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渉(わたる)
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今から半年ほど前、渉は二年半勤めた通信会社の営業の仕事を辞めた。
採ってくれるならどこでもいいからと、大学卒業間際に受けたヤケクソの四十八社目は、誰でも採ってくれると就職版でも有名なブラック企業だった。何とか会社には滑り込んだものの、引っ込み思案な性格が祟り、月毎のノルマはほとんど未達。上司や同僚からは執拗にいびられ、ほどなく安定剤を手放せない身体になった。
それでも渉は、ほかに行く所がないからと何とか会社にしがみついていた。そんな日々が二年近く続いた、ある日のこと――
とある顧客企業の担当者から、渉は身体の関係を迫られた。
相手は五十がらみの、脂ぎった醜い顔の男だった。ホテルに連れ込まれ、上半身を触らせるまでは何とか耐えた。が、パンツのジッパーに手をかけられたところで、とうとう怖くなってホテルを逃げ出してしまった。
結局、契約は逃した。そのいきさつを知った上司はしかし、相手の非常識な要求に腹を立てるどころか、
――どうせお前はクズなんだから、枕でも何でもやって稼げよクソが!
と、あらんかぎりの罵言で自分の部下を罵った。さらには手近なものを手当たり次第に投げつけ、その中のクリスタルのペン立てが渉のこめかみにぶち当たった。――結果、渉は三針を縫う怪我を負った。
額の傷はほどなく治った。が、心に負った傷はその後もなかなか治らなかった。
その後、渉は出社のたびに激しい頭痛と慄えに見舞われるようになった。気分がふさぎ、ときには吐き気を覚えてトイレから出られなくなることもしばしばだった。
そんな渉に、しかし上司は容赦なく高いノルマを課し続けた。安定剤だけでなく抗鬱剤も手放せなくなり、いよいよ心身ともに追い詰められる渉に、ついに上司は言った。
――売り上げが出せないなら、自分で買ってでもノルマを達成しろ。
その言葉に、ついに渉は何かが切れた。
もうダメだ。このままこの会社に留まれば、いつか必ず僕は自殺する。よしんば我慢できたとして、商品を買った借金でいずれこの身は破滅する……
翌日、渉は上司に辞表を提出した。結局、二年間の会社勤めで渉が得たものといえば、薬の手放せない身体とこめかみの傷痕、それだけだった。
辞職して数か月はほとんど家から出られなかった。
人混みに出られず、出先では安定剤が手放せなかった。そろそろ失業保険が切れるという頃になっても、履歴書を書こうと思い立つだけで吐き気がした。
それでも心の片隅には、もう一度社会に戻らなければという意識はあって、にもかかわらず前に進むことのできない自分に、もどかしさと苛立ちを感じないではいられなかった。
友人の一人がこんな話を持ち込んできたのは、まさにそんな時だ。
――こないだ東京で久しぶりに鷹村に会ったんだけどさ、お前が会社を辞めたって話をしたら、だったらこっちで仕事を手伝ってほしいって言ってたんだが……行くか?
一瞬、あの日のできごとが頭をよぎって逡巡しかけた渉は、しかし、ここで躊躇すれば自分は二度と前に進むことができなくなるという予感も同時に覚えた。
過去はどうあれ、とにかく今は前に進まなくては――結局、渉はその話を引き受けた。
高校卒業後、東京の大学で経営学を修めた鷹村は、学生時代には早くも自ら出資者を募り、カフェの経営を始めていたという。卒業後はしかし、その業務の主軸を店舗プロデュースの方に移し、今では一流経済雑誌にも紹介されるほどの敏腕プロデューサーとして活躍しているらしい。
そんな鷹村に声をかけられたことは光栄でもあるし、また、これを機に東京に出られるというのも、心機一転を図るという意味では良かったのかもしれない。ただ――
どうして、よりにもよって僕みたいな人間を?
