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ピピ、ピピ、とアラームが鳴り、まだ覚醒しきっていない頭でそのアラームを止める。
まだ朝の五時半だ。陽毬の朝はこの時間から始まる。全ては、自分と姉の弁当を用意するためだ。この時間に起きることには慣れきっている。今は夏も近づいてきていて、陽が昇るのが早いから起きやすい時期ではある。
ベッドから出て、二階にもある洗面台で顔を洗い、自分の部屋に戻って制服に着替える。夏服のブラウスに袖を通すのも、もうすっかり慣れてしまった。冬服を着ていたころが懐かしく思える。
着替えを済ませたら、一階に下りてキッチンに向かう。ほとんど夕食の残り物を詰めるだけなのだが、卵やソーセージを焼いたり、ご飯を詰めたりする作業が残っている。だからわざわざ朝早く起きているのだ。
陽毬が階下に行くと、既に母親は起きているようだった。物音しか聞こえなかったが、一階にいるのは間違いない。それもいつものことなので、陽毬は特に気にしなかった。
キッチンに行くと、四人掛けのダイニングテ―ブルの上に、紙が置かれていた。それは見過ごすことができないものだった。
そう、離婚届だ。父親である晋(すすむ)から、母親である毬子(まりこ)への、最後の手紙。
けれど、陽毬はさほど驚かなかった。ああ、ようやく来たのか、といった程度の認識だった。遅かれ早かれ、この日が来ることは予測していたのだ。
言い争う声が聞こえないということは、晋はもうどこかに行ってしまったのだろう。会社か、愛人の家か、わからないけれど、晋がここにいないのは明白だった。毬子がどこにいるかは定かではないが、物音がするから家にはいるのだろう。
自分には関係のないことだ、と陽毬は思った。どちらが親権を取るのか、それがはっきりするまではどうしようもない。どちらについていくことになるのか、陽毬にはわからなかった。晋が進んで親権を取るようには思えなかったが、陽毬か小毬の片方は晋についていくことになるのだろうと思っていた。
離婚届には手を触れることもなく、陽毬は自分の仕事を進める。自分と小毬は両親の話し合いの結果を待つだけなのだ。それがいつになるのかはわからないけれど、いずれ宣告されることになるだろう。それまで、自分にできることはない。
いつものように弁当作りを始めようとして、キッチンに立つと、包丁が一本足りないことに気づいた。誰かが、おそらくは毬子が使ったのかと思ってシンクを見たが、そこにはない。包丁が一本だけ、どこかに消えてしまっていた。
まあ、どこかにあるのだろう。陽毬は別の包丁を使うことにする。
そこへ、足音が近づいてきた。毬子だろう。足音がキッチンに入ってくるのを聞いて、陽毬は振り返りながら尋ねた。
「お母さん、包丁が一本ないんだけど」
そこで陽毬の言葉は切れた。いや、切るしかなかった。
振り返った先に立っていた毬子の手には、その包丁が握られていたからだ。
「陽毬……陽毬、ごめんね」
ただならぬ様子を察して、陽毬は包丁を置いて毬子に向き直った。毬子の瞳は正気のようで、狂気を孕んでいるようにも思えた。
「なに、お母さん、どうしたの」
「もう生きていけないわ。離婚したら、私は、私は、もう生きていけない」
「お母さん、落ち着いて。どうしたの」
毬子には陽毬の声が届いていないようだった。毬子は握り締めた包丁の先を陽毬に向けて、ふらふらと左右に揺れながら陽毬に近寄ってくる。
「陽毬、お母さんと一緒に死にましょう。もう終わりなのよ、私も、陽毬も、小毬も」
「待って、お母さん。ちょっと、落ち着いて」
陽毬が制止の声を投げかけても、毬子が止まることはない。包丁を構えたまま、じりじりと陽毬に近づいてくる。
どうしたらよいのだろうか。どうするのが正解なのだろうか。陽毬は凶器を持って近づいてくる母親をどうしたらよいのかわからず、キッチンの奥のほうに追いやられていく。逃げ場がなくなり、包丁を持った母親に追い詰められていく。
「お母さん、落ち着いてよ。どうしたの」
「死ぬしかないのよ、みんな、もう、死ぬしかないの。晋さんに見捨てられたんだから」
「何か方法があるかもしれないでしょ。死ぬなんて、そんなこと」
「こうするしかないのよ! 陽毬も、小毬も、私も、死ぬしかないのよ!」
毬子は包丁の切先を陽毬に向けたままじわりじわりと寄ってくる。陽毬はそこで初めて恐怖を覚えた。このままここで殺されてしまうのではないか。そんな思いが頭をよぎった。
嫌だ。死にたくない。こんなところで、死にたくない。
陽毬の頭に浮かんだのは一彦だった。一彦にこの想いを告げることもなく死ぬのか。そんなのは嫌だ。死ぬのなら、せめて一彦に本当の気持ちを伝えてから死にたかった。
けれど、それは許されないのだろう。逃げ場はなく、毬子はまず陽毬を殺そうとしている。無理心中の最初の犠牲者は、自分だ。
殺される。陽毬がそう思った時、玄関のドアが開く音がした。
晋が帰ってきたのかもしれない。離婚届を置いていったけれど、ちゃんと話し合うべきだと思いとどまったのかもしれない。陽毬はその可能性に思い至って、来訪者が助けてくれるのを待った。
しかし毬子は玄関が開いたことに気づいていないようだった。そんな余裕はないのだろう。荒い息をしながら、包丁の先を陽毬に向けて距離を詰めてくる。
早く。早く、来て。陽毬は来訪者に願った。このままでは自分が殺されてしまう。その前に、早く、毬子を止めてほしかった。
来訪者は迷いなくこちらに歩いてくる。キッチンに繋がる扉が開かれる。
そこで、陽毬は自分の目を疑った。
来訪者は一彦だった。学校の制服を着て、右手には鉄パイプを握っていた。毬子も一彦の存在に気づき、振り返って一彦のほうを見た。
「ど、どうして……!」
毬子が驚愕の声を上げた。一彦は無言のまま毬子に近づいていき、鉄パイプを振りかぶった。
ばきっという音がして、それから毬子は床に倒れた。毬子の頭から鮮血が流れ出していく。陽毬はようやく一彦が鉄パイプで毬子を殴ったのだと理解した。毬子が手にしていた包丁がからんと空しい音を立てて床に転がった。
「一彦、どうして……?」
「陽毬。俺は、お前を守りたかった。今回は守れたんだ、よかった」
