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課題6:僕とボク、俺と私
2:早くに目を覚ました■■は。
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部屋を出ると、キッチン前の椅子に知らない少女が座っていた。
長い金髪に琥珀色の瞳。ブラウスに緑のスカート。見覚えは……いや、見たことだけは、ある。夜の街でテオと一緒に居た少女だ。
どうしてここに彼女が居るのか。いや、それよりしきちゃんは――。
思考が彼女から離れたその瞬間。
腹部に殴られたような衝撃が走った。
一呼吸遅れて、焼けるような痛さも襲う。
「な……」
手を当てる。硬く冷たい何かに触れた。生暖かい液体が服に滲む。
視線を下ろすと、そこには一本の包丁が深く刺さっていた。
「……」
無言で包丁を抜く。抜いた途端に血が一気に服を濡らす。
べちゃべちゃと温かく濡れた服が気持ち悪いし、傷は痛い。けれどもこの程度の傷なら、まだなんとかなる。とりあえず血を止める。
傷の手当は後回し。先に解決すべきは、あの少女だ。
「君……どうしてここに、居るの?」
「あら。やっぱり包丁一本じゃ駄目ね」
彼女は僕の質問をきれいに無視して、思案するように視線を逸らした。
「やっぱり――数に物言わせないと駄目かしら」
「ねえ、質問に……っ!?」
少女の目が僕を冷たく射貫いた。純粋な殺意に言葉が詰まる。
その周りに、ポット、ナイフ、ハサミまで。周囲のあらゆる刃物や雑貨が浮く。
その全てが僕への敵意を持って、刃先を向ける。
「貴方に答える義理はないけど、挨拶とお礼くらいはするのが礼儀ね」
そう呟いて、彼女は口の端を上げて笑った。
それは花のようで、奥に何かを秘めた笑顔。
「はじめまして。ありがとう。――それじゃあ、さようなら」
すいと動いた指が僕を示すと、それに従うように、浮いていた物が次々に飛んでくる。
「っ!」
咄嗟に影を盾にして、手にある包丁で弾くけど、圧倒的な物量に勝てない。
重たい物はその重量をもって襲いかかり、刃物は次々に僕の身体へと突き刺さる。
影のコウモリが霧散する。勢いと数に押されて足がふらつく。弾いた拍子に手から包丁が滑り落ちた。ドアノブを掴んで、倒れるのは堪えるけど。
「ぐ……」
さすがに、耐えきれない。
骨が何カ所かやられている気がするし、庇おうとした腕にもミキサーの替え刃が刺さっている。身体をなんとか支えてるドアノブは、血で滑りそうだ。
力が抜ける。膝から崩れ落ちる。座り込むだけになんとか留めて――僕はやっと、床に倒れ伏したしきちゃんに気付いた。
髪に血がついている。これも彼女の仕業か。
「し、きちゃ……」
「あら。そんな状態なのに彼女の心配なんて。紳士ね、と言っておこうかしら」
睨むと同時に、視線で彼女の動きを止める。焦点が合わない。うまくいかない。彼女にも効いた様子はなく、煩わしげに僕の視線を払ったのが見えた。
「彼女に、なにを……した」
ああ。自分の声も遠い。倒れるのは堪えているけれど、痛みが尋常じゃない。血が止まらない。止めきれない。
少女は小さく溜息をついたようだった。
「邪魔だったの。貴方に恨みはあるけど人間の子に罪はないから。殺してはないわよ」
死んでない。彼女の言葉を全て信じる訳じゃないけど、その一言に安堵する。
そして、彼女の勘違いを、切れ切れの呼吸で笑う。
「ざん、ねん……彼女は、違うよ」
「え?」
「うちの……座敷童、だか、ら……」
「ざしきわらし?」
少女は首を傾げる。
何かしらそれ、と言う声が聞こえた。
が、僕にはもう答えるだけの力はなかった。
手が、ドアノブから離れる。
頭が、意識が。視界が霞む。寒い。
そして僕は、そのまま暗闇の底へ落ちていった。
□ ■ □
目を覚ました。
カーテンの隙間からは朝日。ドアの向こうには誰かが動く気配。
なんだか良い匂いも漂ってくる。
「あ、れ……?」
なんだかお腹が痛いような気がする。さすってみたけど何もない。筋肉のつかない腹をさすっていると、匂いに釣られた身体が空腹感を訴えた。
