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終
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10
眠りが浅い。
遅々として原稿も進まず、もともとロースターターな僕だけど、それとは違う気怠さがある。鬱々としてしまうのは、ここのところ青い空を見ていないせいだろうか。
晴天では陽の光が眩しくて目を逸らし、曇天では陽の光を求めて視線が惑うくせに。
僕はなにを欲しているのだろう?
ウイークリーマンション暮らしも三週間目に突入する。しばらく独りになれば答えを見つけられるかもしれないと考えていたのに浅はかだった。
生活は乱れる一方で、独り寝の夜のほうが数えやすい。
正樹とも一度逢っている。……思えば、彼女と逢ったのが失敗だったのかもしれない。正樹を抱いているときに、疎遠にならずにいた理由がわかってしまったのだ。賢くて強く泣かない性格と恋人であっても深入りしない程よい距離感。それに、独特のリズムを奏でる話し方。すべてをカノに重ねていた。声を嗄らすほどにあえぐ正樹を抱きながら、本当は誰を抱いていたのだろう? カノか、それとも……。
なにももってはいなかった高校生のころ。
あのころとは違うもの……煙草の匂い、女の残り香、高級な酒の味。札とカードがびっしりとつまった財布の手触り。望んで手に入れた仕事、家と車の鍵。
僕の周りには増えたものばかりなのに、なにももっていなかったころよりも確実になにかが減っていく。
窓の外は、どんよりと雲が垂れこめている。また今日も曇りなのかと想いながら、そして、曇ってしまったのかと想いながら時計に目線を這わせると、針は八時を指していた。
そろそろ春乃は大学に行く時間だろう。こちらに持ってきていたほとんどの服をクリーニングに出してしまっているので、明後日の打ち合わせに着ていく服を見つくろいに戻らねばならない。それを口実に春乃と外食でもと考えもしたのだが、彼女のケータイ番号とメールアドレスは訊かないままとなっていた。こんなとき、メールの便利さを痛感する。アドレスさえ知っていれば気安く誘うこともできただろうに。固定のほうに電話をしようとして何度かケータイのフリップを開いたが、ボタンを押すことはできなかった。
僕は小さく溜め息をついて、ウイークリーマンションのドアを開ける。通りに出ると、アスファルトから雨が降る前の、独特の匂いが立ちのぼっていた。
書斎の前に立つと、階上に人の気配があった。身構える間もなく、階段を下りる忙しない足音が背後で響く。ぎょっとして振り返ると、そこには息をはずませた春乃がいた。メゾネットでうたた寝でもしていたのか、頬にくっきりと赤い痕が残っている。
「春乃……大学は?」
ドアノブに伸ばしかけていた手を戻し、彼女へと向きなおる。
春乃は二度ほど目をまたたいたあとで大きく息を吸いこんだ。
「どこに行ってたんですか?」
「どこって……」
デニムのポケットを探り、つかんだものを眼前に差しだしてくる。
「こんな置き手紙だけじゃ心配するじゃないですか」
「心配してくれたのか?」
「当たり前です。ふいといなくなってから何日経ったと思ってるんです? 二週間ですよ。せめて連絡くらいくれてもいいじゃないですか」
僕は言葉を失った。
春乃の口調は責めるふうではなかったが、わけもなく苦いものが僕の胸をうずかせる。呼吸が乱れてえずきそうになる。
なんだこの感情は?
「そうやって貴方は逃げて」
逃げた? 僕が?
「向き合う努力をしない。時間が経てばどうにかなると逃げてばかりいる」
なにから逃げたというのだ?
