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第4話「静けさとチャイム」
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橘さんに薦められて借りた短編集を手に、僕は教室に戻った。
教室はだれもいなくなっており、背おわれる準備の整った多数のランドセルが机の上で待機していた。
自分の席に腰かけ、黒のランドセルに小説をしまう。二年ほど使い続けているそれは肩ひもの黒い部分が少しはがれていたり、冠に傷がついていたりなど、男子生徒らしい使用感をところどころに確認できた。色あせたランドセルには、なんともいいがたい哀愁がただよっている。
三時四十五分。だれもいない教室は、時間が止まっているようだ。
図書室の普遍的な静けさももちろん好ましいが、こういう一過性の静けさは、運よく出くわした時にはたっぷりと味わっておきたいと感じる。校庭からきこえてくる下級生たちのはしゃぎ声が、心地よく耳にすべり込んでくる。
夕焼けと呼ぶには、まだ早すぎる時間。都筑のようにせっかちな空が、ほんのりとオレンジに色づきはじめていた。
体育館へは三分もあれば行けるので、まだ少しゆっくりできる。ちょっとだけ。そう思って、僕はランドセルに突っ伏した。
**
目が覚めると、図書館の二階にいた。いつも来ている児童室だった。
長机の上には筆箱とシャープペンシルと丸つけ用の赤ペンと消しゴム、それと塾でもらった算数のテキストが散らばっている。
そっか。帰りの会が終わって、そのまま学校を出たんだっけ。それで、歩いて十五分の場所にある市の図書館に自習しに来たんだ。
正面の壁かけ時計を見ると、六時を過ぎたところだった。一ページ解いたところで、疲れて眠ってしまったらしい。木製の机のなめらかな肌ざわりが心地よかった。
ランドセルをあけ、この前学校の図書室で借りた『こうばしい日々』と漢検の問題集が入っていることを確認する。放課後、図書室に返しに行ったような気がしていたけど、どうやら夢のなかの出来事だったらしい。橘さんのアラフォーには見えない可愛らしい笑顔を、でも妙に鮮明に再現できた。
二階の児童室には、僕と司書の人以外だれもいなかった。このフロアはふだんから人が少なく、なおかつ閉館まではあと三十分ほどだ。
せっかく来たけど、眠ってしまってあまり勉強が進まなかった。これなら、都筑たちとドッジボール大会に参加しているんだったなと、僕は司書の中年女性を横目に落莫とした気持ちになる。カウンターであくびをしながら、司書はいかにもやる気に乏しそうな表情でパソコンをいじっている。彼女と夢のなかで見た橘さんとを比較し、図書室のクオリティに差がある理由を察した。
都筑たちとドッジボールする機会は、卒業までにまだ何度かあるだろう。
でも、クラスの大半の生徒が参加している対抗試合を断ってこうして図書館で爆睡するのは、なんだかとてももったいないような気がした。いつもあまり参加しない山内さんも、今日は珍しく出ると言っていたっけ。
都筑や山内さんは、卒業したら二中に進む。市内に公立中学は五校あり、居住地からの距離によってどこに入るか決定する。僕の学校の生徒は一中から三中までのいずれかで、僕も受験に失敗したら二中に入ることになる。
別に、放課後に少し遊んだからといって受験に差し支えるわけではない。志望校のレベルは中の上程度でそこまで難関ではなく、塾の先生からは、いまの調子ならきっと大丈夫だというお墨付きをもらっていた。
それなのに、どうしていつも断ってしまうのだろう。みんなと一緒にいられる時間はあと少し。都筑たちともっと遊びたいのに、僕はついそれを避けてしまう。どうしてこういう矛盾が生じてしまうのだろうと苦い笑いをうかべ、せめてあと一問だけ解こうと思い、算数のテキストに向き直った。
「よしっ、できた!」
解答と照らし合わせ、正解していることを確かめてから赤ペンでシャッと勢いよく丸をつける。苦手だった立体図形の問題も、もうだいたいこなせるようになった。
学校や塾ではほかにたくさん人がいるから、自己採点で丸をつけるときは自然と控えめなボリュームになる。あからさまに音を立てると、できなかった人に悪い気がするんだ。考えすぎかもしれないけどね。僕は、でも本当はこの“シャッ”という音をきくのが好きなのだ。努力の成果を、視覚だけでなく聴覚でも認識できるところが良い。
正解の余韻にひたる暇はなく、正面の時計から閉館を知らせるチャイムが響く。眠そうにしていた司書はダスターで本棚をパタパタとはたき、ほとんど形だけの清掃業務にあたっていた。
チャイムの音は学校だろうと図書館だろうと決まって無機質で、僕はそれをきくといつも少し鼻白んでしまう。休み時間、遊びに夢中になっているときや、社会の授業でめずらしく先生がおもしろい解説をしているときや、今みたいに赤ペンを軽快に走らせたあと、自分の書いた答えを見かえして達成感を味わおうとしているときなど、チャイムはいつも水をさしてくる。図書館のは、学校のほどかん高い音でなくてまだましだけど。