意味のわからないことを言う一彦の表情は、安堵しているようだった。しかし、目の前で転がって動かない毬子の姿を見て、一彦は自分がやったことの恐ろしさに気づいたようだった。
「あ……あっ、お、俺は、陽毬を、守りたかっただけなんだ。おばさんを殺したいとか、そういうわけじゃなくて」
一彦は言い訳めいたことを陽毬に言う。陽毬はそれを聞いているようで、聞いていなかった。
一彦が毬子を殺してしまった。このままでは、一彦が逮捕される。一彦と離れ離れになってしまう。陽毬の頭に浮かんだのは、母親を喪ったショックよりも、一彦と引き離されてしまうことへの忌避感だった。
どうする。どうすれば、一彦と離れなくて済むのだろう。陽毬は考える。
その時、二階から足音が近づいてきた。こんな時間に小毬が起きてくるだなんて、そんな珍しいことがあるものだろうか。不運が重なっているとしか思えなかった。
「一彦、ここにいて。すぐ戻ってくるから」
陽毬は動揺している一彦にそう言い含めて、キッチンから一階にある両親の寝室へ向かった。ここになら、母親の鞄があると思った。
陽毬の予想は的中して、母親の鞄が床に置かれていた。陽毬は素早い動作でその中から財布を抜き取る。茶色の長財布はブランドの一品で、そんなに安いものではない。
「なあに、陽毬。なんかすごい音がしたけど」
小毬が二階の自室から下りてくる。陽毬は長財布を持ってキッチンへと戻る。
しかし、小毬のほうが数歩早かった。小毬はキッチンに辿り着き、凄惨な現場を目にすることになる。
「え? えっ、なに、これ、どういうこと?」
陽毬は心の中で舌打ちをして、遅れてキッチンへと戻る。キッチンでは、血を流して動かなくなっている毬子と、血が付いた鉄パイプを持ったままの一彦、それを見ている小毬の三人がいた。陽毬は小毬の視線を遮るようにしながら、我を失っている一彦の手を取る。陽毬が一彦の手を取ると、一彦は我に返って陽毬のほうを見た。
「母さん? ねえ、母さん!」
小毬が叫びながら母親に近寄る。母親はぴくりとも動かず、死んでいるのは明白だった。
「俺は……俺はっ、陽毬を、守りたかったんだ」
うわごとのように一彦はその言葉を繰り返す。陽毬は一彦の手を引いて、キッチンを出て行った。一彦が持っていた鉄パイプが床に落ちて、耳障りな音を立てた。
「一彦、しっかりして」
「陽毬、俺は、どうしたらいいんだ。陽毬を守ったけれど、これじゃあ、俺は」
「一彦。いい、今から逃げるの。わたしと一緒に、遠くまで逃げるの」
陽毬が選択したのは、逃亡だった。一彦を失いたくないのなら、逃げるしかなかった。警察の目の届かないところまで、逃げるのだ。そのために、陽毬は金銭が詰まっている母親の財布を奪ったのだ。
「き……救急車、ねえ、陽毬、救急車!」
小毬も気が動転していた。陽毬に縋りつくようにしながら、救急車を呼ぶように訴える。しかし陽毬はその訴えを無視して、一彦の手を引いて玄関に向かった。履き慣れた革靴を履いて、陽毬は一彦と一緒に外に出る。外は何事もなかったかのように静かだった。
「陽毬、なあ、どうするんだ。俺は、俺は、殺したいわけじゃなかった」
「わかってる。わたしを助けたかったんでしょ」
「そうだ。俺は、陽毬を助けたくて、でもあの方法しか見つからなくて」
「一彦、落ち着いて。一彦のおかげでわたしは助かってる。今は、逃げることを考えて」
陽毬は一彦の手を引きながら、この先を考えていた。小毬が救急車を呼べば、誰かが母親を殺したということは明らかになる。警察が動き出すのも時間の問題だ。それよりも早く、警察の包囲網を潜り抜けなければならない。
そんなことが可能なのかどうかは、やってみなければわからない。陽毬は駅に向かって走っていく。どこか遠くへ。警察の目も届かないような遠くへ、行く必要があった。
駅に着き、改札を抜けると、ちょうどよく電車がホームに到着した。陽毬は一彦と一緒にその電車に乗り込む。通勤時間よりは少し早いせいか、電車は空いていた。
走ったせいで荒くなってしまった息を整えながら、陽毬は一彦に尋ねた。
「どうして、わたしがお母さんに殺されるって知ってたの」
知らなければ防ぐことはできなかったはずだ、と陽毬は考えた。知らなければ、あんなにタイミングよく来ることができるはずがない。しかも、一彦は凶器を持ってきているのだ。今日この時間帯に陽毬が毬子に襲われると知らなければできるはずがない。
一彦は少しだけ迷いを見せてから、静かに言った。
「魔女が、俺に言ったんだ」
「魔女?」
「そうだ。俺は、陽毬と小毬が今日おばさんに殺されることを知っていた。無理心中を止めるために、俺は、魔女に願ったんだ。どうにかして陽毬を救わせてくれって」
一彦の説明は簡単には理解できるものではなかった。魔女、と言われても、陽毬には理解しがたい。けれど、知っていなければできないことを一彦はやったのだ。一彦が嘘を言っているとは思えなかった。
「俺は、未来を知っていた。陽毬を助けられなかった未来から、陽毬を助けるために過去に戻ってきたんだ。それで、おばさんを、この手で」
一彦は両手を見つめた。陽毬は電車の音が耳障りに感じた。もっと静かな場所で、一彦が感じているものを分け合いたかった。
「殺すつもりじゃなかった。陽毬を救えれば、それでよかったんだ。でも、俺には、これ以外の方法が見つからなかった」
「そう。助けてくれてありがと、一彦」
「でも俺は、俺はっ、おばさんを殺したんだぞ。それでも許してくれるのか」
陽毬は一彦の身体を抱き締めた。いつもよりも一回りくらい小さいように思えた。
「大丈夫。わたしは、一彦と一緒にいる。最後までずっと」
「陽毬……陽毬っ、俺は」
「お母さんを殺したとしても、一彦は一彦。わたしを守るためだったんでしょう? わたしは一彦のおかげで生きてる。逃げられるだけ逃げてみようよ」
「……陽毬」
一彦は陽毬の背に腕を回し、その細い身体を抱いた。陽毬も、一彦に抱きつく。はたから見ればカップルが愛し合っているようにしか見えなかった。片方が殺人者だと気づく人間はいないだろう。
終点に近づくにつれて、電車の中の人は減っていった。空いた座席に二人で手を繋いで座り、陽毬は一彦の肩にもたれかかった。
「ねえ、一彦」
「なんだよ」
