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新しい生活

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 翌日。起きてみると、もう部屋に鷹村の姿はなかった。
 とりあえず冷蔵庫から昨日の残りを取り出して適当につまみ、地下鉄の乗り換えでまごつく時間を考慮して早めに家を出る。が、乗り換えの駅では思ったよりも迷うことなく、出勤時刻よりずいぶん早く店に着いた。
 タイムカードのある裏口から店に入ると、早くも速水がじょうろを手に店内の観葉植物に水をあげて回っているところだった。
「あれ? 早いなサキ! もうちょっとゆっくり来てもよかったのに」
 ひょっとすると迷惑だったのかもしれない。なんとなく申し訳なく思って目を伏せれば、
「よし、せっかく早く来てくれたんだし、茶葉のレクチャーでもするか」
「茶葉……?」
 困惑する渉をよそに、さっそく速水はカウンターに飛び込むと、背後の棚にずらりと並ぶ瓶を指しながら言った。
「ざっと棚を見てもらってもわかるとおり、うちでは常時百種類以上のハーブや茶葉を用意してる。そいつを、まぁお酒で言うところのバーテンダーみたいな感覚で、お客さまの好みに合わせてブレンド、提供するわけだが……そのためにはまず、それぞれの茶葉の特性や効用をきちんと把握しておく必要があるわけだ」
「はい……あっ待ってください、今、メモ帳を取り出します」
 それから渉は、いくつかのハーブの名前とその効用について、実際にお茶に淹れてもらいつつ丁寧にレクチャーしてもらった。昨日はブレンドされたものを味わったので、ハーブごとの味の違いはいまいちよく分からなかったが、あらためて単体で味わってみると、色も、それに香りも、ハーブごとに全然違う。
 一見、どれも取るに足らない枯草にしか見えないが、実際はそれぞれにちゃんと個性があって、正しく淹れさえすれば、この上なく素晴らしい香りを引き出すことができる。
「面白いですね、ハーブって」
「ほんと?」
 なぜか心底驚いたという顔で速水が目を丸める。
「いやーよかった。これで興味持ってくれなかったらどうしようかと思ってさ。だってほら、こういうのって普通は女子の趣味じゃん? ハーブなんてとか言われたらどうしようって、俺、なにげに心配してたんだよね」
「い、言いませんよ……仕事ですし……」
「でもさ、いくら仕事っってもやっぱ向き不向きってのはあるでしょ。大体、本当に合わない人ってのは、どのハーブ飲んでもただのお湯にしか思えないもんだよ。その点、サキみたいにちゃんと違いを認識できる奴は、まぁ俺に言わせりゃ断然この仕事に向いてるっていうか」
「向いてる? ……僕がですか?」
 今までの人生で、何かに向いているなどと言われたことのなかった渉は何だか急に照れくさくなり、いやいや調子に乗ってはいかんと慌てて自分を諌めた。
 普段調子に乗り馴れない人間ほど、いざ調子に乗ると後がこわいのだ。
「あ、ありがとうございます。できるだけ早く全種類覚えられるように、頑張ります」
「まぁ、そう焦ることはないさ。最初はとりあえず作り置きのブレンドティーを淹れる仕事からはじめてもらうから、そうすぐに全部覚えようと気張る必要はない」
 速水の気遣いは嬉しかったが、渉は、今すぐにも全種類のハーブを覚えてやりたくて仕方がなかった。もともと暗記は得意だったし、何より、こんな枯草からあんな素晴らしい香りのお茶を出せるということが、早くも渉を魅了していた。
 こんなふうに何かに対してやる気を覚えたのは、一体、何年ぶりだろう……?
