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最終章 負け猫に祝福を、姫に青春の日々を
猫村太一が負け猫になった日
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「つまらない話になる。それでもかまわないか?」
尋ねると、姫宮は黙ってうなずいた。
「……俺が中学生の頃の話だ」
俺は昔話を始めた。
◆
中学時代、俺には親友と呼べる男がいた。
彼の名前は犬井健二。背は低く、童顔だ。人懐っこい性格も相まって、クラスメイトからは犬のように可愛がられていた。特に女子からは人気があり、よくちょっかいを出されていた。
一方、俺はクラスで目立つグループの一員だった。その場を上手く回す潤滑油のような存在だったと思う。今とは違ってよく笑ったし、人前で冗談を言うことも苦ではなかった。
グループで行動しているとき以外は、何をするにも犬井と一緒だった。好きな音楽が一緒だったことが仲良くなったきっかけだったが、話してみると、漫画や小説、ゲームも趣味が合った。他人には言いにくいオタク趣味で盛り上がれるのは犬井だけだった。
ある日、学校の昼休みの出来事である。
俺と犬井は屋上で弁当を食べていた。普段は教室でみんなと一緒に食べるのだが、その日は犬井が「屋上で食べよう」と誘ってきたのだ。
「犬井。なんか相談でもあるのか?」
「え? な、なんでわかるの?」
「別に。誰もいない屋上に呼び出すってことは、他人に聞かれたくない話でもあるのかなって思っただけだ」
「まるで名探偵だな……実は僕、好きな人に告白しようと思うんだ」
「好きな人……五十嵐さんか?」
同じクラスの五十嵐飛鳥。パーマのかかった茶髪にナチュラルな化粧。見た目もギャルっぽいが、性格も明るくておしゃべり好き。男女ともに人気がある、クラスの中心人物だ。
「五十嵐さん、性格もいいし倍率高そうだなぁ。で、君はいつ告白するんだ?」
「今日の放課後、この屋上で」
「急だな、おい。大丈夫なのか?」
「安心してくれ。ポエムを作ってきた」
「不安しか残らないんだが……悪いことは言わない。ポエムはやめとけ。気持ち悪がられるだけだぞ。五十嵐さんなら笑ってくれるかもしれないが、告白は失敗に終わるだろうな」
「マジか……僕、二週間も考えたのに……どうしよう?」
「俺は経験ないけど、やっぱり気持ちを直球でぶつけるしかないんじゃないの? 今さらサプライズを考える時間もないんだしさ。自分の好きって気持ちを全力でぶつけてこいよ」
「そっか……そうだね。ありがとう、猫村。僕、頑張るよ」
「おう。当たって砕けろ。骨は拾ってやる」
「砕けたらだめじゃんかよ」
犬井は人懐っこい笑顔で笑った。裏表がなくて、本当にイイやつだ。世界中の人間が犬井のような性格なら、争いごとも減るだろう。
「よし、じゃあシミュレーションしよう。犬井。俺を五十嵐さんだと思って告白してみろ!」
「ははっ! その設定、無理ありすぎ!」
俺と犬井の笑い声が屋上に響いた。
放課後、犬井は五十嵐さんに告白した。
彼の恋は実らずに、当たって砕けて終わったのだった。
翌日、犬井は体調不良を理由に学校を休んだ。
犬井は健康優良児で、今まで欠席したことはない。あの犬井が学校を休んだのかと、クラスではネタになるほどだった。