そういえば、あの時もそうだった。
それは高校に入学してまだ間もない頃のこと。部活の練習を終えて更衣室に戻りかけた渉は、だしぬけに声をかけられた。
――よう、山崎。
はじめ、それが鷹村からかけられた言葉だとは気づかなかった。ふり返ると、渉の肩越しに興味深そうに覗きこむ鷹村の姿があって、わけがわからず渉は面食らった。
そんな渉の表情を、相手のことが分からずに戸惑っていると勘違いしたのだろう、困ったように鷹村は頭を掻くと、それから、照れたような笑いを口元に浮べた。
――何だ、まさか俺のことが分からないのか? ほら、同じクラスの鷹村だが……。
それは分かる。分からないのは、どうして鷹村ほどの人間が自分なんぞに声をかけてきたのかということだ。
一年にして早くもレギュラーを約束されたエースの鷹村にとって、先輩や同輩からも歯牙にかけられたことのない、毎日体育館のすみっこで基礎練習に明け暮れるだけの渉の存在など、路傍の石ころよりも目立たない存在のはずだった。
その渉を、しかもわざわざ名前で呼びつけてくるなんて。
――いや、わかるよ……一応。
つれない言い方になってしまったのは、君ほどの人間が、どうして僕なんかに声をかけるんだというやっかみが半分と、もう半分は、純粋に照れ臭かったからだ。
その頃、部活の人間はもちろん、クラスの誰もが鷹村に近づこうと躍起になっていた。モテを絶対の基準とするスクールカーストの中で、鷹村は間違いなく最上位に位置していて、そんな鷹村に近づくことは、つまり自分のカーストを上げるための最もお手軽な方法だった。
教室でも部活でも、鷹村はつねに人の輪の中にいた。派手めの男子が彼を取り巻き、その周りを、クラスでも一軍と呼ばれる綺麗めの女子たちが取り囲んだ。
そんな輪の中心に立つ鷹村の存在は、クラスでも最底辺のカーストに位置する渉に言わせれば永久に縁のない存在、のはずだった。
その鷹村が僕に声を? しかも、名前まで知って……?
一方の鷹村も、渉の反応がよほど意外だったのだろう。面食らったように切れ長の瞼を瞬かせると、やがて寂しそうに目を伏せた。
――ひょっとして……迷惑だったか?
――いや、迷惑ってほどじゃないけど……でも、どうして?
――どうしてと言うと?
――いや、君みたいにモテる人が、どうして僕なんかに……と思ってさ。
今にして思えば、よくもあんな身のほど知らずなことを堂々と言えたものだと思う。この頃の渉は、だが妙なところで尖っているところがあって、それが、こんな厭な台詞を渉に吐かせたのだろう――まぁ、要するに幼かったのだ。
ところが、こんな渉のつれない態度にもかかわらず、その後も鷹村は何かと渉に絡みつづけた。
そうして、いつしか鷹村とは無二の親友のように友情を重ねていったわけだが……
「サキ?」
「えっ?」
ふり返ると、速見が怪訝そうな顔で渉の顔を覗き込んでいた。
サキ、というのは、どうやら渉の綽名らしい。
「どうした? 何か心配ごと?」
「あ、いえ、そういうわけでは……」
別のことに気を取られていたのが後ろめたくて、なんとなく目を逸らす。
店舗奥にある六畳ほどの更衣室には、健康ランドにもあるような縦長のロッカーが六つばかり並んでいる。いま速見が開いているのはその最も入口側にあるロッカーで、どうやらそこが渉に割り当てられたロッカーらしい。
「ちょっとサイズを見たいから、着てみて」
そのロッカーから、さっそく速見が一揃いの制服を引っぱり出す。白のカッターシャツに黒のスラックス、黒のネクタイ。いまだクリーニング屋のビニールを被ったままのそれらは、多分、速見が着るそれと同じギャルソンスタイルの制服だろう。
「一応、サイズはMを用意したんだけど……まぁ、大きかったら言ってよ」
ユニセックスのMといえば、並の男にしてみれば随分と小さい。それでも大きいと心配するあたり、速見の目には、渉の身体はよほど小柄に見えるらしい。
確かに、身長一六三センチというのは男にしては随分と小さい方だろう。
「んじゃ俺、ちょっとフロアの方に戻ってるんで、着替え終わったら声かけて」
言い残すと、速見はさっさと更衣室を出て行ってしまった。
そして更衣室には、渉一人が取り残された。
なんとはなしにロッカーに目を戻す。掲げられたネームプレートには、早くも〝山崎渉〟の名が記されていて、渉は、ようやく社会に居場所を取り戻したような誇らしさと、後のない場所に追いつめられてしまった息苦しさを同時に感じた。
しかも、この跳ねや払いを大仰に書く、自信に満ちた筆癖は……
――お前を友人だと思ったことは一度もない。
ちりり胸が痛んで、それが馬鹿馬鹿しい不安なのだと渉は自分に言い聞かせる。
あれから何年経った? 大学での四年間に加えて社会人としての時間が三年。これだけ時間が経てば、きっと鷹村の中でも、あの頃の記憶はとっくに風化しきっているはずだ。そもそも、今や東京でも大活躍する若手敏腕プロデューサーが、あんなガキの時分の話を今もひきずっているとは考えにくい。
そうだ。単に鷹村は、昔の知り合いが困っていると聞いて声をかけたにすぎないんだ。
僕があれこれ不安に思う義理は、だから……何もない。
採ってくれるならどこでもいいからと、大学卒業間際に受けたヤケクソの四十八社目は、誰でも採ってくれると就職版でも有名なブラック企業だった。何とか会社には滑り込んだものの、引っ込み思案な性格が祟り、月毎のノルマはほとんど未達。上司や同僚からは執拗にいびられ、ほどなく安定剤を手放せない身体になった。
それでも渉は、ほかに行く所がないからと何とか会社にしがみついていた。そんな日々が二年近く続いた、ある日のこと――
とある顧客企業の担当者から、渉は身体の関係を迫られた。
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――どうせお前はクズなんだから、枕でも何でもやって稼げよクソが!
