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2010年・秋
第36話「美脚を思う余裕」
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ソフィア祭最終日、空は野点日和の快晴だった。
今年は総じて天候に恵まれているが――昨年は初日に雨が降り、ホフマンホールの和室にて実施した――、今日は特に天気晴朗だ。
浅井と光蟲には、午後に私が半東を務める席に合わせておおよその時間を伝えている。念のため、受付の際に私の名前を挙げてもらうようにも添えた。二人とも茶道には馴染みがなく、茶会の勝手もわからないと思われるので、知り合いである私のいる席に入れたほうが良いという配慮は不自然ではないだろう。
「今日で終わりだから、頑張ろうぜ」
九号館のトイレの洗面所で、自身の袴姿に乱れがないか確認していた時、東が励ますように言った。
「そうだね。今日は友達呼んでるから、しっかりやらないと」
「おぉ、貢献してるねぇ。囲碁部の人?」
今後も現状の充実した部活動を継続できるよう、友人や知人に積極的に声をかけて客を集めてほしいと、そういえば前部長が話していたことを思い出す。
「一人はね。もう一人は別の学科の友達だよ」
「二人も呼んでるんだ、さすが囲碁部の部長。俺は誰にも声かけてないわ」
袴の襟を整えながら、東が白い歯をこぼして笑う。
確かに、彼は友達に声をかけるタイプではないなと、なんとなく納得して半笑いを返した。
「そういえば、悦弥が半東やる午後の席、俺が亭主やることになったからよろしく」
SJガーデンに戻る途中、東が思い出したように口にする。
「あっ、そうなの?」
「うん。佐々木が体調崩して来られなくなったから、代わりに入ってくれないかって、さっき平山先生から」
佐々木は一年の女子部員だが、そういえば朝から顔を見ていないなと思った。
「そっか、こちらこそよろしく。君が亭主なら、落ち着いて半東できそうだよ」
佐々木には気の毒だが、東のお点前のほうが安心感がある。私を慮り、ベストな采配を振ってくれた平山先生に胸中で頭を下げた。
最終日だからか、昨日や一昨日よりも客入りが良いように思えた。
午前の席、半東を務めるのは私と同学年の大澤。
彼女とは普段からそれほど言葉をかわさないが、真面目な性格でチャラチャラとした軽い感じがなく、比較的好感を抱いている女子部員だ。昨日私が失敗した後も、さりげなく励ましの言葉をかけてくれた。今度は私が堂々たるお点前を披露し、彼女が安心して振る舞える空間を作り出すことに貢献したい。
十五名を超える客が待ち受けていたが、意外にも私はリラックスしていた。
年代様々な客たちが混在するその空間はごく一時的なものであっても、ひとつの芸術のようだ。それぞれまったく異なる人生を歩んでいる、これまで自分と接点のなかった人々。
そんな人たちが、和菓子を食べて抹茶を飲むという同じ目的のためにその場に集結している。たとえ今だけだとしても、それはたいそう美しきことではなかろうか。そして、その芸術を彩る重役の一人として自分がこの場にいることを少しだけ誇らしく感じる。昨日のルノアールの美脚店員もここにいたら良かったなとふと思った。
そんなロマンチシズム的な思考に心を傾ける余裕は、これまであまりなかったかもしれない。少なくとも茶席に入る直前は、緊張という波に呑まれないようにすることで一杯だった。大事な本番直前に女性店員の美脚を思い出すぐらいの余裕がなければ堂々たるふるまいなどできないのだという、よく分からない結論に達した。
水指、棗、お茶碗。それぞれ、手厚い足取りで運び入れる。その後、昨日失敗した建水と柄杓も無事に運びきり、ほんの刹那だけ安堵した。
ひとつひとつの動作が雑にならないよう、神経をそそぐ。特に、東に褒められた指先の美しさを意識した。
お茶を点てるときの手首のスナップ、過不足ない速度。点て終えた正客用の抹茶の澄んだ黄緑色に満足する。懸念していた引き柄杓も、今回は何とかミスなくこなした。
「お疲れ様。すごいね、昨日とは別人みたい」
水屋に戻り、大澤が笑みを湛えて言った。
「ありがとう。大澤さんの半東も良かったよ。さすがだね」
良いお点前ができる時は、自然と半東の声も耳に滑り込んでくる。