「わたし、一彦のこと、好きなんだよ。ずっと、昔から」
陽毬は小さな声で告白した。一彦は陽毬の肩に手を回して、陽毬を抱き寄せた。
「俺も、好きだよ。陽毬のことが好きだ」
「ふふ。知ってる」
この逃避行がどこまで続くかわからないけれど、確かにそこには幸せな時間が流れていた。
電車が終点に着く。来たこともないような田舎の駅で、二人は手を繋いだまま電車から降りた。一彦は陽毬に手を引かれるようにしながら、駅のホームを後にする。
「なあ陽毬、どこに行くんだ?」
「知らない。どこか、ずっと遠いところ」
「山奥の集落でも目指すか?」
「そうだね。ずっと、ずっと、遠いところに行こ」
二人は駅舎を出て、経路を確認して路線バスに乗った。いちばん遠くまで行ける路線だ。この果てにはどんな景色が待っているのだろう。陽毬は高揚感さえ覚えた。
ほとんど乗客のいないバスに乗って、二人で座席に座る。その間も、陽毬は一彦の手を離さなかった。一彦をここに繋ぎ留めておくための錨のように、陽毬はしっかりと一彦の手を握っていた。
今頃、小毬は何をしているのだろうか。たった一人だけ残された姉のことは心配だった。救急車、それか警察を呼んで、一彦の凶行の後始末をしていることだろう。突然独りにさせられて、困っているかもしれない。
それでも、陽毬と一彦は戻るわけにはいかない。最後まで逃げると決めたのだから。
バスに乗っている間、二人は無言だった。一彦はずっと前を見ていたし、陽毬は窓の外を流れていく風景に目を向けていた。バスはどんどん山奥へと向かっていく。山道を登り、二人を未知の世界へ連れていく。
バスの終点は、何もないところだった。家さえも見当たらない山道が終着駅だった。もう夏も近づいているというのに、ひんやりとした空気が二人を出迎えた。
「行こ、一彦」
「行くって、どこに行くんだよ」
「泊めてくれるところ探さなきゃ。わたしは野宿なんてしたくない」
「そんなところあるのか?」
「民家があればいいんだけど。泊めてくださいってお願いするしかないよね」
陽毬はそう言ってさらに山奥へと足を進めていく。一彦はその背を追った。大した荷物も持ってきていない二人は身軽だった。
山道を少し進むと、民家が点在している集落に辿り着いた。人は住んでいるらしい、ということに陽毬は安堵した。問題は、こんな高校生の二人組を泊めてくれるような物好きがいるかどうかだ。
陽毬は一彦の手を引きながら、人影がないかどうかを確かめる。畑と民家か倉庫しかないような集落だった。人の数は決して多くないだろう、と推測できる。
しばらく歩いていると、ようやく初めての人に出会うことができた。四十代、それか五十代初めくらいの男性だった。二人の姿を見て、ぎょっとしたように驚いていた。男性は農作業の手を止めて、陽毬と一彦に問いかけてきた。
「何しに来たんだ、こんなところまで」
陽毬は答えに窮した。まさか、人を殺して逃げてきましたと言うわけにもいかない。一彦も同じようで、何も答えずに陽毬のほうを見るだけだった。
男性はそれで何かを察したのか、二人に近づいてきた。少なくとも悪い人ではなさそうだ、と陽毬は思い、男性から逃げることはしなかった。
「訳ありか。そんなら、ついてこい」
男性は二人にそう言って、畑から出てどこかへと向かっていく。陽毬と一彦は顔を見合わせて、どうするか無言で確かめあった。その結果、とりあえずその男性についていくことにした。
男性についていくと、大きな屋敷のような家に連れてこられた。この辺りの土地で大きな力を持っている人物の住まいであることは間違いなかった。普通の人が住んでいるような家よりも数倍は大きな家だった。
男性はずかずかと家の敷地の中に入っていき、引き戸の前で呼びかけた。
「トメさん! トメさん、流れ者が来たぞ!」
男性が家の中に向かって大声を出すと、家の引き戸が開いて、高齢の女性が家の中から出てきた。見た目にはかなり年を取った女性だった。
「知っているよ。ようやく来たんだね、陽毬、一彦」
トメさんと呼ばれた高齢の女性は二人の名前を知っていた。陽毬は警戒心をあらわにして、高齢の女性を睨むように見る。
「どうして、わたしたちの名前を知っているんですか」
「魔女から聞いているからね。一彦、お前が時を巻き戻させた魔女から」
魔女。一彦にもう一度姉妹を救うチャンスを与えた存在。簡単には信じがたいその存在がここでも出てきて、陽毬は驚いた。一彦も驚きを隠せない様子だった。
トメは陽毬のほうを見て、言った。
「他に行く場所もないだろう。ここにいればいい。ここなら警察も来ないよ」
「そう……なんですか」
「安心しな、警察が来たって守ってやるよ。ここはあんたたちみたいなはぐれ者を何度も受け入れてきた。村の秩序を乱さないなら、あんたたちの安全は保証するよ」
それは陽毬が願ってもやまない申し出だった。一彦を守るためならば、ここに留まるのが最善であるように思えた。
陽毬は一彦を見た。一彦は、まだ混乱しているのか、態度を決めかねているようだった。
だから、陽毬は一彦の代わりに頷いてみせた。この集落に留まるのだという意思表示を、トメに見せた。
「わかりました。お願いします」
陽毬がそう言うと、トメはにっと笑った。
「いいだろう。今日はあたしの家に泊まりな。明日以降は空き家を与えてやるよ。必要な物は明日以降に揃えていけばいい」
「ありがとうございます。お世話になります」
「よくできたお嬢ちゃんだね。これなら心配はなさそうだ」
トメはそう言って家の中に戻っていく。陽毬と一彦を連れてきた男性も、二人に軽く頭を下げて戻っていった。陽毬は一彦の手を引いて、トメの家の中に入っていった。
「なあ陽毬、大丈夫なのか?」
一彦はまだ疑問を残しているようだった。陽毬は一彦に身を寄せて、小さな声で答えた。
「きっと、大丈夫。トメさんは嘘をついてない。ここなら一彦と一緒にいられるよ」
「俺と、陽毬だけで、暮らしていけるってことか?」
「うん、きっとね。集落の人と仲良くならなくちゃいけないとは思うけど、わたしと一彦だけで暮らしていくことになる」
「そうか。二人だけで、やっていくことになるんだな」
一彦が抱いている感情が何なのか、陽毬には判別できなかった。ただ、一彦はこの状況を受け入れていて、好意的な印象を抱いているのは間違いなかった。