枕元の目覚まし時計を手探りで取って、時間を確認する。
「……7時前、か」
不思議な夢を見たような気がした。
内容はうまく思い出せない。
誰かが笑ってるような。ずっと誰かを探してるような。
なんだか痛くて。苦しくて。寒くて。寂しいような。
空っぽの何かが縁だけ残して消えたような、もやもやと残る夢。
なんだかもどかしいけど、思い出せないものは仕方ない。
夢は記憶の整理だとも言う。きっと、記憶の何かが片付けられたのだろう。
いいや、起きよう。
ベッドから抜け出すと、思ったより身体が軽かった。ダルさはあるけど、今日一日のんびりするには問題ない。
少しなら散歩に行ってもいいな、なんて思いながら着替えてドアを開けると。
「あ。おはよう! ご飯できてるよ」
元気よく響く、聞き慣れない少女の……。
――。
いつもと変わらない元気な声が飛んできた。
「ああ……おはよう。今日も元気だね」
金色の髪を背中に揺らした少女。エプロンをつけて、機嫌良く台所に立っている。
漂うのはパンが焼ける匂い。ドアの向こうに居た時は、何か違った気がするけれど――きっと気のせいだ。どうやら頭はまだまだ寝ぼけているらしい。失敗してるぞ記憶の整理。
彼女はこっちのリアクションにも機嫌よさげにしている。
「調子はどう? 疲れてない? 今朝はピザトーストにしてみたの」
「うん。調子は……」
いつも通り、だと思う。何かが引っかかるけど、楽だと思う。そんな答えは、あくびでふわふわとした言葉になっただけだった。
「あー、また夜更かししてたでしょ。ダメよ? 太陽に慣れないと」
台所を通り越して洗面所へ向かおうとすると、いつもの小言が飛んできた。
「分かってるよ。昨夜はちょっとレポート残ってて」
「まったく。お勉強もいいけど、身体、大事にしてよね?」
「うん……分かってる」
そんな言葉を残して洗面所へ。
顔を洗って。
顔を上げて。
鏡に映った自分に違和感を覚えた。
――あれ?
俺は、こんな青い瞳だったっけ。
僕は。こんな黒い髪だっけ。
俺は……こんな、顔だったっけ?
いや。そもそも。
■■は――誰だっけ。
「いや、いやいやいや……」
タオルで顔を拭いて、鏡の自分と向かい合う。
寝ぼけてるにも程がある。いつもと変わらない顔じゃないか。
長くなってきた黒い髪。
前髪から覗く、少し垂れた青い瞳。
日に焼けにくい白い肌。
ほら、いつもと変わらない。
けど。さっきのなんだかもやっとした夢が、わずかに形を持ったような気もした。
目が霞む。水が入ったのだろうか。
もう一度顔を洗ってタオルで拭くと、鏡に映った姿はまた違うものだった。
髪は灰色で。赤くて。黒くて。
目は髪に隠れて見えなくて。青くて。深い茶色で。
肌は不健康そうに青白く。日焼けとは縁遠い白さ――。
目眩がした。洗面台に手をつく。頭の中で情報がかき混ぜられているようだ。
誰かの生い立ち。知ってる場所、夢で見た家、煤の匂い。新聞記事。パンの香り。食堂のお弁当。友人。石畳。学校。教会の庭。星空。冴えた夜の公園……。
スライドのように現れては消え、視界をかすめて去っていく。
それはとても。
そう、とても、不快。
不快で仕方なくて。
それをただぶつけるように鏡を殴りつけた。
「――まったく滑稽だね」
顔を上げると、鏡の中の自分が笑っていた。
いや。声も表情も分からない。でも、笑っている。そんな気がした。
拳は添えられた手に止められている。鏡にはヒビひとつ入っていない。
「……は?」
困惑したまま瞬きをすると、鏡の中の自分はようやく変化を止めた。
灰色の髪の青年だった。
深い茶色の瞳にある感情は呆れ。哀れみ――いや、軽蔑だろうか。
そんな感情を隠しもしない目を伏せ、彼は溜息をつく。
「君。私にあれだけ啖呵を切っておいて、こうもあっさり閉じ込められるなんて。情けないとは思わないのかい?」
「……?」
「おっと。その表情。本当に忘れてしまっているのか?」
忘れた? 何を。
口に出さずとも、その疑問は彼に届くらしい。「何を、とは」と、呆れたような呟きが漏れた。
