58 / 68
59 ヒーローになりたい
しおりを挟む
「おーい、起きろー」
肩を叩かれ、はっと意識が覚醒する。慌てて周りを見回すと、そこは俺が通う大学の教室で、しかも俺は、なぜか教壇の目の前という、普通の大学生ならまず選ばないロケーションで授業に臨んでいる。
手元には、やけに丁寧な文字で記されたノート。少なくとも……俺の文字はこんなに綺麗じゃない。
「……はえ?」
口元に垂れるよだれを拭きつつ顔を上げると、目の前の壇上からポロシャツ姿の中年男性がニヤニヤと俺を見下ろしている。その顔には見覚えがある。俺の学部で、まだ四十そこそこながら早くも助教授の肩書を持つ教官だ。そのくせ妙に砕けたところもあり、授業以外でもちょいちょい俺を研究室に呼び出しては麻雀の相手をさせたりする。まぁ、そこで勝っても別に単位をくれるわけじゃないんだが……
「俺の目の前で居眠りとはいい度胸だな」
くすくす、と背後で笑いのさざなみが起こる。いかにもありふれた大学生活の一幕。ただ、俺は奇妙な違和感……というか、しっくりこないものを感じている。俺は、確かに俺だ。見慣れた場所にほくろのある見慣れた手のひら。その手が握る、やけに手に馴染むボールペンは、大学の入学祝いに伯父さんがくれたものだ。この教室も、通って二年になる大学の小教室で……
なのに、何だろう。
何かが……そう、何かがしっくりこない。
「あの、俺、何か……」
違和感を拭えないまま、助けを求める心地で助教授を見上げる。すると助教授は、ふっと真顔に戻ると、心配顔で俺の顔を覗き込む。
「大丈夫か?」
「……え?」
「頭に異常を感じるようなら、すぐ医務室に行けよ」
「……はぁ」
一瞬、遠慮しかけた俺だったが、確かに尋常ではない感じがして俺は手早く荷物をまとめると、クラスの目を避けるようにそそくさと教室を出た。……頭? 俺の頭がどうかしたんだろうか。そんなことを考えながら教室棟を出て医務室のある管理棟に向かう。
医務室に顔を出すと、部屋の主と思しき白衣の女性が「あら」と目を丸くした。彼女の反応から、何となく俺は顔見知りの印象を受ける。が、入学以来、俺がこの医務室の世話になったことはない。
ところが彼女は、俺が何か言うよりも先に「大丈夫?」と心配顔で声をかけてくる。いや、まぁ、大丈夫じゃないからわざわざこんなところに足を運んだわけだが……
「頭痛? それとも吐き気? とにかく、何か違和感を感じるようなら遠慮なく言ってね。すぐに救急車を呼ぶから」
「救急車? ……あ、いえ、別にそこまでは……失礼します」
なぜか怖くなった俺は慌てて踵を返し、元来た廊下を駆け戻る。背後からさっきの女医が俺を呼び止めてきたが、俺は構わずそのまま管理棟を出た。
何なんだ、一体……
ふと視線を感じて、見ると、近くのベンチで一組の男女がしきりに俺と手元のスマホを見比べている。……えっ、俺、なんかやっちゃいました? そういえば、さっきの助教授の態度もなんとなーく腫れ物に触る感じだったような……
「やっぱりあの人だよ」
「おーマジだ」
えっ……これ、やっぱ何かやらかした系だな。スマホに載っているぐらいだから、俺の方でもすぐに調べられるだろう。そう思い、試しに俺のスマホでネットアプリを立ち上げ、俺の名前で検索をかける――と、あった! えーとなになに? 都内の大学に通う男子大学生、駅のホームで男性を救出……
「……えっ」
俺の脳裏に、それまで朧気だった何かが一挙に明瞭な記憶となって流れ込んでくる。……いや、だとしてもなぜ。確かにあのとき俺は死んだはず。見知らぬオッサンの自殺を止めようとして電車に轢かれ、肉体から抜け出た魂が異世界に迷い込んで、挙句、どういうわけか現地の王太子に転生してしまった。
そうして俺は王太子として、俺の暗殺を目論む黒幕を暴き出して……そうだ。そこで俺は、焼けた鉄の塊と化したイザベラを抱きしめたんだ。君は独りじゃないんだと伝えるために。そうして俺は、古代中国のそういう拷問みたいに消し炭と化して――
「一体、何が……」
