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2話 アルノア・エイリークは死を望まれる 2
しおりを挟む己には幼児愛好の趣味があったのだろうか。
以前から気分転換に馬を撫でることはよくあったものだから、アルノアが馬小屋へ行くのはそう珍しい訳ではない。
だがその頻度が僅かに増え、厩に行けば馬を撫でるだけではなく、あの真っ黒な子供の姿を探し、小さな体でせっせと仕事に励む様を気がつけば眺めていた。
用がなければ、厩番などに話しかけたりはしない。以前の厩番などアルノアの姿を見れば帽子を取り、ヘラヘラと薄ら笑いをしつつご機嫌いかがですかなどと媚を売ってきたが、総じて羽虫の羽音くらいにしか感じなかったのに。
ある日、チラチラとコチラを伺う子供の眼差しに「どうした」と自分から声をかけてしまった己にアルノアは驚いた。
ネロはたどたどしい言葉で、馬用の手入れブラシの新調を新調したい旨を伝えてくる。毛が抜けて半分しか残っていないボロボロのそれはひどい有様だった。他にも見渡せばバケツやシャベルといった道具も随分と傷んでいる事に気がつく。備品について費用はそれなりに割いているはずだ。しかしどう見ても経年劣化が想定使用年数を超えているブラシに、これはどこかで着服が起きているな、と目を据わらせる。
そんなアルノアの反応に、ネロが失言をしたのかと怯えたように一歩下がるものだから。
「大丈夫だ。新しいのを手配しよう」
安心させるように子供の頭を撫でた。
そんならしくない行動をとった自分に、これはちょうどいい高さに頭があったからだと咄嗟に言い訳を心の中でするが。
(不味いな)
明らかに普段とは違った対応をしている己にアルノアは危機感を覚える。
今までの人生で、あまり子供と関わるような縁はなかった。金を持っている人間というのは大抵歳を重ねた大人ばかりで。ある程度の金を手にし遊ぶようになっても、当然の様に相手は後腐れの無い見目と頭の良い女を選んできたが。
自分はこういった、無垢で小さな子供を好んでいるのかと、自問自答する。
ネロの事を気にいっているのは間違いないだろう。だが今はただそれだけで、この子供をどうしたいのかはわからなかった。
場を制し最良の判断をするには常に冷静でいることが必要だと、アルノアは考えている。そのためには己の感情についてよく把握していなければいけない。高ぶった感情では物事を見誤る等しばしばあるもので。交渉などではわざと相手の激昂や弱みを突いて、失言や愚行を誘ったりするが、自分が同じ罠にハマってはいけない。
若くしてのし上がってきた。だが自分が確固たる地位を築いているかといえば、未だ若輩者であることは間違いなく、足をすくわれる事があれば立場というのは簡単にひっくり返る事を知っている。
だから己にとってネロがどのような存在なのか理解していなければ、いずれその脅威になる日が来るかもしれない。
そう考えて、試しに子供を一人手に入れてみようと、アルノアは孤児院へ足を運んだ。
――この時、不安要素であるネロを即座に排除せず、代替品で実験を始める時点で既に答えは出ていたのだと、後のアルノアは思う。
孤児院に足を踏み入れると、容姿と身なりの良いアルノアに子供達の興味津々といった視線が突き刺さる。
慈善事業など大抵は金欠だ。孤児院の院長だと言う男は「この度はどういったご用件でしょうか」と、出資者候補を逃したくないという気持ちを隠しきれない様子で尋ねてくる。
それに「事業が良好で使用人を増やそうと思っているんだが」と適当な事を言う。
養子の申し入れもなく、ある程度の年齢になった子供は孤児院から外に働きに出る。まだ年齢が若かったり、住み込みができなければ孤児院から仕事へ通い、賃金の一部は孤児院へと収められていた。だからより良い就職先と言うのは、院長には願っても無いことで。
「それはそれは、わたくし共の孤児院をお訪ね頂けたのは大変有り難いことで」
「なるべく器量のいい子が良いが」
「あの、一応ご確認ですが、住み込みでの雇用をご希望でしょうか? その際は――」
「もちろん、寄付の心積もりはある」
「嗚呼! これは、出過ぎた事を申し訳ありません!」
「別に私だって商人だ。出資の大切さはわかっているさ。ただコチラもピンとくる者がいない場合は申し訳ないが……」
「ええ、ええ、分かりますとも。よぉく、分かっております」
あくまでも、きちんと対価は払うが商品価値は求めるという姿勢を貫く。すぐさま足元をみて叩き、値引きするのは三流のやり方だ。
院長は少しお待ちを、と言って年頃の子供を幾人か集めてくる。どの子供も可もなく不可もない、平凡な見目をした地味な顔立ちだ。まあ、見目の良い子などは早々に養子に貰われたり、孤児院にたどり着くことなくその手の店へと引っ張られてしまったりするから当然だろう。
もじもじとしたり、緊張した面持ちだったり、好奇心の眼差しを向けてきながら自己紹介をする子供らを眺めながら、改めてやはりネロは小さいな、と思う。
