極上の女

伏織綾美

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一章

1-3

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「ところで、こちらのお嬢さんは?」

「ああ、娘の可奈です」

「お母さんに似て美人ですねぇ」

「あらー!良かったね、可奈!」


 いきなり話を振られて、戸惑いのあまり何も言えなかった。口をポカンと開けた間抜け面のどこが美人なものか。お前のほうがよっぽど美人じゃないかと言い返したかったが、恥ずかしくてそれどころじゃない。
 ただ無言で、会釈することが精一杯だった。


「ごめんなさい、ちょっと男の人が苦手みたいで」

「おいくつなんですか?」

「19ですよ」

「19かあ。じゃあ大学生なんですか?」

「いえ、私達親のせいで高校もまともに通わせてやれなかったんですよ」

「ああー。そうなんですか。余計なことを聞いてしまいまして、すみません」

「いえいえ、いいんです。気になさらないで下さい」


 母と談笑する男性――――藤木さんの顔をチラチラ見ながら、私は会話が終わるまで所在なくその場に立ち尽くしていた。



 家に帰ってからも、部屋の窓から見える隣の家が気になって仕方がなかった。

 なんて綺麗な男の人なんだろう。


 一瞬だけ、目が合った。その時に死ぬかと思った。
 情けないことに、胸が高鳴ってしょうがないのだ。

 あの、少しつり目がちの目。瞳は茶色っぽかった。優しくて暖かい瞳だった。そして少し太い眉毛が、彼の誠実さを更に引き立てている。


 母と話してる藤木さんの、あの形のいい唇が動くのを、ずっと見ていたかった。触ったらどんな感触なんだろう。キスしたら、どんな感触なんだろう。


 そう考えただけで、顔が熱く火照るのだ。





 ………
 ………………
 ………………………



 一週間も過ごせば、新しい家にも慣れるもんだ。部屋が二階にあることには未だにソワソワしてしまうが、そのうち慣れるだろう。


「アンタ、いつまで引きこもってるわけ?」


 そして母は、いつもの調子に戻りだしていた。ストレスが溜まっていると、口調も性格も刺々しくなるのだ。
 引っ越した頃の無邪気な母と、この刺々しい口調の母との間を行ったり来たり。


 極端すぎて時々、苦しくなる。



「うん」

「役立たずは、うちにはいらないよ」


 無職であることが居たたまれないため、毎日の家事は欠かさずやっている。それでも母には、お金を稼がない私の存在は邪魔でしかないのだ。


「退いてよ」


 食後に使った皿を洗っていたら、母が私を突き飛ばして冷蔵庫を開けた。中から水の入ったペットボトルを取り出し、また私を突き飛ばして自室に戻っていった。


 悔しいし、悲しい。


「…………」


 しかし母にはまだ話していないが、アルバイトの面接に行く予定なら、明日ある。
 前からなんだが、あまりこういうことは母には話さない。

 社会人としての助言、ってやつか正直うざったい。


 おまけに母は一から十まで自分の思い通りの筋道をたてて、それを事細かに指示してくる。教えではなく、指示だ。命令ともとれる。

 母に話したら、「最初にこう挨拶して、こうこうこういう用件で来ました、そしてお辞儀をする」と話し出すのは目に見えてる。途中で適当に切り上げると、しばらく無視される。


 なんて不思議な人だろう。
 優しいのか厳しいのか、そのどちらかしかないのだ。恐ろしいほどに我が子を私物化しているというのに、私に自立しろと言う。


 私はそんな母を、愛していないのかもしれない。

 好きではあるが、それ以上に可哀想だと思う。
 怒り狂って私に怒鳴り散らす彼女を見ていたら、あまりにも哀れすぎて、抱きしめてやりたくなる。



 いつになったら、脱け出せるんだろう?
 母に依存して依存され、働いても給料は全部母のもの。お前を育てるために今までいくら使ったと思ってるんだ、お前のためにどれだけ苦労させられたと思ってるんだ。
 テンプレートになったそんな文句を何度も繰り返し、私をがんじがらめにしようとする。

 私に見捨てられたくないのだろうか?


 喧嘩をして、怒りながらも泣きそうな母の顔。
 言いたいだけ酷い言葉を吐いて、傷付くのは言われた私ではなく母のように思える。


 可哀想だ。
 私のお母さんは、可哀想だ。





 翌日。

 あの後、皿を洗い終えてからすぐに自室に戻って泣いた。泣きながらベッドに入り、いつの間にか寝入っていた。目が覚めたら当然、朝である。

 すでに母は出勤した後で、家の中はとても静かだ。


 私はゆっくりと身体を起こし、ゆっくりと支度をして一階の風呂に向かった。階段を降りて廊下を挟んですぐ右に、脱衣場がある。天井近くに大きな窓があるので、非常に明るい。