と、あらんかぎりの罵言で自分の部下を罵った。さらには手近なものを手当たり次第に投げつけ、その中のクリスタルのペン立てが渉のこめかみにぶち当たった。――結果、渉は三針を縫う怪我を負った。
額の傷はほどなく治った。が、心に負った傷はその後もなかなか治らなかった。
その後、渉は出社のたびに激しい頭痛と慄えに見舞われるようになった。気分がふさぎ、ときには吐き気を覚えてトイレから出られなくなることもしばしばだった。
そんな渉に、しかし上司は容赦なく高いノルマを課し続けた。安定剤だけでなく抗鬱剤も手放せなくなり、いよいよ心身ともに追い詰められる渉に、ついに上司は言った。
――売り上げが出せないなら、自分で買ってでもノルマを達成しろ。
その言葉に、ついに渉は何かが切れた。
もうダメだ。このままこの会社に留まれば、いつか必ず僕は自殺する。よしんば我慢できたとして、商品を買った借金でいずれこの身は破滅する……
翌日、渉は上司に辞表を提出した。結局、二年間の会社勤めで渉が得たものといえば、薬の手放せない身体とこめかみの傷痕、それだけだった。
辞職して数か月はほとんど家から出られなかった。
人混みに出られず、出先では安定剤が手放せなかった。そろそろ失業保険が切れるという頃になっても、履歴書を書こうと思い立つだけで吐き気がした。
それでも心の片隅には、もう一度社会に戻らなければという意識はあって、にもかかわらず前に進むことのできない自分に、もどかしさと苛立ちを感じないではいられなかった。
友人の一人がこんな話を持ち込んできたのは、まさにそんな時だ。
――こないだ東京で久しぶりに鷹村に会ったんだけどさ、お前が会社を辞めたって話をしたら、だったらこっちで仕事を手伝ってほしいって言ってたんだが……行くか?
一瞬、あの日のできごとが頭をよぎって逡巡しかけた渉は、しかし、ここで躊躇すれば自分は二度と前に進むことができなくなるという予感も同時に覚えた。
過去はどうあれ、とにかく今は前に進まなくては――結局、渉はその話を引き受けた。
高校卒業後、東京の大学で経営学を修めた鷹村は、学生時代には早くも自ら出資者を募り、カフェの経営を始めていたという。卒業後はしかし、その業務の主軸を店舗プロデュースの方に移し、今では一流経済雑誌にも紹介されるほどの敏腕プロデューサーとして活躍しているらしい。
そんな鷹村に声をかけられたことは光栄でもあるし、また、これを機に東京に出られるというのも、心機一転を図るという意味では良かったのかもしれない。ただ――
どうして、よりにもよって僕みたいな人間を?