目分量でも9歳の少年よりは小さいし、思った通り8歳の少女とほぼほぼ変わらないサイズだ。
「いかがですか」
「そうだな……」
院長が期待の目を向けてくるのに、思案しているようなポーズを取って見せるが、正直、自分でもびっくりするほど眼の前の子どもたちに興味が湧かなかった。
一体、この子供たちとネロではなにが違うのだろうか。
その後もいくつかの施設なりを見て回ったが特にピンとはこず。異国の血が混じっているせいかと考えるが、同じ移民の子供を見ても感想は変わらなかった。
念のため、路地裏にいる身寄りの無い子供も確認してみたが、孤児院にも入れない子供というのは総じて飢えた野良犬のようなギラギラとした目をしていて、一目見てこれは要らないな、と切り捨てた。
ときおり子供を無条件に「可愛い」などと評す女や、それこそ幼児愛好の趣味がある男の話を聞いたが、心情にも言い分にもさっぱり寄り添える気がしなかった。
そうして最終的に分かったのは、アルノアにとって子供の稚拙で足らぬ頭と舌足らずな声と言ったものはむしろ辟易とするのだといった事ぐらいで。
その判断を下す頃になってやっと、アルノアは何の変哲もない、ただの『ネロ』という存在に自分が惹かれているのだと認めたのだった。
恋に落ちるのに道理や理屈などはない、とはいえども。まさか自分が己の半分も生きていない子供相手に経験するなど夢にも思わない。
もしやアレは魔性の子なのか。
時折、そういった人を狂わせる性質を生まれ持った人間が居る。ネロも似たような星の下に生まれたのかとそれとなく探ってみるが、誰もがネロを気にも留めていないようだった。
それどころかあの暗い肌が薄汚れて汚らしいく見え。アルノアが戯れに教えた文字を一人でも地面に書いているらしく、なにかよからぬ事をしているのではと薄気味悪く感じられているようだった。
その事実に驚くとともにアルノアはそれでいい、と思った。あの子供を気にしているのは自分だけでいい。あの吸い込まれそうな黒い目が見上げて微笑むのは自分だけでいい。異国の歌を時々口ずさむ短い舌が呼ぶのは自分だけでいい。
そう夢想して、何て非現実的な考えだろうと思う。そして自分にとってネロは邪魔な存在だと再認識する。あの子供は己の、アルノア・エイリークの弱みになり得る。
この富と地位を得たのは今まで数々の相手の弱みにつけ込んできたからだ。
酒で判断を誤る男に酒を飲ませて暴利を貪る契約を結び、頭がからっぽで自尊心だけが大きい貴族の欲を擽り金を吐き出させ、夫を亡くした未亡人の寂しさに入り込んで人生を捧げさせる。世の中はだまし合いで利益を奪い合うゲームのようなものだ。
ゲームに勝つには弱みは少ない方が良い。強いカードを手に入れるには、必要の無い弱いカードはすぐに切り捨ててしまうのが大事だ
ネロは、なんの利益も生み出さない弱いカードだ。
(今のうちにさっさと処分をしてしまわないと)
すっかり3日も開けずに訪れるようになった馬小屋で、アルノアの思考を感じ取ったのか、撫でられていた馬が嘶いて身じろぐ。
激しく暴れることはないが、首を大きく振って足踏みをする馬の様子にネロが慌てた様に駆け寄ってくる。
「ネロ」
慣れた様子で馬を宥める子供の名を呼ぶ。
振り返る子供の首に片手を伸ばす。
馬とは違い、片手の指がもう少しで回ってしまうほどネロの首は細かった。腕を回さずとも、ての力だけでも容易に折ってしまえそうだ。
初めて触れた喉仏のない子供の肌はサラリとしていてそれでいて吸い付く様だった。
大人しく真っ黒な目でネロは不思議そうにアルノアを見上げていた。初めの警戒心など嘘のように無防備なその様子に、なぜ自分は最後に瞳を見たいなどと考えたのだろうか。
初めて合った時より多少は肉がついたがまだ手足は棒のようだ。きっと簡単に押さえ込め、碌な抵抗も出来ないだろう。あとは後を向かせて、首に腕を回しほんの少し力を込めて捻るだけだ。
きっと鶏を絞めるよりも簡単だ。そう思うのに。
「ご主人サマ?」
ネロの声を聞くのがコレで最後かと思うと。
首筋に触れる手の平の下、小鳥のような弱々しい脈動を止めるどころか、そのあまりに儚さにアルノアは打ち震える羽目になった。
「ココは急所だ、人に簡単に触れさせるな」
自分が殺そうとしていた事を棚に上げ、顔を歪めて注意する。
「お前は小さく力も弱い。だからなるべく捕まるな。とにかく走って逃げろ」
急に自衛について説くアルノアにネロは瞳を瞬かせるが、それでも静かに聞き入って神妙に頷く。
ネロの従順な様子にアルノアは少しだけ満足をして、だが同時にもうこの子供を切り捨てられなくなっている自分にその薄い唇を皮肉げに吊上げた。
己が、ネロを特別だと思っていることを誰にも悟られてはいけない。今までどれほど敵を作り続けてきたのか、嫌と言うほど知っている。己の身一つで、弱みなど無かったから突き進んできた道なのだ。
それをこの日、アルノアは初めて後悔した。
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