「ありがとう。午後もお互い頑張ろうねっ」
私だけでなく大澤も、午後に半東で一席入る。泣いても笑ってもあと一席だ。
今年は総じて天候に恵まれているが――昨年は初日に雨が降り、ホフマンホールの和室にて実施した――、今日は特に天気晴朗だ。
浅井と光蟲には、午後に私が半東を務める席に合わせておおよその時間を伝えている。念のため、受付の際に私の名前を挙げてもらうようにも添えた。二人とも茶道には馴染みがなく、茶会の勝手もわからないと思われるので、知り合いである私のいる席に入れたほうが良いという配慮は不自然ではないだろう。
「今日で終わりだから、頑張ろうぜ」
九号館のトイレの洗面所で、自身の袴姿に乱れがないか確認していた時、東が励ますように言った。
「そうだね。今日は友達呼んでるから、しっかりやらないと」
「おぉ、貢献してるねぇ。囲碁部の人?」
今後も現状の充実した部活動を継続できるよう、友人や知人に積極的に声をかけて客を集めてほしいと、そういえば前部長が話していたことを思い出す。
「一人はね。もう一人は別の学科の友達だよ」
「二人も呼んでるんだ、さすが囲碁部の部長。俺は誰にも声かけてないわ」
袴の襟を整えながら、東が白い歯をこぼして笑う。
確かに、彼は友達に声をかけるタイプではないなと、なんとなく納得して半笑いを返した。
「そういえば、悦弥が半東やる午後の席、俺が亭主やることになったからよろしく」
SJガーデンに戻る途中、東が思い出したように口にする。
「あっ、そうなの?」
「うん。佐々木が体調崩して来られなくなったから、代わりに入ってくれないかって、さっき平山先生から」
佐々木は一年の女子部員だが、そういえば朝から顔を見ていないなと思った。
「そっか、こちらこそよろしく。君が亭主なら、落ち着いて半東できそうだよ」
佐々木には気の毒だが、東のお点前のほうが安心感がある。私を慮り、ベストな采配を振ってくれた平山先生に胸中で頭を下げた。
最終日だからか、昨日や一昨日よりも客入りが良いように思えた。
午前の席、半東を務めるのは私と同学年の大澤。
彼女とは普段からそれほど言葉をかわさないが、真面目な性格でチャラチャラとした軽い感じがなく、比較的好感を抱いている女子部員だ。昨日私が失敗した後も、さりげなく励ましの言葉をかけてくれた。今度は私が堂々たるお点前を披露し、彼女が安心して振る舞える空間を作り出すことに貢献したい。
十五名を超える客が待ち受けていたが、意外にも私はリラックスしていた。
年代様々な客たちが混在するその空間はごく一時的なものであっても、ひとつの芸術のようだ。それぞれまったく異なる人生を歩んでいる、これまで自分と接点のなかった人々。
そんな人たちが、和菓子を食べて抹茶を飲むという同じ目的のためにその場に集結している。たとえ今だけだとしても、それはたいそう美しきことではなかろうか。そして、その芸術を彩る重役の一人として自分がこの場にいることを少しだけ誇らしく感じる。昨日のルノアールの美脚店員もここにいたら良かったなとふと思った。
そんなロマンチシズム的な思考に心を傾ける余裕は、これまであまりなかったかもしれない。少なくとも茶席に入る直前は、緊張という波に呑まれないようにすることで一杯だった。大事な本番直前に女性店員の美脚を思い出すぐらいの余裕がなければ堂々たるふるまいなどできないのだという、よく分からない結論に達した。
水指、棗、お茶碗。それぞれ、手厚い足取りで運び入れる。その後、昨日失敗した建水と柄杓も無事に運びきり、ほんの刹那だけ安堵した。
ひとつひとつの動作が雑にならないよう、神経をそそぐ。特に、東に褒められた指先の美しさを意識した。
お茶を点てるときの手首のスナップ、過不足ない速度。点て終えた正客用の抹茶の澄んだ黄緑色に満足する。懸念していた引き柄杓も、今回は何とかミスなくこなした。
「お疲れ様。すごいね、昨日とは別人みたい」
水屋に戻り、大澤が笑みを湛えて言った。
「ありがとう。大澤さんの半東も良かったよ。さすがだね」
良いお点前ができる時は、自然と半東の声も耳に滑り込んでくる。
「ありがとう。午後もお互い頑張ろうねっ」
私だけでなく大澤も、午後に半東で一席入る。泣いても笑ってもあと一席だ。
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