「猫村。犬井から何か聞いてる?」
クラスの中心物の一人、島田が尋ねた。
おそらく、犬井は失恋が原因で寝込んでいるのだろう。だが、本人の許可もなく本当のことは言えない。俺は適当に誤魔化した。
「さぁ。知らないな」
「猫村にも連絡ねぇのかよ。お前ら、本当に付き合ってんのか?」
「安心しろ。式には呼んでやる」
冗談を言い合うと、島田は笑いながら「そんな心配はしてねぇ」と俺の肩をバシバシ叩いた。
「猫村くん」
声をかけられた。振り向くと、そこには五十嵐さんが気まずそうな顔をして立っていた。
「後で話があるんだけど、いいかな」
きっと犬井のことが心配なのだろう。俺はうなずき、屋上で会う約束をした。
昼休みになり、屋上にやってきた。
「やっほ、猫村くん。ここ、どうぞ座って」
五十嵐さんは花柄のシートを敷いて座っていた。俺は一言礼を言って腰を下ろす。
「あのさ、昨日のことなんだけど……」
「犬井のやつ、五十嵐さんに告白したんだろ?」
「あ。やっぱ相談されてた?」
「まあね。あいつが自作のポエムを用意していたから、全力で止めておいたよ」
「あははっ。犬井っちの考えることは謎だなー」
五十嵐さんは笑みをこぼしたが、すぐに表情を曇らせた。
「……犬井っち、あたしが断ったから休んじゃったのかな?」
「五十嵐さんのせいじゃない。責任なんて感じる必要ないよ」
「でも……」
「大丈夫。あいつ単純だから、すぐに学校来るよ。俺も二人が元通りの仲になれるように間を持つから。気にしないで」
「猫村くん……ありがと。本当に助かる」
五十嵐さんは申し訳なさそうに礼を言った。
このとき、俺は重大なミスを犯した。俺と五十嵐さんの会話を、こっそり俺の跡をつけてきた島田に聞かれていたのだ。
噂は一斉に広がった。クラスの男子は犬井の失恋をネタにして笑った。
くだらねぇ。やめろよ。そう言っても、俺一人の力ではみんなを制することはできなかった。
二日後、犬井が登校してきた。顔色はよく、見た目は特にへこんでいる様子はない。
「おー、失恋した犬井じゃん。もう元気でたか?」
犬井は「え?」と明らかに嫌そうな顔をした。
見かねた俺は間に入り、島田を睨みつけた。
「やめろ、島田。それはイジっていいやつじゃないだろ」
島田は一瞬怯んだ。しかし、俺一人では抑止力にさえならない。他の男子たちも次々と犬井を囲み、失恋についていろいろと尋ねた。
犬井は空気を読んだのか、仕方なく笑っていた。まだ生々しい傷口を自ら掘り返し、思い出にすらなっていない失恋の詳細を語った。
なんてデリカシーのないやつらだ。やめろ、クズども。犬井から離れろよ。
大人数に対してそう発言できるほど、俺は強くなかった。
不意に誰かが言った。
「さすが犬井。負け犬じゃん。犬らしく、くぅーんって鳴いてみろよ」
「は?」
言ったのはどいつだ。ぶん殴ってやる。
俺が犯人捜しをする間もなく、犬井は鳴いた。本当は辛いはずなのに、場の空気が悪くなると思って、負け犬の真似をしたのだ。
教室は爆笑の渦に包まれた。男子でただ一人、俺だけが笑っていない。
情けない笑みを浮かべる犬井に、俺は声をかけてあげられなかった。
その日から、犬井に対する「負け犬イジり」が始まった。
最初は「くぅーん」と鳴き真似をさせるだけだった。
