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笑わないお前

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「どうしたレイ。最近やけに機嫌が悪いじゃねーか」
 夜のフライトを終え、バーのカウンターで一人ビールを呷っていると、背後から茶化すような声が投げられた。
 振り返ると立っていたのは、案の定、今夜は非番のハービーだ。てっきり基地の外に繰り出し、馴染みの女とよろしくやっているものと思っていたから、この登場はレイにとっては意外だった。
 ふん、と鼻を鳴らし、手元のビール瓶をぐいと呷る。
「……別に。お前には関係ないだろ」
「関係? あるに決まってるだろ!」
 言いながらハービーはレイの隣に陣取ると、カウンター向こうに立つサモア人のバーテンダーにビールを一本頼んだ。
 渡された瓶に口をつけ、ぐいと呷ると、ハービーは先程の言葉を続ける。
「我が飛行隊の隊長で、しかも撃墜王のエース様に調子を落とされちゃあ、俺らの士気にも関わってくるわけよ。そこんところ、きっちり自覚してもらわにゃ困るぜ隊長さんよ」
 そして、にやりとハービーは口の端を吊り上げる。彼にしては珍しいほどの真っ当な意見に、レイもつい苦笑を洩らす。
「あ、ああ……そうだな」
「で、何があったんだよレイ。やけに冴えない顔してよ。ひょっとして女にフラれたか?」
「って、それはお前の話だろ。お前こそ、今夜はやけに戻りが速いじゃないか」
 普段なら女のもとで一晩明かしてくることも珍しくないハービーをさりげなく揶揄しつつ問えば、ハービーは、カンッ! とビール瓶の底をカウンターに叩きつけて、
「それがよぉ聞いてくれよぉ! 行く先々で女どもに『今夜はクラークはいないのぉ?』なんって言われてよ、もう腹が立っちまってよぉ!」
 なるほど、それで早々に撤退を決め込んだ、ということらしい。
「クラークは一緒じゃなかったのか?」
 するとハービーは、ふと我に返ったように顔を上ると、言った。
「ああ、あいつなら、例の日本人のところに行ってるぜ」
 その言葉に、レイは一瞬耳を疑う。
「……キッペーの?」
「きっぺー?」
 怪訝そうにハービーが問い返すのへ、慌ててレイは茶を濁す。
「あ……いや。そんなことより、クラークが、ええと……マカベ少尉のところに行っているというのは本当か?」
 そう言い切ってから、改めてレイは〝マカベ少尉〟なる呼称の持つ違和感に愕然となる自分に気付いた。そういえば、初めて出会った時からレイにとってキッペーはキッペーであり、それ以外の呼称など考えたこともなかった。それは彼が成人し、帰米した後も変わらなかった。照れ隠しなのか、キッペーが人前で親しくされることを嫌がっても、レイは彼のことを「キッペー」と呼び続けた。
 そのキッペーを、「マカベ少尉」と呼んだ途端、別の何者かに成り変わってしまったような、そんな違和感と寂しさをレイは感じないではいられなかった。
 そんなレイに、さらにハービーは思いがけない言葉を続ける。
「ああ。というか、ここ最近は毎日のように通っているらしいぜ」
「は? 毎日!?」
 だしぬけに声を裏返すレイに、面食らったハービーが狼狽えつつ問う。
「ど、どうしたんだよ急に……」
「あ、す、すまない」
 慌てて平静を取り繕うも、しかし内心の動揺は抑えようがなかった。と同時に、抑えがたい疑問が次々と胸の内に湧いて出てくる。
「だが、どうしてクラークが、その……」
「あの日本人の所に、か? さぁ、正直よくわかんねぇが、いろいろ訊きたいことがあるんだそうだ。本国での日系人の様子だとか……」
「……そうか」
 一体、何のつもりだ――そう胸中で呟くと、レイは手元の瓶に残ったビールを一気に呷った。


 翌日。さっそくレイは、コルセアの慣熟飛行を終えたクラークを駐機場で捕まえると、昨晩ハービーから耳にした件について問うた。
「お前、最近キッペー……マカベ少尉とよく話をしているそうだな」
 するとクラークは、脱ぎ捨てた飛行帽の下から現れた栗色の髪を掻きながら、
「ああ」
 と、こともなげに答えた。
「実を言うと、子供の頃、父の仕事の関係で二年ほど日本に住んでいたことがあってね。そのせいかどうかは分からないけど、日本の習俗や美術には昔から興味があって。で、少しばかり声をかけさせてもらったんだよ。拙い日本語も交えてね」
 そう言って、クラークはあははと朗らかに笑う。そんなクラークの、後ろめたさなど微塵も感じさせない素直な笑みを眺めながら、レイはなぜか愕然としていた。
 あのクラークが、昔、日本に住んでいた? ……いや、それよりも何よりも、キッペーとの関係を、これほど堂々と明かして……?
