮へと帰宅した私は、まず最初に花を生ける事にした。
花瓶などという上等なものはここには無いので、この間空にしたばかりの牛乳瓶を拝借する。窓辺に飾ってみると殺風景な部屋が中々に華やかになって、この花を贈ってくれた相手に感謝の気持ちを抱かずにはいられなかった。
マットソン少佐は結局何が言いたかったのだろうか。そんな事を考えながら花を眺めていると、その中にカードが差し込まれている事に気がついた。
取り出して二つ折りのそれを開くと、そこには一言こう書かれている。
《愛しています》
……なるほど。このカードには暗号が隠されていて、読み解く事によって真意がわかると、そういう事だったのだ。
それならば私のやるべき事はただ一つ。どこまで出来るか分からないが、暗号を解くために努力してみよう。
作業に取り掛かって2時間ほど。私はほとほと困り果ててしまって、手にしていたペンを机の上に置いた。
モールス信号や手旗信号、その他言語などは既にあの手この手で組み合わせてみたものの、このカードに隠されているであろうマットソン少佐の真意は未だ解らず。他にも上3分の1を隠してみたり、逆から読んでみたり、大文字にしてみたりとベタな手は大体試したが、なんの成果も得られずに終わった。
私の研究分野は氷魔法なので、暗号の解読任務は流石に無謀だったらしい。
ふん、と一つ伸びをして、凝り固まった体をほぐしてみる。さすがにもう8時、お腹が空いてきてしまった。
戸棚を開けると、調味料と一食分程度のパンしか入っていない。そう、何を隠そう私は料理が苦手なのだ。適当に刻んだ野菜をトマトで煮たスープと、買ってきたパンにハムとチーズを挟む、これの繰り返し。女性の作る料理としては大味だが、苦手なのだから仕方がない。
さて、これでは買い出しに行かなければならない。私は仕方なくコートを羽織って部屋を後にした。
出るとすぐにちょっとした商店街があるのがこの寮のいいところだ。ここは官庁街の一角で、各省庁の寮が集まっているので、食材類を扱う店や食堂などには一定の需要がある。今日も行きつけのパン屋に向かうべく、私は一歩を踏み出した。
まさかそのパン屋の前でマットソン少佐に会おうとは。
「フレヤ嬢⁉︎ どうして……!」
彼は心底驚いたらしく、目を見開いてこちらを見つめていた。彼はちょうど帰宅途中だったようで、軍服の上に黒い外套という出で立ちだった。私も驚いているのだが、表情には出ていなかったことだろう。
「マットソン少佐。こんばんは」
「ああ、こんばんは。フレヤ嬢は明日の朝食の買い出しか?」
「いいえ、今から食べるぶんよ」
「夕飯はまだなのか」
「ええ。買い出しに来たところなの」
「そうか。なら、一緒に食事に行かないか」
少し考えるようにしてから告げられた言葉に、私は瞬きを二つしてしまった。どうしてマットソン少佐が誘ってくださるのだろうか。
私の無表情から怪訝な色を感じ取ったらしい彼は、少しだけ眉を下げて、どこか残念そうに笑った。
「少し話がしたいんだ。無理にとは言わないけどな」
なるほど、そういうことか。きっとあの突然の求婚の理由を説明してくれるのだろう。
「構わないわ」
「良かった。じゃ、さっそく行くとするか」
私の返事を受けて、マットソン少佐は明るく笑うと、官庁街に背を向けて歩き始めたのだった。
マットソン少佐の選んだお店は見るからに高級そうなレストランだった。これは手持ちギリギリかもしれない。気を付けてメニューを選ばなければ。
私はこのようなお店に来たことは一度もないので、物慣れた大人たちが落ち着いた様子で食事を取り、酒を酌み交わす様は新鮮だった。気もそぞろに料理を選んだものの、その瀟洒な空気になんとなく片身が狭い思いがして固くなっていると、彼はふと微笑んで見せる。
「何だ、そんなに緊張しなくてもいいのに」
私は純粋に驚いていた。私の感情を読み取れる人なんて、今まで殆ど居なかったのだから。
「……なぜ解るの?」
「え? なぜって、そりゃ解るだろ」
マットソン少佐はなんでそんなことを聞くのかわからないといった表情で首を傾げている。