「母のときだってそうでしょう。貴方はおいていかれる者の気持ちを知ろうともしない」
「違うッ!」
彼女のセリフにかぶせるように僕は怒鳴っていた。
怒声をぶつけられた春乃は肩を揺らして怯えたように目を瞠る。
「……ああ、ごめん。違うんだ。俺は、ただ……」
なにから話せばいいだろう。どうしたら春乃にわかってもらえるだろうか。
僕はただ、これからの春乃のことを考えようとして独りになりたかった。もちろん、仕事が手につかなかったこともあるが。僕の稼ぎで彼女を支えて将来を明るいものにしてやりたかったのに、なんだか気が散って、おまけに雁字搦めになってしまった。
いや、言い訳に過ぎない。
これでは、しっくりこない。
「……ごめん、春乃」
「なんで……」
俯き口唇を噛み締める情けない大人に、春乃は声を振り絞るようにしてとつとつと語りかける。
「なんで謝るんですか? ここは貴方の家ですよ。私が気に入らないなら、そう言えばいいでしょう。迷惑だと追い出せば済むことでしょう」
「……そんなことはないよ」
春乃がいつか出ていくことを想えば、僕が出ていくほうがましだ。そう想ったのだ。独りおいていかれるのが怖くて、あのときのカノのように……。
春乃の言うとおりだ。僕はまた、向き合うことから逃げたのかもしれない。
「遠回しに避けられるくらいなら、私が出ていきますから。大学も夏季休暇に入りますし……。どうか、ここに戻ってきてください」
「出ていくなんて……そんなこと、しなくていいんだ」
そこで顔を上げた僕はフリーズした。春乃の色素の薄い瞳が潤んでいる。睫に絡む涙は一回でもまたたけば落ちそうだがしかし、滴はこぼれることはなかった。
僕は、春乃を見下ろした。
春乃が僕を見上げている。
「ごめん、俺が悪かった。仕事が忙しかったのは嘘じゃないんだ、信じてほしい。だから、出ていく必要もない。俺も、今日でウイークリーマンションを引き払うから」
春乃が、じっと僕を見つめている。見透かされたように感じて、僕の身体はすくんでしまう。けれど、もういいのだ。
ああ、カノ……やっとわかったよ。
僕の周りにあったものは減ったのではなく、心に吸収されたということが。
そうして僕らは、大人になったということも。
ウイークリーマンションにとんぼ返りするついでに春乃を大学まで送っていった。
「今夜、話をしよう」
彼女はなにか言いかけたが、「はい」とだけ答えて車から降りた。せめて姿が消えるまでと追っていると、一人の男子学生が春乃に近づいて親しげに話しはじめる。先ほど、彼女と対峙したときに感じたうずきが胸を駆けていった。
なにかを懸命にこらえて保たれている均衡は、いずれ崩れる。互いを壊してしまう。若かった、僕とカノのように。訊くこともできずに離れることしかできなかった、あのころ。でも今は、ゆく道はほかにもあると学んだのだ。
気をとりなおしてハンドルを握ると同時、胸ポケットのケータイが着信する。探偵からだった。
「例の件、最終報告ができますが」
ケータイを持つ手に汗が滲んだ。持ち替えて、シャツで汗を拭う。
「そちらにお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「今から出てしまうんですよ」
どこかで待ち合わせでも、と言いかける僕の言葉を引きとるようにして探偵は言った。
「お急ぎでしたら、事務所の者に報告書を預けていきますが。前回のように、お渡しできないものではないので」
ならばと僕は了解して、探偵事務所へ車を向けた。
助手席に放りだしたままの封筒をにらんだまま僕は、車から降りることができずにいた。
探偵事務所で渡されたそれは厳重に封がしてあって、開けるのに苦労したのは、ほんの数時間前のこと。
入っていたのは、カノと付き合いのあったA氏の証言と看護師の証言をまとめたものだった。そして、もう一枚。それには看護師のものと覚しき走り書きがあり、図説をわかりやすくしてくれたのだろうが……、僕はそろそろと腕を伸ばし再び封筒を手にとった。