「いや実際、彼は非常に興味深い人物だよ。元記者ということで知的レベルも高くてね、今回の戦争についても、その原因や開戦に至った経緯、今後の展望など、じつに的確に観察し分析しているようだ」
「えっ?」
「いや感心したよ。ルーツとしての祖国に敵対し、アイデンティティを引き裂かれた状況で、これほどの冷静さを保っていられるなんて、何とタフな精神の持ち主だろう、ってね」
「そ……そんな話を、あいつと?」
 思わずレイは問い返す。たったいまクラークが口にしたのは、いずれも、友人であるはずの自分の前ではついに語られることのなかったキッペーの言葉だ。誰にも打ち明けられることなく、キッペー一人の胸にしまわれていたはずの言葉だ……
 それを、なぜクラークに? いや、そもそもなぜ俺の前では明かさなかった?
 するとクラークは、なぜか厳しい眼差しをレイに向けると、
「まさかとは思うがレイ。もう、あのレイシストに感化されてしまっているんじゃないだろうね。はっきり言うが、僕は肌の色や宗教、それに民族の違いなどで他者をヒステリックに排斥するような輩とは一切言葉を交わすつもりはないぜ」
「ち、違うっ! ……そ、そうじゃなくてだ……その……」
「じゃあ何だ。君にしては随分と歯切れが悪いじゃないか」
 言い淀むレイに、なおも容赦なくクラークは追撃を加える。どうやらレイをエリックと同じ人種主義者だと疑い、本気で頭にきているらしい。が、ここで誤解を受けると、冗談ではなくクラークに軽蔑される恐れがある。それほどに、あまねく人種主義者に対するクラークの悪感情には並ならないものがあった。
「……友達なんだよ」
 やむなく、レイは打ち明けることにした。
「は?」
「だ、だから、マカベ少尉と俺は、幼馴染なんだッ!」
 そしてレイは語る。幼い頃から今までの、十八年にも及ぶキッペーとの長い、あまりにも長い関係を。
 ようやくレイが話を終える頃には、高かったはずの太陽は随分と西の空に傾いていた。
「なるほど」
 話に一区切りがついたところで、おもむろにクラークは頷く。
「だからあの時、君は、日本人でもニセイなら英語が分かるだろうと言ったのか。――しかし、僕の記憶が正しければ、君はあの時、そのような日本人とは個人的な知り合いなどいない、と言っていたはずだが?」
 どうやらまだレイのことを人種主義者と疑っているらしいクラークに、いよいよレイは苦々しさを募らせる。
 あの時、レイが言葉を濁らせてしまったのには、レイにとってみれば一言では言い表せない複雑な感情が絡んでいた。
 強いて言うなら、それはキッペーに対する申し訳なさと言うべきか。幼い頃から迫害を受け、ついに国家から敵性市民との烙印を押し付けられたキッペーに、市民の一人として、レイは言いようのない責任を感じていた。まるでレイ自身がキッペーを砂漠の収容所に追い込んでしまったかのような、そんな感覚さえ抱いてもいた。
 そのレイが、堂々とキッペーの友人を名乗るのは、だから、どうしても気が引けて仕方がなかったのだ。キッペーが収容所に連行された時、彼のために何の手立ても打てなかった事実も、そんなレイの感覚を裏付けた。
 が、レイの気持ちなど知らないクラークは、なおも辛辣に続ける。
「あれは、そのような恥ずべき友人はいない、という意味じゃなかったのかい?」
「違うッッ!」
 だしぬけに声を荒らげたレイに、クラークはおやという顔になる。いつになく頑固なクラークに、いい加減、苛立ちを募らせながらレイは続けた。
「い、今までの話を聞いて、どうしてそんな結論が出る……? お、俺が、どれだけあいつのことを想っているか……心配しているか、お、お前なら、分かるはずだろう。あいつが、何も話してくれないことを、気に病んでいるかも……」
 するとクラークは――
「ふふっ」
 唐突に吹き出し、そして笑い出した。
「あはははっ! ごめんごめん! 今のはさすがに意地悪が過ぎたよ! いやすまない、本当に……あはははは!」
「……は?」
 何が起こったのか呆然となるレイに、指先で目尻の涙を払いながらクラークは答える。