そういえば、あの時もそうだった。
それは高校に入学してまだ間もない頃のこと。部活の練習を終えて更衣室に戻りかけた渉は、だしぬけに声をかけられた。
――よう、山崎。
はじめ、それが鷹村からかけられた言葉だとは気づかなかった。ふり返ると、渉の肩越しに興味深そうに覗きこむ鷹村の姿があって、わけがわからず渉は面食らった。
そんな渉の表情を、相手のことが分からずに戸惑っていると勘違いしたのだろう、困ったように鷹村は頭を掻くと、それから、照れたような笑いを口元に浮べた。
――何だ、まさか俺のことが分からないのか? ほら、同じクラスの鷹村だが……。
それは分かる。分からないのは、どうして鷹村ほどの人間が自分なんぞに声をかけてきたのかということだ。
一年にして早くもレギュラーを約束されたエースの鷹村にとって、先輩や同輩からも歯牙にかけられたことのない、毎日体育館のすみっこで基礎練習に明け暮れるだけの渉の存在など、路傍の石ころよりも目立たない存在のはずだった。
その渉を、しかもわざわざ名前で呼びつけてくるなんて。
――いや、わかるよ……一応。
つれない言い方になってしまったのは、君ほどの人間が、どうして僕なんかに声をかけるんだというやっかみが半分と、もう半分は、純粋に照れ臭かったからだ。
その頃、部活の人間はもちろん、クラスの誰もが鷹村に近づこうと躍起になっていた。モテを絶対の基準とするスクールカーストの中で、鷹村は間違いなく最上位に位置していて、そんな鷹村に近づくことは、つまり自分のカーストを上げるための最もお手軽な方法だった。
教室でも部活でも、鷹村はつねに人の輪の中にいた。派手めの男子が彼を取り巻き、その周りを、クラスでも一軍と呼ばれる綺麗めの女子たちが取り囲んだ。
そんな輪の中心に立つ鷹村の存在は、クラスでも最底辺のカーストに位置する渉に言わせれば永久に縁のない存在、のはずだった。
その鷹村が僕に声を? しかも、名前まで知って……?
一方の鷹村も、渉の反応がよほど意外だったのだろう。面食らったように切れ長の瞼を瞬かせると、やがて寂しそうに目を伏せた。
――ひょっとして……迷惑だったか?
――いや、迷惑ってほどじゃないけど……でも、どうして?
――どうしてと言うと?
――いや、君みたいにモテる人が、どうして僕なんかに……と思ってさ。
今にして思えば、よくもあんな身のほど知らずなことを堂々と言えたものだと思う。この頃の渉は、だが妙なところで尖っているところがあって、それが、こんな厭な台詞を渉に吐かせたのだろう――まぁ、要するに幼かったのだ。
ところが、こんな渉のつれない態度にもかかわらず、その後も鷹村は何かと渉に絡みつづけた。
そうして、いつしか鷹村とは無二の親友のように友情を重ねていったわけだが……
「サキ?」
「えっ?」
ふり返ると、速見が怪訝そうな顔で渉の顔を覗き込んでいた。
サキ、というのは、どうやら渉の綽名らしい。
「どうした? 何か心配ごと?」
「あ、いえ、そういうわけでは……」
別のことに気を取られていたのが後ろめたくて、なんとなく目を逸らす。
店舗奥にある六畳ほどの更衣室には、健康ランドにもあるような縦長のロッカーが六つばかり並んでいる。いま速見が開いているのはその最も入口側にあるロッカーで、どうやらそこが渉に割り当てられたロッカーらしい。
「ちょっとサイズを見たいから、着てみて」
そのロッカーから、さっそく速見が一揃いの制服を引っぱり出す。白のカッターシャツに黒のスラックス、黒のネクタイ。いまだクリーニング屋のビニールを被ったままのそれらは、多分、速見が着るそれと同じギャルソンスタイルの制服だろう。
「一応、サイズはMを用意したんだけど……まぁ、大きかったら言ってよ」
ユニセックスのMといえば、並の男にしてみれば随分と小さい。それでも大きいと心配するあたり、速見の目には、渉の身体はよほど小柄に見えるらしい。
確かに、身長一六三センチというのは男にしては随分と小さい方だろう。
「んじゃ俺、ちょっとフロアの方に戻ってるんで、着替え終わったら声かけて」
言い残すと、速見はさっさと更衣室を出て行ってしまった。
そして更衣室には、渉一人が取り残された。
なんとはなしにロッカーに目を戻す。掲げられたネームプレートには、早くも〝山崎渉〟の名が記されていて、渉は、ようやく社会に居場所を取り戻したような誇らしさと、後のない場所に追いつめられてしまった息苦しさを同時に感じた。
しかも、この跳ねや払いを大仰に書く、自信に満ちた筆癖は……
――お前を友人だと思ったことは一度もない。
ちりり胸が痛んで、それが馬鹿馬鹿しい不安なのだと渉は自分に言い聞かせる。
あれから何年経った? 大学での四年間に加えて社会人としての時間が三年。これだけ時間が経てば、きっと鷹村の中でも、あの頃の記憶はとっくに風化しきっているはずだ。そもそも、今や東京でも大活躍する若手敏腕プロデューサーが、あんなガキの時分の話を今もひきずっているとは考えにくい。
そうだ。単に鷹村は、昔の知り合いが困っていると聞いて声をかけたにすぎないんだ。
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