引き出されたA4用紙に記されているのは<メンデルの法則>。中学の理科の授業で習ったことがある。この法則は人の血液型をABO式で表現するのにも応用がきく。専門知識のない素人であっても両親の遺伝子型の組み合わせで子供の血液型を知ることができる。
おおよその血縁関係が理解できるのだ。
僕は何度も読みなおし、何度も考えた。一縷の望みにすがっていたのに、血という名の毒は、どこへ導こうとしているのだろうか……。
僕は用紙を封筒にしまうと、そっとダッシュボードに入れた。
ウイークリーマンションから急いで持ちだした荷物を抱え、やっとの想いで地下駐車場に降り立つ。当てのないさすらい人のようにエレベーターに乗り、廊下を歩く。玄関の鍵を開けると、そこには春乃が立っていた。
ふわりと舞う花の香り――ドアの風圧をそう感じたのは、たった数ヵ月前のことなのに……。
「おかえりなさい」
微笑む春乃につられるようにして僕も笑う。少しだけ、頬が強張った。
「早かったんだな」
「午後の講義が休講になったので」
僕の抱える荷物を半分持って、春乃はリビングに入っていった。いつかの逆だな……そう想ったら、少しだけ、頬が緩んだ。
「な、春乃」
ソファに落ち着くと、あの日と同じ角のソファに春乃が座る。彼女も同じことを考えたのか、くすりと笑った。
とりあえず落ち着こうとして、煙草を取りだす。が、同じようにライターも一度鳴らしただけでは点かなかった。煙草をくわえたままでカチカチとうるさい男を一瞥して、春乃は意志の強そうな口許をほころばせた。
「母が私に暮本さんのことを語ったことはありませんでした」
「え」
やっと煙草に火が点いた。紫煙がきれいな螺旋を描く。
「私の世代では片親なんて珍しいものじゃないんです。離婚、死別、家庭の事情なんてさまざまでしょうけど、みんな結構あっけらかんとしていましたし。そんなものだろうと育った私が、はじめて父のことを訊いたのは小学校にあがるころのことでしたが……そのとき母は、すごく切ない目をして謝ったんです。どうして謝ったのか訊きたかったけど、訊けなくて。以後、私と母の間で、父の話題が出たことはありません」
そこで春乃は思い出したように席を立ち、茶を淹れて戻ってきた。
「母も暮本さんも、私に謝ってばかりいる」
湯呑みを細い指で包んだまま、水面を覗き込むようにしている。吐息で湯気がふわりと揺れたが、彼女の表情は隠さなかった。
「小学校五年生のときだったと記憶していますが、母がなにやら大切そうに抱えている後ろ姿を偶然に目撃してしまって。興味を引かれて、母の留守中に家探しして出てきたのが、暮本さんとの交換日記とアルバムでした。それ以来、母が留守にするたびに日記を読んで、写真を眺めて……。そうこうしているうちに、写真の人が父親なんだろうと勝手に思うようになりました。この男の人が日記の相手の〝ジンヤ〟さんなんだろうと」
憎んだこともある、と春乃は続ける。
「私が高校生になったころから、母は臥せがちになりまして。時折、ベランダから身動きひとつせずに遠くを見つめていました。その視線の遥か先に、母の育った場所があるのだと知ったのは、もっとあとのことですけどね」
僕はわずかに逡巡して、煙草を置いた。
僕らの育った町。僕ら二人の居場所。カノとの思い出はあっても、帰りたいとは思わない場所。戻ったとしても、再生される感情によって疲れてしまうだろう。カノがいないのならば心は折れてしまうから……
「坂道の多い町だった。坂の上から眺める景色は、とても美しくて。四季折々の色が町を染めていた。快晴の風景はもちろん美しかったけど、曇が切れて微かに射し込んでくる光に照らされる町の陰影は、もっと美しくて」
晴れていても、雲っていても。二人並んで見晴るかす町はいつでも輝いて目に映った。