しかし、イジリは次第にエスカレートしていった。「お手」に始まり、「待て」や「伏せ」などもやらされた。負け犬呼ばわりされるたび、犬井は情けない笑顔を貼りつけた。
断言できる。これはもうイジリではなくてイジメだ。加害者が一方的に被害者を攻撃するリンチに他ならない。
あるとき、大事件が起きた。島田や五十嵐さんなど、クラスの中心人物がわいわい騒いでいた昼休みだった。
「おい負け犬。五十嵐にも『お手』見せてやれよ」
「ちょっと島田。やめなよ、そういうの。ダサいんですけど」
五十嵐さんは毅然とした態度で島田に抗議した。
しかし、すでに一人の勇気ではどうにもならないほど、教室に蔓延る悪意は膨れ上がっていた。
「いいじゃん。ほら。やれよ、負け犬」
犬井は悔しそうに唇を噛み、島田の手に自分の手を置いて「くぅーん」と鳴いた。
初めて笑っていない顔を見た。もう精神的に限界なんだと悟る。
それなのに、俺は島田を止めることができなかった。
もしも俺が犬井をかばったら、今度は俺が「負け猫」と呼ばれ、酷い仕打ちを受ける。イジメの標的になりたくないという恐怖心が、俺の心を黒く染めていったからだ。
島田はひとしきり笑った後、退屈そうにあくびをした。
「あーあ。でも飽きたなぁ。何か新しい芸でもさせるか」
そうだ、と島田は手を打った。
「犬には『ちんちん』って芸があるよな? 前足を上げて、後ろ足で立つアレだ。負け犬、やれよ。どうせなら、下半身丸出しでな」
「島田サイテー。犬井っち、やらなくていいからね?」
五十嵐さんは犬井をかばったが、島田の暴走は止まらない。
「何言ってんの。五十嵐が命令するんだよ」
「はぁ? な、なんであたしが……」
「五十嵐だって、昔はよく犬井のことイジってたじゃん。好きなんだろ、そういうの」
男子たちがゲラゲラと笑いだす。五十嵐さんの顔が見る見るうちに青ざめていく。
「みんな期待してるよ。断ったら大変だ……わかってるよな、五十嵐?」
命令しなければ、お前も俺たちの犬にしてやる……島田はそう脅迫したのだ。
五十嵐さんの表情を見た瞬間、世界が終わったような気持ちになる。
彼女は震えながら笑っていた。おそらく、イジメに対する恐怖心が正義感を超えてしまったのだろう。五十嵐さんはもう、犬井をかばうことはない。これからも、ずっと。
だが、俺に彼女を非難する資格なんてない。
見ないふりを決め込んだ時点で、俺はもうイジメに加担していたんだから。
五十嵐さんは涙目になりながらも、はっきりとした口調で言った。
「犬井っち。あなたのちんちん、あたしに見せなよ」
瞬間、男子の声が爆ぜた。「うっわ、五十嵐さんエロい!」「やべぇ、なんか興奮してきた!」と喜んでいる。
犬井は泣きも喚きもしなかった。人形のように無表情のまま、腰のベルトに手をかける。かちゃかちゃと音を鳴らし、チャックにまで手が伸びたときだった。
「おーい、授業はじめるぞ! 早く席つけ!」
先生が教室にやってきた。男子たちは「空気読めよぉー」などと不満を漏らしながら自席に戻っていく。
五十嵐さんの泣き声は、みんな聞こえないふりをした。
この世で一番醜いものを見た気がして吐きそうだった。
翌日、犬井は学校を休んだ。
もう犬井は学校に来ないかもしれない。俺のせいだ。俺が最初に島田をぶん殴ってでも止めていれば、こんなことにはならなかった。
あいつに謝りたい。
でも、どのツラ下げて謝ればいい?