そう、ここからは、二人で生きていくしかないのだ。この集落が魔女によって約束された地であるのなら、二人はここに辿り着く運命だったのだ。陽毬はそう思っていた。
何もかも捨てて、一彦と二人で生きていく。それは陽毬にとって、どこか甘美な誘いのような響きさえ持っていた。
「ねえ、一彦」
「なんだ?」
「二人で生きていこうね。何があっても、二人で」
陽毬がそう言うと、一彦は笑顔を浮かべた。陽毬は久しぶりに見たような気がした。
「おう。ここで、二人で生きていこう」
一彦と陽毬は手を繋いだ。それが二人の絆の証であるかのように。
*
ピピ、ピピ、と目覚まし時計のアラームが鳴る。俺は、寝ぼけながら目覚まし時計を探して、アラームを止める。朝がやってきたのだと理解する。
俺は布団から這い出て、ううんと伸びをした。凝り固まった身体がほぐれていく。幾度か身体を動かして、俺は二階にある自分の部屋から一階にあるダイニングまで下りていく。
キッチンでは、母さんが俺と父さんの朝ご飯を作っていた。今日は白米と味噌汁、それにオムレツとソーセージだった。朝から豪勢なご飯に空腹感が刺激される。
母さんは俺が来たことに気づいて、やわらかく笑った。
「おはよう、陽彦。お父さんと毬華起こしてきてくれる?」
「父さんもまだ起きてないのかよ。寝ぼすけばっかりだな」
「陽彦はちゃんと起きてくれて助かってる。ね、よろしく」
母さんはそう言って朝食を作るほうに戻る。俺はやむなく、父さんと妹の毬華を起こしに行く。まったく、父親なんだからちゃんと起きてほしいよな。
俺が父さんの部屋の障子を開けると、父さんはまだ布団にくるまって寝ていた。毬華もここで寝ていたようで、同じように布団に埋もれて寝ていた。俺が来たことにも二人は気づかず、すうすうと寝息を立てていた。
俺は溜息を吐いて、まず父さんの布団を引き剥がした。
「父さん、朝だぞ」
俺が呼びかけると、父さんはもぞもぞと動いた。
「う……うーん、陽彦、あと五分だけ」
「もう起きろよ。母さんが待ってるし、仕事の時間だろ」
「うう……陽彦は母さんに似て厳しいなあ」
そう言いながらも、父さんは身体を起こそうとしない。剥ぎ取られた布団を探すようにもぞもぞと動いている。
俺はそんな父さんを無視して、妹の毬華を起こしにかかった。毬華も父さんと同じように布団を剥ぎ取ってやると、迷惑そうな目で俺のほうを見た。
「なあに、お兄ちゃん……あたし、まだ寝たいんだけどぉ」
「学校に行く時間だろ。さっさと起きて準備しろよ」
「ええ……あたし、今日休むぅ」
「馬鹿なこと言ってないで起きろよ。母さんが朝ご飯作って待ってるぞ」
毬華はもごもごと文句を言いながらも、父さんが起きたのを見て、自分も起き上がる。父さんが起きていなかったら、毬華も起きていなかっただろう。なんなんだこの親子は。
俺は一足先に朝食が用意されているダイニングに戻った。四人分の朝食がテーブルに並んでいる。母さんはダイニングテーブルの席に着いて、俺たちを待っていた。
「母さん、もうすぐ来ると思うから、もうちょっと待って」
「一彦も毬華も、もうちょっと寝起きがよかったらいいんだけど」
母さんがぼやく。俺も全く同じ意見だった。毎日家を出る時間は決まっているのだから、それに合わせて行動してほしかった。
やがて、寝ぼけ眼の父さんと、まだ半分くらい寝ていそうな毬華がダイニングにやってくる。二人が席に着くと、ようやく朝食の始まりだ。
「いただきます」
母さんの号令のような声で、朝食が始まる。寝起きの二人もゆっくりとした動作で朝食を口に運んでいる。
「一彦、今日トメさんのところ行くでしょ。行く時言って、わたしも行くから」
「そうだな。陽毬も行ったほうがいいよな」
父さんは起きているんだか寝ているんだかわからないような口調で応える。母さんはじろりと父さんを睨んだが、父さんは意に介した様子もなくソーセージを食べている。
トメさんというのは、二人の恩人らしい。もう百歳は超えていそうなお婆さんだ。だというのに、しゃきしゃきと動いて農作業をしたり、村全体を束ねたりしている。この村ではトメさんに敵う人はいない。父さんも母さんも、トメさんとの繋がりは大切にしているようだった。
「ああ、もう、こんな時間。陽彦、毬華、早く食べて。遅れちゃう」
「お母さん、まだ大丈夫だよぉ。そんなに急かさないでってばぁ」
「そう言って学校に遅刻したのは誰? 毬華、のんびりしないの」
母さんは毬華を注意して急かす。確かに、もう少ししたら歯を磨いて顔を洗って、着替えて家を出る時間だ。のんびりと朝食を味わっている時間ではない。
俺は母さんの心労を少しでも減らすために朝食をさっさと終えて、自分の準備に取り掛かる。俺が通う中学校までは自転車で二十分かかる。何が好きで父さんと母さんがここに住んでいるのか知らないが、とにかく学校が遠いのは問題だった。
そう、父さんと母さんは、この村をとても大切にしているのだ。まるでここでなければ生きていくことができないような、そんな雰囲気さえ感じられる。父さんと母さんならこんな不便な場所でなくても生きていけるだろうに、わざわざここを選ぶ理由が何かあるのだろう。俺にはそれが何なのかわからないけれど。
俺は朝食を終えて、洗顔と歯磨きと着替えを済ませる。そうしたらもう家を出る時間だ。俺はダイニングに戻って、父さんと母さんに挨拶する。
「それじゃ、学校行ってきます」
「いってらっしゃい」
「陽彦、気をつけてね」
父さんと母さんに見送られて、俺は家の外に出た。長閑な村の風景が俺を出迎える。これも見慣れたもので、こんな田舎だからこそ見ることができる風景だというのは俺も知っている。
俺は自転車に乗りながら、思う。
どうして、父さんと母さんはこの村に来たのだろうか。二人ほど若い人は他にいない。この村にいるのは、もう少し上の年代の人か、爺さん婆さんばかりだ。二人の若さは際立っている。
以前、俺は母さんに訊いてみたことがあった。どうしてこの村に来たのか。
母さんはこう答えた。
「ここでしかできないことがあるから、かな」
その時の俺は妙に納得したものだが、今の俺にとっては不足を感じるものだった。
ここでしかできないこと、というのは、いったい何なのだろうか?