なにもかもがキラキラしていて眩しかった。
ふふっ、と春乃が笑う。母も同じことを言っていました、と。
「春の坂道をもう一度……歩きたいって、母が」
〝春の〟坂道を、肩を並べ手をつないで……。
ああ、そうか。
花乃も、そう想っていたのか。――あのころ僕らは、毎日なにを話していたのだろう。同じものを見て聞いて感じていたのに、そんな些細なことは一切言葉にせずに……。
「母を独りにした暮本さんを恨みもしましたが、それよりも逢ってみたいという気持ちがまさって。話してみたいと強く想うようになりました。それで、私は……」
ひっそりと静まり返った部屋の中。
いつもなら、まだほんのりと明るい夕暮れ時、けれど窓の外は刻一刻と闇に閉ざされていく、そんな時間。
「押しかけてきた私を暮本さんは、なにも聞かずに受け入れてくれたのに。私は、暮本さんにひどいことばかり言って。一方的で申し訳ありませんでした……出ていかなければならないのは私のほうです」
僕は吸い差しをもみ消して立ちあがり、壁際に寄ってライトを点ける。
見下ろす春乃の頬に長い睫が影を落として揺れていた。
「出ていくことはない」
発した言葉には微塵のためらいもなかった。
「でも、私の父親は――」
春乃の語尾をさらうようにして僕は告げる。
「もういいんだ」
彼女の息を呑む音が耳に届く。怯えの混じった息づかいを合図にするかのように、僕はゆっくりと口唇を動かした。
「俺が春乃を引き受ける。だから、どこにも行かなくていいんだよ」
ただ好きではダメなのだ。
人を好きになるというのは、その人の人生を引き受けるのと同じ。刹那の衝動に駆られるだけでなく、過去も、未来も、共にと願って……。
覚悟はある、と重ねて言いかけたところでぽつりとベランダから音がした。
僕も春乃も窓のほうに目を向ける。
最初の雨粒が奏でた音はひどく大きなものに聞こえて雨脚が白金の矢のように映ったが、そのうちに次々と空から落下する滴が、それらを打ち消してしまった。
眠りが浅い。
遅々として原稿も進まず、もともとロースターターな僕だけど、それとは違う気怠さがある。鬱々としてしまうのは、ここのところ青い空を見ていないせいだろうか。
晴天では陽の光が眩しくて目を逸らし、曇天では陽の光を求めて視線が惑うくせに。
僕はなにを欲しているのだろう?
ウイークリーマンション暮らしも三週間目に突入する。しばらく独りになれば答えを見つけられるかもしれないと考えていたのに浅はかだった。
生活は乱れる一方で、独り寝の夜のほうが数えやすい。
正樹とも一度逢っている。……思えば、彼女と逢ったのが失敗だったのかもしれない。正樹を抱いているときに、疎遠にならずにいた理由がわかってしまったのだ。賢くて強く泣かない性格と恋人であっても深入りしない程よい距離感。それに、独特のリズムを奏でる話し方。すべてをカノに重ねていた。声を嗄らすほどにあえぐ正樹を抱きながら、本当は誰を抱いていたのだろう? カノか、それとも……。
なにももってはいなかった高校生のころ。
あのころとは違うもの……煙草の匂い、女の残り香、高級な酒の味。札とカードがびっしりとつまった財布の手触り。望んで手に入れた仕事、家と車の鍵。
僕の周りには増えたものばかりなのに、なにももっていなかったころよりも確実になにかが減っていく。
窓の外は、どんよりと雲が垂れこめている。また今日も曇りなのかと想いながら、そして、曇ってしまったのかと想いながら時計に目線を這わせると、針は八時を指していた。
そろそろ春乃は大学に行く時間だろう。こちらに持ってきていたほとんどの服をクリーニングに出してしまっているので、明後日の打ち合わせに着ていく服を見つくろいに戻らねばならない。それを口実に春乃と外食でもと考えもしたのだが、彼女のケータイ番号とメールアドレスは訊かないままとなっていた。こんなとき、メールの便利さを痛感する。アドレスさえ知っていれば気安く誘うこともできただろうに。固定のほうに電話をしようとして何度かケータイのフリップを開いたが、ボタンを押すことはできなかった。
