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七章
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青春の「せ」の字もない人生だった。まあ、まだ十九、もうすぐ二十歳。この身空で語れるほどの人生経験があるわけでもないが。
高校を中退してから、私は堕落した毎日を送っていた。
昼過ぎに目を覚まし、部屋に篭って本を読んだりゲームをする。腹が減った時にはリビングに行って冷蔵庫のものを食べ、冷蔵庫に何も入ってなかったら、何も食べずに寝る。
毎日のように考えた。
「なんで生きてるんだろう」と。
母はたまに「働け」と罵ってくるが、父親は何も言わない。それどころかニヤニヤしながら「金持ってない?」と聞いてくる。
恥ずかしかった。
こんな親の娘であること、こんな人間であること、生きてることが。
外に出て、同年代の子達と同じように学校に行って同じように生活する権利なんて私にはない、そんな気がしていた。
果てしなく有り余る暇な時間。しがらみがないのは楽なようで、しかし真綿で首を絞められるような感覚が常にしていた。
私が高校を中退してから、両親は毎日のように喧嘩をしていた。
離婚をすると母が父に言ったまでは良かった。しかし父はその申し出を拒否、母が離婚したがっているのは浮気しているからではないかとすら疑って、母の話を聞こうとすらしなかった。
母は極めて冷静に、浮気ではない、お金と父自身の問題が原因だと説明し続けた。それに、浮気しているのは父のほうではないか、とも。
最終的に離婚が決まるまで、じつは一年近くを要した。最後は父がそれを望んだのだ。
さて、その離婚の決定打となる事件があった。
冬が終わり、春の暖かさで過ごしやすくなったある時分のことだ。私はそれまで毎日していたように、昼過ぎに目覚め、部屋に篭って読書やゲームをしていた。
夕方に母が帰宅する物音が聞こえ、その一時間ほど後に父が帰宅した。
父は母のいるであろう居間に向かい、しばらくしてそちらの方から二人の口論する声が聞こえはじめた。
またか、と私はため息を吐いた。飽き飽きした。いつになったら終わるのか、全く見当もつかない。
父が野太い声で怒鳴り散らし、母がヒステリックな声で言い返している。何を話しているのかは解らないが、聞いてて不安になる。
ヘッドホンでもして音楽でも聞いてて誤魔化そうか、とベッドから立ち上がった。ほぼ同時に、居間から大きな音がした。ドスンとかバタンとか、取っ組み合いの喧嘩をしているような音だ。
それを聞いて動けなくなった。全身に針を刺されたようにな感覚がした。今までこういうことはよくあったが、何度あっても恐ろしい。
何かが投げつけられる音や、割れる音、母のうめき声が聞こえた。
父が「死ね!死ね!」と叫んでいるのが解った。
母のうめき声はしばらく続いた。バタバタと暴れる音もした。やがて声がしなくなり、暴れる音も途切れ途切れになっていく。
ただ事ではないと思い、私は部屋から飛び出した。
「お母さん!」
居間のドアを開けると、入口横にあるキッチンの床に包丁やボウルや、色んなものが散らばっていた。その中にテープカッターがあって、どうやら投げられたそれがキッチンの棚や包丁のストッカーに当たったらしいことが解った。
居間のテレビの前に父の背中が見えた。手を床に向けて何かをしている。父の荒い息づかいが耳に届いた。
肝心の手元はテーブルに隠れて見えない。
母さんは?母さんはどこだ。
「父さ……」
私が父を呼ぼうとすると同時、テーブルの陰、つまり父の手が伸びてる先から、細い腕が現れた。その手は震えながら、しかし力強く、父の顔を掴み、ギュッと頬を握り締めた。
あれは、明らかに女の腕だ。明らかに、母さんの腕だ。
喉の奥から、情けないほど弱々しい悲鳴が漏れた。
何が何なのか、きちんと理解できたわけではなかったが、どうしてか、その腕を見て自分の心臓がひねり上げられたように痛くなった。
脳がカッと沸騰して、まるでこの体が自分のものではないような、不思議な感覚に陥った。他人が乗り移ったかのように、五感が鈍った。
そこから、自分が何をしたのか、あまり記憶がない。
………
………………
………………………
ハッとした。
目を開けたら、暗闇の中にぼんやりと部屋の天井が見えた。夢だった。
心臓が早鐘を打っているが、頭の中は冷静だったし、冷や汗すらかいていない。まるで全身が痺れたようだ。なんだかチクチクと皮膚が痛んだ。
恐怖、痛み、怒り、それらを超越して、今私の中には別の感情があった。
それは、――喜び。
ああ、確かに私はあの時喜んでいたような、そんな気がする。でも、なにが?なにがそんなに嬉しかったんだ?