俺は疑問を抱いたまま、今日も自転車を漕いで中学校へ向かう。
まあ、父さんも母さんも、幸せそうだからそれでいいのかもしれない。この村での生活は不便だけれど、父さんも母さんも苦とは思っていないようだった。
家族みんなで穏やかに過ごしていければ、それでいい。父さんはそう言っていた。
そこに何かしら隠されているような気はしたけれど、俺は今日もそれを掘り起こすことはせず、中学校へ向かった。あえて両親の秘密に触れる必要はないと思ったのだ。
きっと、父さんと母さんがここに来たのには、何か理由がある。俺はそう確信している。
でも、それをわざわざ聞き出すほど、俺は馬鹿ではない。他人には言えないような理由なのだということは、何となく察している。
平和に暮らせればいいじゃないか。たとえ、両親の過去が何であったとしても。
俺は自転車のペダルを漕ぐ足に力を込めて、坂を上っていった。
*
まだ朝の五時半だ。陽毬の朝はこの時間から始まる。全ては、自分と姉の弁当を用意するためだ。この時間に起きることには慣れきっている。今は夏も近づいてきていて、陽が昇るのが早いから起きやすい時期ではある。
ベッドから出て、二階にもある洗面台で顔を洗い、自分の部屋に戻って制服に着替える。夏服のブラウスに袖を通すのも、もうすっかり慣れてしまった。冬服を着ていたころが懐かしく思える。
着替えを済ませたら、一階に下りてキッチンに向かう。ほとんど夕食の残り物を詰めるだけなのだが、卵やソーセージを焼いたり、ご飯を詰めたりする作業が残っている。だからわざわざ朝早く起きているのだ。
陽毬が階下に行くと、既に母親は起きているようだった。物音しか聞こえなかったが、一階にいるのは間違いない。それもいつものことなので、陽毬は特に気にしなかった。
キッチンに行くと、四人掛けのダイニングテ―ブルの上に、紙が置かれていた。それは見過ごすことができないものだった。
そう、離婚届だ。父親である晋(すすむ)から、母親である毬子(まりこ)への、最後の手紙。
けれど、陽毬はさほど驚かなかった。ああ、ようやく来たのか、といった程度の認識だった。遅かれ早かれ、この日が来ることは予測していたのだ。
言い争う声が聞こえないということは、晋はもうどこかに行ってしまったのだろう。会社か、愛人の家か、わからないけれど、晋がここにいないのは明白だった。毬子がどこにいるかは定かではないが、物音がするから家にはいるのだろう。
自分には関係のないことだ、と陽毬は思った。どちらが親権を取るのか、それがはっきりするまではどうしようもない。どちらについていくことになるのか、陽毬にはわからなかった。晋が進んで親権を取るようには思えなかったが、陽毬か小毬の片方は晋についていくことになるのだろうと思っていた。
離婚届には手を触れることもなく、陽毬は自分の仕事を進める。自分と小毬は両親の話し合いの結果を待つだけなのだ。それがいつになるのかはわからないけれど、いずれ宣告されることになるだろう。それまで、自分にできることはない。
いつものように弁当作りを始めようとして、キッチンに立つと、包丁が一本足りないことに気づいた。誰かが、おそらくは毬子が使ったのかと思ってシンクを見たが、そこにはない。包丁が一本だけ、どこかに消えてしまっていた。
まあ、どこかにあるのだろう。陽毬は別の包丁を使うことにする。
そこへ、足音が近づいてきた。毬子だろう。足音がキッチンに入ってくるのを聞いて、陽毬は振り返りながら尋ねた。
「お母さん、包丁が一本ないんだけど」
そこで陽毬の言葉は切れた。いや、切るしかなかった。
振り返った先に立っていた毬子の手には、その包丁が握られていたからだ。
「陽毬……陽毬、ごめんね」
ただならぬ様子を察して、陽毬は包丁を置いて毬子に向き直った。毬子の瞳は正気のようで、狂気を孕んでいるようにも思えた。
「なに、お母さん、どうしたの」
「もう生きていけないわ。離婚したら、私は、私は、もう生きていけない」
「お母さん、落ち着いて。どうしたの」
毬子には陽毬の声が届いていないようだった。毬子は握り締めた包丁の先を陽毬に向けて、ふらふらと左右に揺れながら陽毬に近寄ってくる。
「陽毬、お母さんと一緒に死にましょう。もう終わりなのよ、私も、陽毬も、小毬も」
「待って、お母さん。ちょっと、落ち着いて」
陽毬が制止の声を投げかけても、毬子が止まることはない。包丁を構えたまま、じりじりと陽毬に近づいてくる。
どうしたらよいのだろうか。どうするのが正解なのだろうか。陽毬は凶器を持って近づいてくる母親をどうしたらよいのかわからず、キッチンの奥のほうに追いやられていく。逃げ場がなくなり、包丁を持った母親に追い詰められていく。
「お母さん、落ち着いてよ。どうしたの」
「死ぬしかないのよ、みんな、もう、死ぬしかないの。晋さんに見捨てられたんだから」
「何か方法があるかもしれないでしょ。死ぬなんて、そんなこと」
「こうするしかないのよ! 陽毬も、小毬も、私も、死ぬしかないのよ!」
毬子は包丁の切先を陽毬に向けたままじわりじわりと寄ってくる。陽毬はそこで初めて恐怖を覚えた。このままここで殺されてしまうのではないか。そんな思いが頭をよぎった。
嫌だ。死にたくない。こんなところで、死にたくない。
陽毬の頭に浮かんだのは一彦だった。一彦にこの想いを告げることもなく死ぬのか。そんなのは嫌だ。死ぬのなら、せめて一彦に本当の気持ちを伝えてから死にたかった。
けれど、それは許されないのだろう。逃げ場はなく、毬子はまず陽毬を殺そうとしている。無理心中の最初の犠牲者は、自分だ。
殺される。陽毬がそう思った時、玄関のドアが開く音がした。
晋が帰ってきたのかもしれない。離婚届を置いていったけれど、ちゃんと話し合うべきだと思いとどまったのかもしれない。陽毬はその可能性に思い至って、来訪者が助けてくれるのを待った。
しかし毬子は玄関が開いたことに気づいていないようだった。そんな余裕はないのだろう。荒い息をしながら、包丁の先を陽毬に向けて距離を詰めてくる。
早く。早く、来て。陽毬は来訪者に願った。このままでは自分が殺されてしまう。その前に、早く、毬子を止めてほしかった。
来訪者は迷いなくこちらに歩いてくる。キッチンに繋がる扉が開かれる。
そこで、陽毬は自分の目を疑った。
来訪者は一彦だった。学校の制服を着て、右手には鉄パイプを握っていた。毬子も一彦の存在に気づき、振り返って一彦のほうを見た。
「ど、どうして……!」
毬子が驚愕の声を上げた。一彦は無言のまま毬子に近づいていき、鉄パイプを振りかぶった。