僕は小さく溜め息をついて、ウイークリーマンションのドアを開ける。通りに出ると、アスファルトから雨が降る前の、独特の匂いが立ちのぼっていた。
書斎の前に立つと、階上に人の気配があった。身構える間もなく、階段を下りる忙しない足音が背後で響く。ぎょっとして振り返ると、そこには息をはずませた春乃がいた。メゾネットでうたた寝でもしていたのか、頬にくっきりと赤い痕が残っている。
「春乃……大学は?」
ドアノブに伸ばしかけていた手を戻し、彼女へと向きなおる。
春乃は二度ほど目をまたたいたあとで大きく息を吸いこんだ。
「どこに行ってたんですか?」
「どこって……」
デニムのポケットを探り、つかんだものを眼前に差しだしてくる。
「こんな置き手紙だけじゃ心配するじゃないですか」
「心配してくれたのか?」
「当たり前です。ふいといなくなってから何日経ったと思ってるんです? 二週間ですよ。せめて連絡くらいくれてもいいじゃないですか」
僕は言葉を失った。
春乃の口調は責めるふうではなかったが、わけもなく苦いものが僕の胸をうずかせる。呼吸が乱れてえずきそうになる。
なんだこの感情は?
「そうやって貴方は逃げて」
逃げた? 僕が?
「向き合う努力をしない。時間が経てばどうにかなると逃げてばかりいる」
なにから逃げたというのだ?
「母のときだってそうでしょう。貴方はおいていかれる者の気持ちを知ろうともしない」
「違うッ!」
彼女のセリフにかぶせるように僕は怒鳴っていた。
怒声をぶつけられた春乃は肩を揺らして怯えたように目を瞠る。
「……ああ、ごめん。違うんだ。俺は、ただ……」
なにから話せばいいだろう。どうしたら春乃にわかってもらえるだろうか。
僕はただ、これからの春乃のことを考えようとして独りになりたかった。もちろん、仕事が手につかなかったこともあるが。僕の稼ぎで彼女を支えて将来を明るいものにしてやりたかったのに、なんだか気が散って、おまけに雁字搦めになってしまった。
いや、言い訳に過ぎない。
これでは、しっくりこない。
「……ごめん、春乃」
「なんで……」
俯き口唇を噛み締める情けない大人に、春乃は声を振り絞るようにしてとつとつと語りかける。
「なんで謝るんですか? ここは貴方の家ですよ。私が気に入らないなら、そう言えばいいでしょう。迷惑だと追い出せば済むことでしょう」
「……そんなことはないよ」
春乃がいつか出ていくことを想えば、僕が出ていくほうがましだ。そう想ったのだ。独りおいていかれるのが怖くて、あのときのカノのように……。
春乃の言うとおりだ。僕はまた、向き合うことから逃げたのかもしれない。
「遠回しに避けられるくらいなら、私が出ていきますから。大学も夏季休暇に入りますし……。どうか、ここに戻ってきてください」
「出ていくなんて……そんなこと、しなくていいんだ」
そこで顔を上げた僕はフリーズした。春乃の色素の薄い瞳が潤んでいる。睫に絡む涙は一回でもまたたけば落ちそうだがしかし、滴はこぼれることはなかった。
僕は、春乃を見下ろした。
春乃が僕を見上げている。
「ごめん、俺が悪かった。仕事が忙しかったのは嘘じゃないんだ、信じてほしい。だから、出ていく必要もない。俺も、今日でウイークリーマンションを引き払うから」
春乃が、じっと僕を見つめている。見透かされたように感じて、僕の身体はすくんでしまう。けれど、もういいのだ。
ああ、カノ……やっとわかったよ。
僕の周りにあったものは減ったのではなく、心に吸収されたということが。
そうして僕らは、大人になったということも。
ウイークリーマンションにとんぼ返りするついでに春乃を大学まで送っていった。
「今夜、話をしよう」