わからないまま、気づけば犬井の家の前まで来ていた。
インターホンを押す勇気なんてなかった。犬井に責められたらと思うと、何も考えられなかった。
十分くらい家の前で棒立ちしていると、
「猫村?」
後ろから声をかけられた。
振り向くと、私服姿の犬井が立っていた。手にはコンビニ袋が握られている。
言わなきゃ。島田たちを止められなくて悪かったって。親友のくせに何もできないクズ野郎ですまないって。気のすむまで殴ってくれって。
だけど、俺は何も言えずに頭を下げるだけだった。
会話することが怖かった。だって犬井に責められたら、俺は死にたくなると思うから。
親友の心を踏みにじっておいて、なおも自分を守ろうとする俺は、やはり真正のクズなのだ。
犬井は俺を責めなかった。それどころか、こんな俺を許してくれた。
「頭なんて下げるなよ。猫村のせいじゃない。俺なら大丈夫だって」
大丈夫なわけない。学校を休んだのがその証拠だ。
そのはずなのに、犬井は俺が自責の念で悩まないように笑ってくれた。
心臓が俺を責めるように胸を突き上げる。
俺は何も言わずに逃げ出した。
それから犬井とは一度も会っていない。
しばらくして、犬井は転校した。
尋ねると、姫宮は黙ってうなずいた。
「……俺が中学生の頃の話だ」
俺は昔話を始めた。
◆
中学時代、俺には親友と呼べる男がいた。
彼の名前は犬井健二。背は低く、童顔だ。人懐っこい性格も相まって、クラスメイトからは犬のように可愛がられていた。特に女子からは人気があり、よくちょっかいを出されていた。
一方、俺はクラスで目立つグループの一員だった。その場を上手く回す潤滑油のような存在だったと思う。今とは違ってよく笑ったし、人前で冗談を言うことも苦ではなかった。
グループで行動しているとき以外は、何をするにも犬井と一緒だった。好きな音楽が一緒だったことが仲良くなったきっかけだったが、話してみると、漫画や小説、ゲームも趣味が合った。他人には言いにくいオタク趣味で盛り上がれるのは犬井だけだった。
ある日、学校の昼休みの出来事である。
俺と犬井は屋上で弁当を食べていた。普段は教室でみんなと一緒に食べるのだが、その日は犬井が「屋上で食べよう」と誘ってきたのだ。
「犬井。なんか相談でもあるのか?」
「え? な、なんでわかるの?」
「別に。誰もいない屋上に呼び出すってことは、他人に聞かれたくない話でもあるのかなって思っただけだ」
「まるで名探偵だな……実は僕、好きな人に告白しようと思うんだ」
「好きな人……五十嵐さんか?」
同じクラスの五十嵐飛鳥。パーマのかかった茶髪にナチュラルな化粧。見た目もギャルっぽいが、性格も明るくておしゃべり好き。男女ともに人気がある、クラスの中心人物だ。
「五十嵐さん、性格もいいし倍率高そうだなぁ。で、君はいつ告白するんだ?」
「今日の放課後、この屋上で」
「急だな、おい。大丈夫なのか?」
「安心してくれ。ポエムを作ってきた」
「不安しか残らないんだが……悪いことは言わない。ポエムはやめとけ。気持ち悪がられるだけだぞ。五十嵐さんなら笑ってくれるかもしれないが、告白は失敗に終わるだろうな」
「マジか……僕、二週間も考えたのに……どうしよう?」
「俺は経験ないけど、やっぱり気持ちを直球でぶつけるしかないんじゃないの? 今さらサプライズを考える時間もないんだしさ。自分の好きって気持ちを全力でぶつけてこいよ」
「そっか……そうだね。ありがとう、猫村。僕、頑張るよ」
「おう。当たって砕けろ。骨は拾ってやる」
「砕けたらだめじゃんかよ」
犬井は人懐っこい笑顔で笑った。裏表がなくて、本当にイイやつだ。世界中の人間が犬井のような性格なら、争いごとも減るだろう。
「よし、じゃあシミュレーションしよう。犬井。俺を五十嵐さんだと思って告白してみろ!」
「ははっ! その設定、無理ありすぎ!」
俺と犬井の笑い声が屋上に響いた。
放課後、犬井は五十嵐さんに告白した。
彼の恋は実らずに、当たって砕けて終わったのだった。
