みじかいやつ

伏織綾美

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春風が吹いた

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花びらが舞うように、それはヒラヒラと宙を泳いだ。
上手い具合に風に乗って僕の手のひらに落ちたそれは、さっきまでの生き物みたいな動きを一切やめて、大人しく垂れ下がった。

「あ........」

白くて四角い布。隅には名前が刺繍されている。刺繍の名前を読んだ瞬間、僕の心臓は跳ね上がった。

視線を向けた前方を歩く、1人の女の子。長い黒髪を靡かせて颯爽と歩いている。彼女のリズミカルな足音が、僕の鼓動と重なる。


声を掛けないと。


そう思うのだけど、喉の奥が締め付けられるような感覚で声が出せない。見えないロープで首を絞められるような。僕は緊張していたのだ。

声を掛ければきっと彼女は振り返る。そして僕を見付けるだろう。
透き通った海のような、あの美しい瞳に、僕のような汚い生き物が映されてしまう。そう考えると、とても声なんて出せない。

(........でもなあ)
己の広げた手に被さるハンカチを見下ろす。握り締めたらいけないような気がして、5本の指はピンと力いっぱい伸ばしていた。
これをこのままにしておく訳にもいかない。明らかに女物のハンカチで、しかも校内で知らない人は居ないくらいの美人の名前が刺繍されている。こんなところを見られたら、僕は卒業まで皆から避けられるか、虐められるだろう。

持ったままにもしておけない、でも声も掛けられない。ならばいっそ地面にでも落として、知らないフリをして帰ろうか。多少気が乗らないが、このまま気持ち悪い男子生徒に成り下がるか、それとも今まで通りの目立たない奴でいるか、天秤に掛けたらどちらが傾くかは明白だ。

南無三。僕はなんとか声を絞り出そうと口を開いた。しかし、それよりも早く風が吹いた。
ヒラリと風に流され、ハンカチは僕の手から飛び立った。踊るように舞い上がり、しばらくヒラヒラ、クルクルと飛び回った後、ゆっくりと地面に落ちてしまった。

僕の立つ場所の数メートル先のアスファルトに落ちた。思わず拾おうと歩み寄りそうになったが、踏みとどまる。
僕は彼女に声を掛けるか、ハンカチ自体を捨てるかで迷っていた。結局その二択の片方を選んだ形に落ち着いたではないか。それでいいのではないか。


じゃあ、もう気にしないでいいだろう。
そう考えてハンカチを無視して帰路につこうとしたその目の前で、自転車が数台通り過ぎた。ハンカチは複数の自転車のタイヤに踏みつけられ、明らかに汚れてしまっていた。





僕は意気地無しの上に、さらに卑怯者に成り下がっていた。彼女に声をかける勇気がないからと、拾ったハンカチをわざと落とそうと考えた。結局わざとではないが、風で飛んだハンカチは地面に落ち、しかも複数の自転車のタイヤに踏まれて汚れてしまった。

思わずそれを拾うと、制服のポケットに突っ込んで早足で帰宅した。汚れたハンカチを見た瞬間、どうしても拾わずには居られなかった。申し訳なさと情けなさで消えてしまいたかった。


2


自宅の玄関で靴を脱ぐと、着替えもそこそこにハンカチを洗面台で手洗いした。その後分厚いネットに入れ、ハンカチ1枚のためだけに洗濯機を起動した。
洗濯後は自室の窓の近くに置いて一晩乾かして、早朝にこっそり母親のアイロンを拝借して綺麗にシワを伸ばし、丁寧に畳んだ。

正しい方法かは分からないが、自分が思いつく限りの手は尽くしたつもりだ。

いつもより1時間早く家を出て、誰もいない教室でこっそりと彼女の机の中にハンカチを忍ばせた。あとは他の生徒に怪しまれないように校舎の人気のないところで時間を潰し、いつもの時間に教室に入った。

「........」

挨拶は無い。皆それぞれ友達同士で談笑したり、読書したりと、思い思いに過ごしてる。
生徒同士が気持ちよく挨拶なんて、そこまでフレンドリーなクラスでもないし、そもそも僕には挨拶をし合う友達なんて居ない。クラスメイトからは名前すら覚えられていないだろう。