彼女はなにか言いかけたが、「はい」とだけ答えて車から降りた。せめて姿が消えるまでと追っていると、一人の男子学生が春乃に近づいて親しげに話しはじめる。先ほど、彼女と対峙したときに感じたうずきが胸を駆けていった。
なにかを懸命にこらえて保たれている均衡は、いずれ崩れる。互いを壊してしまう。若かった、僕とカノのように。訊くこともできずに離れることしかできなかった、あのころ。でも今は、ゆく道はほかにもあると学んだのだ。
気をとりなおしてハンドルを握ると同時、胸ポケットのケータイが着信する。探偵からだった。
「例の件、最終報告ができますが」
ケータイを持つ手に汗が滲んだ。持ち替えて、シャツで汗を拭う。
「そちらにお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「今から出てしまうんですよ」
どこかで待ち合わせでも、と言いかける僕の言葉を引きとるようにして探偵は言った。
「お急ぎでしたら、事務所の者に報告書を預けていきますが。前回のように、お渡しできないものではないので」
ならばと僕は了解して、探偵事務所へ車を向けた。
助手席に放りだしたままの封筒をにらんだまま僕は、車から降りることができずにいた。
探偵事務所で渡されたそれは厳重に封がしてあって、開けるのに苦労したのは、ほんの数時間前のこと。
入っていたのは、カノと付き合いのあったA氏の証言と看護師の証言をまとめたものだった。そして、もう一枚。それには看護師のものと覚しき走り書きがあり、図説をわかりやすくしてくれたのだろうが……、僕はそろそろと腕を伸ばし再び封筒を手にとった。
引き出されたA4用紙に記されているのは<メンデルの法則>。中学の理科の授業で習ったことがある。この法則は人の血液型をABO式で表現するのにも応用がきく。専門知識のない素人であっても両親の遺伝子型の組み合わせで子供の血液型を知ることができる。
おおよその血縁関係が理解できるのだ。
僕は何度も読みなおし、何度も考えた。一縷の望みにすがっていたのに、血という名の毒は、どこへ導こうとしているのだろうか……。
僕は用紙を封筒にしまうと、そっとダッシュボードに入れた。
ウイークリーマンションから急いで持ちだした荷物を抱え、やっとの想いで地下駐車場に降り立つ。当てのないさすらい人のようにエレベーターに乗り、廊下を歩く。玄関の鍵を開けると、そこには春乃が立っていた。
ふわりと舞う花の香り――ドアの風圧をそう感じたのは、たった数ヵ月前のことなのに……。
「おかえりなさい」
微笑む春乃につられるようにして僕も笑う。少しだけ、頬が強張った。
「早かったんだな」
「午後の講義が休講になったので」
僕の抱える荷物を半分持って、春乃はリビングに入っていった。いつかの逆だな……そう想ったら、少しだけ、頬が緩んだ。
「な、春乃」
ソファに落ち着くと、あの日と同じ角のソファに春乃が座る。彼女も同じことを考えたのか、くすりと笑った。
とりあえず落ち着こうとして、煙草を取りだす。が、同じようにライターも一度鳴らしただけでは点かなかった。煙草をくわえたままでカチカチとうるさい男を一瞥して、春乃は意志の強そうな口許をほころばせた。
「母が私に暮本さんのことを語ったことはありませんでした」
「え」
やっと煙草に火が点いた。紫煙がきれいな螺旋を描く。
「私の世代では片親なんて珍しいものじゃないんです。離婚、死別、家庭の事情なんてさまざまでしょうけど、みんな結構あっけらかんとしていましたし。そんなものだろうと育った私が、はじめて父のことを訊いたのは小学校にあがるころのことでしたが……そのとき母は、すごく切ない目をして謝ったんです。どうして謝ったのか訊きたかったけど、訊けなくて。以後、私と母の間で、父の話題が出たことはありません」
そこで春乃は思い出したように席を立ち、茶を淹れて戻ってきた。
「母も暮本さんも、私に謝ってばかりいる」
