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2章
46話 恋
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「……協力者?」
そう漣が問い返すと、嶋野は陰鬱な顔でこく、とうなずく。
「別におかしな話ではありませんよ。今でも、渡良瀬さんの考えに賛同する住人はゼロではありません」
「え、そうなんすか? いや、でも、あいつの仲間は、昔、あいつと一緒にごっそり抜けたって――」
「あえて残ったシンパもいます。協会の動きをスパイするために……そうしたシンパに密かにリクルートされ、協力者となった住人もゼロではないでしょう」
「そう」
嶋野の言葉を、渡良瀬は意気揚々と引き継ぐ。
「すでに我々は、協会内部に多数の協力者を得ている。今回、海江田くんを出迎えるに当たり、文字通りネックとなるセキュリティは彼らの協力で解除させた。だから安心して、我々についてきてほしい」
「ついていく? ……俺のギフトで大量殺人をやろうって人間にか? 冗談じゃない! あんたはな、知らないんだよ。自分が奪った命が、どれだけ重く心にのしかかるのかってことをな。……俺は……知ってる。自分が犯した罪の重みを」
ERから運び出されるご遺体を前にしたあの瞬間の、地球の重力が束になって襲ってきたかのようなあの感覚を、漣は今もはっきりと覚えている。耐えがたい胸の痛みと、エゴに身を委ねたことへの申し訳なさ、恥ずかしさ。
このままどこかへ逃げ出してしまいたい。誰の目も届かない場所でひっそり命を断ちたい――冗談ではなく本気でそう思った。あの時、父からの電話がなければ本当に逃げていたかもしれない。嶋野に、手を差し伸べてもらえなければ。
「命は、取り返しがつかないんだ。……絵は、たとえ破れても修復できる。けど、命は、一度壊したら絶対に戻らないんだ。どんな名医にだって、それだけは、取り戻せない」
すると渡良瀬は、何が可笑しいのか、くくく、と喉を鳴らす。この男の笑い方は、とにかくいちいち癇に障る。
「まさか、君の口から人倫が説かれるとはね。……では、なぜ君は〝死〟のギフトを獲得したのだと思う?」
「は?」
「聞くな!」
鋭い一喝が、漣の耳を右から左に貫く。聞くな? 何を? そう、喉元に疑問が浮かんだ時には、漣は手で両耳を塞いでいる。……何だこれは。思考に先立って動く身体。まるで、誰かに身体を乗っ取られているかのような。
だが、いくら耳を塞いでも、声、いや音というものはどうしても入ってくるものだ。事実、そのために声楽系のギフトは、他のギフトより一段高い鑑賞レベルが設けられている。そのことを嶋野もわかっているのか、漣を振り返り、続ける。
「彼の言葉に耳を傾けてはいけない。いいですか? 絶対に信じてはいけない」
「……ん?」
渡良瀬の顔が、一瞬、驚きに歪む。これは、明らかに不意を突かれた人間の反応だ。
「まぁいい。たとえ信じたくなくとも、どのみち納得せざるをえなくなる。――そもそも、なぜ〝死〟のギフトが君に授けられたのだと思う。凪には〝権威〟。高階くんには〝恐怖〟。そして君には〝死〟……それは決して偶然ではない。他ならぬ君が、そう望んだ結果なのだ。事実……海江田くん、君はこれまでの半生で、人を殺したい、あるいは、そう、死ぬべきだという強い思想を獲得したのではないかね?」
「死ぬ……べき?」
漣の脳裏を、一瞬、ある光景がよぎる。病床で末期癌などの激痛に喘ぐ患者たち。友人と会えず学校にも行けず、病室で寂しく過ごす小児患者たち。生きるとは、生き続けるとは、こんなにも苦しく、惨めだ。毎日打たれる注射で青黒く変色した腕。お願いだ、頼むからもう、やめてくれ――
そうしてようやく人生を終えた人間の、何と穏やかな寝顔。