「やります。すぐには無理ですけど、でも、できるだけ早く全種類覚えます」
「おおっ、それなら」
 速水が胸の前でぽんと手を叩く。
「七月に、日本ハーブセラピスト協会ってところが主催するハーブ検定ってのがあるんだが、そいつを受けてみるか?」
 渉は頭の中にカレンダーを思い浮かべてみた。今は五月の半ばだから、七月といえば、残り二か月ほどしか時間がない。
「なに、そう難しい試験じゃないから心配すんなって。受験代も会社持ちだし、それに、一級に合格してハーブセラピストになったら、毎月の給料に加えて資格者手当もつくからお得だぜ」
 受験代は会社持ち――そういうことなら、余計に合格しなければ悪い気がする。少なくとも、単なる記念受験の気分では受けられないだろう。
 やるなら本気で。さもなければ、せっかく声をかけてくれた鷹村に申し訳ない。
「やってみます」
「そっか」
 にやりと速水が白い歯を見せる。よっぽど渉の言葉が心強かったのだろう。――が、そうなると、逆に委縮してしまうのが渉の悪いところで、これはとんでもないことを言ってしまったと、早くも渉は後悔をはじめていた。
「ところでさ」
「は、はい」
 顔を上げると、今度はいたずらっぽい瞳がじっと渉を覗き込んでいた。
「社長ってさ、昔はどんな奴だったわけ。意外とやんちゃしてたとか、そういう黒歴史みたいなものってない?」
「く……黒歴史、ですか?」
「そうそう。実はヤンキーでしたとか、女子を泣かせまくったとか……ああ、魔導書を自作してたとか片目だけ魔眼だったとか魔族の末裔を自称してたとか、そういうのでもいいけど」
 たしかに、それは立派な黒歴史だ。
「そ……そういうのは、なかったですね……僕の知るかぎりは……」
「本当に? 弱み握られて喋れないとか、そういうのじゃなくて?」
「はい」
 ふぅん、と速水はつまらなそうに鼻を鳴らした。
「じゃあ何? 社長ってば、ふつーにリア充だったわけ? ふつーにカッコよくて、ふつーにモテて、ふつーに高校生活を楽しんでた、みたいな?」
「普通じゃないです。ものすごくカッコよくて、ものすごくモテてました」
 実際、鷹村は驚異的にモテた。
 二月十四日は、だから大変だった。貰ったチョコを持ち帰るのに、当然のように通常の革鞄では足りなくて、仕方なく家から持参した紙袋に入れて持ち帰った。その手伝いを、渉も何度やらされたか知れない。
 お礼にと鷹村がくれたのが、なぜか決まってスーパーの板チョコで、あの頃は、貰ったチョコを無神経に使い回さない鷹村の気遣いに単純に感心していたのだけど、今にして思えば、鷹村は鷹村で渉にチョコをあげたいという気持ちの表れだったのだろう。いや、それだけじゃない……
 思い返せば、鷹村からは随分といろんなシグナルが送られていた。
 たとえば屋上で話をしていて、ふと、鷹村が言葉を詰まらせることが多々あった。そのたびに鷹村は、何事もなかったように笑ってごまかすのだけど、あれは、ひょっとすると必死に気持ちを伝えようとする鷹村の葛藤の表れだったのかもしれない。
 部活で試合があると、鷹村はミーティングとは別に後でかならず渉に意見を求めた。いや、意見というよりは単なる感想で、そんなときの鷹村は、まるで母親に褒めてもらおうと絵を見せにくる子供のようにも見えた。
 昼休みや放課後は、つねに渉にべったりだった。自分のような底辺と一緒にいたら、彼の株まで下がってしまうんじゃないかと危惧する渉の気持ちなどどこ吹く風で。
「なんだ、結局ふつうのリア充じゃねーか」
 やっぱり速水は不満げだ。
「そ、それを言えば……今はどうなんですか?」
 はずみで訊いた後で、なぜか渉は後悔する。――なぜだろう、今の涼にはもちろん興味がある。なのに……
「今? そりゃ今は見てのとおりバリバリよ。都内の大学生なら羨まない奴はいない、まさに学生起業家の成功モデルだからなぁ。――まぁ、かくいう俺も今年の春までそういう学生の一人だったわけだけど、でも、こうして間近に社長の仕事ぶりを見てると……何ていうかなぁ、やっぱ圧倒されるよな」