ぼんやりと記憶が蘇りそうになるのに、またすぐ消えてしまう。
ふと気配に気付いて、部屋の片隅に目をやる。あの男の子が、そこで体育座りをしてこちらを見ていた。
何も言わずに、どこか悲しそうな目をしていた。
「何なの」
夢の感覚を引きずったままの私は、半笑いで呟いた。「こっち見てるだけじゃわかんないよ」男の子は何にも答えてくれなかった。答えてほしかった。何でもいい、励ましでも慰めでも、怒鳴り声でもいい。私の目を完全に覚ますようなことを、言って欲しかった。相手が幽霊かもしくは幻覚であることも忘れ、男の子に何か言ってほしいと心から望んだ。
苦しい。
なんで生きてるんだろう。
なんで悲しいんだろう。
なんで私は人間なんだろう。
「ぃひっ、……ひひひ…………」
涙と、気持ちの悪い笑い声が同時に漏れた。左の手首をそっと撫でると、昔の傷痕の感触があった。
もう何年も前の傷なのに、どうしてこんなに痛むのだろう。
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青春の「せ」の字もない人生だった。まあ、まだ十九、もうすぐ二十歳。この身空で語れるほどの人生経験があるわけでもないが。
高校を中退してから、私は堕落した毎日を送っていた。
昼過ぎに目を覚まし、部屋に篭って本を読んだりゲームをする。腹が減った時にはリビングに行って冷蔵庫のものを食べ、冷蔵庫に何も入ってなかったら、何も食べずに寝る。
毎日のように考えた。
「なんで生きてるんだろう」と。
母はたまに「働け」と罵ってくるが、父親は何も言わない。それどころかニヤニヤしながら「金持ってない?」と聞いてくる。
恥ずかしかった。
こんな親の娘であること、こんな人間であること、生きてることが。
外に出て、同年代の子達と同じように学校に行って同じように生活する権利なんて私にはない、そんな気がしていた。
果てしなく有り余る暇な時間。しがらみがないのは楽なようで、しかし真綿で首を絞められるような感覚が常にしていた。
私が高校を中退してから、両親は毎日のように喧嘩をしていた。
離婚をすると母が父に言ったまでは良かった。しかし父はその申し出を拒否、母が離婚したがっているのは浮気しているからではないかとすら疑って、母の話を聞こうとすらしなかった。
母は極めて冷静に、浮気ではない、お金と父自身の問題が原因だと説明し続けた。それに、浮気しているのは父のほうではないか、とも。
最終的に離婚が決まるまで、じつは一年近くを要した。最後は父がそれを望んだのだ。
さて、その離婚の決定打となる事件があった。
冬が終わり、春の暖かさで過ごしやすくなったある時分のことだ。私はそれまで毎日していたように、昼過ぎに目覚め、部屋に篭って読書やゲームをしていた。
夕方に母が帰宅する物音が聞こえ、その一時間ほど後に父が帰宅した。
父は母のいるであろう居間に向かい、しばらくしてそちらの方から二人の口論する声が聞こえはじめた。
またか、と私はため息を吐いた。飽き飽きした。いつになったら終わるのか、全く見当もつかない。
父が野太い声で怒鳴り散らし、母がヒステリックな声で言い返している。何を話しているのかは解らないが、聞いてて不安になる。
ヘッドホンでもして音楽でも聞いてて誤魔化そうか、とベッドから立ち上がった。ほぼ同時に、居間から大きな音がした。ドスンとかバタンとか、取っ組み合いの喧嘩をしているような音だ。
それを聞いて動けなくなった。全身に針を刺されたようにな感覚がした。今までこういうことはよくあったが、何度あっても恐ろしい。
何かが投げつけられる音や、割れる音、母のうめき声が聞こえた。
父が「死ね!死ね!」と叫んでいるのが解った。
母のうめき声はしばらく続いた。バタバタと暴れる音もした。やがて声がしなくなり、暴れる音も途切れ途切れになっていく。
ただ事ではないと思い、私は部屋から飛び出した。
「お母さん!」
居間のドアを開けると、入口横にあるキッチンの床に包丁やボウルや、色んなものが散らばっていた。その中にテープカッターがあって、どうやら投げられたそれがキッチンの棚や包丁のストッカーに当たったらしいことが解った。
居間のテレビの前に父の背中が見えた。手を床に向けて何かをしている。父の荒い息づかいが耳に届いた。
肝心の手元はテーブルに隠れて見えない。
母さんは?母さんはどこだ。
「父さ……」
私が父を呼ぼうとすると同時、テーブルの陰、つまり父の手が伸びてる先から、細い腕が現れた。その手は震えながら、しかし力強く、父の顔を掴み、ギュッと頬を握り締めた。
あれは、明らかに女の腕だ。明らかに、母さんの腕だ。
喉の奥から、情けないほど弱々しい悲鳴が漏れた。
何が何なのか、きちんと理解できたわけではなかったが、どうしてか、その腕を見て自分の心臓がひねり上げられたように痛くなった。
脳がカッと沸騰して、まるでこの体が自分のものではないような、不思議な感覚に陥った。他人が乗り移ったかのように、五感が鈍った。
そこから、自分が何をしたのか、あまり記憶がない。
………
………………
………………………
ハッとした。
目を開けたら、暗闇の中にぼんやりと部屋の天井が見えた。夢だった。
心臓が早鐘を打っているが、頭の中は冷静だったし、冷や汗すらかいていない。まるで全身が痺れたようだ。なんだかチクチクと皮膚が痛んだ。
恐怖、痛み、怒り、それらを超越して、今私の中には別の感情があった。
それは、――喜び。
ああ、確かに私はあの時喜んでいたような、そんな気がする。でも、なにが?なにがそんなに嬉しかったんだ?
ぼんやりと記憶が蘇りそうになるのに、またすぐ消えてしまう。
ふと気配に気付いて、部屋の片隅に目をやる。あの男の子が、そこで体育座りをしてこちらを見ていた。
何も言わずに、どこか悲しそうな目をしていた。
「何なの」
夢の感覚を引きずったままの私は、半笑いで呟いた。「こっち見てるだけじゃわかんないよ」男の子は何にも答えてくれなかった。答えてほしかった。何でもいい、励ましでも慰めでも、怒鳴り声でもいい。私の目を完全に覚ますようなことを、言って欲しかった。相手が幽霊かもしくは幻覚であることも忘れ、男の子に何か言ってほしいと心から望んだ。
苦しい。
なんで生きてるんだろう。
なんで悲しいんだろう。
なんで私は人間なんだろう。
「ぃひっ、……ひひひ…………」
涙と、気持ちの悪い笑い声が同時に漏れた。左の手首をそっと撫でると、昔の傷痕の感触があった。
もう何年も前の傷なのに、どうしてこんなに痛むのだろう。
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