「信じるな! 海江田くん、信じちゃいけない!」
困惑する心を、嶋野の声が――もう一つの心の声が「聞くな」と叱る。それでも、一度抱いた疑念は止まらない。そして、疑念が高まれば高まるほどに、それを抑えつける側の声に違和感、否、異物感が増してゆく。これは……俺のものじゃない。
その、ぽっかり空いた二つの心の間隙に、それはするりと滑り込んでくる。
「果たして君は、本当に、心からあの件を悔いているのか? 本当は……むしろ良かったと、多くの人間に死をもたらすことができたと、誇らしく思ってはいまいか?」
「……あ、」
――また一人、苦しみから解き放つことができた。
そうだ。俺は。
「凪、一つ教えておいてやろう。精神をハックするタイプのギフトは、本心を揺さぶると簡単に効果が剥げてしまう。所詮は外付けのパーツだからな。木を揺らすと落ちるクリスマスの飾りと同じだ」
渡良瀬の言葉に歯ぎしりする嶋野。だが、そんな二人のやりとりも今の漣には遠い世界の事象に見える。
ああ、そうだ。俺はずっと、ずっと願っていた。全ての人間が苦しみから解放されるよう。生きることは苦しみの連続だ。ままならない人生を強いられ、夢を奪われ、否定され――それでも這い蹲りながら生きても、待つのは病いや老いの苦しみ。ひととき与えられる喜びや感動は、そうした生の痛みを和らげるための鎮痛剤。生の本質はあくまでも苦しみであり、奪われ続ける惨めさなのだ。
だからそんなものは、さっさと終わらせて。
皆、みんな、早く楽になればいい。解放されてしまえばいい。この力はそのためのもの。全ての人類に永遠の安らぎを与えるための。そう、だから――
「だから、俺が、望んだ」
高階の歌が、不意に鼓膜を揺らしたのはそんな時だった。
音の出所を振り返ると、車の屋根に置いた嶋野のスマホから響いている。相変わらず震え上がるほどに美しいが、なぜ今、ここで? そう漣が疑問に思う間にも、周囲の状況に明らかな変化が生まれる。
「ひいっ!?」
見ると、それまで嶋野の車を囲んでいた渡良瀬の部下たちが、あるいはへたりこんで耳を塞ぎ、あるいは自分の車に駆け込んで怯えた目で周りを見回している。どうやら高階のギフトの影響をもろに喰らっているらしい。自分たちはギフトでテロを起こしておきながら、審美眼の方は鍛えていなかったのか。
「車に戻りなさいッッ」
「えっ――あ」
考えるよりも先に身体が助手席に戻り、と同時に車は一度大きくバックする。背後の車に派手にぶつかった後で今度は急加速をかけると、右側と前方を塞ぐ二台の車の間を強引に突き抜ける。車体の側面が削れ、サイドミラーが吹っ飛んだが、なおも嶋野は構わず加速をかける。先程の地点の後方には、二車線を塞がれたせいで長い渋滞ができていたが、代わりに、そのボトルネックの先は帰宅ラッシュの時間にもかかわらず空いていて、嶋野の車は容赦のない加速をかけながら、都心方面へと駆け抜けてゆく。
「やはり爆発しませんね」
縁起でもないことをさらりと呟くと、嶋野は首都高速の入り口へと飛び込んでゆく。バックミラーを一瞥し、追跡の車がないことを確かめたのだろう。速度を落とし、車の流れに大人しく紛れ込んだ。
「ひょっとして……俺に渡したチョーカーは、偽物ですか」
漣がチョーカーの爆弾に言及したとき、漣だけは死なない、と、嶋野は答えた。それを普通に解釈すれば、どうあってもこの答えに辿り着いてしまう。
相変わらず嶋野は、無言のままハンドルを握っている。その澄ました横顔に、漣はふと強烈な怒りを覚える。どうしてそんな顔でいられるんだ。本部のオペレーターをハックされたことは確かに問題だ。が、もし渡良瀬がハックしなければ――その上で漣が連れ去られていたら、死んでいたのは嶋野なのだ。