「本当に情けないな。一瞬でも様子を見ようと思った私が馬鹿だったのかもしれない」
はあ、と彼は小さく溜息をつく。
「覚えているはずだけどね。君は。私を。彼女を。君自身を――」
「何を……」
彼が片目だけでこちらを見る。
「そうか、分からないならば結構だ。私は忠告したし、二度と言う心算も無いからね」
彼の指先が、己の目に触れる。
自分の濡れた指も、同じように動く。
指に残った雫が、頬を伝う。
「やはり初志貫徹というのは大事だね。うん。さあ、目を閉じて」
指が触れる。言われるままに瞼が重くなる。眠気のように、意識も思考も揺らぐ。
「君は本当に油断しすぎた。私の言葉だけでなく己の言葉すら忘れるとは」
瞼が落ちて、声だけが頭の中に響く。
水に酔うような。涼しげだけれども、人を惑わす。自信を惑わすそんな声。
立っていられない。
「うん。思い出さなくていい。目も覚まさなくていい。万が一目覚めたとしても。もう――」
声が染み込む。思わず床に座り込む。
ただ、このまま声に従うのは嫌だという感情だけが、眩む意識に抵抗する。
僕は。俺は。なんだっけ。
考えろ。思い出せ。どんな小さな欠片でも良いから。
霧と霞の街。
誰も居ない離れ。
余っている部屋。
不機嫌そうに新聞を読む横顔。
タイを引かれて間近に見た恐怖。
生き物の気配がない庭。
それは、それは――。
ぐちゃぐちゃとした意識が、すうっと平らになっていく気がする。
ああ、だめだ。もう少しな気がするのに。手が届かない。
そのまま――。
「ねー。テオ。まさかそこで寝てるの? ごはん冷めちゃうわよ?」
「――!」
遠くから飛んできたその言葉で、意識がわずかに晴れた。
そうそう。そうだよ。何を忘れてるのさ。
ノイスと二人で日本に来て、長く暮らしてるというのに忘れるなんて。
「――わす、れる?」
いや。違う。まだ、大切な何かを忘れてる気がする。瞬きをして、意識のもやを払う。何かを探るように動かした手が、腹部に触れる。痛みも何もないけれど、そこに何かがあるような。いや、何もない。ならば、一体何を……。
「もー。テオったら!」
突然、場違いな声がひょこりと洗面所に顔を出した。
ふわりと流れる長い金髪。琥珀色の瞳。薔薇色の頬の少女。
ああ、彼女は――。
名前が、出てこなかった。
長い金髪に琥珀色の瞳。ブラウスに緑のスカート。見覚えは……いや、見たことだけは、ある。夜の街でテオと一緒に居た少女だ。
どうしてここに彼女が居るのか。いや、それよりしきちゃんは――。
思考が彼女から離れたその瞬間。
腹部に殴られたような衝撃が走った。
一呼吸遅れて、焼けるような痛さも襲う。
「な……」
手を当てる。硬く冷たい何かに触れた。生暖かい液体が服に滲む。
視線を下ろすと、そこには一本の包丁が深く刺さっていた。
「……」
無言で包丁を抜く。抜いた途端に血が一気に服を濡らす。
べちゃべちゃと温かく濡れた服が気持ち悪いし、傷は痛い。けれどもこの程度の傷なら、まだなんとかなる。とりあえず血を止める。
傷の手当は後回し。先に解決すべきは、あの少女だ。
「君……どうしてここに、居るの?」
「あら。やっぱり包丁一本じゃ駄目ね」
彼女は僕の質問をきれいに無視して、思案するように視線を逸らした。
「やっぱり――数に物言わせないと駄目かしら」
「ねえ、質問に……っ!?」
少女の目が僕を冷たく射貫いた。純粋な殺意に言葉が詰まる。
その周りに、ポット、ナイフ、ハサミまで。周囲のあらゆる刃物や雑貨が浮く。
その全てが僕への敵意を持って、刃先を向ける。
「貴方に答える義理はないけど、挨拶とお礼くらいはするのが礼儀ね」
そう呟いて、彼女は口の端を上げて笑った。
それは花のようで、奥に何かを秘めた笑顔。
「はじめまして。ありがとう。――それじゃあ、さようなら」
すいと動いた指が僕を示すと、それに従うように、浮いていた物が次々に飛んでくる。
「っ!」
咄嗟に影を盾にして、手にある包丁で弾くけど、圧倒的な物量に勝てない。
重たい物はその重量をもって襲いかかり、刃物は次々に僕の身体へと突き刺さる。