答えを見かえすのは家に帰ってからにしようと思った矢先、背後に人の気配を感じた。
教室はだれもいなくなっており、背おわれる準備の整った多数のランドセルが机の上で待機していた。
自分の席に腰かけ、黒のランドセルに小説をしまう。二年ほど使い続けているそれは肩ひもの黒い部分が少しはがれていたり、冠に傷がついていたりなど、男子生徒らしい使用感をところどころに確認できた。色あせたランドセルには、なんともいいがたい哀愁がただよっている。
三時四十五分。だれもいない教室は、時間が止まっているようだ。
図書室の普遍的な静けさももちろん好ましいが、こういう一過性の静けさは、運よく出くわした時にはたっぷりと味わっておきたいと感じる。校庭からきこえてくる下級生たちのはしゃぎ声が、心地よく耳にすべり込んでくる。
夕焼けと呼ぶには、まだ早すぎる時間。都筑のようにせっかちな空が、ほんのりとオレンジに色づきはじめていた。
体育館へは三分もあれば行けるので、まだ少しゆっくりできる。ちょっとだけ。そう思って、僕はランドセルに突っ伏した。
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目が覚めると、図書館の二階にいた。いつも来ている児童室だった。
長机の上には筆箱とシャープペンシルと丸つけ用の赤ペンと消しゴム、それと塾でもらった算数のテキストが散らばっている。
そっか。帰りの会が終わって、そのまま学校を出たんだっけ。それで、歩いて十五分の場所にある市の図書館に自習しに来たんだ。
正面の壁かけ時計を見ると、六時を過ぎたところだった。一ページ解いたところで、疲れて眠ってしまったらしい。木製の机のなめらかな肌ざわりが心地よかった。
ランドセルをあけ、この前学校の図書室で借りた『こうばしい日々』と漢検の問題集が入っていることを確認する。放課後、図書室に返しに行ったような気がしていたけど、どうやら夢のなかの出来事だったらしい。橘さんのアラフォーには見えない可愛らしい笑顔を、でも妙に鮮明に再現できた。
二階の児童室には、僕と司書の人以外だれもいなかった。このフロアはふだんから人が少なく、なおかつ閉館まではあと三十分ほどだ。
せっかく来たけど、眠ってしまってあまり勉強が進まなかった。これなら、都筑たちとドッジボール大会に参加しているんだったなと、僕は司書の中年女性を横目に落莫とした気持ちになる。カウンターであくびをしながら、司書はいかにもやる気に乏しそうな表情でパソコンをいじっている。彼女と夢のなかで見た橘さんとを比較し、図書室のクオリティに差がある理由を察した。
都筑たちとドッジボールする機会は、卒業までにまだ何度かあるだろう。
でも、クラスの大半の生徒が参加している対抗試合を断ってこうして図書館で爆睡するのは、なんだかとてももったいないような気がした。いつもあまり参加しない山内さんも、今日は珍しく出ると言っていたっけ。
都筑や山内さんは、卒業したら二中に進む。市内に公立中学は五校あり、居住地からの距離によってどこに入るか決定する。僕の学校の生徒は一中から三中までのいずれかで、僕も受験に失敗したら二中に入ることになる。
別に、放課後に少し遊んだからといって受験に差し支えるわけではない。志望校のレベルは中の上程度でそこまで難関ではなく、塾の先生からは、いまの調子ならきっと大丈夫だというお墨付きをもらっていた。
それなのに、どうしていつも断ってしまうのだろう。みんなと一緒にいられる時間はあと少し。都筑たちともっと遊びたいのに、僕はついそれを避けてしまう。どうしてこういう矛盾が生じてしまうのだろうと苦い笑いをうかべ、せめてあと一問だけ解こうと思い、算数のテキストに向き直った。
「よしっ、できた!」
解答と照らし合わせ、正解していることを確かめてから赤ペンでシャッと勢いよく丸をつける。苦手だった立体図形の問題も、もうだいたいこなせるようになった。
学校や塾ではほかにたくさん人がいるから、自己採点で丸をつけるときは自然と控えめなボリュームになる。あからさまに音を立てると、できなかった人に悪い気がするんだ。考えすぎかもしれないけどね。僕は、でも本当はこの“シャッ”という音をきくのが好きなのだ。努力の成果を、視覚だけでなく聴覚でも認識できるところが良い。
正解の余韻にひたる暇はなく、正面の時計から閉館を知らせるチャイムが響く。眠そうにしていた司書はダスターで本棚をパタパタとはたき、ほとんど形だけの清掃業務にあたっていた。
チャイムの音は学校だろうと図書館だろうと決まって無機質で、僕はそれをきくといつも少し鼻白んでしまう。休み時間、遊びに夢中になっているときや、社会の授業でめずらしく先生がおもしろい解説をしているときや、今みたいに赤ペンを軽快に走らせたあと、自分の書いた答えを見かえして達成感を味わおうとしているときなど、チャイムはいつも水をさしてくる。図書館のは、学校のほどかん高い音でなくてまだましだけど。
答えを見かえすのは家に帰ってからにしようと思った矢先、背後に人の気配を感じた。
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