嶋野の襟元に手を伸ばし、よく糊の効いたそれを型崩れも厭わずに引き下ろす。現れたのは案の定、二本の――二人分のチョーカー。……ああ、やっぱり。
「な……何考えてんだよあんた! 死んでたかもしれないんだぞ一人で! お、俺なんかの、代わりに、」
「まぁ、そのつもりで君に偽物を渡したわけですがね」
「はぁ!? だ、だから、どうしてそんな――」
「君は、本当に面白い子ですね」
「……はい?」
思いがけない返答に戸惑う漣に、嶋野は、フロントガラスとバックミラーをなおも油断なく見比べながらも、ふふ、と頬を緩める。
「確かに君は、意識的かそうでないかに関わらず、望んでそのギフトを手に入れたのでしょう。……なのに、僕の今回の行為に本気で怒りを覚えている。とんだ矛盾です。他人の死を望みながら、実際、死ぬかもしれなかった僕には当たり前に腹を立てて」
「……矛盾」
言われてみて初めて、漣は気づく。
そうだ、あんなにも他者の死を望んでおいて、なのに嶋野だけは、自分の身代わりに死んでほしくなかったと――
これから本格化するであろう渡良瀬との戦いでも、命を落としてほしくない、と、強く、強く思う。
嶋野の襟から手を離し、そっと助手席に戻る。
一体、どちらが本当の自分なのだろう。他者の死を望む自分。でも嶋野には、死んでほしくない……
「嶋野さんは、どっちが本当の俺だと思います」
「さぁ。ただ、強いて言うなら……その矛盾こそが君の本質だと僕は思います」
「……矛盾が?」
「ええ。誰であれ、人は多くの側面を持つものです。それらは、一つ一つは矛盾し、相克しているかもしれない。ですが、その総体は確かに、一人の個人を成しうるのです。それは、キュビスム的表現を好む君ならよく心得ているでしょう。いつかお話しした、ピカソの『パイプをくわえた男』を思い出してみてください」
確かに……そもそもキュビスムとは、一つの物体、一人の人間が持つ多くの側面を同時に、並立的に一枚の絵画に描き込むスタイルだ。そうしたスタイルを表現として好む自分は、あるいは描くことを通じて、矛盾を抱えたまま生きる自己と向き合いたかったのかもしれない、と、漣は思う。
「かくいう僕も、そうした矛盾をいくつも抱えて生きているんですよ」
「……嶋野さんも?」
「ええ。実のところ僕は、ずっと協会を裏切るつもりでいました」
「え…………って、はぁあ!? いや、でも……渡良瀬とは考え方が合わなかったって、」
「ええ。ただ……正直に言えば、渡良瀬さんが協会を抜けた時点では、僕の中でもはっきりと答えが定まっていなかったんです。……迷っていたんですよ。手段こそ賛同しがたいものでしたが、あの人の語る理想は、僕の目にはとても美しく映った。……いえ……今でもあの人の理想は素晴らしいと本心では思っています。これも、僕の抱える矛盾の一つです」
普段は饒舌な嶋野には珍しく、途切れ途切れにどうにか言葉を紡ぐ。余計な誤解や怒りを招かないよう、慎重に言葉を選んでいるのだろう。が、おかげで、最初は思考が飛ぶほどの衝撃を受けた漣も、ようやくその事実を冷静に受け止められるようになる。
「ギフトによる新たな社会システムの実現……とか何とか言ってましたね」
「ええ。人類の本質は、いまだに猿から進歩していない。暴力と憎悪で弱者を踏み躙る……そんな世界を、僕は今でも憎んでいるし、変えられるものなら変えたいと願っている。アートという守るべき何かがなければ、僕の中の天秤は迷うことなく渡良瀬さんに傾いていたでしょう」
そう、あえて強い言葉で吐き捨てる嶋野の声には、字義通り、いや、それ以上の深い憎悪が感じられた。そういえば……嶋野がギフトを手に入れた経緯を、漣はまだ何も聞かされていない。渡良瀬が言うように、ギフトはそれを望んだものの手に入るというのなら、やはり、嶋野も望んだのだろうか。誰かを屈服、いや、支配する力を。