翌日、犬井は体調不良を理由に学校を休んだ。
犬井は健康優良児で、今まで欠席したことはない。あの犬井が学校を休んだのかと、クラスではネタになるほどだった。
「猫村。犬井から何か聞いてる?」
クラスの中心物の一人、島田が尋ねた。
おそらく、犬井は失恋が原因で寝込んでいるのだろう。だが、本人の許可もなく本当のことは言えない。俺は適当に誤魔化した。
「さぁ。知らないな」
「猫村にも連絡ねぇのかよ。お前ら、本当に付き合ってんのか?」
「安心しろ。式には呼んでやる」
冗談を言い合うと、島田は笑いながら「そんな心配はしてねぇ」と俺の肩をバシバシ叩いた。
「猫村くん」
声をかけられた。振り向くと、そこには五十嵐さんが気まずそうな顔をして立っていた。
「後で話があるんだけど、いいかな」
きっと犬井のことが心配なのだろう。俺はうなずき、屋上で会う約束をした。
昼休みになり、屋上にやってきた。
「やっほ、猫村くん。ここ、どうぞ座って」
五十嵐さんは花柄のシートを敷いて座っていた。俺は一言礼を言って腰を下ろす。
「あのさ、昨日のことなんだけど……」
「犬井のやつ、五十嵐さんに告白したんだろ?」
「あ。やっぱ相談されてた?」
「まあね。あいつが自作のポエムを用意していたから、全力で止めておいたよ」
「あははっ。犬井っちの考えることは謎だなー」
五十嵐さんは笑みをこぼしたが、すぐに表情を曇らせた。
「……犬井っち、あたしが断ったから休んじゃったのかな?」
「五十嵐さんのせいじゃない。責任なんて感じる必要ないよ」
「でも……」
「大丈夫。あいつ単純だから、すぐに学校来るよ。俺も二人が元通りの仲になれるように間を持つから。気にしないで」
「猫村くん……ありがと。本当に助かる」
五十嵐さんは申し訳なさそうに礼を言った。
このとき、俺は重大なミスを犯した。俺と五十嵐さんの会話を、こっそり俺の跡をつけてきた島田に聞かれていたのだ。
噂は一斉に広がった。クラスの男子は犬井の失恋をネタにして笑った。
くだらねぇ。やめろよ。そう言っても、俺一人の力ではみんなを制することはできなかった。
二日後、犬井が登校してきた。顔色はよく、見た目は特にへこんでいる様子はない。
「おー、失恋した犬井じゃん。もう元気でたか?」
犬井は「え?」と明らかに嫌そうな顔をした。
見かねた俺は間に入り、島田を睨みつけた。
「やめろ、島田。それはイジっていいやつじゃないだろ」
島田は一瞬怯んだ。しかし、俺一人では抑止力にさえならない。他の男子たちも次々と犬井を囲み、失恋についていろいろと尋ねた。
犬井は空気を読んだのか、仕方なく笑っていた。まだ生々しい傷口を自ら掘り返し、思い出にすらなっていない失恋の詳細を語った。
なんてデリカシーのないやつらだ。やめろ、クズども。犬井から離れろよ。
大人数に対してそう発言できるほど、俺は強くなかった。
不意に誰かが言った。
「さすが犬井。負け犬じゃん。犬らしく、くぅーんって鳴いてみろよ」
「は?」
言ったのはどいつだ。ぶん殴ってやる。
俺が犯人捜しをする間もなく、犬井は鳴いた。本当は辛いはずなのに、場の空気が悪くなると思って、負け犬の真似をしたのだ。
教室は爆笑の渦に包まれた。男子でただ一人、俺だけが笑っていない。
情けない笑みを浮かべる犬井に、俺は声をかけてあげられなかった。
その日から、犬井に対する「負け犬イジり」が始まった。
最初は「くぅーん」と鳴き真似をさせるだけだった。
しかし、イジリは次第にエスカレートしていった。「お手」に始まり、「待て」や「伏せ」などもやらされた。負け犬呼ばわりされるたび、犬井は情けない笑顔を貼りつけた。
断言できる。これはもうイジリではなくてイジメだ。加害者が一方的に被害者を攻撃するリンチに他ならない。
あるとき、大事件が起きた。島田や五十嵐さんなど、クラスの中心人物がわいわい騒いでいた昼休みだった。
「おい負け犬。五十嵐にも『お手』見せてやれよ」
「ちょっと島田。やめなよ、そういうの。ダサいんですけど」
五十嵐さんは毅然とした態度で島田に抗議した。
