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プロローグ~えにし亭にようこそ

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 〝それ〟がどのように視えるのか、言葉で説明するのは難しい。
 一見すると、彼らは普通の人間のように見える。なので例えば、ターミナル駅の激しい人流の中でほんの一瞬すれ違っただけでは、そうと見分けることはできないだろう。ただ、例えば電車やファミレスで偶然私の視界に入る位置に座ると、しばらくして「おや?」と気付く。ゆるやかに、しかし確かに歪みはじめる姿。時にそれは霧のように霞むこともある。何にせよ、その歪みや霞みの中に、本来の姿がうっすらと浮かびはじめる。
 それは時に、犬や猫、狸、そして狐の姿を取る。ネズミやカラスが人に化けていた、なんてこともあったが、動物の場合はそのあたりがまぁメジャーなところだ。
 次に多いのは妖怪だが、こちらは、自然から生まれたもの、人の営みから生じたものと姿も在り方も多種多様で、しかも大概はあからさまな異形の姿を取る。人間の美の基準に照らすと醜かったり、グロテスクだったりもするが、実害は意外と少ない。中には危険な妖怪もいるにはいるらしいが、幸い、その手の妖怪には遭遇したことは現時点ではない。
 幽霊については特に説明は要らないだろう。すでに亡くなった人間が、生前の姿そのままに現世に留まるパターンだ。このパターンは見分けるのが難しく、また、発生の原理もよくわからない。死ねば必ず幽霊になる、というわけでもなさそうだ。まぁ……私としては、亡くなった人間に今更現世に居座られても、という感じだが。
 それから、そう、私の中ではいちばん厄介な存在、カミ。
 はっきり言おう。彼らに比べれば妖怪もケモノも問題じゃない。じつは昔、とあるテーマパークでこのカミに遭遇したことがあるのだけど、この時たまたま幼女の姿を取っていた彼は、身長制限に引っかかり、アトラクションへのライドを断られてしまう。直後、凄まじい雷雨がパークを襲い、パークは緊急閉園。私を含む来場者全員が割を食う羽目になった。彼らは人智を超えた力と、原始的な――と言えば聞こえはいいが、要は赤ちゃんそのままの情動を持ち、時にいとも容易く人間社会に混沌を投げつけてくる。他の三者に比べるとエンカウント率はきわめて低いが、できれば今後一生お近づきになりたくない相手だ。
 ともあれ私には、そうした存在が視える。
 否、視えてしまう。



 店内は、レンガ調の外装に劣らずなかなかの風情だった。
 樫材の壁。飴色に磨かれた寄木細工のフローリング。頭上にはアンティークの、小ぶりだが愛らしいシャンデリア。落ち着いた風情の店内には、やはりアンティークのテーブルや椅子が並び、何となく、洒落たイングリッシュパブを思わせる。
 壁には、これまた雰囲気のある油絵が掛けられている。ただ、結構な頻度で美術館に足を運ぶ私でも、こんな絵はお目にかかったことがない。深海を思わせる深い森。そこに一匹だけ佇む白い狐。これは――
「それ、英司さんが描いたんだ」
「叔父さんが?」
「うん。絵も上手かったんだぜ、あの人。知らなかった?」
 そして彼は、少し得意げな顔をする。何となく、肉親の私に張り合っている感じがある。
 そんな彼の立つカウンターの背後には、作りつけの棚にずらりと並ぶ瓶。よく見るとそれは酒瓶ではなく、黒々と輝く珈琲豆をたっぷりと貯えたガラスの壺だ。その瓶の一つをさっそく男は取り出すと、計量スプーンで豆を掬い、機械式のミルにかける。
 バリバリ……ブーン。
 豆の砕けるワイルドな音が、やがて穏やかな機械の駆動音に変わると、男は豆を取り出し、あらかじめお湯で濡らしておいたフィルターに投入する。普段見かける紙フィルターとは、形状も材質も違う。あれは……ひょっとして、布?
「うちの珈琲は、必ずこいつで淹れるんだ。これはリネン製の布フィルターでね。紙フィルターとは違って、豆が本来持つ油分や甘みをそのまま抽出してくれるんだぜ。つまり、豆本来の風味を損ないにくい」
「へぇ。詳しいんですね」
「まぁね。俺、あの人の一番弟子だから」
「一番弟子……はは」
 また張り合われてしまった。ただ、その口調は嫌味というより、単純に、叔父と仲の良かった自分を誇る感じがある。多分……好きだったんだろう。ラブかライクかはさておき、肉親の私なんかよりはずっと、叔父に親しみを感じていたはずだ。にもかかわらず見も知らぬ遠い親戚に店の所有権を掠め取られれば、当て擦りの一つも言いたくなるのは仕方ない。
 ただ、今の私には彼の叔父に対する感情より、喫緊に確認すべきことがあった。
「あそこに描かれているのは……あなたね?」
 すると彼――人を装う白狐は、フィルターに湯を注ぐ手を止めないままニッと口角を上げる。大きな口から覗いたのは、明らかに人のものではない、大きくて、鋭い牙。
「まあね」

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