影のコウモリが霧散する。勢いと数に押されて足がふらつく。弾いた拍子に手から包丁が滑り落ちた。ドアノブを掴んで、倒れるのは堪えるけど。
「ぐ……」
さすがに、耐えきれない。
骨が何カ所かやられている気がするし、庇おうとした腕にもミキサーの替え刃が刺さっている。身体をなんとか支えてるドアノブは、血で滑りそうだ。
力が抜ける。膝から崩れ落ちる。座り込むだけになんとか留めて――僕はやっと、床に倒れ伏したしきちゃんに気付いた。
髪に血がついている。これも彼女の仕業か。
「し、きちゃ……」
「あら。そんな状態なのに彼女の心配なんて。紳士ね、と言っておこうかしら」
睨むと同時に、視線で彼女の動きを止める。焦点が合わない。うまくいかない。彼女にも効いた様子はなく、煩わしげに僕の視線を払ったのが見えた。
「彼女に、なにを……した」
ああ。自分の声も遠い。倒れるのは堪えているけれど、痛みが尋常じゃない。血が止まらない。止めきれない。
少女は小さく溜息をついたようだった。
「邪魔だったの。貴方に恨みはあるけど人間の子に罪はないから。殺してはないわよ」
死んでない。彼女の言葉を全て信じる訳じゃないけど、その一言に安堵する。
そして、彼女の勘違いを、切れ切れの呼吸で笑う。
「ざん、ねん……彼女は、違うよ」
「え?」
「うちの……座敷童、だか、ら……」
「ざしきわらし?」
少女は首を傾げる。
何かしらそれ、と言う声が聞こえた。
が、僕にはもう答えるだけの力はなかった。
手が、ドアノブから離れる。
頭が、意識が。視界が霞む。寒い。
そして僕は、そのまま暗闇の底へ落ちていった。
□ ■ □
目を覚ました。
カーテンの隙間からは朝日。ドアの向こうには誰かが動く気配。
なんだか良い匂いも漂ってくる。
「あ、れ……?」
なんだかお腹が痛いような気がする。さすってみたけど何もない。筋肉のつかない腹をさすっていると、匂いに釣られた身体が空腹感を訴えた。
枕元の目覚まし時計を手探りで取って、時間を確認する。
「……7時前、か」
不思議な夢を見たような気がした。
内容はうまく思い出せない。
誰かが笑ってるような。ずっと誰かを探してるような。
なんだか痛くて。苦しくて。寒くて。寂しいような。
空っぽの何かが縁だけ残して消えたような、もやもやと残る夢。
なんだかもどかしいけど、思い出せないものは仕方ない。
夢は記憶の整理だとも言う。きっと、記憶の何かが片付けられたのだろう。
いいや、起きよう。
ベッドから抜け出すと、思ったより身体が軽かった。ダルさはあるけど、今日一日のんびりするには問題ない。
少しなら散歩に行ってもいいな、なんて思いながら着替えてドアを開けると。
「あ。おはよう! ご飯できてるよ」
元気よく響く、聞き慣れない少女の……。
――。
いつもと変わらない元気な声が飛んできた。
「ああ……おはよう。今日も元気だね」
金色の髪を背中に揺らした少女。エプロンをつけて、機嫌良く台所に立っている。
漂うのはパンが焼ける匂い。ドアの向こうに居た時は、何か違った気がするけれど――きっと気のせいだ。どうやら頭はまだまだ寝ぼけているらしい。失敗してるぞ記憶の整理。
彼女はこっちのリアクションにも機嫌よさげにしている。
「調子はどう? 疲れてない? 今朝はピザトーストにしてみたの」
「うん。調子は……」
いつも通り、だと思う。何かが引っかかるけど、楽だと思う。そんな答えは、あくびでふわふわとした言葉になっただけだった。
「あー、また夜更かししてたでしょ。ダメよ? 太陽に慣れないと」
台所を通り越して洗面所へ向かおうとすると、いつもの小言が飛んできた。
「分かってるよ。昨夜はちょっとレポート残ってて」
「まったく。お勉強もいいけど、身体、大事にしてよね?」
「うん……分かってる」
そんな言葉を残して洗面所へ。
顔を洗って。
顔を上げて。
鏡に映った自分に違和感を覚えた。
――あれ?
俺は、こんな青い瞳だったっけ。
僕は。こんな黒い髪だっけ。
俺は……こんな、顔だったっけ?
