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兄
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玄関脇の柱時計は、すでに夜の十時を回っている。
玄関の格子戸に嵌め込まれた波ガラスに、上がり框に腰を下ろし、光る橙めいた電灯に照らされた浴衣姿の自分がうっすらと映っている。ここに招かれた当初に較べれば顔も躰も多少は肉付きが戻ったものの、その表情は相変わらず餓えた野良犬じみて、つくづく自分が卑しい出自の人間なのだと思い知らされる。
少なくとも、あの坊ちゃんに張り合えるほどの人間ではない。
三和土の隅に置かれた下駄をそっと拾い上げる。角が擦れた下駄の歯は、これが以前、誰かの持ち物であったことを暗に告げている。が、ローマ字でS・新藤と書かれているほかは、その持ち主に関する情報は何も記されていない。
――あの下駄は、二度と使わせないように。
あれは、客人を気遣っているというよりは、純粋に、健吾にこの下駄を使わせることを不快に思う口ぶりだった。そういえば今日、健吾が買い物のために玄関を出ると、慌てたように敦が二階の窓から顔を突き出してきた。もし、あれが健吾の足音を、というよりは下駄の音を、誰かのそれと聞き間違えたせいだとしたら。
それにしても――あの敦の狼狽ぶりはいっそ見事なほどだった。何せ、額に貼りついた紙にも気付かずにいたのだから。とはいえ執事の新藤の下駄の音では、あそこまで驚くことはしなかっただろう。
では誰なのだ。その、本来の下駄の主は。
S・新藤という男は。
「何を見ていらっしゃるんです?」
背後から声がして振り返る。見ると、廊下の向こうで次郎が怪訝そうに健吾の手元を見つめていた。その手には、すっかり綺麗になった健吾の編上靴が。敦に下駄を使わせるなと命じられ、慌てて持ってきたのだろう。
「何って……下駄だよ」
「下駄? ああ、兄の下駄ですね」
「兄?」
問い返す健吾に、次郎は「あ」と驚いたように丸く口を開いた。
「あれ? 言ってませんでしたっけ。それ兄のなんですよ。ほら、そこに名前が書いてあるでしょう」
言いながら、健吾が手にした下駄の文字を指さす。
「このSは創一郎のS――ああ、創一郎というのが兄の名前なんですけど。まぁ要するに兄の頭文字です。で、出征前は、いつもこの下駄を履いていて」
「……いつも?」
ふと健吾の胸を、不快な影がよぎる。
敦を慌てさせたのが、その創一郎という男だったとして――では敦との関係は?
先程の敦の物言いから察するなら、敦にとって、新藤一家は所詮はただの使用人でしかない。が、あの慌てぶりと、何より、その直後に見せた失望の色は。
「なぁ次郎」
「はい」
「その兄貴と……敦は、その……仲は良かったのか」
すると次郎は、ただでさえ大粒の瞳をことさら大きく見開いて、
「はい! それはもう!」
と、腹立たしいほど大きく頷いた。
「何せ兄は、小さいころから旦那さまのお世話をさせて頂いておりまして。旦那さまも、まぁ、僕が言うのも何ですが、随分と兄を慕っておられたようです。お勉強を教わったり避暑地では一緒にスポーツを楽しまれたり……正直、実の弟としては羨ましいぐらいでした。あんなに兄を独占できるなんて、と……」
独占――弟が羨むほどに。
それは、もはや単なる主従関係とは言えないのではないか。では、その関係とは何だ。二人を繋ぐ、主従以上の関係とは……?
――国のために死んだ同胞を弔わせてくれ。
まさか。あの時、敦が死のうとしたのは。
いや、と健吾は思い直す。だとすれば、すでに敦は創一郎の戦死を知っていなければならない。が、その時は、実の弟である次郎にも同時に報せが届くはずだ。
下駄の名前を一瞥し、再び次郎に目を戻す。
相変わらず次郎は、何の事だかわからないという顔で下駄と健吾の顔を交互に見比べている。その次郎に、兄の戦死を把握している様子は微塵もない。とすれば、そもそもこの仮説は成り立ちようがない。もっとも――
敦が何らかの事情で創一郎の戦死報告を握りつぶしていれば話は別だが。
仮に、次郎の年齢を考えて報告を差し控えていると好意的に捉えたとして、それは、しかし健吾に言わせるなら偽善以外の何物でもなかった。むしろ、こうして戻らない兄を無邪気に待たせることの方がよほど残酷な仕打ちと言えるだろう。
いくら何でも、そこまで敦を見縊りたくはない。
「そういえば田沢さま、今夜はいつもより食が進みませんでしたね」
「あ?」
そういえば。普段なら軽く四杯はいける白飯が、今日に限っては二杯しかいけなかった。
「ひょっとして、ご自分で搗いたお米ってことで、食べるのが勿体なくなってしまわれたんじゃありません?」
確かに今日、健吾は初めて次郎たちの米搗きを手伝った。空の酒瓶に、籾殻つきの米を入れて棒で突くという何とも手間のかかる方法だ。
が、おかげで健吾は、次郎たちが健吾のためにかけていた手間暇を知ることになり、今まで何となく口に運んでいた食べ物に、改めて感謝を感じるきっかけになった。
ただ、今夜の食欲不振は、その事とは全く関係ない。
敦のせいか? ひょっとして、あいつが余計なことを言ったから……?