ばきっという音がして、それから毬子は床に倒れた。毬子の頭から鮮血が流れ出していく。陽毬はようやく一彦が鉄パイプで毬子を殴ったのだと理解した。毬子が手にしていた包丁がからんと空しい音を立てて床に転がった。
「一彦、どうして……?」
「陽毬。俺は、お前を守りたかった。今回は守れたんだ、よかった」
意味のわからないことを言う一彦の表情は、安堵しているようだった。しかし、目の前で転がって動かない毬子の姿を見て、一彦は自分がやったことの恐ろしさに気づいたようだった。
「あ……あっ、お、俺は、陽毬を、守りたかっただけなんだ。おばさんを殺したいとか、そういうわけじゃなくて」
一彦は言い訳めいたことを陽毬に言う。陽毬はそれを聞いているようで、聞いていなかった。
一彦が毬子を殺してしまった。このままでは、一彦が逮捕される。一彦と離れ離れになってしまう。陽毬の頭に浮かんだのは、母親を喪ったショックよりも、一彦と引き離されてしまうことへの忌避感だった。
どうする。どうすれば、一彦と離れなくて済むのだろう。陽毬は考える。
その時、二階から足音が近づいてきた。こんな時間に小毬が起きてくるだなんて、そんな珍しいことがあるものだろうか。不運が重なっているとしか思えなかった。
「一彦、ここにいて。すぐ戻ってくるから」
陽毬は動揺している一彦にそう言い含めて、キッチンから一階にある両親の寝室へ向かった。ここになら、母親の鞄があると思った。
陽毬の予想は的中して、母親の鞄が床に置かれていた。陽毬は素早い動作でその中から財布を抜き取る。茶色の長財布はブランドの一品で、そんなに安いものではない。
「なあに、陽毬。なんかすごい音がしたけど」
小毬が二階の自室から下りてくる。陽毬は長財布を持ってキッチンへと戻る。
しかし、小毬のほうが数歩早かった。小毬はキッチンに辿り着き、凄惨な現場を目にすることになる。
「え? えっ、なに、これ、どういうこと?」
陽毬は心の中で舌打ちをして、遅れてキッチンへと戻る。キッチンでは、血を流して動かなくなっている毬子と、血が付いた鉄パイプを持ったままの一彦、それを見ている小毬の三人がいた。陽毬は小毬の視線を遮るようにしながら、我を失っている一彦の手を取る。陽毬が一彦の手を取ると、一彦は我に返って陽毬のほうを見た。
「母さん? ねえ、母さん!」
小毬が叫びながら母親に近寄る。母親はぴくりとも動かず、死んでいるのは明白だった。
「俺は……俺はっ、陽毬を、守りたかったんだ」
うわごとのように一彦はその言葉を繰り返す。陽毬は一彦の手を引いて、キッチンを出て行った。一彦が持っていた鉄パイプが床に落ちて、耳障りな音を立てた。
「一彦、しっかりして」
「陽毬、俺は、どうしたらいいんだ。陽毬を守ったけれど、これじゃあ、俺は」
「一彦。いい、今から逃げるの。わたしと一緒に、遠くまで逃げるの」
陽毬が選択したのは、逃亡だった。一彦を失いたくないのなら、逃げるしかなかった。警察の目の届かないところまで、逃げるのだ。そのために、陽毬は金銭が詰まっている母親の財布を奪ったのだ。
「き……救急車、ねえ、陽毬、救急車!」
小毬も気が動転していた。陽毬に縋りつくようにしながら、救急車を呼ぶように訴える。しかし陽毬はその訴えを無視して、一彦の手を引いて玄関に向かった。履き慣れた革靴を履いて、陽毬は一彦と一緒に外に出る。外は何事もなかったかのように静かだった。
「陽毬、なあ、どうするんだ。俺は、俺は、殺したいわけじゃなかった」
「わかってる。わたしを助けたかったんでしょ」
「そうだ。俺は、陽毬を助けたくて、でもあの方法しか見つからなくて」
「一彦、落ち着いて。一彦のおかげでわたしは助かってる。今は、逃げることを考えて」
陽毬は一彦の手を引きながら、この先を考えていた。小毬が救急車を呼べば、誰かが母親を殺したということは明らかになる。警察が動き出すのも時間の問題だ。それよりも早く、警察の包囲網を潜り抜けなければならない。
そんなことが可能なのかどうかは、やってみなければわからない。陽毬は駅に向かって走っていく。どこか遠くへ。警察の目も届かないような遠くへ、行く必要があった。
駅に着き、改札を抜けると、ちょうどよく電車がホームに到着した。陽毬は一彦と一緒にその電車に乗り込む。通勤時間よりは少し早いせいか、電車は空いていた。
走ったせいで荒くなってしまった息を整えながら、陽毬は一彦に尋ねた。
「どうして、わたしがお母さんに殺されるって知ってたの」
知らなければ防ぐことはできなかったはずだ、と陽毬は考えた。知らなければ、あんなにタイミングよく来ることができるはずがない。しかも、一彦は凶器を持ってきているのだ。今日この時間帯に陽毬が毬子に襲われると知らなければできるはずがない。
一彦は少しだけ迷いを見せてから、静かに言った。
「魔女が、俺に言ったんだ」
「魔女?」
「そうだ。俺は、陽毬と小毬が今日おばさんに殺されることを知っていた。無理心中を止めるために、俺は、魔女に願ったんだ。どうにかして陽毬を救わせてくれって」
一彦の説明は簡単には理解できるものではなかった。魔女、と言われても、陽毬には理解しがたい。けれど、知っていなければできないことを一彦はやったのだ。一彦が嘘を言っているとは思えなかった。
「俺は、未来を知っていた。陽毬を助けられなかった未来から、陽毬を助けるために過去に戻ってきたんだ。それで、おばさんを、この手で」
一彦は両手を見つめた。陽毬は電車の音が耳障りに感じた。もっと静かな場所で、一彦が感じているものを分け合いたかった。
「殺すつもりじゃなかった。陽毬を救えれば、それでよかったんだ。でも、俺には、これ以外の方法が見つからなかった」
「そう。助けてくれてありがと、一彦」
「でも俺は、俺はっ、おばさんを殺したんだぞ。それでも許してくれるのか」
陽毬は一彦の身体を抱き締めた。いつもよりも一回りくらい小さいように思えた。
「大丈夫。わたしは、一彦と一緒にいる。最後までずっと」
「陽毬……陽毬っ、俺は」
「お母さんを殺したとしても、一彦は一彦。わたしを守るためだったんでしょう? わたしは一彦のおかげで生きてる。逃げられるだけ逃げてみようよ」
「……陽毬」
一彦は陽毬の背に腕を回し、その細い身体を抱いた。陽毬も、一彦に抱きつく。はたから見ればカップルが愛し合っているようにしか見えなかった。片方が殺人者だと気づく人間はいないだろう。
終点に近づくにつれて、電車の中の人は減っていった。空いた座席に二人で手を繋いで座り、陽毬は一彦の肩にもたれかかった。
「ねえ、一彦」
「なんだよ」
「わたし、一彦のこと、好きなんだよ。ずっと、昔から」
陽毬は小さな声で告白した。一彦は陽毬の肩に手を回して、陽毬を抱き寄せた。
「俺も、好きだよ。陽毬のことが好きだ」