「まぁ要するに、そもそも人間とはそういう生き物なんです。矛盾に苦しむのは君一人じゃない。……君は、独りじゃないんです」
――独りじゃない。
さりげなく足された最後の一言の優しさに、漣はぐっと胸が詰まる。なぜこの人は、いつも漣が欲しい言葉を、欲しいときにかけてくれるのだろう。
その優しさが、漣自身すら目を逸らしていた箱の蓋をそっと開く。
「……俺、やっぱ願ってたかもしれないです」
そう口にしたそばから、漣の中に溢れ出る記憶。それらは現実の記憶ではなく、しかし確かに、見た、という実感だけは確かに残っている。漣の描いたグラフティを前に骸を晒す無数の人々。その、被害者の一人を優しく抱き上げながら、よかった、と心の底から呟いた。
「病院で……苦しむ患者さんを見ながら、ずっと、願ってたんです。みんな、本当は早く死んだ方がいいって。その方が、これ以上苦しまずに済むからって。生きるのは、辛いことだって。……なのに俺、嶋野さんにだけは死んでほしくなくて……意味、わかんないすよね。けど……さっきのごたごたで、嶋野さん、死んでたかもしれないって想像したら、なんか、めちゃくちゃ怖くなって」
霊安室に横たわる嶋野の亡骸。やけにリアルに想像できてしまうのは、一度、その光景を夢で目にしたからだ。具体的には思い出せないが、見た、という確証だけは残ってる。
「でも、ある意味酷い話っすよね。死んで楽になるより、生きて、苦しんでくれって言ってるようなもんで……それでも俺、嶋野さんに生きてほしいんです。そんで……こんなふうに、俺のしょうもない愚痴を聞いてほしいんですよ。これからも、ずっと……矛盾、なんすかね。これも」
「ええ、矛盾でしょうね」
あっさりと、嶋野は頷く。ただ、その横顔はなぜか嬉しそうだ。
「でも僕は、そんな君だからこそ……そうですね、ええ、恋をしたのかもしれません」
「は? ……恋?」
すると嶋野は、相変わらず前を向いたまま、ええ恋です、といたずらっぽく笑った。
そう漣が問い返すと、嶋野は陰鬱な顔でこく、とうなずく。
「別におかしな話ではありませんよ。今でも、渡良瀬さんの考えに賛同する住人はゼロではありません」
「え、そうなんすか? いや、でも、あいつの仲間は、昔、あいつと一緒にごっそり抜けたって――」
「あえて残ったシンパもいます。協会の動きをスパイするために……そうしたシンパに密かにリクルートされ、協力者となった住人もゼロではないでしょう」
「そう」
嶋野の言葉を、渡良瀬は意気揚々と引き継ぐ。
「すでに我々は、協会内部に多数の協力者を得ている。今回、海江田くんを出迎えるに当たり、文字通りネックとなるセキュリティは彼らの協力で解除させた。だから安心して、我々についてきてほしい」
「ついていく? ……俺のギフトで大量殺人をやろうって人間にか? 冗談じゃない! あんたはな、知らないんだよ。自分が奪った命が、どれだけ重く心にのしかかるのかってことをな。……俺は……知ってる。自分が犯した罪の重みを」
ERから運び出されるご遺体を前にしたあの瞬間の、地球の重力が束になって襲ってきたかのようなあの感覚を、漣は今もはっきりと覚えている。耐えがたい胸の痛みと、エゴに身を委ねたことへの申し訳なさ、恥ずかしさ。
このままどこかへ逃げ出してしまいたい。誰の目も届かない場所でひっそり命を断ちたい――冗談ではなく本気でそう思った。あの時、父からの電話がなければ本当に逃げていたかもしれない。嶋野に、手を差し伸べてもらえなければ。
「命は、取り返しがつかないんだ。……絵は、たとえ破れても修復できる。けど、命は、一度壊したら絶対に戻らないんだ。どんな名医にだって、それだけは、取り戻せない」
すると渡良瀬は、何が可笑しいのか、くくく、と喉を鳴らす。この男の笑い方は、とにかくいちいち癇に障る。
