上州無宿人 博徒孝市郎

久保 倫

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 関東取締役出役、後年関八州廻りなどと呼ばれるこの役職は、関八州と呼ばれる相模・武蔵・上野・下野・安房・上総・下総・常陸における犯罪取り締まりを担う役職である。
 定員は八名だが、一人一州という分担でなく、二人で二州、三人で三州を回るなど協力して職務を遂行する。
 今回の廻村も二名の出役がそれぞれ手代や道案内と呼ばれる地元の有力者などを引き連れ行われた。
 廻村自体は順調に終わった。
 騒動が起こったのは、夜、寺で設けられた席でのことである。

 孝市郎達は、寺のお堂近くの一室にいた。酔いつぶれた人間を運んだりなどの力仕事要員として待機するよう両親に命じられ、断る理由もなく治郎と一緒に待機していた。両親は、接待役として席に侍るので、幼い治郎を一人にできず連れてきたのである。
 ただ、治郎が退屈することはなかった。
「ええ、名古屋城の金の鯱は、遠目に見るだけでしたが、それは見事な物でござんした。」
「へえぇ~。」
 あちこちを旅したと言う穎悟の話が面白く、退屈する暇がない。
「頴悟のおじちゃん、本当に色々なことを知っているんだね。」
 治郎も目を輝かせて頴悟の話に聞き入っている。
「そうさ、色々なところを旅してきたからな。」
「僕も連れて行って。」
「そうか治郎君も行きたいか。いいぞ、大人になったら一緒に行こうか。」
「約束だよ。」
「おぉ、約束だ。」
 治郎と穎悟は指切りをする。ほんとに連れて行く気かな、そう思いながら孝市郎は別の疑問を口にしていた。
「それにしても穎悟さん最近まで旅をしていた割に、うちの村の人と知り合い多いですね。穎悟さんが寺や道の掃除をしていても、大人は誰と聞いたりしない。」
「卓玄和尚と懇意にしているから……。」
「いやっ、お止め下さい。」
 みよの悲鳴に穎悟の話は遮られた。
 すくっと孝市郎が立ち上がる。
「孝市郎さん、どちらに行きなさる?」
「様子を見て来る。」
 栄五郎からの問いに考市郎は簡潔に答えた。
「手荒なことはいけませんよ。」
 秀然の言葉に返事はない。頭に血が上り切っているのだろう。
「こいつはいけねえ。卓玄が危惧していた通りか。」
 穎悟も立ち上がった。
「親分さん、孝市郎のことを。」
「任されやした。ご心配には及びやせん。」
「親分さんって頴悟おじちゃんのことなの。?なんで親分さんなの、秀然さん?」