「ああ、それわかります。とにかく何やらせても凄いんですよね、涼……いえ社長って」
「へぇ、涼って呼んでんの?」
 探られるように問われて、渉はなぜかぎくりとなる。
「は、はい。昔は……それで今も、つい……」
「まぁ別にいいけど、くれぐれも女帝の前でその呼び名は使っちゃダメだぜ」
「女帝?」
「あ、いや、こっちの話……とにかくさ、凡人にとっちゃ社長の近くにいるってだけでも大変なわけよ。中途半端に自尊心の高い奴は、まぁ速攻で鼻っ柱を粉砕されちまうわな。意識の高い奴は高い奴で、あの人に振り落とされないよう死にもの狂いで食らいついていかなきゃなんねぇ。そういう奴には、とにかく社長についていけてるって事実だけが誇りなんだから。――俺? 俺はまぁ、早々に振り落とされてこんな店でのんびりやらせてもらってるわけだが……にしても妙だよな」
「妙?」
 と、渉が問い返せば、
「いや、あの社長に、サキみたいなタイプの友達がいたってことがさ」
「……僕みたいな?」
「いや、ああいう人だからさ、サキみたいに鈍臭い奴――ええと、のんびりしてる奴とは、そもそも人としてのペースが合わないんじゃないかと思うわけ。まぁ他人の友情にケチをつけるつもりはないんだけどさ、ただ、単純に不思議だなぁと」
「それは……まぁ、たしかにそうですよね」
 言われてみれば、どうして自分は鷹村のような人間と友達になれたのだろう……。
 いや、そもそも渉の方は鷹村とは距離を取るつもりでいたのだ。それを、無理やりに絡んできたのはむしろ鷹村の方で、後になってその理由も分かったのだけど、ただ、だとしてもなぜ鷹村が自分を好きになったのかがわからない。
 今なら話してくれるだろうか。あの頃の気持ちを克服したという今の鷹村なら。
 ただ……それも何だか躊躇われて。
 やがて、本来の出勤時刻にさしかかったのだろう、ちらほらとスタッフが顔を出しはじめた。
 このアンジェで働くスタッフは、速水と渉を除けば計六人。平日は基本的に全員出勤し、土日祝日はローテーションで休みを取る。素人のイメージとして、この手の店は休日の方が忙しくなりそうなものだが、実際はビジネス街に囲まれているため、むしろ平日の方が圧倒的に客が多いのだそうだ。
 そういえば昨日は日曜で、休日でこの客の入りは大丈夫なのかと渉は内心で危惧したが、あれは週の中でもいちばん客の入りが少ないケースだったわけだ。
 そして、本格的に忙しくなるのはむしろ月曜――すなわち今日なのだ。

「よっしー。ルイボスブレンド一つよろしくねっ」
「は、はい」
 棚に取りつき、ルイボスブレンドとラベルの書かれた瓶を探す。なかなか見つからずに焦っていると、背後から、今度は別の声で注文が入った。
「わたるっち、ローズヒップブレンドお願い」
 すでにルイボスティーのことで頭がいっぱいの渉は、矢継ぎ早の連続注文に早くもパニックを起こしかけた。
「サキ、注文受けたらまずポットにお湯入れて温める」
「は、はい、すみません」
「あと、これがルイボスのお客さまのカップで、こっちがローズのお客さまの。間違えないように気をつけてね」
「はい……ええと……」
 昼間はずっとこの調子で、ようやく客足が落ち着きを見せはじめたのは、世間でいうところの夕食時だった。その頃になってようやくアンジェのスタッフは昼食にありつくことができる。
 大抵のスタッフは、近所のコンビニで買ってきたおにぎりやパンを事務所脇の休息スペースで取る。人数が少ないということもあって、あまり店を空けられないのだ。
「すみません、なんか、足を引っ張ってばかりで……」
「しょうがないよぉ。わたるっち、今日がここ初めてなんやろ?」
 渉の向かいでまくまくとコンビニおにぎりを頬張っているのは、スタッフの中で唯一のハーフ、鬼塚という青年だ。緩やかにカールした金髪に、どこか東洋人離れした薄桃色の肌。ぱっと見は西欧人だが、顔立ち自体はさっぱりしていてむしろアジア人のそれに近い。