「まさか、君の口から人倫が説かれるとはね。……では、なぜ君は〝死〟のギフトを獲得したのだと思う?」
「は?」
「聞くな!」
鋭い一喝が、漣の耳を右から左に貫く。聞くな? 何を? そう、喉元に疑問が浮かんだ時には、漣は手で両耳を塞いでいる。……何だこれは。思考に先立って動く身体。まるで、誰かに身体を乗っ取られているかのような。
だが、いくら耳を塞いでも、声、いや音というものはどうしても入ってくるものだ。事実、そのために声楽系のギフトは、他のギフトより一段高い鑑賞レベルが設けられている。そのことを嶋野もわかっているのか、漣を振り返り、続ける。
「彼の言葉に耳を傾けてはいけない。いいですか? 絶対に信じてはいけない」
「……ん?」
渡良瀬の顔が、一瞬、驚きに歪む。これは、明らかに不意を突かれた人間の反応だ。
「まぁいい。たとえ信じたくなくとも、どのみち納得せざるをえなくなる。――そもそも、なぜ〝死〟のギフトが君に授けられたのだと思う。凪には〝権威〟。高階くんには〝恐怖〟。そして君には〝死〟……それは決して偶然ではない。他ならぬ君が、そう望んだ結果なのだ。事実……海江田くん、君はこれまでの半生で、人を殺したい、あるいは、そう、死ぬべきだという強い思想を獲得したのではないかね?」
「死ぬ……べき?」
漣の脳裏を、一瞬、ある光景がよぎる。病床で末期癌などの激痛に喘ぐ患者たち。友人と会えず学校にも行けず、病室で寂しく過ごす小児患者たち。生きるとは、生き続けるとは、こんなにも苦しく、惨めだ。毎日打たれる注射で青黒く変色した腕。お願いだ、頼むからもう、やめてくれ――
そうしてようやく人生を終えた人間の、何と穏やかな寝顔。
「信じるな! 海江田くん、信じちゃいけない!」
困惑する心を、嶋野の声が――もう一つの心の声が「聞くな」と叱る。それでも、一度抱いた疑念は止まらない。そして、疑念が高まれば高まるほどに、それを抑えつける側の声に違和感、否、異物感が増してゆく。これは……俺のものじゃない。
その、ぽっかり空いた二つの心の間隙に、それはするりと滑り込んでくる。
「果たして君は、本当に、心からあの件を悔いているのか? 本当は……むしろ良かったと、多くの人間に死をもたらすことができたと、誇らしく思ってはいまいか?」
「……あ、」
――また一人、苦しみから解き放つことができた。
そうだ。俺は。
「凪、一つ教えておいてやろう。精神をハックするタイプのギフトは、本心を揺さぶると簡単に効果が剥げてしまう。所詮は外付けのパーツだからな。木を揺らすと落ちるクリスマスの飾りと同じだ」
渡良瀬の言葉に歯ぎしりする嶋野。だが、そんな二人のやりとりも今の漣には遠い世界の事象に見える。
ああ、そうだ。俺はずっと、ずっと願っていた。全ての人間が苦しみから解放されるよう。生きることは苦しみの連続だ。ままならない人生を強いられ、夢を奪われ、否定され――それでも這い蹲りながら生きても、待つのは病いや老いの苦しみ。ひととき与えられる喜びや感動は、そうした生の痛みを和らげるための鎮痛剤。生の本質はあくまでも苦しみであり、奪われ続ける惨めさなのだ。
だからそんなものは、さっさと終わらせて。
皆、みんな、早く楽になればいい。解放されてしまえばいい。この力はそのためのもの。全ての人類に永遠の安らぎを与えるための。そう、だから――
「だから、俺が、望んだ」
高階の歌が、不意に鼓膜を揺らしたのはそんな時だった。
音の出所を振り返ると、車の屋根に置いた嶋野のスマホから響いている。相変わらず震え上がるほどに美しいが、なぜ今、ここで? そう漣が疑問に思う間にも、周囲の状況に明らかな変化が生まれる。
「ひいっ!?」