教室の中央よりやや後ろにある自分の席に座りながら、ちらりと彼女を見やる。僕よりも少し早く教室に来たらしいが、友達の女の子数人に囲まれてにこやかに世間話をしている。
話しながら椅子を軽く持ち上げて動かし、座りやすいようにした。他の生徒は気にせず床に脚を擦りながら椅子を引くところだろう。
彼女はそういった、意識外に置きがちなわずかな不快音を産む動きをすることが少ない。そんな所も僕は好きだった。


昨日近隣の街で起こった殺人事件が怖い、といった話をする友達に笑いかけながらゆっくりと椅子に座った。

「喉に小さな穴が空いてて、アイスピックとかで急所を正確に刺したんじゃないかって言われてるんだって」

「へぇ、怖いねぇ」

「もしかしたら犯人、この街にも来るかもしれないよ。しばらく皆で一緒に帰ろうよ」

「あー........、私、習い事があるから無理な曜日あるや。それ以外の日なら、一緒に帰ろう」


困ったように言いながら、鞄から取り出したノート類を机の中に入れ始めた。
と、僕がこっそり忍ばせたハンカチに手が触れたのか、一瞬だけ動きが止まった。友達に向かってニコニコと受け答えしつつ、彼女の左手がゆっくりと机から引き出された。

チラリとハンカチを見遣り、素早くスカートのポケットに入れるのを見届けた。


これで安心........なのかな。
彼女自身、落としたことすら覚えてない可能性もあるハンカチが、何故か己の机の中から出てきた。よくよく考えてみると、気味が悪い出来事かもしれない。ここに至るまで全くそのことに気が回らなかった。

ポケットに手を入れたままの彼女は、心做しか友達への受け答えが等閑になっているように思えた。やはり気持ち悪かったのかもしれない。
彼女以外の人間のそれでも、全く見たことがないような何とも言えない不思議な表情のように見えた。横顔なので、満足に読み取れないけど。



3



ヒヤヒヤとしながら、放課後まで何とか過ごした。
幸い、誰かが彼女のハンカチを盗んだとか、誰かが彼女の机に異物を入れたとか、そんな類のネガティブな騒動は無かった。

今朝彼女が友達と話していた、例の殺人事件とやらが学校のすぐ近くの街で起こったという話題か今現在クラスではホットなようだ。

確かにそれに比べれば、ハンカチなんて語るほどのものでもない。
もっとも、その件は彼女と僕しか把握していないことなので、彼女が自ら発信しない限り明るみにはならないのだが。心配しすぎたな。


部活も遊ぶ予定もない孤独な僕は、いつも通り帰り支度をするとそそくさと教室を出た。
そういえば、母から帰りに買い物を頼まれていた。スマホのメモ帳に買う物をメモしていたのを思い出し、今一度確認しておこうとポケットに右手を入れた。

「........」


そこにはなにも入っていなかった。スマホはいつも制服のズボンの右のポケットに入れている。意外と深いポケットなので、簡単に落とすこともないはずだ。

考えられるのは、体育の授業で着替えた際に紛失した可能性だ。畳んだズボンからどこかに落ちたのかもしれない。




ということで、僕は廊下を引き返して教室に戻った。

教室にはまだ数人の女子が残って話していたが、戻ってきて自分の机やロッカーを探り出した僕を見て気持ち悪そうな顔をすると、ヒソヒソと話しながら早足で出ていった。少しだけ傷ついた。

机やロッカーを探しても、僕のスマホは見つからなかった。制服のポケットや鞄も探して、体操服の隙間まで探したけど、見つからない。

まさか盗まれた........?
その考えが浮かぶと同時に、サッと血の気が全身から抜けた。親に知らせたら怒るのは当たり前だし、サイトのパスワードや電話帳のデータや........とにかく色々な情報が入ってる。
(まぁ、電話帳は家族や親戚しか登録されてないのでそんなに多くの情報はないけど)


「どうしよう........」どうもこうも、とりあえず職員室に言って教師に話した方がいいのだが。しかしとりあえず、まずは狼狽えて不安を少しだけ発散したかった。
頭を抱えて自分の机に突っ伏して深呼吸する。廊下の喧騒が消え始めている頃だった。隣の教室から出てきた最後の生徒が、僕の姿が見えたのか「みてあれ、気持ち悪」と話す声が聞こえた。

友達が居なくて、特徴もなくて、趣味もなくて、目立たないだけの生徒の僕だ。ただ今現在は尋常ではない仕草をしているので、気持ち悪いと言われるのは仕方ない。
それでもやはり、ちょっと傷つく。