湯呑みを細い指で包んだまま、水面を覗き込むようにしている。吐息で湯気がふわりと揺れたが、彼女の表情は隠さなかった。
「小学校五年生のときだったと記憶していますが、母がなにやら大切そうに抱えている後ろ姿を偶然に目撃してしまって。興味を引かれて、母の留守中に家探しして出てきたのが、暮本さんとの交換日記とアルバムでした。それ以来、母が留守にするたびに日記を読んで、写真を眺めて……。そうこうしているうちに、写真の人が父親なんだろうと勝手に思うようになりました。この男の人が日記の相手の〝ジンヤ〟さんなんだろうと」
憎んだこともある、と春乃は続ける。
「私が高校生になったころから、母は臥せがちになりまして。時折、ベランダから身動きひとつせずに遠くを見つめていました。その視線の遥か先に、母の育った場所があるのだと知ったのは、もっとあとのことですけどね」
僕はわずかに逡巡して、煙草を置いた。
僕らの育った町。僕ら二人の居場所。カノとの思い出はあっても、帰りたいとは思わない場所。戻ったとしても、再生される感情によって疲れてしまうだろう。カノがいないのならば心は折れてしまうから……
「坂道の多い町だった。坂の上から眺める景色は、とても美しくて。四季折々の色が町を染めていた。快晴の風景はもちろん美しかったけど、曇が切れて微かに射し込んでくる光に照らされる町の陰影は、もっと美しくて」
晴れていても、雲っていても。二人並んで見晴るかす町はいつでも輝いて目に映った。
なにもかもがキラキラしていて眩しかった。
ふふっ、と春乃が笑う。母も同じことを言っていました、と。
「春の坂道をもう一度……歩きたいって、母が」
〝春の〟坂道を、肩を並べ手をつないで……。
ああ、そうか。
花乃も、そう想っていたのか。――あのころ僕らは、毎日なにを話していたのだろう。同じものを見て聞いて感じていたのに、そんな些細なことは一切言葉にせずに……。
「母を独りにした暮本さんを恨みもしましたが、それよりも逢ってみたいという気持ちがまさって。話してみたいと強く想うようになりました。それで、私は……」
ひっそりと静まり返った部屋の中。
いつもなら、まだほんのりと明るい夕暮れ時、けれど窓の外は刻一刻と闇に閉ざされていく、そんな時間。
「押しかけてきた私を暮本さんは、なにも聞かずに受け入れてくれたのに。私は、暮本さんにひどいことばかり言って。一方的で申し訳ありませんでした……出ていかなければならないのは私のほうです」
僕は吸い差しをもみ消して立ちあがり、壁際に寄ってライトを点ける。
見下ろす春乃の頬に長い睫が影を落として揺れていた。
「出ていくことはない」
発した言葉には微塵のためらいもなかった。
「でも、私の父親は――」
春乃の語尾をさらうようにして僕は告げる。
「もういいんだ」
彼女の息を呑む音が耳に届く。怯えの混じった息づかいを合図にするかのように、僕はゆっくりと口唇を動かした。
「俺が春乃を引き受ける。だから、どこにも行かなくていいんだよ」
ただ好きではダメなのだ。
人を好きになるというのは、その人の人生を引き受けるのと同じ。刹那の衝動に駆られるだけでなく、過去も、未来も、共にと願って……。
覚悟はある、と重ねて言いかけたところでぽつりとベランダから音がした。
僕も春乃も窓のほうに目を向ける。
最初の雨粒が奏でた音はひどく大きなものに聞こえて雨脚が白金の矢のように映ったが、そのうちに次々と空から落下する滴が、それらを打ち消してしまった。
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後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。
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