すごい。すごい観察眼だ。軍人というものは皆さんそうなのだろうか。それはどうあれこれには感服せざるを得ない。
「そう。それで、用件というのは?」
しかし、私の口から彼への褒め言葉が出てくることはなかった。私の口下手ぶりはいつものこととはいえ、ちょっと情けなさすぎてため息を吐いてしまいそうだ。
本当に可愛げのない女。何か事情があるとはいえ、なぜ彼は私などにプロポーズをしたのだろう。
マットソン少佐は私の問いに一瞬息を詰めたようだった。しかしやがて視線を合わせると、意を決したように話し始めた。
「実は、今朝のことなんだが」
やっぱりその話。予想に違わぬ彼の言葉に、私は無言で聞く姿勢を取り続ける。
「俺も急ぎすぎたと思ってな。気持ちには少しの変化もないが、一度あの話は撤回させて欲しい。それでだ」
そこで一度言葉を切った彼は、私が大人しく話を聞いているのを確認したようだった。そして、次の言葉を一息に言い切ったのだ。
「まずは、俺と付き合ってくれ!」
よく通るその声に、周りの空気がざわりと揺れた。どこに行っても目立つ人だ。
マットソン少佐は顔を赤くして、私の言葉を待っているようだった。注目を集めてしまったことが照れ臭かったのだろうか。
「わかったわ」
おお、と周囲の人々が湧く。好奇の視線が痛い。
「ほ、本当か⁉︎」
「ええ。それで、どこへ行けば良いの」
「………へ」
魔法を発動させた瞬間のように輝いた表情も一瞬、彼は続く私の言葉に微妙すぎる表情を浮かべた。お客さんたちは皆一様に残念そうな顔をしている。そう、今日の研究室で嫌という程向けられたあの胡乱げな視線だ。なぜそんな目で見られなければならないのだろうか。
マットソン少佐はしばらく動きを停止させていたが、ややあって額を覆ってため息を吐いてしまった。何だか朝にも同じ仕草を見たような気がする。
「そんなベタな勘違いってある……?」
何やら呟いているようだが、よく聞こえずに私は首を傾げた。
やはりこれは、私が不調法をしてしまったのだろう。自己嫌悪に陥っていたら、不意に私の脳裏をかつての記憶が駆け抜けていった。
父から向けられる蔑みの目。出て行け、と淡々と告げる声。私は頷いて、雪の吹きすさぶ外へと——。
「……わかった。今はそれでいい」
マットソン少佐の低い声音に、私は記憶に沈んでいた思考回路を引っ張り上げた。
彼は深緑色の瞳で、私を真っ直ぐに見つめている。その目に押し込められたのは呆れではなくもっと別のものに思えたが、それが何なのか推し量ることはできなかった。
「ちょっと行ってみたいところがあるんだ。付き合ってくれないか」
彼がプロポーズなどという突飛な行動に出た理由は、行ってみたい場所に私を付き合わせるためということで良いのだろうか。それにしては「今はそれでいい」という言い回しが気になるのだが。
何はともあれ、せっかく私のような者をお誘い下さったのに、お断りする理由もない。
「私でお役に立てるなら」
「……! ありがとう、フレヤ嬢! 俺は、本当に嬉しいよ!」
頷いた私に、彼はあの暖かく明るい笑みを見せた。喜んでもらえたのなら何よりだ。
その後登場した料理はとても美味しかった。簡素すぎるスープに慣らされた舌が、凝った味付けに驚いてしまうほどに。
そして会計の段になって、彼はなんと食事代を払うと申し出てきたのだ。私はそれを固辞しようとしたのだが、結局「俺の顔を立てると思って」と押し切られてしまったのである。
「ご馳走様でした。美味しかったです」
店の前にて、私は畏まって頭を下げた。値段の無いメニューだったので判然としないが、きっとかなりの金額がしたことだろう。まさかここまで気を遣わせてしまうなんて。
無表情ではあるものの、私が恐縮しきっていることはマットソン少佐に伝わっていたようだ。顔を上げると、彼は「楽しんでもらえたならそれだけで十分だ」と微笑んでくれた。
「さて、家まで送るか。あそこに居たということは、フレヤ嬢は寮暮らしなんだろう?」
「いいえ、そんな」
「俺も寮暮らしなんだ、どうせ方向は同じだろ」
「……それもそうね」
確かにそれなら離れて帰るのも不自然だろう。私の答えを受けて、彼は嬉しそうに頷いたのだった。