見ると、それまで嶋野の車を囲んでいた渡良瀬の部下たちが、あるいはへたりこんで耳を塞ぎ、あるいは自分の車に駆け込んで怯えた目で周りを見回している。どうやら高階のギフトの影響をもろに喰らっているらしい。自分たちはギフトでテロを起こしておきながら、審美眼の方は鍛えていなかったのか。
「車に戻りなさいッッ」
「えっ――あ」
考えるよりも先に身体が助手席に戻り、と同時に車は一度大きくバックする。背後の車に派手にぶつかった後で今度は急加速をかけると、右側と前方を塞ぐ二台の車の間を強引に突き抜ける。車体の側面が削れ、サイドミラーが吹っ飛んだが、なおも嶋野は構わず加速をかける。先程の地点の後方には、二車線を塞がれたせいで長い渋滞ができていたが、代わりに、そのボトルネックの先は帰宅ラッシュの時間にもかかわらず空いていて、嶋野の車は容赦のない加速をかけながら、都心方面へと駆け抜けてゆく。
「やはり爆発しませんね」
縁起でもないことをさらりと呟くと、嶋野は首都高速の入り口へと飛び込んでゆく。バックミラーを一瞥し、追跡の車がないことを確かめたのだろう。速度を落とし、車の流れに大人しく紛れ込んだ。
「ひょっとして……俺に渡したチョーカーは、偽物ですか」
漣がチョーカーの爆弾に言及したとき、漣だけは死なない、と、嶋野は答えた。それを普通に解釈すれば、どうあってもこの答えに辿り着いてしまう。
相変わらず嶋野は、無言のままハンドルを握っている。その澄ました横顔に、漣はふと強烈な怒りを覚える。どうしてそんな顔でいられるんだ。本部のオペレーターをハックされたことは確かに問題だ。が、もし渡良瀬がハックしなければ――その上で漣が連れ去られていたら、死んでいたのは嶋野なのだ。
嶋野の襟元に手を伸ばし、よく糊の効いたそれを型崩れも厭わずに引き下ろす。現れたのは案の定、二本の――二人分のチョーカー。……ああ、やっぱり。
「な……何考えてんだよあんた! 死んでたかもしれないんだぞ一人で! お、俺なんかの、代わりに、」
「まぁ、そのつもりで君に偽物を渡したわけですがね」
「はぁ!? だ、だから、どうしてそんな――」
「君は、本当に面白い子ですね」
「……はい?」
思いがけない返答に戸惑う漣に、嶋野は、フロントガラスとバックミラーをなおも油断なく見比べながらも、ふふ、と頬を緩める。
「確かに君は、意識的かそうでないかに関わらず、望んでそのギフトを手に入れたのでしょう。……なのに、僕の今回の行為に本気で怒りを覚えている。とんだ矛盾です。他人の死を望みながら、実際、死ぬかもしれなかった僕には当たり前に腹を立てて」
「……矛盾」
言われてみて初めて、漣は気づく。
そうだ、あんなにも他者の死を望んでおいて、なのに嶋野だけは、自分の身代わりに死んでほしくなかったと――
これから本格化するであろう渡良瀬との戦いでも、命を落としてほしくない、と、強く、強く思う。
嶋野の襟から手を離し、そっと助手席に戻る。
一体、どちらが本当の自分なのだろう。他者の死を望む自分。でも嶋野には、死んでほしくない……
「嶋野さんは、どっちが本当の俺だと思います」
「さぁ。ただ、強いて言うなら……その矛盾こそが君の本質だと僕は思います」
「……矛盾が?」
「ええ。誰であれ、人は多くの側面を持つものです。それらは、一つ一つは矛盾し、相克しているかもしれない。ですが、その総体は確かに、一人の個人を成しうるのです。それは、キュビスム的表現を好む君ならよく心得ているでしょう。いつかお話しした、ピカソの『パイプをくわえた男』を思い出してみてください」
確かに……そもそもキュビスムとは、一つの物体、一人の人間が持つ多くの側面を同時に、並立的に一枚の絵画に描き込むスタイルだ。そうしたスタイルを表現として好む自分は、あるいは描くことを通じて、矛盾を抱えたまま生きる自己と向き合いたかったのかもしれない、と、漣は思う。