「いや。いくら何でも、僕の友人に限ってそんな人間はいないと知っていたよ。そもそも、その手の人間は、僕みたいな人間とはまともに付き合ってもくれないしね」
 かく言う彼はユダヤ人で、そのユダヤ人に対する差別もまたアメリカの暗部として存在するのだった。彼らを弾圧しているのは、何もナチスドイツだけではない。
「ってことは、じゃあ最初から俺のこと、からかって……」
 ほっとしたのも束の間、今度はむくむくと怒りがもたげてくる。そんなレイの表情の変化を機敏に察したのだろう、とりなすようにクラークは続けた。
「ああ。……いや、すまない。君の少尉に対する気持ちを考えたら、さすがに少しおふざけが過ぎたようだ」
「お、おふざけって……お、俺はなぁ、」
「分かってるよ。本気なんだろ? 彼のこと」
 そして、ふっ、と意味ありげに微笑むクラークに、なぜか気勢を削がれたレイは憮然と黙り込む。実際それはクラークの常套技で、レイもレイで頭に血を逆上せてさえいなければ、とっくに気付いていたはずの見え透いた罠だったのだ。今日ばかりは、だからレイもハービーのことを笑えない。
 やむなくレイは、話の矛先を変えた。
「……なぁ、あいつ、俺のこと何か喋っていなかったか?」
「君の? いいや。特には」
「……そうか」
 クラークの答えに、レイは自分でも思う以上に気落ちしてしまう。そんなレイを、なぜかクラークはにやにやと愉しげに眺める。
「どうしたんだレイ。本当に今日の君はらしくないな」
「うるせえっ! そ、そういうお前こそ……ええと…………いつも通りだなっっ!」
「あはははは!」
 またしてもクラークの笑いが弾ける。どうも今日はクラークに掻き回されてばかりだ。
 と、そんなクラークの表情が、ふと真顔に戻る。
「ひょっとすると」
「ん?」
「そういう事情なら猶のこと、君を巻き込みたくないと考えているのかもしれないね」
「巻き込みたくない……? 何の話だ?」
 するとクラークは、なぜか呆れたように肩をすくめて、
「だから、仲が良いからこそ、自分がいま置かれている状況に君を巻き込みたくない、と、そう考えてしまうのは決して不自然な話ではないということだよ。マカベ君のように性根の優しい人間の場合はとくにね」
「……え?」
 ――君は、相変わらず何も分かっていないんだな。
 不意に先日のキッペーの言葉が脳裏によみがえり、レイは動揺する。
「で、でも……友達なら、助け合うのが、」
「そうやって、いたずらに手を差し伸べられるのが辛いと思う人間もいるということだよ。――僕が見る限り、彼はまさにそのタイプだと思うけど?」
 そういえば。
 十八年前、キッペーが突如日本に行くとレイに打ち明けたのも、レイが、彼をジャップと罵った大人たちにぼこぼこにされた直後だった。
 あの事件が、キッペーの日本へ行く決意を促したのだとすれば――
「どうした?」
「えっ?」
 ふと我に返り、顔を上げる。見ると、クラークが心配げにレイの顔を覗き込んでいた。
「急に顔色が変わったから、どうしたのかと思って」
「あ……い、いや、大丈夫だ……そ、それより、じゃあ俺は……どうすれば……」
「どうもしなければいい」
「は?」
「だから、君が構うことで彼が辛い思いをするなら、君は、何もしない方がいいということだ。そんなことも分からないのか?」
 こともなげに言い放つクラークに、しかしレイは何とも言えない苛立ちを覚える。
 そう。所詮クラークには他人事にすぎないのだ。今のレイが抱える葛藤や、それに、キッペーに対する感情は。
「わ、分かりたくねぇッッ!」
 その憤りをぶつけるように、ふたたびレイは吠えた。
「と、友達が……俺の大事な友達が辛い思いをしてるかもって時に、そんな……他人事みてぇに平気な顔してられっかよ……ッッ!」
 気付くとその声は、自分でも驚くほどに震えていた。と同時に、今にも叫び出したい衝動が胸の奥からこみ上げて来てレイは苦しくなる。
 もし仮に、今までの行為が全てキッペーにとっては迷惑でしかなかったとして――俺が、キッペーの友人でいる意義は、では一体……?