花瓶などという上等なものはここには無いので、この間空にしたばかりの牛乳瓶を拝借する。窓辺に飾ってみると殺風景な部屋が中々に華やかになって、この花を贈ってくれた相手に感謝の気持ちを抱かずにはいられなかった。
マットソン少佐は結局何が言いたかったのだろうか。そんな事を考えながら花を眺めていると、その中にカードが差し込まれている事に気がついた。
取り出して二つ折りのそれを開くと、そこには一言こう書かれている。
《愛しています》
……なるほど。このカードには暗号が隠されていて、読み解く事によって真意がわかると、そういう事だったのだ。
それならば私のやるべき事はただ一つ。どこまで出来るか分からないが、暗号を解くために努力してみよう。
作業に取り掛かって2時間ほど。私はほとほと困り果ててしまって、手にしていたペンを机の上に置いた。
モールス信号や手旗信号、その他言語などは既にあの手この手で組み合わせてみたものの、このカードに隠されているであろうマットソン少佐の真意は未だ解らず。他にも上3分の1を隠してみたり、逆から読んでみたり、大文字にしてみたりとベタな手は大体試したが、なんの成果も得られずに終わった。
私の研究分野は氷魔法なので、暗号の解読任務は流石に無謀だったらしい。
ふん、と一つ伸びをして、凝り固まった体をほぐしてみる。さすがにもう8時、お腹が空いてきてしまった。
戸棚を開けると、調味料と一食分程度のパンしか入っていない。そう、何を隠そう私は料理が苦手なのだ。適当に刻んだ野菜をトマトで煮たスープと、買ってきたパンにハムとチーズを挟む、これの繰り返し。女性の作る料理としては大味だが、苦手なのだから仕方がない。
さて、これでは買い出しに行かなければならない。私は仕方なくコートを羽織って部屋を後にした。
出るとすぐにちょっとした商店街があるのがこの寮のいいところだ。ここは官庁街の一角で、各省庁の寮が集まっているので、食材類を扱う店や食堂などには一定の需要がある。今日も行きつけのパン屋に向かうべく、私は一歩を踏み出した。
まさかそのパン屋の前でマットソン少佐に会おうとは。
「フレヤ嬢⁉︎ どうして……!」
彼は心底驚いたらしく、目を見開いてこちらを見つめていた。彼はちょうど帰宅途中だったようで、軍服の上に黒い外套という出で立ちだった。私も驚いているのだが、表情には出ていなかったことだろう。
「マットソン少佐。こんばんは」
「ああ、こんばんは。フレヤ嬢は明日の朝食の買い出しか?」
「いいえ、今から食べるぶんよ」
「夕飯はまだなのか」
「ええ。買い出しに来たところなの」
「そうか。なら、一緒に食事に行かないか」
少し考えるようにしてから告げられた言葉に、私は瞬きを二つしてしまった。どうしてマットソン少佐が誘ってくださるのだろうか。
私の無表情から怪訝な色を感じ取ったらしい彼は、少しだけ眉を下げて、どこか残念そうに笑った。
「少し話がしたいんだ。無理にとは言わないけどな」
なるほど、そういうことか。きっとあの突然の求婚の理由を説明してくれるのだろう。
「構わないわ」
「良かった。じゃ、さっそく行くとするか」
私の返事を受けて、マットソン少佐は明るく笑うと、官庁街に背を向けて歩き始めたのだった。
マットソン少佐の選んだお店は見るからに高級そうなレストランだった。これは手持ちギリギリかもしれない。気を付けてメニューを選ばなければ。
私はこのようなお店に来たことは一度もないので、物慣れた大人たちが落ち着いた様子で食事を取り、酒を酌み交わす様は新鮮だった。気もそぞろに料理を選んだものの、その瀟洒な空気になんとなく片身が狭い思いがして固くなっていると、彼はふと微笑んで見せる。
「何だ、そんなに緊張しなくてもいいのに」
私は純粋に驚いていた。私の感情を読み取れる人なんて、今まで殆ど居なかったのだから。
「……なぜ解るの?」
「え? なぜって、そりゃ解るだろ」
マットソン少佐はなんでそんなことを聞くのかわからないといった表情で首を傾げている。