 一応、玄関の鍵が閉まっているかを確認して、念のためにチェーンをかけてから脱衣場に向かった。

 服を脱ぎ、浴室に入る。
 出勤前に母が入浴したのか、浴槽には熱いお湯が張ってあった。手でお湯の温度を確かめつつ、鏡の前の椅子に座った。


「んー……」


 元来のナルシシズムで、浴室の鏡に映る自分の顔を見てしまう。「うん、可愛い」と呟く。

 自分が美人だ可愛いだと騒ぐのは、馬鹿らしいことだと自覚している。だからこそ一人の時にしか、こういう行動はしない。


 自分の、この顔や、身体は好き。
 でも、性格が嫌い。


 この顔に見合った、綺麗な性格になりたい。どうして、私の心はこんなに汚ならしいのだろう。


 もっと性格が良ければ、頭が良ければ、母は私のことをまともに愛してくれたかも知れない。両親が離婚しないよう、なんとか「かすがい」になろうと努力できたかもしれない。

 周りの皆の、役に立てたかもしれない。
 価値のある人間に、なれたかもしれない。


 自分のことが好きだ。
 そしてそれ以上に、人が大好きだ。


 もっと「いい子」になりたい。
 もっと賢くなりたい。
 もっと社交性が欲しい。


 自分だけが自身を愛しても、こう寂しくっちゃあいけない。誰かに愛されたい。生まれて良かったって、心から感じたい。


 ………解ってる。こんなこと、人に話したら鼻で笑われるだろう。あまりにも偽善っぽい。


 私は外見だけが美しい。ただそれだけの、中身がない花瓶みたいな存在。
 外見だけで「この花瓶に挿すのは、最高に綺麗な物じゃないと」と思わせるだけの冷たい陶器。


 きちんと笑顔を作らなきゃ、ガッカリされたくないから。




「…………」


 鏡に向かって、ニッコリと笑顔を作った。いつの間にか私は泣いていたようで、鏡の中でとてもぎこちない表情をしていた。







「もう…………、死にたいよ……」


 自分が好きだったり嫌いだったり、ごちゃごちゃしすぎて混乱してきた。
 私は一体何なのだろう。



 どうして、こんな奴になってしまったのだろう。




 泣くのもそこそこにして、手にした洗面器を浴槽に入れた。シャワーは勿体ないので、あまり使わないようにしてる。


「ん?」


 背後、つまり浴室の扉から、ノックをするような音が聞こえた。

 振り返って見たが何にもない。当たり前か。


 気のせいだと考え、洗面器で汲んだお湯を頭から被った。何回か髪の毛を濯(すす)いでから、シャンプーのボトルに手を伸ばした。


「アッ」


 鏡に映る自分。その背後に映る扉。扉の枠に嵌められた磨りガラス、その向こうに、小さな人影があった。

 ハッとして扉を見るが、ガラスの向こうに何者かが居るような人影は無かった。


 再び鏡を見る。
 やはり、扉のガラス越しに人影があった。


 その人影は私よりもずっと身長が低く、子供であることは明らかである。

 その子はガラスに両手をついて、顔をくっ付けるようにしてこちらを見ている。魚のように大きく口を開けては閉めるを繰り返し、目は私を見詰めているように思える。


「誰?」


 私も鏡に顔をくっ付けんばかりに近付いて、その人影に言った。だが何となく、ここに引っ越してすぐに目撃したあの男の子だと解っていた。

 男の子の右手が、トントン、と優しく扉を叩き、ゆっくりと左側を指差す。


 左の方を見るが、タイル張りの壁しかない。窓もない。


 鏡の中で、男の子が首を横に振った。
 口を「お」の形にして何度もパクパクしている。


「“お”……?“と”?
 ………………“そと”?」


 うん、と大きく頷く男の子。相変わらず振り返っても姿が見えない。


 とりあえず外に出ろということか?


 鏡にしか映っていない男の子が「幽霊」であると理解してるつもりだが、いまいち掴めない。そもそも初めて見た。

 だが不思議と怖くない。むしろ何故か、親しみを覚えた。
 だから従う気になったのだろう。私は立ち上がると、髪の毛の水気を取ってから浴室の扉を開けた。

 もちろん脱衣場には誰も居なかった。


 タオルを身体に巻いて、リビングまで出てみた。音を消したまま、テレビが点いていた。

 勿体ないなと呆れながら、ソファーに近寄ってリモコンを手に取った。電源を消し、まさか無駄使いを教えてくれたのか?と不思議に思いながら浴室に戻ろうとした。


 今日は昼にアルバイトの面接があるので、準備をしなくてはならないのだ。
 そして、採用されたら母に報告する。


 濡れた足跡をフローリングに残しながら、引き返そうとした矢先のことだった。


 玄関の方でガンガンと音がしたのだ。扉を激しく叩いているような音である。
 驚きと恐怖で、私はその場で棒立ちになった。怖くて動けない。

 もしかしたらこの界隈(かいわい)には頭がおかしい人や、ヤクザや、押し込み強盗でもあるのだろうか?


 私が色々と考えを巡らせる間にも扉は激しく叩かれ、時折女性のうめき声のようなものが聞こえた。

 なんで、なんでよと言って泣いてるような声が少し哀れに思えて、脱衣場から廊下へと続く引き戸を少し開けて、玄関の扉を見てみた。

 玄関の扉にある、浴室のざらざらしたそれとは違う、綺麗に加工された磨りガラスの向こうに、何者かの存在があるのが解った。


 先程まで扉を激しく叩いていたが、少しずつ叩く力が弱々しくなっていき、ゴン、という鈍い音と共に止まった。
 何者かは磨りガラスに頭を押し付け、どうやらすすり泣いているらしかった。


「…………あ」


 声を掛けようと、した。

 だが、それを見計らったように人影は消えた。


 ただ、画像の消去のようにぱっと消えたわけではない。素早く身を引くようにして消えた。

 ドタドタと揉み合うような音がしばらくしたかと思うと、すぐ止んだ。


「………なんなの」


 玄関を開けて外の様子を見たいところだが、自分が現在裸であることを思い出して、浴室に引き返した。

 この後インターホンをちゃんと鳴らして、このことを説明してくれる人(警察とか、近所の人とか)が現れるならば話は別だが、この一部始終は今は深く考える必要はないと思った。
 お湯を被って濡れた身体は、すでに冷えていた。詮索したい気持ちは山々だが、風邪をひいては元も子もない。






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