「馬鹿野郎。んなわけねぇだろ? ……それと、その田沢さまっての、いい加減やめろ」
「えっ?」
「だから、〝さま〟はやめろって言ってンだよ。なんか、尻のあたりがムズムズすんだよ。そんな、けったいな呼び方されるとよ」
「では……なんと呼べば?」
「何なら兄貴と呼んでも構わないぜ」
せめて本物の兄が戻るまでは兄の代わりを務めてやろう。そんな、ささやかな親切心を込めて言えば、
「……何だか、ヤクザの子分にさせられたみたいで、嫌です」
思いっきり嫌な顔をされた。
「あああそうかい! じゃあ勝手にしろっ……ったくよぉ……」
下駄を次郎に押し付け、立ち上がる。珍しく親切心を見せたらすぐこれだ。と――
「健吾さん」
そんな健吾の背中を、次郎の声が呼び止める。今までの〝田沢さま〟と較べると、はるかに距離を詰めた呼び方だった。
「って、呼んでもいいですか。……すみません。兄以外の人を兄と呼んだら、その、二度と、兄が帰ってこない気がして……だから……」
そして次郎は長い睫を伏せる。その硬く強張った表情には、兄の生還を強く願う気持ちと、あるいはすでに死んでいるかもしれなという不安がないまぜになって浮かんでいた。
こんな時、健吾はかける言葉がわからなくなる。
下手な慰めは、大人が取る行動としてあまりにも無責任だ。が、だからといって、何も声をかけずにいるのは冷たすぎる。
仕方なく健吾は次郎の頭をぽんと軽く叩くと、踵を返して部屋に戻った。
我ながら不器用なやりようだなと苦い自己嫌悪に苛まれながら。
玄関の格子戸に嵌め込まれた波ガラスに、上がり框に腰を下ろし、光る橙めいた電灯に照らされた浴衣姿の自分がうっすらと映っている。ここに招かれた当初に較べれば顔も躰も多少は肉付きが戻ったものの、その表情は相変わらず餓えた野良犬じみて、つくづく自分が卑しい出自の人間なのだと思い知らされる。
少なくとも、あの坊ちゃんに張り合えるほどの人間ではない。
三和土の隅に置かれた下駄をそっと拾い上げる。角が擦れた下駄の歯は、これが以前、誰かの持ち物であったことを暗に告げている。が、ローマ字でS・新藤と書かれているほかは、その持ち主に関する情報は何も記されていない。
――あの下駄は、二度と使わせないように。
あれは、客人を気遣っているというよりは、純粋に、健吾にこの下駄を使わせることを不快に思う口ぶりだった。そういえば今日、健吾が買い物のために玄関を出ると、慌てたように敦が二階の窓から顔を突き出してきた。もし、あれが健吾の足音を、というよりは下駄の音を、誰かのそれと聞き間違えたせいだとしたら。
それにしても――あの敦の狼狽ぶりはいっそ見事なほどだった。何せ、額に貼りついた紙にも気付かずにいたのだから。とはいえ執事の新藤の下駄の音では、あそこまで驚くことはしなかっただろう。
では誰なのだ。その、本来の下駄の主は。
S・新藤という男は。
「何を見ていらっしゃるんです?」
背後から声がして振り返る。見ると、廊下の向こうで次郎が怪訝そうに健吾の手元を見つめていた。その手には、すっかり綺麗になった健吾の編上靴が。敦に下駄を使わせるなと命じられ、慌てて持ってきたのだろう。
「何って……下駄だよ」
「下駄? ああ、兄の下駄ですね」
「兄?」
問い返す健吾に、次郎は「あ」と驚いたように丸く口を開いた。
「あれ? 言ってませんでしたっけ。それ兄のなんですよ。ほら、そこに名前が書いてあるでしょう」
言いながら、健吾が手にした下駄の文字を指さす。
「このSは創一郎のS――ああ、創一郎というのが兄の名前なんですけど。まぁ要するに兄の頭文字です。で、出征前は、いつもこの下駄を履いていて」
「……いつも?」
ふと健吾の胸を、不快な影がよぎる。
敦を慌てさせたのが、その創一郎という男だったとして――では敦との関係は?