「……やれやれ」
 クラークが、呆れたように溜息をつく。
「君はハービーと違って、もう少し理性的に立ち回れる人間だと思っていたんだがね」
「う、うるせぇ! ほ、他のことならともかく、あいつのことだけは、」
 言いかけたレイを、クラークは片手で静かに制する。
「いいかい? 彼が君との接触を苦痛に思う以上、どこぞの猛牛みたいに彼の懐に突っ込んだところで、無意味に彼を苦しめるだけだ」
「わ、わかってる! でも、」
「わかるさ。彼の苦しみに寄り沿ってやれない自分の無力さが歯痒いんだろ? でもね、レイ。いくら親しい友人といっても――いや、親しいからこそ、ここは彼の意志を尊重すべきだと、そのように考えることはできないのか? どうも僕の印象では、君は、こと彼との関係については十歳の少年のままで感覚が止まっているようだ。しかしねレイ。君も、それに彼も、もう子供じゃない」
 子供じゃない――その一言は、なぜかレイの胸に深く突き刺さった。
 切り捨てたはずだった。あの幼い日、日本へ向かう船を見送ったあの埠頭で――だが本当は、何一つとして切り捨てられなかったとすれば。
 変われなかったのだとすれば。
 そんなレイに、なおもクラークは言い聞かせるように続ける。
「それに……これを言えば元も子もないが、今、二人を引き裂いているのは時代、そして昨今の情勢という、君らにしてみれば何の落ち度もない事情なんだ。……時代が変わって、今の情勢にも変化が生まれれば、また、以前のように親しく酒を酌み交わすこともできるだろう。それまでは・・・とにかく耐えることだ」
「……時代が、変わるまで……」
 確かに、今のクラークの言葉はある意味で真理ではある。
 だが、とレイは思う。それを言えば、本当に辛い時に寄り添えない人間など、そもそも真の友人とは呼べないのではないか?
「とにかく……耐えるんだ。彼を大事に思うなら、猶のこと……いいね?」
「……」
 レイは何も答えられなかった。ただ、この理不尽な状況に対する憤りだけが、ふつふつと、胸の内に湧き上がるばかりだった。
「とりあえず、夕飯でも取りに行こう。夜にはまた哨戒飛行の計画があるんだろ?」
「あ……ああ」
 頷くと、レイはクラークに従いしぶしぶ食堂へと向かった。
 夕食時にはまだ早い時間だったせいか、将校用の食堂にはまだ人の姿はまばらで、レイたちが着いた時には、席は三分の一ほども埋まってはいなかった。
 とりあえずカウンターで食事を受け取り、適当な席を選んで腰を下ろす。
「ったく、相変わらずここの基地の食事はしょうがねぇな」
 アルミのプレートに無造作に並んだ、缶詰のホウレン草やらランチョンミート、豆のケチャップ煮を見下ろしながらうんざりげにレイは呟く。残念ながら今日は、クラークの好物であるアップルパイは出ないらしい。――などと考えているところへ、
「ああ……今日はアップルパイは出ないんだな」
 と、心底残念そうにクラークが呟いたので、さすがにレイは噴き出した。
「じゅ、重要なことだぞ! ア、アップルパイの有無はだな、僕の戦意や士気といったパフォーマンス全般に影響するのだからして……」
「分かっているさ。お前の人生にとって、程よくシナモンの利いたアップルパイがどれだけ重要な位置を占めているかってことぐらいはな」
「ああ、いっそレーションの全てがアップルパイになってしまえばいいのに」
「それは・・・さすがに嫌だな」
 言って、レイが苦笑を浮かべた、その時だ。
 ――ジャップ!