「ふふ。知ってる」
この逃避行がどこまで続くかわからないけれど、確かにそこには幸せな時間が流れていた。
電車が終点に着く。来たこともないような田舎の駅で、二人は手を繋いだまま電車から降りた。一彦は陽毬に手を引かれるようにしながら、駅のホームを後にする。
「なあ陽毬、どこに行くんだ?」
「知らない。どこか、ずっと遠いところ」
「山奥の集落でも目指すか?」
「そうだね。ずっと、ずっと、遠いところに行こ」
二人は駅舎を出て、経路を確認して路線バスに乗った。いちばん遠くまで行ける路線だ。この果てにはどんな景色が待っているのだろう。陽毬は高揚感さえ覚えた。
ほとんど乗客のいないバスに乗って、二人で座席に座る。その間も、陽毬は一彦の手を離さなかった。一彦をここに繋ぎ留めておくための錨のように、陽毬はしっかりと一彦の手を握っていた。
今頃、小毬は何をしているのだろうか。たった一人だけ残された姉のことは心配だった。救急車、それか警察を呼んで、一彦の凶行の後始末をしていることだろう。突然独りにさせられて、困っているかもしれない。
それでも、陽毬と一彦は戻るわけにはいかない。最後まで逃げると決めたのだから。
バスに乗っている間、二人は無言だった。一彦はずっと前を見ていたし、陽毬は窓の外を流れていく風景に目を向けていた。バスはどんどん山奥へと向かっていく。山道を登り、二人を未知の世界へ連れていく。
バスの終点は、何もないところだった。家さえも見当たらない山道が終着駅だった。もう夏も近づいているというのに、ひんやりとした空気が二人を出迎えた。
「行こ、一彦」
「行くって、どこに行くんだよ」
「泊めてくれるところ探さなきゃ。わたしは野宿なんてしたくない」
「そんなところあるのか?」
「民家があればいいんだけど。泊めてくださいってお願いするしかないよね」
陽毬はそう言ってさらに山奥へと足を進めていく。一彦はその背を追った。大した荷物も持ってきていない二人は身軽だった。
山道を少し進むと、民家が点在している集落に辿り着いた。人は住んでいるらしい、ということに陽毬は安堵した。問題は、こんな高校生の二人組を泊めてくれるような物好きがいるかどうかだ。
陽毬は一彦の手を引きながら、人影がないかどうかを確かめる。畑と民家か倉庫しかないような集落だった。人の数は決して多くないだろう、と推測できる。
しばらく歩いていると、ようやく初めての人に出会うことができた。四十代、それか五十代初めくらいの男性だった。二人の姿を見て、ぎょっとしたように驚いていた。男性は農作業の手を止めて、陽毬と一彦に問いかけてきた。
「何しに来たんだ、こんなところまで」
陽毬は答えに窮した。まさか、人を殺して逃げてきましたと言うわけにもいかない。一彦も同じようで、何も答えずに陽毬のほうを見るだけだった。
男性はそれで何かを察したのか、二人に近づいてきた。少なくとも悪い人ではなさそうだ、と陽毬は思い、男性から逃げることはしなかった。
「訳ありか。そんなら、ついてこい」
男性は二人にそう言って、畑から出てどこかへと向かっていく。陽毬と一彦は顔を見合わせて、どうするか無言で確かめあった。その結果、とりあえずその男性についていくことにした。
男性についていくと、大きな屋敷のような家に連れてこられた。この辺りの土地で大きな力を持っている人物の住まいであることは間違いなかった。普通の人が住んでいるような家よりも数倍は大きな家だった。
男性はずかずかと家の敷地の中に入っていき、引き戸の前で呼びかけた。
「トメさん! トメさん、流れ者が来たぞ!」
男性が家の中に向かって大声を出すと、家の引き戸が開いて、高齢の女性が家の中から出てきた。見た目にはかなり年を取った女性だった。
「知っているよ。ようやく来たんだね、陽毬、一彦」
トメさんと呼ばれた高齢の女性は二人の名前を知っていた。陽毬は警戒心をあらわにして、高齢の女性を睨むように見る。
「どうして、わたしたちの名前を知っているんですか」
「魔女から聞いているからね。一彦、お前が時を巻き戻させた魔女から」
魔女。一彦にもう一度姉妹を救うチャンスを与えた存在。簡単には信じがたいその存在がここでも出てきて、陽毬は驚いた。一彦も驚きを隠せない様子だった。
トメは陽毬のほうを見て、言った。
「他に行く場所もないだろう。ここにいればいい。ここなら警察も来ないよ」
「そう……なんですか」
「安心しな、警察が来たって守ってやるよ。ここはあんたたちみたいなはぐれ者を何度も受け入れてきた。村の秩序を乱さないなら、あんたたちの安全は保証するよ」
それは陽毬が願ってもやまない申し出だった。一彦を守るためならば、ここに留まるのが最善であるように思えた。
陽毬は一彦を見た。一彦は、まだ混乱しているのか、態度を決めかねているようだった。
だから、陽毬は一彦の代わりに頷いてみせた。この集落に留まるのだという意思表示を、トメに見せた。
「わかりました。お願いします」
陽毬がそう言うと、トメはにっと笑った。
「いいだろう。今日はあたしの家に泊まりな。明日以降は空き家を与えてやるよ。必要な物は明日以降に揃えていけばいい」
「ありがとうございます。お世話になります」
「よくできたお嬢ちゃんだね。これなら心配はなさそうだ」
トメはそう言って家の中に戻っていく。陽毬と一彦を連れてきた男性も、二人に軽く頭を下げて戻っていった。陽毬は一彦の手を引いて、トメの家の中に入っていった。
「なあ陽毬、大丈夫なのか?」
一彦はまだ疑問を残しているようだった。陽毬は一彦に身を寄せて、小さな声で答えた。
「きっと、大丈夫。トメさんは嘘をついてない。ここなら一彦と一緒にいられるよ」
「俺と、陽毬だけで、暮らしていけるってことか?」
「うん、きっとね。集落の人と仲良くならなくちゃいけないとは思うけど、わたしと一彦だけで暮らしていくことになる」
「そうか。二人だけで、やっていくことになるんだな」
一彦が抱いている感情が何なのか、陽毬には判別できなかった。ただ、一彦はこの状況を受け入れていて、好意的な印象を抱いているのは間違いなかった。
そう、ここからは、二人で生きていくしかないのだ。この集落が魔女によって約束された地であるのなら、二人はここに辿り着く運命だったのだ。陽毬はそう思っていた。
何もかも捨てて、一彦と二人で生きていく。それは陽毬にとって、どこか甘美な誘いのような響きさえ持っていた。
「ねえ、一彦」
「なんだ?」
「二人で生きていこうね。何があっても、二人で」
陽毬がそう言うと、一彦は笑顔を浮かべた。陽毬は久しぶりに見たような気がした。
「おう。ここで、二人で生きていこう」