先程の敦の物言いから察するなら、敦にとって、新藤一家は所詮はただの使用人でしかない。が、あの慌てぶりと、何より、その直後に見せた失望の色は。
「なぁ次郎」
「はい」
「その兄貴と……敦は、その……仲は良かったのか」
すると次郎は、ただでさえ大粒の瞳をことさら大きく見開いて、
「はい! それはもう!」
と、腹立たしいほど大きく頷いた。
「何せ兄は、小さいころから旦那さまのお世話をさせて頂いておりまして。旦那さまも、まぁ、僕が言うのも何ですが、随分と兄を慕っておられたようです。お勉強を教わったり避暑地では一緒にスポーツを楽しまれたり……正直、実の弟としては羨ましいぐらいでした。あんなに兄を独占できるなんて、と……」
独占――弟が羨むほどに。
それは、もはや単なる主従関係とは言えないのではないか。では、その関係とは何だ。二人を繋ぐ、主従以上の関係とは……?
――国のために死んだ同胞を弔わせてくれ。
まさか。あの時、敦が死のうとしたのは。
いや、と健吾は思い直す。だとすれば、すでに敦は創一郎の戦死を知っていなければならない。が、その時は、実の弟である次郎にも同時に報せが届くはずだ。
下駄の名前を一瞥し、再び次郎に目を戻す。
相変わらず次郎は、何の事だかわからないという顔で下駄と健吾の顔を交互に見比べている。その次郎に、兄の戦死を把握している様子は微塵もない。とすれば、そもそもこの仮説は成り立ちようがない。もっとも――
敦が何らかの事情で創一郎の戦死報告を握りつぶしていれば話は別だが。
仮に、次郎の年齢を考えて報告を差し控えていると好意的に捉えたとして、それは、しかし健吾に言わせるなら偽善以外の何物でもなかった。むしろ、こうして戻らない兄を無邪気に待たせることの方がよほど残酷な仕打ちと言えるだろう。
いくら何でも、そこまで敦を見縊りたくはない。
「そういえば田沢さま、今夜はいつもより食が進みませんでしたね」
「あ?」
そういえば。普段なら軽く四杯はいける白飯が、今日に限っては二杯しかいけなかった。
「ひょっとして、ご自分で搗いたお米ってことで、食べるのが勿体なくなってしまわれたんじゃありません?」
確かに今日、健吾は初めて次郎たちの米搗きを手伝った。空の酒瓶に、籾殻つきの米を入れて棒で突くという何とも手間のかかる方法だ。
が、おかげで健吾は、次郎たちが健吾のためにかけていた手間暇を知ることになり、今まで何となく口に運んでいた食べ物に、改めて感謝を感じるきっかけになった。
ただ、今夜の食欲不振は、その事とは全く関係ない。
敦のせいか? ひょっとして、あいつが余計なことを言ったから……?
「馬鹿野郎。んなわけねぇだろ? ……それと、その田沢さまっての、いい加減やめろ」
「えっ?」
「だから、〝さま〟はやめろって言ってンだよ。なんか、尻のあたりがムズムズすんだよ。そんな、けったいな呼び方されるとよ」
「では……なんと呼べば?」
「何なら兄貴と呼んでも構わないぜ」
せめて本物の兄が戻るまでは兄の代わりを務めてやろう。そんな、ささやかな親切心を込めて言えば、
「……何だか、ヤクザの子分にさせられたみたいで、嫌です」
思いっきり嫌な顔をされた。
「あああそうかい! じゃあ勝手にしろっ……ったくよぉ……」
下駄を次郎に押し付け、立ち上がる。珍しく親切心を見せたらすぐこれだ。と――
「健吾さん」
そんな健吾の背中を、次郎の声が呼び止める。今までの〝田沢さま〟と較べると、はるかに距離を詰めた呼び方だった。
「って、呼んでもいいですか。……すみません。兄以外の人を兄と呼んだら、その、二度と、兄が帰ってこない気がして……だから……」
そして次郎は長い睫を伏せる。その硬く強張った表情には、兄の生還を強く願う気持ちと、あるいはすでに死んでいるかもしれなという不安がないまぜになって浮かんでいた。
こんな時、健吾はかける言葉がわからなくなる。
下手な慰めは、大人が取る行動としてあまりにも無責任だ。が、だからといって、何も声をかけずにいるのは冷たすぎる。
仕方なく健吾は次郎の頭をぽんと軽く叩くと、踵を返して部屋に戻った。
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