「かくいう僕も、そうした矛盾をいくつも抱えて生きているんですよ」
「……嶋野さんも?」
「ええ。実のところ僕は、ずっと協会を裏切るつもりでいました」
「え…………って、はぁあ!? いや、でも……渡良瀬とは考え方が合わなかったって、」
「ええ。ただ……正直に言えば、渡良瀬さんが協会を抜けた時点では、僕の中でもはっきりと答えが定まっていなかったんです。……迷っていたんですよ。手段こそ賛同しがたいものでしたが、あの人の語る理想は、僕の目にはとても美しく映った。……いえ……今でもあの人の理想は素晴らしいと本心では思っています。これも、僕の抱える矛盾の一つです」
普段は饒舌な嶋野には珍しく、途切れ途切れにどうにか言葉を紡ぐ。余計な誤解や怒りを招かないよう、慎重に言葉を選んでいるのだろう。が、おかげで、最初は思考が飛ぶほどの衝撃を受けた漣も、ようやくその事実を冷静に受け止められるようになる。
「ギフトによる新たな社会システムの実現……とか何とか言ってましたね」
「ええ。人類の本質は、いまだに猿から進歩していない。暴力と憎悪で弱者を踏み躙る……そんな世界を、僕は今でも憎んでいるし、変えられるものなら変えたいと願っている。アートという守るべき何かがなければ、僕の中の天秤は迷うことなく渡良瀬さんに傾いていたでしょう」
そう、あえて強い言葉で吐き捨てる嶋野の声には、字義通り、いや、それ以上の深い憎悪が感じられた。そういえば……嶋野がギフトを手に入れた経緯を、漣はまだ何も聞かされていない。渡良瀬が言うように、ギフトはそれを望んだものの手に入るというのなら、やはり、嶋野も望んだのだろうか。誰かを屈服、いや、支配する力を。
「まぁ要するに、そもそも人間とはそういう生き物なんです。矛盾に苦しむのは君一人じゃない。……君は、独りじゃないんです」
――独りじゃない。
さりげなく足された最後の一言の優しさに、漣はぐっと胸が詰まる。なぜこの人は、いつも漣が欲しい言葉を、欲しいときにかけてくれるのだろう。
その優しさが、漣自身すら目を逸らしていた箱の蓋をそっと開く。
「……俺、やっぱ願ってたかもしれないです」
そう口にしたそばから、漣の中に溢れ出る記憶。それらは現実の記憶ではなく、しかし確かに、見た、という実感だけは確かに残っている。漣の描いたグラフティを前に骸を晒す無数の人々。その、被害者の一人を優しく抱き上げながら、よかった、と心の底から呟いた。
「病院で……苦しむ患者さんを見ながら、ずっと、願ってたんです。みんな、本当は早く死んだ方がいいって。その方が、これ以上苦しまずに済むからって。生きるのは、辛いことだって。……なのに俺、嶋野さんにだけは死んでほしくなくて……意味、わかんないすよね。けど……さっきのごたごたで、嶋野さん、死んでたかもしれないって想像したら、なんか、めちゃくちゃ怖くなって」
霊安室に横たわる嶋野の亡骸。やけにリアルに想像できてしまうのは、一度、その光景を夢で目にしたからだ。具体的には思い出せないが、見た、という確証だけは残ってる。
「でも、ある意味酷い話っすよね。死んで楽になるより、生きて、苦しんでくれって言ってるようなもんで……それでも俺、嶋野さんに生きてほしいんです。そんで……こんなふうに、俺のしょうもない愚痴を聞いてほしいんですよ。これからも、ずっと……矛盾、なんすかね。これも」
「ええ、矛盾でしょうね」
あっさりと、嶋野は頷く。ただ、その横顔はなぜか嬉しそうだ。
「でも僕は、そんな君だからこそ……そうですね、ええ、恋をしたのかもしれません」
「は? ……恋?」
すると嶋野は、相変わらず前を向いたまま、ええ恋です、といたずらっぽく笑った。
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