従者の愛と葛藤の日々

紀村 紀壱

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2話 救世主?いいえ弟です 3【2話完】

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 オーグ・ルバフェンには、人の顔色を見て、そこにどういった感情があるのかを明確に読み取ることができるという特技があった。
 通常、人間関係を築く上で、人の顔をじっくり見るといったことがはばかられるような場面があるが。オーグの場合、その視線を本来は日光を遮るための厚いフードと、顔布と、さらにその下のサングラスが隠していて。彼は平素から何の気兼ねもなく他者の様子を観察し、そして確実に相手の機微を悟る業を身につけたのだった。
 その特技でもって。
「まあ、なんだ。ぶっちゃけた話、アンタ兄貴に対して、別に恋愛感情とか持ってねーだろ」
 走ったせいで吹き出した汗が今更になって蒸れてきて。フードの上からガリガリと頭をかきつつ、オーグは溜息を含ませた声で尋ねた。
 あの、男相手に盛っている兄という衝撃の現場を目撃して。流石に幾ら疑念があろうが、最中にこんにちは、と割って入れるほどオーグの神経は図太くない。だから本気で、自分は何も見なかったと、この光景は忘れようと、逃げるように居間の扉を閉めようとしたのだ。
 だが、ドアノブに手をかけた、その刹那。
 アルグの体の向こうから、己に視線を投げるルスターと目があった。視線が絡んだのはほんの一瞬。しかし、その僅かな時間で、オーグはルスターの感情を嫌というほど読み取ったのだ。
 間の悪い状態を見られて、気恥ずかしさをいだいているような、気まずさを覚えているような。そんな顔のように通常なら見えただろう。
 しかし人の感情を細かく観察してきたオーグには、ルスターのその表情に、「どうかこの場から助けて欲しい」と。そう書かれているのに気がついた。故に、とっさに試すように嘘をつけば。
 本当に合意のうえなら『平気だ』と、『なんでもない』といったことを言うはずだが、ルスターはオーグの付いた嘘に乗ってきた。その瞬間、オーグは確信した。まるでパズルのピースが、綺麗に当てはまるように。やはりこの従者は、アルグと同じ感情を持っていないなと分かったのだった。
「……やはり、気がついていたのですか」
 オーグの率直な問に、ルスターは先程まで言うべきか胸のうちに仕舞うべきか悩みぬいていた言葉を、一瞬迷って、しかし耐え切れなくなったように肯定した。
「うん、まー、兄貴から話を聞いていて、おかしいと思ってたしね。だから今日、丁度アンタを訪ねてみたのに、兄貴のところに行ったっていうから、慌てて来たんだけど。そしたらまさかの展開で、ちょっとビビったわ」
 いい加減、立っているのは疲れたと、ルスターから机を挟んだ向かいのソファにオーグは苦笑しながら身を沈める。
 ゆったりと腰を落ち着けたオーグに対して、ルスターはやっと我に帰ったかのように、はっとした表情になると、先程までの狼狽えっぷりをさっと消し去って、姿勢を伸ばし、浅くソファに腰掛ける姿になると、深々と礼をする。
「大変見苦しいところをお見せして申し訳ありません……それに、改めてですが助けていただいて、有難う御座いました」
「あー、そういう堅苦しいのはいいから。……まあ、出来ればお礼の言葉よりも、なんであんな事になってたのかそっちを教えてくれると有り難いんだけどね。幾ら兄貴でも無理やりどうこうする趣味はないはずだけど、そうするとなんでその気がないアンタとあんな状態になったのか、疑問があってね? まあ、本当なら人の色事に立ち入ったりするのは好きじゃないんだけど、アレでも俺にとっては大事な兄貴で、今回のことについて色々アンタの行動に矛盾する点が多くて、ちょっと気になってるんだよ。だからさ、いきなり現れてこう言うのも悪いけど、本音で話してくれると嬉しいだけどね?」
 本当は徐々にルスターの警戒を解きたいところなのだが。あまり長話をしていてはアルグが戻ってくる事を懸念して、ここはお互い直球勝負で行きませんかと、オーグは真剣であることを声に滲ませながら、『ぶっちゃけ、アンタのことを疑ってるから』なんていう警告もちらつかせつつ尋ねる。
 すると、そんなオーグの心づもりを察したのか。
 ルスターは口を引き結んで、しばしじっと己の膝に揃えた手を見つめ、熟考する。
 己のアルグへの感情について、すでに隠し立てできる状態ではなくて。そしてこの先どうしたらいいのか、自分で判断し、軌道修正するには現状は自分の手から大きく許容範囲を超え初めていた。
 おそらく、オーグはアルグやシエンよりも、いま一番、この事態の顛末に近い位置にいる。
 そしてなにより、兄であるアルグを心配しているらしいという、その機微に。
(これ以上、下手に事情を隠して不安を煽るのは得策ではありますまい……)
 そう、ルスターは腹をくくって。
「わかりました、事情をお話しいたします。実は……」
 重くなりがちな口を苦労して開き、先程の状態になるまでの主従のすれ違いや、ルスターの勘違いについての説明を始める。
 途中、少し言葉を濁しつつ。
「そんなわけで、なんと言いましょうか、引くに引けずと言いますか、いっそのこと私が我慢すれば丸くおさまるのでは無いかと、そう思いもしたのですが……やはり、私は浅はかでした。こうしてオーグ様にも心配をおかけして、改めて考えれば、偽りを抱えたまま応えようなど、アルグ様の思いを軽んじているようなものでした……!」