 ただ、その眼は目が覚めるほど綺麗なエメラルドグリーンで、うっかり視線が合うと、ついハローなどと返したくなる。ところが実際、彼は生まれも育ちも生粋の京都人で、むしろ英語は全然ダメ。代わりにはんなりとした京訛りが言葉のはしばしに紛れるのが何とも奇妙だ。
 ただ、このときの渉にそんなことに気を取られる余裕はなく、午前中さんざん迷惑をかけてしまった先輩にひたすら畏まることしかできなかった。
 本当なら一日でも早くハーブの特性や味を憶えて、自作のハーブティーを作れるぐらいにはなりたいのだ。それが今は、名前どころか瓶の場所を探すことにも苦労する始末。
「とりあえず、わたるっちは先にブレンドティーの場所を憶えたら? お茶を淹れる手順なんかは、繰り返すうちに身体が覚えていくから心配せんでええよぉ」
「そう……ですか」
 これが鷹村なら、しかし、一回見ただけであっさり手順を憶えてしまうだろう。
 ハーブについても、瓶の場所どころかその名前さえ一日もあれば頭に叩き込んでしまうに違いない。
 ――そもそも人としてのペースが合わないんじゃないかと思うわけ。
「どうしたの、わたるっち」
「あ、いえ……なんでもありません」
 慌てて言葉を濁すと、渉は手元のサンドイッチにぱくついた。
 夕方、一旦は捌けたように見えた客は、夜になるにつれてぼちぼちと増える。もっとも、この時間の込み具合は昼間のそれほどではなく、店内には、一日の余韻を愉しむようなゆったりとした時間が流れる。
「食事なんかは出さないんですか。このお店」
 そう渉が尋ねると、速水は馴れた手つきで茶葉を小皿にとりわけながら、「いやぁ」と肩をすくめた。
「そういうの出すとさ、店内ににおいが漂ってハーブの香りが楽しめなくなっちゃうから」
 速水の答えに、渉はなるほどと納得する。あくまでもこの店の主力はハーブティーであり、それを活かすのに邪魔なものは最初から置かれていないのだ。
 確かに、メニューとして用意されている軽食や菓子類は、どれも強いにおいを出さないものばかりだ。甘い匂いが楽しいクッキーなどの焼き菓子でさえ、系列店で焼いたものを密封して搬入する徹底ぶりだ。
「つまり、ここは純粋にハーブティーだけを愉しんでもらおうというお店なんですね」
「そう。ちなみに、そのコンセプトを決めたのは社長」
「涼……あ、いえ社長が?」
 慌てて言い直した渉が可笑しかったのだろう、にやにやと速水は笑った。
「別に言い直さなくてもいいよぉ。ええと、『OFFICE‐T』っていうのが俺らの会社で、その業務ってのは基本的に、たとえばクライアントが何かしらの店を開きたいってときに、客が出店を予定する地域の特性やニーズを調査し、なおかつそれらに合ったコンセプトを提案することにあるわけだけど」
「この店も、じゃあそういうクライアントの……」
「いや。ここは通称『直営店』といって、こういうコンセプトの店も作れますよっていう、まぁいうなればコンセプトカーみたいなもんだな。そういう直営店が都内だけでも十店舗以上はあって、基本的には社長が直々にプロデュースしてる。もちろん、ここもそう」
「涼が……」
 どうも速水の話を聞いていると、親友の存在がどんどん遠いものに感じられてくる。
「凄い人……なんですね」
「まーね。おまけにあのルックスだろ? 最近じゃ経済誌だけじゃなくファッション誌からもインタビューの依頼が殺到してるらしいぜ」
「ふ、ふぁっしょんし……」
 いよいよ渉には遠い世界のお話だ。
「あの人のことだ。これを機にファッションブランドを立ち上げるぜ、なーんてことも言い出したりしてな、そろそろ」
 わはははと陽気に笑う速水に追従笑いを浮かべてみせながら、なぜか渉は落ち着かなった。
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