6 / 68
1章
4話 本当の自分
しおりを挟む「……止められるわけ、ねえんだよな」
自嘲気味に吐き捨てると、漣は公衆トイレの個室を出て洗面台の前に立つ。薄汚れた鏡に映るのは、オーバーサイズの黒のパーカーと、口元のバンダナで正体を隠した不審な男。だが、この姿こそ本当の自分だと漣は思う。大学のカーテンウォールに映る人畜無害な医学生は、漣に言わせればただの擬装だ。
誰も――友人も、家族でさえ、この姿の漣を知らない。
例えば試験シーズンが終わって、久しぶりに試験勉強から解放された夜。漣は、同科の連中が居酒屋へ打ち上げに繰り出す代わりに、このパーカーを纏って夜の町へと走り出す。そうして、今ここにいる自分と、本当の自分との間にできたズレをどうにか埋め直す。傍目には子供じみた違法行為。それでも漣にしてみれば、それは必要な行為なのだ。自分は誰なのか、どこにいるのか、それらを見失わないためにも。
パーカーのぶんだけ軽くなったドラムバッグには、近所のホームセンターで買い集めたカラースプレー。だが、描き始めの頃こそ何十色と使い分けていたが、ある時、プリンタは赤と黄、青、それから黒の四色で全ての色を表現していることに気付き、漣もそれに倣うようにした。いちいちスプレー缶を持ち変える手間が省けるうえ、こちらの方がより多彩な色を表現できる感があるのだ。何より、荷物が軽く済むのが良い。
トイレの横に停めていた自転車にふたたび跨る。人けのない夜の公園を横切り、さっそく今夜のポイントへ。漣の地元である西東京は、集団昏倒事件への警戒のせいか見回りの警官が増えている。マスコミはガス漏れ事故という見解で一致しているが、警察の方では毒ガスによるテロの疑いを捨てていないのだろう。
夜道をさらに自転車で駆けること二十分。三鷹駅の近くまで来たところでようやく手頃な壁を見つけ、漣は自転車を止める。表通りから外れた住宅地にぽつんと設けられたコインパーキング。その奥にある無骨なブロック壁が今夜の獲物、もといカンバスだ。
場所選びはいつだって真剣勝負だ。人の目が多いと、描いている最中に見つかる恐れがあるし、かといって、鑑賞者のいないアートはアートたり得ない。やはり、多少の人通りは必要だ。
作者と鑑賞者、その間に生まれる関係性こそがアートをアートたらしめる。だからこそアーティストは、より多くの人間に自身のアートが触れられることを望むのだ。
――たとえ、見知らぬ誰かが犠牲になるとしても。
ふと浮かんだ心の声を、漣は慌てて押し殺す。
ふざけるな。見たら死ぬ絵だのギフテッドだの、そんなもの、所詮は真偽不明の噂でしかない。……でも、もし噂が事実なら? もし本当に、あれらの絵が一連の昏倒事件の原因だとしたら?
それだけじゃない。
あの絵はすでに、二名もの人命を奪っている。
「は……はっ」
溜息だか笑声だかわからない声を吐くと、漣はバッグから黒のスプレー缶を取り出し、壁に吹き付ける。
だとしても、俺は描き続けるしかない。俺が俺であり続けるために。父のため病院のために机に噛りつく俺は、所詮、表向きの擬装でしかない。本当の俺はここにいる。
ここにいるんだ。だから。
0
お気に入りに追加
10
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
瞬間、青く燃ゆ
葛城騰成
ライト文芸
ストーカーに刺殺され、最愛の彼女である相場夏南(あいばかなん)を失った春野律(はるのりつ)は、彼女の死を境に、他人の感情が顔の周りに色となって見える病、色視症(しきししょう)を患ってしまう。
時が経ち、夏南の一周忌を二ヶ月後に控えた4月がやって来た。高校三年生に進級した春野の元に、一年生である市川麻友(いちかわまゆ)が訪ねてきた。色視症により、他人の顔が見えないことを悩んでいた春野は、市川の顔が見えることに衝撃を受ける。
どうして? どうして彼女だけ見えるんだ?
狼狽する春野に畳み掛けるように、市川がストーカーの被害に遭っていることを告げる。
春野は、夏南を守れなかったという罪の意識と、市川の顔が見える理由を知りたいという思いから、彼女と関わることを決意する。
やがて、ストーカーの顔色が黒へと至った時、全ての真実が顔を覗かせる。
第5回ライト文芸大賞 青春賞 受賞作
克死院
三石成
ホラー
この世界からは、人が死ななくなった。ブラック企業で働いていた陸玖がそのことに気づいたのは、自分が過労で倒れ、『克死院』に入院させられてからだった。
世界に見捨てられ、地獄と化した克死院からの脱出劇。
【完結】俺のセフレが幼なじみなんですが?
おもち
恋愛
アプリで知り合った女の子。初対面の彼女は予想より断然可愛かった。事前に取り決めていたとおり、2人は恋愛NGの都合の良い関係(セフレ)になる。何回か関係を続け、ある日、彼女の家まで送ると……、その家は、見覚えのある家だった。
『え、ここ、幼馴染の家なんだけど……?』
※他サイトでも投稿しています。2サイト計60万PV作品です。
かーくんとゆーちゃん
秋月真鳥
ライト文芸
性別を隠して女性向けのロマンス小説を書いている作家の僕、佐藤(さとう)楓(かえで)は、小さい頃からひとではないものが見える。
ひとではないものを恐れながら生きてきた僕だが、三歳のときに保育園の同じクラスの不動寺(ふどうじ)寛(ゆたか)と出会う。
寛は見ることも感じることもないが、殴ることでひとではない悪意あるものを祓える体質だった。
そのうちにタロットカードを使って僕は自分の守護獣と話をするようになる。
見えるだけの作家と、祓えるが見えない幼馴染のほのぼの日常物語。
参考文献:『78枚のカードで占う、いちばんていねいなタロット』著者:LUA(日本文芸社)
副社長氏の一途な恋~執心が結んだ授かり婚~
真木
恋愛
相原麻衣子は、冷たく見えて情に厚い。彼女がいつも衝突ばかりしている、同期の「副社長氏」反田晃を想っているのは秘密だ。麻衣子はある日、晃と一夜を過ごした後、姿をくらます。数年後、晃はミス・アイハラという女性が小さな男の子の手を引いて暮らしているのを知って……。
スライム10,000体討伐から始まるハーレム生活
昼寝部
ファンタジー
この世界は12歳になったら神からスキルを授かることができ、俺も12歳になった時にスキルを授かった。
しかし、俺のスキルは【@&¥#%】と正しく表記されず、役に立たないスキルということが判明した。
そんな中、両親を亡くした俺は妹に不自由のない生活を送ってもらうため、冒険者として活動を始める。
しかし、【@&¥#%】というスキルでは強いモンスターを討伐することができず、3年間冒険者をしてもスライムしか倒せなかった。
そんなある日、俺がスライムを10,000体討伐した瞬間、スキル【@&¥#%】がチートスキルへと変化して……。
これは、ある日突然、最強の冒険者となった主人公が、今まで『スライムしか倒せないゴミ』とバカにしてきた奴らに“ざまぁ”し、美少女たちと幸せな日々を過ごす物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる