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第二十三話

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 え、と戸惑うように肩を揺らして微かに笑い、もう一度、えええ?と声を上げる。
「そんなことで?」
「繰り返し行うこととしては合理的で、びかびかでぎらぎらでごつごつしたものよりか、よっぽど納得出来るんじゃねえの。なんだよぉ、がっかりした?」
「あ、いや、違う。なんて言うか」
 頭をがりがりとかく。あは、拓也の表情と声に、やっと明るい笑顔が昇った。
「目から鱗が落ちた!」
 少し離れた位置で見ていた勝次と護には、あまり相手の声は勿論、拓也の声も微かにしか聞こえなかったが、拓也が電話の相手に文句を言っていたのは、何となくわかった。それなのに突然あっと言う間に表情が緩み、今は氷が解けたような笑顔で、おうとか成程なとか、明るく会話をしているのが不思議で仕方無くて、二人して首を傾げる。
 しまいには、サンキュー!と満面の笑顔で礼を言って電話を切り、携帯電話をズボンの後ろポケットに無造作に突っ込むと、そわそわと時計を見た。黒板の上に掲げられたシンプルな時計は、ホームルームの時間まであと五分を指している。あと五分か、拓也はそう呟き頷くと、軽やかな足取りで教室を飛び出した。
「あ、おい!」
「大丈夫!すぐ帰って来る!」
 慌てて追いかけても、もう廊下に拓也の姿は無く声だけが残されて、勝次と護はただただ顔を見合わせて、首を傾げることしか出来なかった。
 拓也が走って駆けつけた先は、四階にある光子のクラスだ。他生徒をぬうように避け、光子のいる教室の出入り口で、慌てて止まる。開けっ放しの引き戸にバンと手を置いて、中を覗き込めば、ぎょっとした教室内の生徒が一斉に拓也を見ていた。
「あれっ、みっちゃんの知り合いの二年生?なんでなんで?」
 最初にぱっと声をかけてくれたのは、初日に学校で出会ったとき光子の傍に居た夏美だ。その明るい声に、教室内の生徒と同じようにぎょっとしていた光子が、ぱちりとまばたきをする。二人はやはり傍にいて、とても仲が良いことがよくわかった。
「え?柴田さん?」
 夏美に目の前で手を振られ、やっと目が覚めた光子が拓也を呼ぶ。また苗字呼びだ。だが今の拓也はそれに苦笑もせず、むしろ気付いてくれた嬉しさに顔を輝かせる。
「光子ちゃん!ちょっとこっち来て!」
 こいこいと手を大きく振って招くと、夏美が呆気に取られている光子の背中を両手で押した。ぐいぐいと押してドアの前まで連れて行き、最後にとんと背中を叩いて教室から出す。
 目があった拓也をじっと見てから、夏美はにっこりと笑った。
「どーぞどーぞ!」
「ありがとう!」
 首を傾げる光子の腕を取り、廊下の窓側に引っ張る。ホームルームが近くなった廊下は、人通りがまばらになっていた。だがドアには夏美がにこにこと立っているし、ちらほらと通る生徒はいるので、拓也は少し周囲を見てから声を潜めて話し始めた。
「光子ちゃん、楽しむことだったんだ」
「え?たのしむ?」
 声を潜めても拓也は少々興奮気味で、言葉をうまく順序立てられない。ちっとも話が見えない光子は、ただただまばたきをまた繰り返すだけだが、拓也は気付かないで落ち着こうともせず、頷いて早口でまくしたてる。
 早く、早く伝えたい。
「光子ちゃん、俺がはじめて家に行った時にやってたよね、八十八夜」
 はい。光子はそんな拓也に押されつつ、頷いた。
「立春から八十八日目は霜が降りなくなるので、種まきなどの目安とされていて……」