 なにやら語るうちに、ルスターの中でいつものシエン様史上、アルグ様敬拝の念が復活してきたらしい。
 ぐっと拳を固め、アルグ様が戻られたら真っ先に謝罪を……!と、意気込むルスターにオーグは。
(……うん、なにこの喜劇)
 経緯を話すルスターの様子を注意深く見ていたが、どうやら嘘を言っている訳ではないようで。
 聞いた話と、自分の情報を総括すれば、事の一番の元凶は、もっと明確な確認をせずに、勝手に盛り上がったシエンとアルグの所為じゃないかとオーグは思う。それにもかかわらず、ある意味、被害者とも言える立場なのに、目の前でなにやら神妙な顔をして、アルグに断りの言葉を告げなければと決心を固める従者にオーグは脱力して、ソファにさらに身を沈めて、天井を仰いだ。
(やー、兄貴の話で聞いてたけど、律儀というか、変なところで懐がでかいというか)
 本来なら自分の不運を嘆いてもよいだろうに。
 呆れるほどの忠誠心だと、オーグはルスターに気付かれないように溜息をつく。
 まったく、いくら大切な坊ちゃまと尊敬する騎士様を落胆させたくないからと、自分の操を犠牲にしようなんて、一体いつの時代の話だと思う。
(しかしまあ、こういうバカみたいに一生懸命なところはある意味兄貴とお似合いかもしれないが……さて、どうすっかなぁ)
 ちらりと視線を壁にかかった時計に投げればそろそろ、アルグが帰ってくる頃合いだった。
 何かしらの裏があれば、叩き出してやろうと思っていたのだが。
 思った以上に、ルスターというこの従者のことを、オーグはそれなりに気に入ってしまった。おそらくアルグから常日頃、ルスターの話を聞かされていたせいだろう。今までは恋に盲目になった男の眉唾話と受け止めていたが、それが大方真実なのだろうと、実際にルスターと相見えることで分かってしまって。
 オーグは弱ったなぁ、と心のなかで呟いたものの、実のところ、自分があまりこの状態に困っていないなと気がついて、思わず苦笑いした。
 どうやら、自分の腹は先ほどルスターに好意を持ったときから決まっていたらしい。
 ルスターが男で一回りもアルグの年上だというのはこの際置いておこう。
 基本的に人は良さそうで、馬鹿みたいに義理に厚くて、下手に兄の肩書きやらに目をくらませている輩に比べて、純粋に兄の人柄を慕っている部分もあるようだ。
 なにより、アルグが気に入っているのだから。
「なあ、ルスターさん。いきなり断んじゃなくて、ちょっとばかり猶予期間って言うのを作ってみねぇ?」
「は、あ、え、猶予、期間、ですか? ……一体、なにの……?」
 今まで一言も口を挟まず黙っていたオーグが、急に話しかけてきて、ルスターはすっかりこの後の謝罪に飛ばしかけていた意識を引き戻し、ぱちぱちと瞬きをして目の前の人の形をした黒い布の塊を見た。
「いきなり断ったら、いくら兄貴でもショックがでかいだろう? 何しろすっかり両思いのつもりでいるんだ。だからここは一つ、アンタの気持ちもわかるけど、兄貴に時間と機会をやって欲しいんだ」
「たしかに、言われてみればそうですが……しかし、時間をかけても、やはりショックはかわらないのでは」
「いや、ただ時間がほしいってわけじゃない。言うなればお試し期間……確か、今まで特に兄貴と一緒に食事したりとか、出かけたりとか、二人だけでただ過ごしたりとか、普通、お付き合いをしたら通る所をしてないだろう? そういうのをしてやって欲しいんだ。その上で『色々付き合ってみたら思っていたのと違いました』って振ってくれればいい。そうすれば、今回のことは気づかないし、ごくごく自然だろ」
 その間、アンタには手を出さないように兄貴には注意するし、と、提案するオーグに。
「そういうものでしょうか……いやしかし、やはりそれではアルグ様を騙す事に」
「なあ、ルスターさん。時に人はつかなきゃいけない嘘もあると、俺は思うんだよ、それが今だと思わねぇ? まあ、これよりいい案があるならそっちでもいいんだけど」
 渋るルスターにオーグは頭をかしげ、なぁ、もうすぐ兄貴が戻ってくるけど、どうするよ、と、言われてしまえば。
「わ、わかりました! その案で参りましょう!」
 とにかく誤解を陳謝するという選択肢しかなかったルスターに代案があるわけはない。
 なにより初めは色々自分が諦めることで丸く収めようと考えるほどなのだ。それにくらべれば、たしかにオーグの言い分は正しいような気がしなくもない。
 そう、きっとこれが一番最良の道だろう。などと、自分自身に言い聞かせるようにしながらルスターが頷けば。
「そう、良かった。まあ、実際にお付き合いしてみて、大丈夫だったらそのまま本当に付き合っちゃっていいし」
「はい?」
 なにか、おかしなことを聞いたような気が。
 にんまり、とオーグの口が弧を描いくが、それは厚い布に覆われて、ルスターの目には見えない。
 しかし、本能が危険を知らせたのか、背中に悪寒が走り、従者はぶるりと身をすくませる。
 だが、一体、なにに悪寒を感じたのか、肝心なことは分からずに。
「とりあえず、兄貴には上手く俺から話しておくから、口裏を合わせるのをよろしくね」
「は、はぁ……」
 コクリと頷くルスターは、知らない。



 オーグ・ルバフェン。
 彼を表す言葉は?と、世間に尋ねれば、黒衣、太陽にあたれない体質、東地区の若医者、豪気、かみさんが最強という語句と共に。



 結構なブラコン、という言葉が並ぶことを。

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