 背後から聞こえた言葉に、ふと、レイの顔から笑みが消える。
「どうした、レイ」
 そうクラークが問いかけた時には、すでにレイは振り返りつつ立ち上がり、今の罵言の主に当たりをつけていた。ちょうどレイの真後ろにあるテーブルで、背中を合わせるように食事を取っている海兵隊大尉だ。
 その大尉は、どうやらお仲間らしい別の数人と、同じテーブルで談笑しながら豆のケチャップ煮を口に運んでいる。その背中に、レイは投げるように声をかけた。
「おい」
「……あ?」
 レイの声に気付いたのか、大儀そうに大尉が振り返る。
 見ると、相手は別の飛行隊の隊長で、レイが基地で最も嫌う男の一人だった。敵パイロットを確実に殺せるようわざとコクピットを狙って射撃したりと――それは、パイロットの間では禁じられてこそいないが、騎士道に反する残虐な戦法だと忌避されている――サディスティックなやりように常日頃レイもうんざりしている、そんな男だ。
 顔立ちも、そのような残虐な性格が滲み出てか、醜くはないが爬虫類めいて恐ろしく冷たい印象である。
 その爬虫類顔の大尉を見下ろしながら、傲然とレイは告げる。
「……お前、今の台詞を撤回しろ」
「は? 今の台詞? 何の話だ?」
 あからさまに挑発めいた口調でとぼける大尉に、ついにレイは激昂する。
「言っただろ! あいつの……マカベ少尉のことを、ジャップだと!」
 ところが大尉は、何でもないという顔で肩をすくめると、
「ああ言ったさ。けど、だから何だよ。そもそも最近お前、撃墜数が多いからって調子に乗ってンじゃねぇか?」
「今は俺の話は関係ないだろ。……訂正しろ。そして二度と、その言葉を口にしないと俺に誓え!」
 その言葉に、ついに大尉は立ち上がる。レイも大柄な方だが、大尉もそれに劣らない無駄に見事な体格で、同じ目線でレイと睨み合う。
「どういう権利があってそんなことを言うんだ、えぇ? エースさんよぉ」
「権利だとかそういう問題じゃねェんだよ。これは、人間としての品格の問題だ」
「ははっ。そもそもこんなクソな戦場でクソな戦いに明け暮れる俺らに、品格を問うこと自体どーかしてると俺は思うがねェ」
 くすくすくす……
 大尉の背後で、卑しい含み笑いが漣のように響き合う。その不快な響きにレイが思い出すのは、幼い日の、あの教室での出来事だ。
 教室の中で一人、手を挙げ続けるキッペー。と、それを無視し続ける白人の女教師。
 変わらないのだ。あの頃と、何も……
「レイ! 頭を冷やせ!」
 背後でそう叫ぶクラークの声が聞こえる――が、時すでに遅かった。彼の声がレイの意識に届いたその時には、固く握りしめたレイの拳が早くも大尉の顎を砕いていた。
「んなろっ!」
「やっちまえ!」
 レイの宣戦布告なしの攻撃に挑発されたらしい大尉の仲間たちが、食事も忘れて一斉にレイに挑みかかってくる。それらを持ち前の膂力で振り払い、殴り飛ばしながら、レイは言葉にならない充実感と、そして一抹の虚しさを同時に覚えていた。
 見ろ、キッペー。
 今の俺は、もう、あの頃の弱かった俺とは違う。今なら、お前をジャップ呼ばわりする連中をこうしてまとめて殴り倒すこともできるんだ。だから……
 ――や、やめてください、やめて……やめてください!
 ――君は、相変わらず何も分かっていないんだな。
 なのに……なぜお前は。
 俺の中のお前は、ちっとも笑ってくれないんだ。
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