すごい。すごい観察眼だ。軍人というものは皆さんそうなのだろうか。それはどうあれこれには感服せざるを得ない。
「そう。それで、用件というのは?」
しかし、私の口から彼への褒め言葉が出てくることはなかった。私の口下手ぶりはいつものこととはいえ、ちょっと情けなさすぎてため息を吐いてしまいそうだ。
本当に可愛げのない女。何か事情があるとはいえ、なぜ彼は私などにプロポーズをしたのだろう。
マットソン少佐は私の問いに一瞬息を詰めたようだった。しかしやがて視線を合わせると、意を決したように話し始めた。
「実は、今朝のことなんだが」
やっぱりその話。予想に違わぬ彼の言葉に、私は無言で聞く姿勢を取り続ける。
「俺も急ぎすぎたと思ってな。気持ちには少しの変化もないが、一度あの話は撤回させて欲しい。それでだ」
そこで一度言葉を切った彼は、私が大人しく話を聞いているのを確認したようだった。そして、次の言葉を一息に言い切ったのだ。
「まずは、俺と付き合ってくれ!」
よく通るその声に、周りの空気がざわりと揺れた。どこに行っても目立つ人だ。
マットソン少佐は顔を赤くして、私の言葉を待っているようだった。注目を集めてしまったことが照れ臭かったのだろうか。
「わかったわ」
おお、と周囲の人々が湧く。好奇の視線が痛い。
「ほ、本当か⁉︎」
「ええ。それで、どこへ行けば良いの」
「………へ」
魔法を発動させた瞬間のように輝いた表情も一瞬、彼は続く私の言葉に微妙すぎる表情を浮かべた。お客さんたちは皆一様に残念そうな顔をしている。そう、今日の研究室で嫌という程向けられたあの胡乱げな視線だ。なぜそんな目で見られなければならないのだろうか。
マットソン少佐はしばらく動きを停止させていたが、ややあって額を覆ってため息を吐いてしまった。何だか朝にも同じ仕草を見たような気がする。
「そんなベタな勘違いってある……?」
何やら呟いているようだが、よく聞こえずに私は首を傾げた。
やはりこれは、私が不調法をしてしまったのだろう。自己嫌悪に陥っていたら、不意に私の脳裏をかつての記憶が駆け抜けていった。
父から向けられる蔑みの目。出て行け、と淡々と告げる声。私は頷いて、雪の吹きすさぶ外へと——。
「……わかった。今はそれでいい」
マットソン少佐の低い声音に、私は記憶に沈んでいた思考回路を引っ張り上げた。
彼は深緑色の瞳で、私を真っ直ぐに見つめている。その目に押し込められたのは呆れではなくもっと別のものに思えたが、それが何なのか推し量ることはできなかった。
「ちょっと行ってみたいところがあるんだ。付き合ってくれないか」
彼がプロポーズなどという突飛な行動に出た理由は、行ってみたい場所に私を付き合わせるためということで良いのだろうか。それにしては「今はそれでいい」という言い回しが気になるのだが。
何はともあれ、せっかく私のような者をお誘い下さったのに、お断りする理由もない。
「私でお役に立てるなら」
「……! ありがとう、フレヤ嬢! 俺は、本当に嬉しいよ!」
頷いた私に、彼はあの暖かく明るい笑みを見せた。喜んでもらえたのなら何よりだ。
その後登場した料理はとても美味しかった。簡素すぎるスープに慣らされた舌が、凝った味付けに驚いてしまうほどに。
そして会計の段になって、彼はなんと食事代を払うと申し出てきたのだ。私はそれを固辞しようとしたのだが、結局「俺の顔を立てると思って」と押し切られてしまったのである。
「ご馳走様でした。美味しかったです」
店の前にて、私は畏まって頭を下げた。値段の無いメニューだったので判然としないが、きっとかなりの金額がしたことだろう。まさかここまで気を遣わせてしまうなんて。
無表情ではあるものの、私が恐縮しきっていることはマットソン少佐に伝わっていたようだ。顔を上げると、彼は「楽しんでもらえたならそれだけで十分だ」と微笑んでくれた。
「さて、家まで送るか。あそこに居たということは、フレヤ嬢は寮暮らしなんだろう?」
「いいえ、そんな」
「俺も寮暮らしなんだ、どうせ方向は同じだろ」
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