しばらく心ゆくまで落ち込んでから、顔を上げた。職員室に行こう。先生に話して、落し物が無いか見てもらおう。

そう考えながら教室から出ようとした僕を、細い電子音が呼び止めた。
振り返った教室は無人だ。それなのに音がする。教卓や黒板の辺りからしている音ではないようだ。
では、と顔を上げて見たのは教室の後方である。その先には掃除用具を入れたロッカーがあった。


どこかの誰かが、イタズラで僕のスマホをそこに隠したのかもしれない。ロック画面から簡単にアラームをセットできるように設定してあるので、きっと同じタイプのものを持ってる誰かがこの時間に音が鳴るようにしたのだろう。
鳴っている音は、聞きなれた僕のスマホのアラーム音だ。


僅かに煮え立つ怒りを感じながら、僕は荒い足取りでロッカーに向かった。扉を開けるために手をかけたタイミングで、音がピタッと止まった。


じわり、と怒りが引いた。代わりに出てきたのは恐怖だった。アラームはタップで止めない限り、15分は鳴り続ける。それなのに、鳴り始めて一分も経たずに止まった。
ということは手動で止めたことになる。


手を引きそうになる。
ロッカーの中に人が居る?
何のためにだ。


しかし、どちらにせよスマホというものは誰にでもそうであるように、僕にとってはとても大切なものだ。取り返さなくてはならない。

ゆっくりやると決心が鈍りそうなので、僕は一気にロッカーを開けた。中にあるものを視認するまでに至らず、強い力で襟首を掴まれて引っ張られた。


4


横幅90センチほどの、少し大きめのロッカーに無理やり引き込まれた。
鞄の紐が挟まったが、僕を引き込んだ何者かが一瞬だけ扉を開いて素早く中に引っ張りこんだ。


暗闇で何も見えない。いや、ロッカーの扉にある小さな穴から外の光は差し込んでいるが、それだけでは不十分すぎた。


何者かは、僕の体に絡みつくように抱きついているみたいだった。僕のではない荒い呼吸が、首筋を熱く撫でる。
他人と密着するということ自体が生まれて初めてなのもあって、慣れない感触に心臓が痛いほど跳ね上がった。


「........やっぱり」


耳元で囁かれた甘い声。そして顎の下にヒヤリと冷たい感触。


「君が拾ってくれたんだ、ハンカチ」


右足がバケツの中に入ってしまい、上手くバランスが取れない。その上、この声のせいで激しく動揺してしまった。

僕はロッカーの壁に尻をおしつけ、もつれてしまいそうな足をバケツごとゆっくりと動かした。なんとか違和感のない体勢をとろうとした結果、僕はロッカーの中で横向きに座り込んだ。
なんとなく扉を開けたらいけない気がしたので、そこにも細心の注意をはらった。

何者かも僕に合わせてゆっくりと動いて、現在僕の膝の上に乗っている。体重が軽いので辛いことはない。


彼女だった。

僕のスマホの画面で己の顔を照らし、にっこりしながらもう片方の手に握られたボールペンを照らした。

高級そうなシルバーのホルダーのペン。

画面を消すと、再び僕の首元にヒヤリと何かが押し当てられた。


「大人しくしてね。これ、結構鋭いよ。
汚れたら掃除するのも大変だし」


妙に艶かしい声と、熱い吐息が耳にかかる。状況も忘れて心地良さを感じてしまう。


「この匂い、ハンカチについてたのと同じだ。
洗剤と柔軟剤、生活臭に汗の匂い」


彼女は僕の頭に顔を押し付けると、大きく息を吸った。


「いい匂い」


興奮した口調でそう言うと、彼女は僕の頭を抱きしめて何度も匂いを嗅いだ。


「昨日は失敗したけど、今度は一応は顔見知りだし、私のことが好きみたいだから大丈夫そうだな」

「え........なに........」


フフ、と小さな笑い声がした。


「私のペットになってよ」

「は?」


頭の上から聞こえてくる笑い声は、いつもの彼女の穏やかなそれとは異なる。もっと怪しくて、危険な響きがあった。


「断ってもいいけど、私の秘密の片鱗を見た以上は無事では帰さないよ」


彼女は僕みたいなつまらない人間とは全く違う世界の生き物で、何かの間違いで同じクラスに居るだけだと思っていたんだ。



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