半笑いの情熱

sandalwood

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2010年・秋

第22話「悪手から好手へと」

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 目が覚めると、午後二時を過ぎたところだった。
 思いのほか熟睡してしまったが、おかげで眠気は解消された。両耳に付けたイヤホンから、JELLYFISHの軽快なポップソングが聞こえる。眠っている間に置いてくれたらしいサービスのお茶は、もうすっかり冷えきっていた。小腹がすいてきたが、中途半端な時間なので食事をとる気はしない。

 睡眠をとって冴えた頭に、名案が浮上した。
 光蟲に会いに行こう。彼がアルバイトしているジュンク堂書店の池袋本店は、ここからなら山手線ですぐだ。ついでに、深井教授のゼミで指定された参考書でも探してみようか。明日の一限にさっそく使うと話していたが、すっかり記憶から抜け落ちていた。
 一昨日、しんみち通りのラーメン屋で、今日はシフトが入っていると話していた。詳細な勤務時間は知らないが、この時間ならレジに立っているころだろうか。日曜日なので忙しくしているかもしれないが、私が来ていると気付けば、少しぐらいレジを抜けて話せよう。上がるタイミングが合えば、晩飯にでも繰り出せるかもしれない。そう考えると、思わず顔がにやけてきた。

「ありがとうございます。伝票お預かりいたします」
 レジに行くと、朝と同じ女性店員が笑顔で対応してくれた。頬にできるえくぼはこれで何度目だったかと数えたところで、なんの意味もないと思いすぐにやめた。
「六百六十円になります」
 彼女の言葉を受け、財布から小銭を取り出して木製のカルトンに置く。
「七百円お預かりします」
 接客の店員にありがちな“円への『から』付け”が発動しなかったことから、この店員の質の高さは本物だなと、何様だと自ら詰問したくなるような感想を抱く。

「ゆっくり休めました?」
「えっ?」

 釣り銭を受け取る際に彼女から繰り出された予想だにしない質問に、思わず間延びした声を出した。
「ずいぶんお疲れのようでしたので」
「あぁ、すいません、眠りこけてしまって。おかげさまでよく休めました」
「いえいえ、とんでもないです。またお越しくださいね」
 女性店員のえくぼスマイルを名残り惜しく思いながらも、爽やかと思われる微笑を返して店を出た。

 歌舞伎町は、朝と比べて活況を呈していた。
 若いアベックや同性の集団が中心となってあれこれと無駄話を展開し、街全体の温度を不必要に上昇させている。真昼なので不健全さはいまだ概ね隠してはいるものの、無料案内所や出会い喫茶などの現在進行形の不埒さを所々に発見し、僅かに興味を抱きつつも立ち止まらずに素通りした。
 
 歩きながら、先ほどの女性店員との会話を脳内で再生し、締まりのない笑みを浮かべる。
 飲食店の店員と必要以上のやり取りをしたのは、たぶん初めてのことだった。それも年ごろで器量良しの女性とあっては、愉悦に浸らないほうがどうかしている。

 代償も大きいが、昨日の時間切れは正しい判断だったなと、歌舞伎町一番街のアーチを抜けながらしみじみと思った。
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