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序、月下の美剣士
しおりを挟むじりじりと灼熱の日差しがうなじを焼く。脳天も焼けるように熱い。何よりも、こめかみから額から伝ってくる汗がひどく不快だ。
琴子は箒を握る手を止め、天を仰いだ。痛いほどの眩しさに目を細める。
何だってこんな、人がバッタバッタ倒れて救急車が往来を行き来するような暑い日に、私は庭掃除なんかさせられているんだろう。
ため息をつき、また手を動かし始める。手入れされた庭はザ・日本という感じで、盆栽が飾られていたりちょっとした池があったり、苔むした岩灯籠までもが鎮座している。
夏休み恒例の祖母の家への宿泊。その二日目の真っ昼間。
彼女は言いつけを破り、進入禁止の蔵を覗いてしまったのだ。
あまつさえ、慣れない暗がりの中で大切に厳重に保管されていた日本刀を蹴り飛ばしてしまい、鞘にひびを入れてしまった。
普段は温厚な人が怒ると怖いというのは本当らしい……。怒りのあまり青白くなった祖母の顔を思い出して身震いしながら、琴子はもう二度と祖母を怒らせまいと決意した。
掃き掃除はこれくらいでいいか、と一人頷く。
少ない木の葉や細かいゴミを集めてちりとりに受け、そばにあった岩に腰を下ろした。
池を囲うように丸く並べられた楕円に近い岩。その上で身をよじって池を覗き込んでみる。
静かな水面に、自分の姿が映り込んだ。
ポニーテールの後れ毛も耳の前に垂らした髪も、ぺったりと濡れて首や頬に貼り付いている。
あまりにも汗だくな姿に苦笑しつつ、前髪を整え、伸びをした。暑いと欠伸が出るのは何故だろう、なんて考えていると、突然ぐらりと視界が揺れた。咄嗟に額を押さえる。
目眩。熱中症だろうか。
家に入ろうと立ち上がる。が、その体がふわりといびつに傾いだ。
そう思ったのも束の間。彼女の体はバランスを失って、後ろへと倒れていった。
後ろは池だ────、
見開いた目に映った青空を最後に、意識は途切れた。
❀❀❀
「グガアアアアアアアアアッッッ」
獣の絶叫に、琴子の肩がぴくりと痙攣した。
眩しさを覚悟して重い瞼を上げる。が、そこにあるのは漆の闇だった。気を失っている間に夜になってしまったのだろうか。慌てて身を起こすと、闇の中、何十もの人が揉めあっているのが見えた。叫ぶ声で、男と分かる。
祖母の庭ではない。ましてや、祖母の家でもない。
混乱し、眉をひそめていると、キンと張り詰めた高い音が聞こえた。振り返る。振り返り、目を疑った。
月明かりに蒼白く照らされたのは、二対の白銀の光。ちかりと光って、震えながら双方押し合う。
それが何なのか、考えるまでもなかった。だが、二十一世紀のこのご時世、そんなことがあり得るのだろうか。あり得てはいけない。脳が視覚を否定する。
呆然としながらも、本能が訴える。逃げよう。逃げなければ。ここにいてはいけない。
震える足では思うように動けず、這いつくばりながら出口を求める。その間にも、ちかり、ちかりと光があちこちで乱反射する。高い音が響く。獣の叫び声が。
不意に、這いつくばる手に違和感を感じ、琴子は動きを止めた。冷たい。濡れている。嫌な予感がする。
さっきから光る物がもしそうであるならば。今自分の手を濡らしているものは────、
すっと体が冷える。手を見ないようにして、ただただ前へ進む。何かの建物であることはわかるが、出口が分からない。
焦りながらも進み、ようやく壁を見つける。手を這わせ、壁沿いに進む。幾度か折れたところで、ふっと頬を風が撫でた。ぬるく鬱陶しい熱風が、今では神からの導きのようにすら思え、琴子は震える手を押さえ飛び出した。
しかし、目の前に突きつけられる情景は一切変わらなかった。
それよりも、通りの向こうで灯っている明かりのせいで、余計克明に現実を突きつけられる。
倒れ伏す男たち。黒い水溜り。それを踏み越え踏み越え、長い刃物を振り回す男。武装の者、袴の者。時代劇さながらの風景が、そこに広がっていた。
生々しい────血の香り。
咄嗟に口元を覆う。
夢なら醒めて。お願いだから。呟く声も、乱闘にかき消される。
だらりと下りた手が、鋭い音を立てて掴まれた。
背後を振り返るも、手の主を確認する前に恐ろしい力で引っ張られる。つんのめり、何とか足を踏ん張るが、その人物は止まるどころかさらに力を込めた。
「来なさい!早く!」
外へと引きずり出されると、琴子の手を引いたまま駆け出した。
「いや!いやいやいや!離して!」
「嫌じゃない!急げよ!」
怒鳴られ、身がすくむ。力の抜けた体は、いとも簡単に引きずられてしまう。月明かりと建物から漏れる明かりに、その姿が浮き上がった。
武装している。琴子を掴む反対の腕に握られている刃物が、鮮やかな紅を塗りたくられていることに気が付き、喉に悲鳴が絡みついた。
「どうして早く逃げなかったんです。あそこがいずれ戦場になることは、僕らが来た時点でわかったはずでしょ」
何か口早に言っている。怒りのニュアンスに、全身が震え出した。
血のついた刀。怒っている。私に。私は、私はどこへ連れて行かれる?どこへ連れて行かれて、その、刀で。刀で、刀で殺すんだ。
殺される。
そう思った瞬間、体の震えが足を覆い尽くし、琴子は膝から崩れ落ちた。走っていた勢いも相まって、膝立ちのまま地面を滑らされる。
「ッ、大丈夫ですか?」
「こ、殺さないで」
「え?」
「来ないで!殺さないで!」
悲鳴を上げると、武装の男は歩み寄ろうとした足を止めた。一歩後退り、沈黙する。躊躇うように掴んでいた手を離し、行き場を失った手をだらりと下げた。
「……ごめんなさい」
弱々しい声で言い、膝をついて琴子に視線を合わせる。兜に似た被り物を脱ぎ、地面に置いた。
月下、白い光の元、さらりと透明な音がした。
思わず、涙でぐちゃぐちゃの顔を上げる。
「ごめんなさい。驚かせて」
静かな悲しい声をしたその青年は、一つに束ねた透ける薄茶の髪の毛を揺らし、琴子を見つめた。
白い額が汗に濡れている。しかし乱闘に混ざっていたとは思えぬ美しさに、琴子は息を忘れ見惚れていた。
月を背後に片膝をつくその姿は、あまりにも浮世離れしすぎている。もはや性別さえも感じさせない。
「ここまで来れば大丈夫でしょう。宿をとっていたんでしょうが、今日は別の所にお泊まりなさい」
落ち着いた声で告げると、彼は音もなく立ち上がる。金に見紛う髪がふわりと揺れる。
「私は、新撰組一番隊隊長沖田総司────またご縁がありましたら、今夜のお詫びを」
そう言って目礼し、外した頭部の武具をつけ直した。
沖田総司。
聞き慣れたその名に、琴子は双眸を見開いた。
武装していることを感じさせない軽やかさで駆け出した背中を、瞬きもせず見送る。
姿が完全に見えなくなった所で、ようやく緊張の糸は切れ、琴子は地面にへたり込んだ。
祖母から、幾度も幾度も聞かされた名前────。
沖田琴子。
元治元年六月五日。祖先と、奇妙な邂逅の夜。
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