「これ娘、酌をせい。」
 新しいお銚子を運んだみよに出役の一人、吉田左五郎が声をかけた。
「はいはい、ただいま。」
 銚子を取って吉田の猪口に注いだ。
 吉田は猪口を口に運んだ。
「うまいのぅ、美人が注ぐと酒の味も変わる。」
「そんな、お役人様、お世辞を。」
「世辞ではない。武士たる者、偽りなど申さぬ。」
「あら、いやですわ。」
「どうじゃ、面倒をみてやる故、江戸に来ぬか。」
「あら~、どうしましょ。」
「まぁお役人様、いい飲みっぷり。猪口が空じゃありませんか。」
 隣で酌をしていた孝市郎の母が、割って入った。
 吉田は空の猪口を孝市郎の母に差し出すと、母はさっと注いだ。
 注がれた酒をぐっと飲み干す。
 にやりと笑う。
「うむ、まずい。」
 部下達がどっと笑う。
「あらいやですわ、お役人様。」
「いや、先程の娘が注いだ酒に劣る。まこと、美しい娘の注いだ酒はうまい。河野殿も比べてみるといい。」
 もう一人の出役、河野啓助に話を振る。
「吉田殿、酔っておられるな。」
「酔うておるよ。さぁ、娘、ぼうっとせず早う河野殿に注げ。」
「はい、河野様ただいま。」
「いや、いいのだよ。」
 手でさえぎり、手酌で猪口に注いだ。
「河野殿は、生真面目でござるなぁ。」
「吉田殿、手前は酒食の供応はともかく、女たちに酌をさせるのはどうも。」
「何を申されるか。こうやって、手代や道案内を楽しませ、英気を養わせ、明日からの職務に励ませる。人を使う要領ぞ。このくらい無いとあの者達も草臥れるばかりで働くこともできぬようになろうよ。」
 飲み干した後の猪口に酒が注がせる。
「ほれ、娘。河野殿にはいいから、ほかの者に注いで回れ。そちらの方から順にな。」
 吉田が指示した先には、河野の道案内、大胡宿の軍吉がいる。道案内とは、幕府から禄を支給される身分ではないが、地元の有力者で多くの手下を抱えている者である。彼らの協力なくして動かせる部下を持たない関東取締役出役は捕り物や賭場の摘発などできない。
 その軍吉がこっちに来いと言わんばかりに猪口を掲げた。
「はい。」
 みよは、ほっとした顔になって吉田から離れた。
「おや、吉田殿、側に置かぬのか。」
「河野殿、それがしの言葉をいちいち額面通りに受け取らんでくれ。あれは戯言。さすがに妾を囲うほどの余裕はないわ。」
  第一、吉田自身は関八州の廻村であちこち回らねばならない。江戸に来られても何もできはしない。
 人生、よく遊び、仕事に手を抜き、賄賂で私腹を肥やし、役得は享受すべし。これが吉田の考えだった。
 ただ、何事もほどほどに。度を越せば身を滅ぼす。賄賂の取り過ぎなどで処罰された者を何人も見ている。同じ轍を踏んでたまるものか。
 みよを美しいとは思うが、手を出さない。容姿を愛で、からかう程度にとどめる。
 吉田は、里芋の田楽をつつき、さらに猪口を開けた。
「どうじゃ河野殿、こうして皆も楽しんだ。明日からもまたよい働きをしてくれるであろうよ。」
「それならよいが。」
 河野の見る前でみよは次々と酌をしていく。軍吉やその手下達の酌が終わり、吉田の道案内、吉十郎に注ごうとしていた。
 河野は吉十郎が、酒を注いでいるみよの美貌に淫猥な視線を絡みつかせるのに嫌な予感を覚えた。
「これ、娘、吉田様が江戸に来ぬかというたが、やめておけ。江戸は遠いぞ。」
「さようでございますね。」
「木崎だっていい所だ。」
 近隣の例幣使街道の宿場の名を出した。
「さようでございますか。」
「そうさ。俺が世話してやるから来い。」
 そう言うや、みよの手を吉十郎は掴んだ。
「お役人様、何をなさいます。」
「世話になる以上は、わかっておろう。取りあえず今宵一夜相手をせい。」
 立ち上がり手を引っ張ってお堂を出ようとする。
「いやっ、お止め下さい。」
「馬鹿者、何をしておるか。やめい。」
「吉田様、固いことは言いっこなしで。」
「その娘は嫌がっておる。止めよ。」
「河野様、私は吉田様の道案内。河野様の言うことを聞く義理はございません。」
 吉十郎は、そのままお堂の外に通じる戸に手をかけようとすると、先に戸が動いた。
 怒りに顔を真っ赤に染めた孝市郎が立っていた。
「なんじゃ、どけ小僧。ぶっと……」
 全てを言い切る前に孝市郎の拳が顎にさく裂していた。情けなくも腰から倒れる。
 みよの手から吉十郎の手が離れる。孝市郎は、背中にみよを隠した。
「小僧、俺に喧嘩を売る気かい?」
「おう。」
「吉十郎さんに喧嘩売るたぁいい度胸だ。」
「一人で何ができるか。」
「こちらは三人……。」
 言い終える前に孝市郎は、吉十郎配下の岡っ引きの顔面に拳を叩き込んでいた。殴られた岡っ引きは鼻血をまき散らしながら床に倒れる。
「御託はいい。てめえらもやる気ならかかってこい。」
「ちょっと、孝市郎。」
「みよ、お前は隠れてろ。秀然や穎悟さんがあっちの部屋にいる。」
「そうじゃなくて。」
「おみよさん、こちらに。」
 聞きなれた秀然の声のする方を見ると、最近寺に来ている大男と秀然、治郎がいた。
「お嬢ちゃん、秀然と一緒に隠れていなさい。悪いようにはしないから。」
 大男がにこやかな表情で声をかけてきた。
「孝市郎の事お願いします。」
「お願いされやした。
 さ、秀然さん、こちらのお嬢ちゃんを頼みます。」
「はい、みよさん。隠れていましょう。」
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