「そんでもってお茶の最盛期で、新茶を飲んで楽しむ!光子ちゃんは生垣の茶葉を採って、煎茶を作ったりしてた。この前は端午の節句、柏餅作って俺にもくれたし、父さんにもくれた」
「はあ、そう、ですけど……」
 それが何か?拓也の顔は輝いたままだったが、光子にはまだちっとも話が飲み込めない。戸惑う光子にむしろ嬉しそうに笑って、なおも拓也の話は続く。
 拓也が笑うところはこれまでも見たことがあるが、今の笑顔は少し幼く見えるほど明るい。
「野菜も育てて、一人になっても森の奴らといい距離を保ったままだ。季節の行事を追いかけて……全部、マサさんや俊三さんの教え?」
「はい。祖父母に季節の行事や庭の手入れ、料理、あと森の子たちのこととか……色々教わりました。不思議な子達には不思議な世界が見えているから、それを邪魔しちゃいけない。私達は四季を感じ、毎日を楽しく健康に過ごす。無理をしない範囲ですけど、明日を気持ちよく迎える為に、とても大事なことだと教えて貰って……」
「はは!真面目だなあ!」
 光子の眉がいぶかしげに寄せられて、眉間に少し皺が出来た。拓也にからかわれたと思ったのだろうが、拓也の笑顔には少しの邪気もなく、まだ何を言いたいのかわからない疑問から、完璧な不快の表情をとるに至らなかったようだ。しかし、そろそろホームルームが始まる時間である。不安に思いちらと光子が夏美を見ると、すぐさま時計を見に行って、あと一分ちょっと!と教えてくれた。拓也もそれを聞いてしっかり頷き、すっと背筋を正す。
 廊下の窓はうっすらと開いていて、緩やかな風が廊下に流れている。風はふわふわと拓也の髪や光子の髪を揺らし、天気の良い梅雨前の空から、朝の光が差し込む。廊下にはもう生徒が数えるほどしかおらず、学校が動き出す直前の穏やかな一瞬が流れていた。
 拓也はやはり、少し幼く見える笑顔を浮かべた。
「贅沢とは言えないけれど、東の神秘と呼ばれた日本文化が生んだ、四季を生活を楽しむ、ささやかな行事や習わし……生活を楽しむこと、これが人喰い鬼の手鏡の封印だったんだよ。千年前から、もしかしたらもっと前から続いてたその生活が、あの森を楽園にして手鏡を守っていたんだ。封印が緩んだのは、マサさんが倒れて、家を数カ月も長い間おろそかにしたから。昔はもっと人がいたけど、マサさんの代で人が凄く減って、空白の期間が出来てしまった。時代の流れだから仕方ないけど、光子ちゃんがいたからまた直ぐに収まったんだよ!光子ちゃんが、マサさんと俊三さんに教えてもらった事を、大事に大事にしていたから」
 その時、おい、と声を掛けられて拓也は振り返った。
「あと少しでホームルーム始まるぞ。君、二年生だろ?教室に戻りなさい。鈴木も教室入れ」
「げっ……ちっ」
 光子のクラスの担任教諭だ。間もなく時間がくるということは、つまり教師がやってくると気付かなかった。拓也はそのことに正直に舌打ちをうってしまい、当然のようにちっとはなんだ、と光子の担任に睨まれた。やばい。拓也はそれ以上粘ることはせず、素直に自分の教室に帰ることにした。うううともっと話したい気持ちを抑えつつ、光子のほうへもう一度向き直る。
 光子の表情は、無かった。
「とにかく!もう大丈夫ってことだから!」
 肩をぽんと叩き、階段の方へと走るとちょうどチャイムが鳴り響いた。まずい!そう思いつつ、階段への道を曲がるとき一瞬振りかえった。
 光子がまだこちらを見ていた。無表情のままで、ぴしりと背を伸ばして立っている。廊下の窓からは日差しが燦々と降り注いでいて、光子のこちらを真っ直ぐと見る顔が良く見えた。その一瞬の風景は、拓也のまぶたにじんわりと焼き付いた。
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