一彦と陽毬は手を繋いだ。それが二人の絆の証であるかのように。
*
ピピ、ピピ、と目覚まし時計のアラームが鳴る。俺は、寝ぼけながら目覚まし時計を探して、アラームを止める。朝がやってきたのだと理解する。
俺は布団から這い出て、ううんと伸びをした。凝り固まった身体がほぐれていく。幾度か身体を動かして、俺は二階にある自分の部屋から一階にあるダイニングまで下りていく。
キッチンでは、母さんが俺と父さんの朝ご飯を作っていた。今日は白米と味噌汁、それにオムレツとソーセージだった。朝から豪勢なご飯に空腹感が刺激される。
母さんは俺が来たことに気づいて、やわらかく笑った。
「おはよう、陽彦。お父さんと毬華起こしてきてくれる?」
「父さんもまだ起きてないのかよ。寝ぼすけばっかりだな」
「陽彦はちゃんと起きてくれて助かってる。ね、よろしく」
母さんはそう言って朝食を作るほうに戻る。俺はやむなく、父さんと妹の毬華を起こしに行く。まったく、父親なんだからちゃんと起きてほしいよな。
俺が父さんの部屋の障子を開けると、父さんはまだ布団にくるまって寝ていた。毬華もここで寝ていたようで、同じように布団に埋もれて寝ていた。俺が来たことにも二人は気づかず、すうすうと寝息を立てていた。
俺は溜息を吐いて、まず父さんの布団を引き剥がした。
「父さん、朝だぞ」
俺が呼びかけると、父さんはもぞもぞと動いた。
「う……うーん、陽彦、あと五分だけ」
「もう起きろよ。母さんが待ってるし、仕事の時間だろ」
「うう……陽彦は母さんに似て厳しいなあ」
そう言いながらも、父さんは身体を起こそうとしない。剥ぎ取られた布団を探すようにもぞもぞと動いている。
俺はそんな父さんを無視して、妹の毬華を起こしにかかった。毬華も父さんと同じように布団を剥ぎ取ってやると、迷惑そうな目で俺のほうを見た。
「なあに、お兄ちゃん……あたし、まだ寝たいんだけどぉ」
「学校に行く時間だろ。さっさと起きて準備しろよ」
「ええ……あたし、今日休むぅ」
「馬鹿なこと言ってないで起きろよ。母さんが朝ご飯作って待ってるぞ」
毬華はもごもごと文句を言いながらも、父さんが起きたのを見て、自分も起き上がる。父さんが起きていなかったら、毬華も起きていなかっただろう。なんなんだこの親子は。
俺は一足先に朝食が用意されているダイニングに戻った。四人分の朝食がテーブルに並んでいる。母さんはダイニングテーブルの席に着いて、俺たちを待っていた。
「母さん、もうすぐ来ると思うから、もうちょっと待って」
「一彦も毬華も、もうちょっと寝起きがよかったらいいんだけど」
母さんがぼやく。俺も全く同じ意見だった。毎日家を出る時間は決まっているのだから、それに合わせて行動してほしかった。
やがて、寝ぼけ眼の父さんと、まだ半分くらい寝ていそうな毬華がダイニングにやってくる。二人が席に着くと、ようやく朝食の始まりだ。
「いただきます」
母さんの号令のような声で、朝食が始まる。寝起きの二人もゆっくりとした動作で朝食を口に運んでいる。
「一彦、今日トメさんのところ行くでしょ。行く時言って、わたしも行くから」
「そうだな。陽毬も行ったほうがいいよな」
父さんは起きているんだか寝ているんだかわからないような口調で応える。母さんはじろりと父さんを睨んだが、父さんは意に介した様子もなくソーセージを食べている。
トメさんというのは、二人の恩人らしい。もう百歳は超えていそうなお婆さんだ。だというのに、しゃきしゃきと動いて農作業をしたり、村全体を束ねたりしている。この村ではトメさんに敵う人はいない。父さんも母さんも、トメさんとの繋がりは大切にしているようだった。
「ああ、もう、こんな時間。陽彦、毬華、早く食べて。遅れちゃう」
「お母さん、まだ大丈夫だよぉ。そんなに急かさないでってばぁ」
「そう言って学校に遅刻したのは誰? 毬華、のんびりしないの」
母さんは毬華を注意して急かす。確かに、もう少ししたら歯を磨いて顔を洗って、着替えて家を出る時間だ。のんびりと朝食を味わっている時間ではない。
俺は母さんの心労を少しでも減らすために朝食をさっさと終えて、自分の準備に取り掛かる。俺が通う中学校までは自転車で二十分かかる。何が好きで父さんと母さんがここに住んでいるのか知らないが、とにかく学校が遠いのは問題だった。
そう、父さんと母さんは、この村をとても大切にしているのだ。まるでここでなければ生きていくことができないような、そんな雰囲気さえ感じられる。父さんと母さんならこんな不便な場所でなくても生きていけるだろうに、わざわざここを選ぶ理由が何かあるのだろう。俺にはそれが何なのかわからないけれど。
俺は朝食を終えて、洗顔と歯磨きと着替えを済ませる。そうしたらもう家を出る時間だ。俺はダイニングに戻って、父さんと母さんに挨拶する。
「それじゃ、学校行ってきます」
「いってらっしゃい」
「陽彦、気をつけてね」
父さんと母さんに見送られて、俺は家の外に出た。長閑な村の風景が俺を出迎える。これも見慣れたもので、こんな田舎だからこそ見ることができる風景だというのは俺も知っている。
俺は自転車に乗りながら、思う。
どうして、父さんと母さんはこの村に来たのだろうか。二人ほど若い人は他にいない。この村にいるのは、もう少し上の年代の人か、爺さん婆さんばかりだ。二人の若さは際立っている。
以前、俺は母さんに訊いてみたことがあった。どうしてこの村に来たのか。
母さんはこう答えた。
「ここでしかできないことがあるから、かな」
その時の俺は妙に納得したものだが、今の俺にとっては不足を感じるものだった。
ここでしかできないこと、というのは、いったい何なのだろうか?
俺は疑問を抱いたまま、今日も自転車を漕いで中学校へ向かう。
まあ、父さんも母さんも、幸せそうだからそれでいいのかもしれない。この村での生活は不便だけれど、父さんも母さんも苦とは思っていないようだった。
家族みんなで穏やかに過ごしていければ、それでいい。父さんはそう言っていた。
そこに何かしら隠されているような気はしたけれど、俺は今日もそれを掘り起こすことはせず、中学校へ向かった。あえて両親の秘密に触れる必要はないと思ったのだ。
きっと、父さんと母さんがここに来たのには、何か理由がある。俺はそう確信している。
でも、それをわざわざ聞き出すほど、俺は馬鹿ではない。他人には言えないような理由なのだということは、何となく察している。
平和に暮らせればいいじゃないか。たとえ、両親の過去が何であったとしても。
俺は自転車のペダルを漕ぐ足に力を込めて、坂を上っていった。
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