ふたたびスマホに目を戻す。記事は、自殺未遂の男性を救った大学生が、最寄りの警察署で表彰されたことを報じるものだった。男性の代わりに線路に転落した大学生は、ホーム下の退避スペースにすべり込み、直後にやってきた電車を辛くも回避。ところがその際、退避スペースの壁に頭を強打したらしく、以来、深刻な記憶障害が続いているとのことだった。
「記憶障害……まさか!?」
興奮を抑えつつ、記事の続きに目を通す。そこには、表彰式のさいに俺が述べたとされるコメントが記されていた。俺の記憶にはない、でも確かに、俺のものとされるコメントが。
『身に余る栄誉をありがとうございます。僕はずっと、ヒーローになりたいと願っていました。でも、打ち明けるなら僕は、まだそこに届いていない。僕自身は、まだ何者でもない。何も果たしていない。だから今度は、僕が救いたい。僕が手を差し伸べたい。うまく言葉にできませんが、そう、念じてやみません』
ああ、そういうことか。
そう俺は直感する。……そうか、ここにいるのはお前なんだな。俺がお前として異世界で七転八倒する間、どういうわけか俺と入れ替わっちまったお前は、おそらく俺と同じぐらい苦労しながらこの世界にコミットしていたんだ。それが何だか可笑しいし、何より、お前が生きていてくれたことが俺は素直に嬉しい。
じゃあこのまま、アルカディアを帰して俺も元の世界に戻ろうか。
少なくとも、ウェリナは喜ぶだろう。あいつが愛したのは俺じゃない、アルカディアだ。そしてこれは、アルカディアをあいつのもとに帰すための、おそらくは唯一で最後のチャンス。
俺の脳裏をよぎる、大切な人たちの面影。親父、おふくろ、それからあのクソッタレな世界のテンプレについて叩きこんでくれた姉貴。まぁ結局、その知識も全く役に立たなかったけどな! けど……会いたいよ。もう一度と言わず、これからもずっと一緒に過ごしたい――
でも。
それでも俺は、〝帰りたい〟と思う。身体ではなく心で、いや魂で、俺は当然選ぶべき答えを拒む。帰りたい。この世界にじゃない、あいつが――ウェリナが待つ世界に。俺が。
たとえ、あいつの愛するアルカディアを押しのけてでも。
そう念じた瞬間、ふ、と身体が重みを失うのを感じる。急速に霞む視界、とともに薄れゆく意識。
そんな俺の耳に届く、聞き覚えのある、でも俺のものではない声。
――僕は、彼のヒーローにはなれなかった。でも君なら、あるいは。
肩を叩かれ、はっと意識が覚醒する。慌てて周りを見回すと、そこは俺が通う大学の教室で、しかも俺は、なぜか教壇の目の前という、普通の大学生ならまず選ばないロケーションで授業に臨んでいる。
手元には、やけに丁寧な文字で記されたノート。少なくとも……俺の文字はこんなに綺麗じゃない。
「……はえ?」
口元に垂れるよだれを拭きつつ顔を上げると、目の前の壇上からポロシャツ姿の中年男性がニヤニヤと俺を見下ろしている。その顔には見覚えがある。俺の学部で、まだ四十そこそこながら早くも助教授の肩書を持つ教官だ。そのくせ妙に砕けたところもあり、授業以外でもちょいちょい俺を研究室に呼び出しては麻雀の相手をさせたりする。まぁ、そこで勝っても別に単位をくれるわけじゃないんだが……
「俺の目の前で居眠りとはいい度胸だな」
くすくす、と背後で笑いのさざなみが起こる。いかにもありふれた大学生活の一幕。ただ、俺は奇妙な違和感……というか、しっくりこないものを感じている。俺は、確かに俺だ。見慣れた場所にほくろのある見慣れた手のひら。その手が握る、やけに手に馴染むボールペンは、大学の入学祝いに伯父さんがくれたものだ。この教室も、通って二年になる大学の小教室で……
なのに、何だろう。
何かが……そう、何かがしっくりこない。
「あの、俺、何か……」
違和感を拭えないまま、助けを求める心地で助教授を見上げる。すると助教授は、ふっと真顔に戻ると、心配顔で俺の顔を覗き込む。
「大丈夫か?」
「……え?」
「頭に異常を感じるようなら、すぐ医務室に行けよ」
「……はぁ」
一瞬、遠慮しかけた俺だったが、確かに尋常ではない感じがして俺は手早く荷物をまとめると、クラスの目を避けるようにそそくさと教室を出た。……頭? 俺の頭がどうかしたんだろうか。そんなことを考えながら教室棟を出て医務室のある管理棟に向かう。