しかし、すでに一人の勇気ではどうにもならないほど、教室に蔓延る悪意は膨れ上がっていた。
「いいじゃん。ほら。やれよ、負け犬」
犬井は悔しそうに唇を噛み、島田の手に自分の手を置いて「くぅーん」と鳴いた。
初めて笑っていない顔を見た。もう精神的に限界なんだと悟る。
それなのに、俺は島田を止めることができなかった。
もしも俺が犬井をかばったら、今度は俺が「負け猫」と呼ばれ、酷い仕打ちを受ける。イジメの標的になりたくないという恐怖心が、俺の心を黒く染めていったからだ。
島田はひとしきり笑った後、退屈そうにあくびをした。
「あーあ。でも飽きたなぁ。何か新しい芸でもさせるか」
そうだ、と島田は手を打った。
「犬には『ちんちん』って芸があるよな? 前足を上げて、後ろ足で立つアレだ。負け犬、やれよ。どうせなら、下半身丸出しでな」
「島田サイテー。犬井っち、やらなくていいからね?」
五十嵐さんは犬井をかばったが、島田の暴走は止まらない。
「何言ってんの。五十嵐が命令するんだよ」
「はぁ? な、なんであたしが……」
「五十嵐だって、昔はよく犬井のことイジってたじゃん。好きなんだろ、そういうの」
男子たちがゲラゲラと笑いだす。五十嵐さんの顔が見る見るうちに青ざめていく。
「みんな期待してるよ。断ったら大変だ……わかってるよな、五十嵐?」
命令しなければ、お前も俺たちの犬にしてやる……島田はそう脅迫したのだ。
五十嵐さんの表情を見た瞬間、世界が終わったような気持ちになる。
彼女は震えながら笑っていた。おそらく、イジメに対する恐怖心が正義感を超えてしまったのだろう。五十嵐さんはもう、犬井をかばうことはない。これからも、ずっと。
だが、俺に彼女を非難する資格なんてない。
見ないふりを決め込んだ時点で、俺はもうイジメに加担していたんだから。
五十嵐さんは涙目になりながらも、はっきりとした口調で言った。
「犬井っち。あなたのちんちん、あたしに見せなよ」
瞬間、男子の声が爆ぜた。「うっわ、五十嵐さんエロい!」「やべぇ、なんか興奮してきた!」と喜んでいる。
犬井は泣きも喚きもしなかった。人形のように無表情のまま、腰のベルトに手をかける。かちゃかちゃと音を鳴らし、チャックにまで手が伸びたときだった。
「おーい、授業はじめるぞ! 早く席つけ!」
先生が教室にやってきた。男子たちは「空気読めよぉー」などと不満を漏らしながら自席に戻っていく。
五十嵐さんの泣き声は、みんな聞こえないふりをした。
この世で一番醜いものを見た気がして吐きそうだった。
翌日、犬井は学校を休んだ。
もう犬井は学校に来ないかもしれない。俺のせいだ。俺が最初に島田をぶん殴ってでも止めていれば、こんなことにはならなかった。
あいつに謝りたい。
でも、どのツラ下げて謝ればいい?
わからないまま、気づけば犬井の家の前まで来ていた。
インターホンを押す勇気なんてなかった。犬井に責められたらと思うと、何も考えられなかった。
十分くらい家の前で棒立ちしていると、
「猫村?」
後ろから声をかけられた。
振り向くと、私服姿の犬井が立っていた。手にはコンビニ袋が握られている。
言わなきゃ。島田たちを止められなくて悪かったって。親友のくせに何もできないクズ野郎ですまないって。気のすむまで殴ってくれって。
だけど、俺は何も言えずに頭を下げるだけだった。
会話することが怖かった。だって犬井に責められたら、俺は死にたくなると思うから。
親友の心を踏みにじっておいて、なおも自分を守ろうとする俺は、やはり真正のクズなのだ。
犬井は俺を責めなかった。それどころか、こんな俺を許してくれた。
「頭なんて下げるなよ。猫村のせいじゃない。俺なら大丈夫だって」
大丈夫なわけない。学校を休んだのがその証拠だ。
そのはずなのに、犬井は俺が自責の念で悩まないように笑ってくれた。
心臓が俺を責めるように胸を突き上げる。
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