いや。そもそも。
■■は――誰だっけ。
「いや、いやいやいや……」
タオルで顔を拭いて、鏡の自分と向かい合う。
寝ぼけてるにも程がある。いつもと変わらない顔じゃないか。
長くなってきた黒い髪。
前髪から覗く、少し垂れた青い瞳。
日に焼けにくい白い肌。
ほら、いつもと変わらない。
けど。さっきのなんだかもやっとした夢が、わずかに形を持ったような気もした。
目が霞む。水が入ったのだろうか。
もう一度顔を洗ってタオルで拭くと、鏡に映った姿はまた違うものだった。
髪は灰色で。赤くて。黒くて。
目は髪に隠れて見えなくて。青くて。深い茶色で。
肌は不健康そうに青白く。日焼けとは縁遠い白さ――。
目眩がした。洗面台に手をつく。頭の中で情報がかき混ぜられているようだ。
誰かの生い立ち。知ってる場所、夢で見た家、煤の匂い。新聞記事。パンの香り。食堂のお弁当。友人。石畳。学校。教会の庭。星空。冴えた夜の公園……。
スライドのように現れては消え、視界をかすめて去っていく。
それはとても。
そう、とても、不快。
不快で仕方なくて。
それをただぶつけるように鏡を殴りつけた。
「――まったく滑稽だね」
顔を上げると、鏡の中の自分が笑っていた。
いや。声も表情も分からない。でも、笑っている。そんな気がした。
拳は添えられた手に止められている。鏡にはヒビひとつ入っていない。
「……は?」
困惑したまま瞬きをすると、鏡の中の自分はようやく変化を止めた。
灰色の髪の青年だった。
深い茶色の瞳にある感情は呆れ。哀れみ――いや、軽蔑だろうか。
そんな感情を隠しもしない目を伏せ、彼は溜息をつく。
「君。私にあれだけ啖呵を切っておいて、こうもあっさり閉じ込められるなんて。情けないとは思わないのかい?」
「……?」
「おっと。その表情。本当に忘れてしまっているのか?」
忘れた? 何を。
口に出さずとも、その疑問は彼に届くらしい。「何を、とは」と、呆れたような呟きが漏れた。
「本当に情けないな。一瞬でも様子を見ようと思った私が馬鹿だったのかもしれない」
はあ、と彼は小さく溜息をつく。
「覚えているはずだけどね。君は。私を。彼女を。君自身を――」
「何を……」
彼が片目だけでこちらを見る。
「そうか、分からないならば結構だ。私は忠告したし、二度と言う心算も無いからね」
彼の指先が、己の目に触れる。
自分の濡れた指も、同じように動く。
指に残った雫が、頬を伝う。
「やはり初志貫徹というのは大事だね。うん。さあ、目を閉じて」
指が触れる。言われるままに瞼が重くなる。眠気のように、意識も思考も揺らぐ。
「君は本当に油断しすぎた。私の言葉だけでなく己の言葉すら忘れるとは」
瞼が落ちて、声だけが頭の中に響く。
水に酔うような。涼しげだけれども、人を惑わす。自信を惑わすそんな声。
立っていられない。
「うん。思い出さなくていい。目も覚まさなくていい。万が一目覚めたとしても。もう――」
声が染み込む。思わず床に座り込む。
ただ、このまま声に従うのは嫌だという感情だけが、眩む意識に抵抗する。
僕は。俺は。なんだっけ。
考えろ。思い出せ。どんな小さな欠片でも良いから。
霧と霞の街。
誰も居ない離れ。
余っている部屋。
不機嫌そうに新聞を読む横顔。
タイを引かれて間近に見た恐怖。
生き物の気配がない庭。
それは、それは――。
ぐちゃぐちゃとした意識が、すうっと平らになっていく気がする。
ああ、だめだ。もう少しな気がするのに。手が届かない。
そのまま――。
「ねー。テオ。まさかそこで寝てるの? ごはん冷めちゃうわよ?」
「――!」
遠くから飛んできたその言葉で、意識がわずかに晴れた。
そうそう。そうだよ。何を忘れてるのさ。
ノイスと二人で日本に来て、長く暮らしてるというのに忘れるなんて。
「――わす、れる?」
いや。違う。まだ、大切な何かを忘れてる気がする。瞬きをして、意識のもやを払う。何かを探るように動かした手が、腹部に触れる。痛みも何もないけれど、そこに何かがあるような。いや、何もない。ならば、一体何を……。
「もー。テオったら!」
突然、場違いな声がひょこりと洗面所に顔を出した。
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