医務室に顔を出すと、部屋の主と思しき白衣の女性が「あら」と目を丸くした。彼女の反応から、何となく俺は顔見知りの印象を受ける。が、入学以来、俺がこの医務室の世話になったことはない。
ところが彼女は、俺が何か言うよりも先に「大丈夫?」と心配顔で声をかけてくる。いや、まぁ、大丈夫じゃないからわざわざこんなところに足を運んだわけだが……
「頭痛? それとも吐き気? とにかく、何か違和感を感じるようなら遠慮なく言ってね。すぐに救急車を呼ぶから」
「救急車? ……あ、いえ、別にそこまでは……失礼します」
なぜか怖くなった俺は慌てて踵を返し、元来た廊下を駆け戻る。背後からさっきの女医が俺を呼び止めてきたが、俺は構わずそのまま管理棟を出た。
何なんだ、一体……
ふと視線を感じて、見ると、近くのベンチで一組の男女がしきりに俺と手元のスマホを見比べている。……えっ、俺、なんかやっちゃいました? そういえば、さっきの助教授の態度もなんとなーく腫れ物に触る感じだったような……
「やっぱりあの人だよ」
「おーマジだ」
えっ……これ、やっぱ何かやらかした系だな。スマホに載っているぐらいだから、俺の方でもすぐに調べられるだろう。そう思い、試しに俺のスマホでネットアプリを立ち上げ、俺の名前で検索をかける――と、あった! えーとなになに? 都内の大学に通う男子大学生、駅のホームで男性を救出……
「……えっ」
俺の脳裏に、それまで朧気だった何かが一挙に明瞭な記憶となって流れ込んでくる。……いや、だとしてもなぜ。確かにあのとき俺は死んだはず。見知らぬオッサンの自殺を止めようとして電車に轢かれ、肉体から抜け出た魂が異世界に迷い込んで、挙句、どういうわけか現地の王太子に転生してしまった。
そうして俺は王太子として、俺の暗殺を目論む黒幕を暴き出して……そうだ。そこで俺は、焼けた鉄の塊と化したイザベラを抱きしめたんだ。君は独りじゃないんだと伝えるために。そうして俺は、古代中国のそういう拷問みたいに消し炭と化して――
「一体、何が……」
ふたたびスマホに目を戻す。記事は、自殺未遂の男性を救った大学生が、最寄りの警察署で表彰されたことを報じるものだった。男性の代わりに線路に転落した大学生は、ホーム下の退避スペースにすべり込み、直後にやってきた電車を辛くも回避。ところがその際、退避スペースの壁に頭を強打したらしく、以来、深刻な記憶障害が続いているとのことだった。
「記憶障害……まさか!?」
興奮を抑えつつ、記事の続きに目を通す。そこには、表彰式のさいに俺が述べたとされるコメントが記されていた。俺の記憶にはない、でも確かに、俺のものとされるコメントが。
『身に余る栄誉をありがとうございます。僕はずっと、ヒーローになりたいと願っていました。でも、打ち明けるなら僕は、まだそこに届いていない。僕自身は、まだ何者でもない。何も果たしていない。だから今度は、僕が救いたい。僕が手を差し伸べたい。うまく言葉にできませんが、そう、念じてやみません』
ああ、そういうことか。
そう俺は直感する。……そうか、ここにいるのはお前なんだな。俺がお前として異世界で七転八倒する間、どういうわけか俺と入れ替わっちまったお前は、おそらく俺と同じぐらい苦労しながらこの世界にコミットしていたんだ。それが何だか可笑しいし、何より、お前が生きていてくれたことが俺は素直に嬉しい。
じゃあこのまま、アルカディアを帰して俺も元の世界に戻ろうか。
少なくとも、ウェリナは喜ぶだろう。あいつが愛したのは俺じゃない、アルカディアだ。そしてこれは、アルカディアをあいつのもとに帰すための、おそらくは唯一で最後のチャンス。
俺の脳裏をよぎる、大切な人たちの面影。親父、おふくろ、それからあのクソッタレな世界のテンプレについて叩きこんでくれた姉貴。まぁ結局、その知識も全く役に立たなかったけどな! けど……会いたいよ。もう一度と言わず、これからもずっと一緒に過ごしたい――
でも。
それでも俺は、〝帰りたい〟と思う。身体ではなく心で、いや魂で、俺は当然選ぶべき答えを拒む。帰りたい。この世界にじゃない、あいつが――ウェリナが待つ世界に。俺が。
たとえ、あいつの愛するアルカディアを押しのけてでも。
そう念じた瞬間、ふ、と身体が重みを失うのを感じる。急速に霞む視界、とともに薄れゆく意識。
