ボールの行方

sandalwood

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第17話「大切なこと」

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 図書館をでると、通路をはさんで大きめのグラウンドがある。
 日によって、ソフトボールやサッカーに熱中する子どもたちがいたりゲートボールで盛り上がるおじいさんたちがいたりするけれど、今日はまだだれも使っておらず、グラウンドは広々とあいていた。僕はその中に入り、中心部に向かって思いきり走った。

 男は、少しうしろを同じように走っている。ふり向くと、男は図書館にいたときよりも頬をゆるませていた。僕も、不思議と顔がほころんだ。もしかすると、彼はペースを合わせてくれているんだろうかとふと思った。完ぺきな青空が提供する爽やかな陽ざしは、まるで広範囲のスポットライトのようだ。スポットライトを浴びながら走るのはすごく気持ちがいい。

 いつしか男から逃げるとか、身の危険があるといったことは忘れていた。
 僕は、ただ夢中で走った。男はいつのまにか僕の横にきて、肩を並べて走っている。

 ときどき顔を見合わせ、僕たちは笑った。男は左手に赤ペンと指示棒を持ったままだが、いまの僕にはそれはただの赤ペンと指示棒にしかみえなかった。図書館の一階におりたとき、自分が助けを呼ぶ冷静さを持っていなかったことを幸福に思った。
 大事な受験をサボって、得体の知れない男とだれもいないグラウンドを駆けまわっているなんて、母さんが知ったら怒るだろう。でも、それはいまはどうでもいいことだ。
 

「はぁ、はぁ……もう走れないや」
 隅から隅まで走りまわって、グラウンドのちょうど真ん中あたりに座りこんだ。ざらついた砂の感触に懐かしさを覚える。低学年のころは、よく泥んこになるまで遊んでいたっけ。
 男も、隣にどさっと座った。三十分ぐらいは走っただろうか。彼もさすがに疲れたようで息が荒くなっているが、いつもの愉快そうな笑みをうかべていた。

「あの……すみませんでした」
 少し休んで呼吸が整ったところで、真剣な顔をして言った。
「僕、前からあなたの言動が気になっていたんです。なんというか、ちょっと変わってるので。でも、だからって、席をはずしている間に勝手に本をのぞき見るなんて良くないですよね。ごめんなさい」
 謝ると、男はやわらかくほほえんで僕の頭をなでた。彼の手についている砂が頭に付着する。

「ホントは今日、試験だったんです。中学受験」
 そう言うと、男は不思議そうな顔つきになった。

「親に提案されたんですが、自分で決めました。学校見学に行ったら、すごくいいところで、ここで勉強してみたいって思った。それから、毎日コツコツ勉強していたんです」
 そういえば、トートバッグを置いてきてしまったなとふと思いだした。
「でも、いざ試験が近くなって、本当にこれでいいのかなって思ったんです。未来のことはだれも知らない。なにが正解かなんて、だれにもどうやってもわからない。だから、受験して私立に行くのがいいのか、受験しないで地元の二中に行くのがいいのかなんて、考えても答えはでないと思ったんです」
 僕の話を、彼は少しずれた相づちをうちながらきいている。

「先のことは不確かでわからなくても、いまのことはわかる。だから、いまの自分の気持ちをはっきりさせるのが大事だと思いました。僕は勉強が好きですが、学校のみんなのこともとても好きなんです。都筑も小林も山内さんも大切で、自分にとってかけがえのない存在です。そんな彼らと、卒業してからも同じ環境で過ごしたい。みんなと離ればなれになって、自分だけ知らない街に行くことがさびしかった」
 頭についた砂を払いながら、僕は話を続ける。

「放課後、学校の図書室で勉強していた時期があったんですけど、図書室から見えるんですよね。みんなが楽しそうにドッジボールしてる姿。それを見るとなんだか無性につらくなって、あと少しでみんなとも会えなくなるのかって実感するから、それが嫌で駅前のドトールで勉強したりしてました」

 学校が別々になっても、引っ越すわけじゃないから会おうと思えば会える。山内さんなんて、ご近所さんだから顔を合わせる機会も多いだろう。
 でも、物理的な距離の問題ではない。これまでずっと近くにいた人たちと、生活環境が変わることで心理的な距離が生じてしまうことが不安だったのだ。そういう経験はいままでにないから、どういう心持ちでいればいいかわからなかった。受験を決意して勉強に励む一方で、その感情が僕に疑問や迷いを投げかけていた。なんとなく、気づかないふりをしていたのだと思う。

「この先、どうなるかはわからない。みんなといまみたいにずっと仲良くできるかわからないし、やっぱり私立に行けばよかったと思うかもしれない。でもこの瞬間、いまの自分の気持ちに正直になることが、生きることなんじゃないかなと思ったんです」

 男はなにも言わない。だから、僕の話をきいた彼がなにを考えているのかは読みとれない。
 でも、隣でじっときいてくれている。それだけで、不思議と心が安らいでいくようだった。

「今日、あなたと一緒に走りまわった時間が、すごく楽しかった。受験をやめてよかったと心から思いました。どうしてそう感じたのかはわかりません。僕は理屈っぽいから、これから先もこうやってたくさん悩むだろうけど、自分の気持ちに正直になるのに難しく考える必要はないんじゃないかと思いました。あなたのおかげで、それに気づけました。ありがとうございます!」

 彼に初めて会ったときと二回目に会ったとき、知らないことを探っていく喜びや楽しさを思いだした。受験勉強に疲れていて、そういう新鮮な気持ちを忘れかけていたけれど、彼が思いださせてくれた。頭突きは痛かったけど。
 そして今日、僕は彼に会いたいと思った。大切なことを思いださせてくれた彼が、僕にヒントを与えてくれるような気がしたのかもしれない。


「オッケー!!」


 男が、両手の親指をたてて大声で言った。
 ガイドブックで見た、車椅子に乗ったおばあさんのような、くしゃくしゃのスマイルをうかべながら。
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