そんな俺の耳に届く、聞き覚えのある、でも俺のものではない声。
――僕は、彼のヒーローにはなれなかった。でも君なら、あるいは。
12
お気に入りに追加
956
あなたにおすすめの小説
親友と同時に死んで異世界転生したけど立場が違いすぎてお嫁さんにされちゃった話
gina
BL
親友と同時に死んで異世界転生したけど、
立場が違いすぎてお嫁さんにされちゃった話です。
タイトルそのままですみません。
すれ違い夫夫は発情期にしか素直になれない
和泉臨音
BL
とある事件をきっかけに大好きなユーグリッドと結婚したレオンだったが、番になった日以来、発情期ですらベッドを共にすることはなかった。ユーグリッドに避けられるのは寂しいが不満はなく、これ以上重荷にならないよう、レオンは受けた恩を返すべく日々の仕事に邁進する。一方、レオンに軽蔑され嫌われていると思っているユーグリッドはなるべくレオンの視界に、記憶に残らないようにレオンを避け続けているのだった。
お互いに嫌われていると誤解して、すれ違う番の話。
===================
美形侯爵長男α×平凡平民Ω。本編24話完結。それ以降は番外編です。
オメガバース設定ですが独自設定もあるのでこの世界のオメガバースはそうなんだな、と思っていただければ。
学院のモブ役だったはずの青年溺愛物語
紅林
BL
『桜田門学院高等学校』
日本中の超金持ちの子息子女が通うこの学校は東京都内に位置する野球ドーム五個分の土地が学院としてなる巨大学園だ
しかし生徒数は300人程の少人数の学院だ
そんな学院でモブとして役割を果たすはずだった青年の物語である
精霊の港 飛ばされたリーマン、体格のいい男たちに囲まれる
風見鶏ーKazamidoriー
BL
秋津ミナトは、うだつのあがらないサラリーマン。これといった特徴もなく、体力の衰えを感じてスポーツジムへ通うお年ごろ。
ある日帰り道で奇妙な精霊と出会い、追いかけた先は見たこともない場所。湊(ミナト)の前へ現れたのは黄金色にかがやく瞳をした美しい男だった。ロマス帝国という古代ローマに似た巨大な国が支配する世界で妖精に出会い、帝国の片鱗に触れてさらにはドラゴンまで、サラリーマンだった湊の人生は激変し異なる世界の動乱へ巻きこまれてゆく物語。
※この物語に登場する人物、名、団体、場所はすべてフィクションです。
乙女ゲームが俺のせいでバグだらけになった件について
はかまる
BL
異世界転生配属係の神様に間違えて何の関係もない乙女ゲームの悪役令状ポジションに転生させられた元男子高校生が、世界がバグだらけになった世界で頑張る話。
幽閉王子は最強皇子に包まれる
皇洵璃音
BL
魔法使いであるせいで幼少期に幽閉された第三王子のアレクセイ。それから年数が経過し、ある日祖国は滅ぼされてしまう。毛布に包まっていたら、敵の帝国第二皇子のレイナードにより連行されてしまう。処刑場にて皇帝から二つの選択肢を提示されたのだが、二つ目の内容は「レイナードの花嫁になること」だった。初めて人から求められたこともあり、花嫁になることを承諾する。素直で元気いっぱいなド直球第二皇子×愛されることに慣れていない治癒魔法使いの第三王子の恋愛物語。
表紙担当者:白す(しらす)様に描いて頂きました。
トップアイドルα様は平凡βを運命にする
新羽梅衣
BL
ありきたりなベータらしい人生を送ってきた平凡な大学生・春崎陽は深夜のコンビニでアルバイトをしている。
ある夜、コンビニに訪れた男と目が合った瞬間、まるで炭酸が弾けるような胸の高鳴りを感じてしまう。どこかで見たことのある彼はトップアイドル・sui(深山翠)だった。
翠と陽の距離は急接近するが、ふたりはアルファとベータ。翠が運命の番に憧れて相手を探すために芸能界に入ったと知った陽は、どう足掻いても番にはなれない関係に思い悩む。そんなとき、翠のマネージャーに声をかけられた陽はある決心をする。
運命の番を探すトップアイドルα×自分に自信がない平凡βの切ない恋のお話。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる