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罪科の現出
虚像
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くぐもったうめき声。人の倒れる音。
(クロリス……!)
僅かに気が乱れる。
それを狙っていたかのように飛来する、水の槍。
体をひねって辛うじてかわす。荷袋をかすめた一撃が、中身を散乱させた。
息つく暇もなく次々と撃ち込まれる矢を、後方に跳んでやり過ごす。
と。
クロリスを倒した気配が荷――というよりも、魔法書に向かい始めた。
(させるか!)
先ほどの攻撃で、彼女の方がやや距離が離れてしまっている。その上、妨害するように放たれる矢が、全力疾走を阻む。
あと一歩――。
紙一重の差で、相手の方が早かった。
けれど、まだ、間に合う。
踏み込む。
右の二の腕に、矢が突き刺さった。
反射的に引きそうになる腕を意志の力で制御して、剣を突き出す。
が。
矢でほんの一瞬動きが止まったことが災いして、必殺の一撃は敵を浅く捉えるだけに終わった。
指笛が吹き鳴らされる。
敵が撤収する動きを始めた。
レベッカは、チラと連れが倒れているだろう方を一瞥して――駆けだした。
相変らず引く気配のない魔力の霧は敵の姿を完全に覆ってしまっているが、たとえ視認できなくても、魔法書の魔力を辿れば追いかけられる。今ならば、追い付けないにしても探知可能圏内を外されることはないはずだった。
だが。
いくらも行かないうちに、思惑は早くも狂うこととなった。魔法書の魔力がかき消えたのだ。しかも時を同じくして、逃亡者たちは三方向に別れたようだった。
三分の一の確率。
余り分は良くはない。
それでも、追求を続けることを選んだ彼女の前に、ホースケが割り込んできた。
「……分かった、御前に任せる」言いたいことは、何となく伝わってきた。「クロリスを放って置く訳にも行か無いしな」
軽く唇を噛み締めて、未だ居座る未練の念を断ち切ると、レベッカは同行者の介抱に向かった。
クロリスは、薬か何かを嗅がされたらしい。
外傷らしい外傷はなかったが、覚醒するまでにおよそ一日という時間を要した。
同行者が動けるようになると、レベッカはホースケの報告を待たずに、当初の予定通りの道を進むことにした。襲撃者が逃げた方向がグリケノック方面だったということもあるし、なにより連れの証言があった。彼によると、服装がグリケノックの流儀だったという。どのみち、かの国には用があるのだ。外れていた場合には確かに痛いが、まったくの無駄足にはならない。それに、いよいよともなれば、取り返しがつかないこともない。そういう意味では、若干の優位があると言えた。
長い夜が支配する冬は、曇天になってしまうと正確な時を把握するのは難しい。そのような場合には、四回見張りを交代したら朝ということにしている。今朝はクロリスが最後だった。
眠そうに欠伸をしていた連れに声を掛けたレベッカは、とある変化に気づいた。
クロリスの服装が、変わっていたのである。昨日まで着ていたローブは、旅をする者にとっては恐ろしく実用性を欠いた代物であったのに、今は非常に常識的なものになっている。ピアスと両手の指輪は相変らずだが、二連も掛けていたネックレスは外しているので、全体的には以前より控え目か。
「もうすぐ国境だからね。あんなものでも一応軍服だから、あれで他国に入ると色々とまずいだろう?まして、グリケノックとリルガースはそれほど仲が良いわけでもないし」
「然う言えば、良いのか?軍務の方は」
共に旅をして、もう四カ月になろうとしている。休暇にしても長いのではないか。
「ああ、まあ問題ないでしょう」
指摘されて、初めて思い至ったらしい。意表を突かれたような面持ちだった。
「魔法隊だからね。それに、君のためになら惜しくはないかな」
最後の方は軽く受け流して、顧みる。
土地はだいぶ上りになっていたので、薄明かりでも目を引く眼下の黄金の、白っぽい広がりが一望できた。
(リルガースを、出るのか……)
こうしてみると、やはりある種の感慨のようなものが湧きあがる。
想像などできなかったし、そのような余地もなかった。
あの閉じた、狭い村。行き場のない想いを抱え、殺すことにも殺されることにも無頓着だった。
外の世界に出て、得たものは多い――失ったものも。
そう、この手は汚れている。その事実は、なかったことには出来ない。してはいけないのだ。
握り締めた手に、力がこもる。
冷えて強張った頬に、温もりが伝わった。
「君も大概、自虐的だねぇ」頬杖をつきながら、無関心そうに彼女を視界に収めていたクロリスが、鼻を鳴らす。「そろそろ止めたら?血が滲んでいるよ。君が自分をどうしようと僕が口を挟む筋合ではないけれど、剣を握るのに支障が出ることだけはしないで欲しいね。僕の命も懸かっているんだから」
ハッと顔を上げると、レベッカは不思議そうに涙の跡を辿った。
三連山の中央の山に入った。ホースケは、まだ戻ってこない。
運の悪いことに、この頃ちょうど雪が降ってしまい、彼女たちは足止めを余儀なくされた。ペンドックという町との分岐路に立てられていた看板によると、作業はあと五日ほど掛かるらしい。
「クロリス、ペンドックと言うのは何の様な町なのだ?」
途上には、レベッカらの他にも商人や旅人らしい人影がいくつかあった。それらを見るともなしに見やりながら、
「此処は、余り水事情は良く無いと思うのだが……」
「ここは大陸――と言っても、サザイライ=ロヴァールのことは知らないけれど――有数の石英の産地なんだよ。リルガースで使われているガラスの大部分、というより、ほぼ全てがここの石英を原材料としているんだ」
折よく町に到着したので、ザッと周囲を観察してみる。
なるほど、このような奥まった場所にしては活気がある。刃物のようなこの空気に対抗するように黒煙を生産しているあれらは、加工場だろうか。
レベッカたちと同じ理由でここに居る者も結構いるのか、それなりに賑やかな通りを宿へと急ぐ。このぶんでは、一杯になってしまっているかもしれない。
と、その進路を妨害するかのように、角から人影が飛び出してきた。レベッカが迂回しようとすると、その人物は手を突き出し、通せんぼをした。
やむなく足を止め、鋭い調子で意図を問う。
窓からの明かりと降り積もった雪の照り返しで、その人物の姿は割合はっきりと確認できた。
女だ。
彼女は、ほとんど懇願に近いものを瞳に浮かべてレベッカを仰ぎ、訴えてきた。
「お願い、剣を貸して!その代わり、あたしの家に泊めてあげるから」
レベッカは余りといえば余りにも突拍子のない申し出に、しばし呆気にとられて女を見据えた。
その間に、女は彼女の両腕をしっかりと握ると、さらに言い寄ってくる。
「ねえ、頼むよ‼家族の仇を討ちたいんだ」
「仇を討つ、だと……」
過ったのは、復讐を求めた旅の果てに犯した罪。漏れ出たのは、黄泉の底から響いてきたかのような昏い声だった。
その声音に、そして、恐ろしい形相に、女がビクッと身をすくませる。
否。
彼女の瞳には、もはや眼前の女は映じていなかった。
腕を掴んでいるのは、彼女と同じ顔で、凍えるような復讐への意志を目に宿した少女――彼女自身であった。
レベッカは腕の傷が痛むのにも構わず、その手を強く振り払い、
「目障りだ。わたしの前からとっとと失せろ!」
女を突き飛ばすと、マントを翻して足早に歩み去った。
何故。
レベッカは自分に惑っていた。
近頃、たまにこんな風になる。まるで彼女から切り離されてしまったかのように、感情が一人歩きをするのだ。
理解ってはいた。幻影に過ぎない、と。それでも、情動はいともあっさりと理性を押し流してしまった。
クロリスはこういうとき、余計な詮索をしてこない。こういう所が、この連れの好ましい所だった。もしそうでなかったら、彼との旅はこんなに長く続きはしなかっただろう。
宿は、酒場付きだった。
足止めの憂さが溜まっているのだろう。まだ朝と呼べる時間だというのに、戸をくぐった二人はさっそく喧騒とアルコール臭に出迎えられることとなった。きっと、夕方には仕事帰りの坑夫も加わり、さらに騒然とすることだろう。
不幸中の幸いにも、レベッカたちはギリギリ部屋を取ることができた。代わりに相部屋になってしまったが。
だからその夜、かすかな音が聞こえたとき、同行者が帰ってきたのだろうと考えてしまったのは、無理からぬことだった。
時刻は深夜ごろ。
覚醒と休眠の狭間で、しかし、そのおかしさに気がつく。
余りにも、気配が無さすぎるのだ。
ゆっくりとまぶたを押し開き――ちょうど、彼女の様子を窺っていた何者かと、目が合ってしまった。
「やばっ」
侵入者が、小さく声を漏らす。
女のようだ。
聞き覚えがあるようにも感じたが、ゆっくりと考える暇は与えられなかった。
不審者は素早く踵を返して、ひらりと窓から身を躍らせる。その腕に抱えられているのは、彼女の剣。
「待て!」
無駄だと知りつつも一応そう叫んで、彼女も飛び降りる。
武装していなかったので、常よりは質量の総和が少なかったのが幸いしたのだろう。足を挫かず、無事地に立てた。
追跡しつつ、レベッカはこの盗人が今朝の女であることに思い至った。
女はあきらかに、只者ではなかった。凍りついて滑りやすい地面を軽々と駆け抜け、狭い小路を巧みに利用して彼女を捲こうとする。
義母に施された修練の甲斐あってか足を取られるようなことはなかったものの、いかんせん土地勘がない。追いつめることは容易ではなかった。とはいえ、慣れぬ剣を抱えているためか、しばらくすると女にも疲れが見え始めた。ここぞとばかりに追い上げて、あと二メートルほどに迫る。
女がチラッと彼女を振り向いた。
微かに舌打ちの音を響かせ、何かを投げつけてくる。街灯のない、頼りない光源のもとで視認し得た範囲では、黒い小さな物体だった。
正体不明ということもあり、レベッカは、ほぼ反射的にこの物体を横っ飛びにかわす。それとほぼ一緒に、謎の物体が派手な音を立てて四散した。
自分を襲ってくるだろう圧力を予想し受け身を取ったレベッカは、しかし、なかなかやって来ない衝撃と、そして、その代わりであるかのように漂ってくる焦げ臭い臭いとに眉をひそめて、そっと目を開けた。
あたり一面には、もうもうと白煙がたち籠めている。
(仕舞った、目眩ましか!)
我知らず、奥歯を噛みしめる。
爆音を聞きつけた近くの家々の明かりが煙越しにぼんやりと灯り、わらわらと野次馬が集まってきはじめた。煙幕はすでに行動に支障をきたさない程度に終息してきてはいたが、女の姿も完全に消失していた。
軽い運動でもたらされた火照りも、大量の冷気によって、たちまちの内に奪われた。凍えた四肢には、アルコール臭に満ちたこの場のぬくもりでさえ、心地よく思える。
「君、大丈夫?」
宿の前で偶然はち合わせた連れに事情を説明したところ、彼は肩をすくませながらこう言った。
「魔法書を失うのみならず、剣も盗まれるとはね。もう駄目なんじゃないかな。いっその事こんな事は止めて、村でも町でも好きな所に落ち着いたら?」
沈痛な面持ちで頭を垂れる彼女の頬を、空気の動きに合わせて蝋燭の熱気がいく度もなで過ぎていく。
「お客さん、剣を盗まれたのかい?」
連れのグラスにワインを注いでいた宿の親父が、反応を示した。
「もしかして、その盗人ってのは、くすんだ金色の髪の女の子じゃなかったかい?」
だいたい、こっちのお兄さんと同じ年の頃の、と補足する。
「日の光の下で見た訳では無い故、髪の色迄は良く分から無かったが……」顎に手をやって、二度の遭遇の場面を脳裏に描く。「行りそうな人物に心当たりが有るのか?」
親父は眉をひそめると、部分部分が白くなった口髭の奥で、ああ、やっぱり、とつぶやいた。
「あの子、デニスちゃんの家とは昔からのつきあいでね。小さい時からよく知っている。好奇心旺盛で、心根のまっすぐな子だったよ――」
けれども、その好奇心が災いの種だったのかもしれない。
若者にありがちな都会への無防備な憧れを、彼女もまた、抱いていた。デニスは両親との約束を反故にし、覗いてはいけない世界を覗いてしまったのだという。
悪い男に捕まった彼女は、放蕩三昧の日々を過ごした。
それだけなら、まだ良かったのだ。デニスは、ついには悪事にも手を染めるようになってしまった。
連絡の途絶えた娘を心配する両親が、彼女の所業を風の便りに聞いたのは、随分な年月が経ってからのことだった。デニスの両親は娘を連れ戻すために、あたう限りの手を尽くした。彼もそんな彼らの相談に乗ったり、あるいは職業柄できた伝手を頼っての協力を惜しまなかった。だが、梨のつぶてだった。
そして半月ほど前。彼女の家族が、殺された。
下手人は、件のデニスの恋人。とはいっても、この事を彼が知ったのは、彼女本人の口より聞いてからだった。
「――大層寒い日で、外は吹雪いていた。ウチに入ってきたデニスちゃんは真っ青で、ガタガタと震えていたよ。あの子はひと通りの事情をおれに話すと、こう言ってきたんだ。『わたしはお父さんとお母さん、そして、妹の仇を討ちたい。だから、武器を持っていたら貸して欲しい』と。おれは、ばかな考えは捨てるよう説得しようとした。けど、あの子は傷ついた表情をすると、ふらふらの体で飛び出していっちまったんだ。止めるヒマもなかったよ。それからだ。デニスちゃんが道行く旅人に声をかけて回っている、というウワサが起つようになったのは。おれも何回か見かけて、なんとか気を変えてもらおうとしたんだが、あれ以来、避けられちまっててな……。そうか、剣を……。お客さん、できる範囲で構わねぇ、あの子の目を覚まさせてやってくんねぇかい。このままじゃきっと、殺されっちまう」
親父の頼みを、レベッカは曖昧に承諾した。
正直、デニスとやらを変心させられる可能性は低いだろう。復讐に駆られた人間を立ち直らせるのは、容易な事ではない……余程のきっかけがなければ。
「それで、そのデニスって娘の居所について、心当たりはない?」
クロリスが尋ねる。
「うーん、こんな時間に町の外に出られるハズねぇしなぁ」親父が右手で髭をしごきながら、考え込む。「とりあえず、デニスちゃんの家を教えるよ」
丁寧に場所を説明すると、親父は仕事に戻っていった。
デニスの家は、レベッカが彼女を見失った地点から、そう遠くない場所であった。外から気配をうかがうに、人がいる感じではない。あれだけの立ち回りを演じた人間だ。無防備にも寝ているなどという事は、考えにくいが……。
息を潜めて戸に近づき、慎重に押してみる。鍵はかかっておらず、戸は抵抗することなく内へずれた。こうなると、留守の可能性はいよいよ高い。
「居無い様だが、一応中を調べて見るか」
「まるで泥棒だね」肩をすくませ、こぼす。「まあでも、君なら上から下までほとんど真っ黒だから目立たないし、うってつけか」
家畜を飼っていたようで、懐かしい臭いが嗅覚を刺激した。鶏だろう。
やはり、無人だ。人のいた形跡すらない。
中はとてもきれいに片づけられていた。ほんの半月しか経っていないというのに、惨劇を想起させるようなものは、一見したところない。デニスの振る舞いを考えれば、家財はもちろん家すら売り払われてしまっていても、おかしくはないはずだ。そうでないのは、おそらく近所の人々の厚意の賜物だろう。
ひと通り捜索してはみたものの、やはり剣は発見できなかった。想定内のことであるとはいえ、焦りと苛立ちは、どうしようもなく込み上げてくる。
他の適当な場所に潜伏しているのか。それとも、町の外に出て行ったのだろうか……。
「取り敢えず、帰って休んだらどうだい。現状でやれることは、もうないんだしさ」
レベッカは大きく息を吸い込む。
そうだ。目的がはっきりしただけマシなのだ。行き先は、絞られたのだから。
「其れにしても、良く付いて来たな」
吐息が薄明かりにぼんやりと浮かんでは消えゆくのを見るともなしに見やりながら、ポツリと漏らす。それは問いかけというより、本当に偶然漏れ出たものだった。だから連れから相の手が返ってきた時、彼女は少々驚いて顔を向けた。
「そりゃあ、君を独りにしておける訳ないじゃないか。見るからに無茶しそうな表情してさ」
「余計な気は回さ無くて良い」連れの微笑みを透かしながら、苦笑混じりにレベッカ。「研究に差し障りが出る事が心配だったのだろう?」
クロリスのことだ。ダルクト王家に魔法書が存在しないということを知っていたとしても、不思議ではない。それに、彼にとっての利益はもう一つある。王家の魔法は、現代の一般的な魔法の習得法とは違うようなのだ。つまり、彼女と共に居れば――推測を交えることもあるにせよ――魔法書の記述を解析する手間も省ける、というわけだ。事実、レベッカは何度か助言を与えたことがあった。
「そうだね」首を振ると、あっさりと認める。「君にこういった類の手管は意味がないみたいだしね」
彼は、どこまでも正直な男だ。だからこそ、信頼できた。
宿の親父によると、デニスの恋人、フランクは札つきの悪で、野盗まがいのこともやっているらしい。この町から東、リソーンという町の途中にある貴族の別荘跡地が根城なのではないかと、旅人や商人の間では噂されているそうだ。
レベッカは心づけを十二分に払い、さらに、丁重に礼を述べて宿を出た。
外は、白ぼやけた光で満たされていた。正面の空はやがて来る太陽に染め上げられて、桃色と暁色に輝いている。街道の封鎖により地元民しか知らない脇道を利用しなければならないということもあって、このような時間まで待たざるを得なかった。
デニスが昨夜町を発ったとして、この寒い中、よもや悪路を休みなく進んではいないだろうが……。はたして、土地勘のない彼女らが追いつけるだけの余裕たり得るか、どうか。
迂回路は、ほとんど獣道のようなものであった。あまり迷いなく進むことができたのは宿の親父の説明、そして、人の行き来がそれなりにあったお陰だ。しかしながら、デニスの姿を捉えられたのは四日も後、別荘跡地へと続く細道に差しかかってからのことであった。針葉樹の小暗い闇の中に浮かぶ道は、奥の方が明度が高い。少し先は、見通しが良くなっているのだろう。
なかば凍った雪を踏みしめる音しかこの世にないような、そんな錯覚すら覚える静けさ。白く立ち昇る呼気が、静寂をより際立たせる。
顔の筋がこわばるような寒さも、防具の内側が毛皮で覆われているので、比較的快適にやり過ごせた。寒気よりもむしろ、腰の辺りがスカスカしていることの方が、身にしみた。剣帯が脱力してしまったように萎えているのも、余計にその感を増している。
馬車二台が並走できそうな広い道に出て、行くことしばし。全力で走れば、すぐにでもデニスを捕えられる位置にまで迫った。気配を極力殺している成果か、まだ気取られていない。日の下で、宿の親父がくすんだ金髪と評した髪の色が、はっきりと分かった。
空を振り仰ぐ。遠目に、頼もしい協力者がうなずくのが視認された。
スッと影が過り、盗人の進路を塞ぐ。短い悲鳴をあげて、彼女は一歩、二歩、後退った。
クルリと方向転換をする。走り出そうとしたところでレベッカに気がついて、自然、足が止まった。
「こないで!」
追い詰められたデニスは、グリフィンゆえか面を蒼白にしながらも、気丈に声を張りあげた。
魔剣の鞘を打ち払おうとする。その手を、懐へ踏み込んだレベッカが柄ごと押さえつけた。そのまま力ずくで奪おうとするが、その細腕からは予想もされなかった強い抵抗を受けた。
デニスが歯を食いしばりながら、睨めつけてくる。
クロリスの加勢は、期待できない。彼は高度な光魔法を使えないし、不安定な合成魔法は危険だ。この態勢では、彼女も巻き込まれる可能性がある。
ほんの少しで良い。隙を作れれば……。
「宿の親父が、大層心配為て居た。引き返す気には、成ら無いか?」
デニスの瞳が揺れる。が、
「ウソだ!そんなコト言って、この剣を取り戻したいだけなんだろ!」
溜め息をつく。
「折角、止めて呉れる者が居ると言うのに……。まあ、良い。けれども、一つ忠告を為て置いて行ろう。御前の心は、其れを本当に望んで居るのか?後悔為無いと、言い切れるのか?」
「アンタなんかに……あたしの何がわかるって言うのさ‼」
剣を引く手に、さらなる力が籠められる。腕は小刻みに震え、指先は白くなっている。もう感覚も覚束なくなってきているだろうに、それでも一向に抵抗が弱まらない。強固な意志が、そこにはあった。
「……全てを、等とは考えて居無いし、到底無理だ。只、わたしも嘗ては復讐に生きた。然して今、我が身は消せ無い罪に焼かれ、底知れぬ悔悟の沼に沈んで居る」
「――ないよ。わかるはずないじゃないか‼」彼女の言葉をさえぎるように響いた声は、悲鳴に近いものだった。「あんたはっ、あたしじゃないんだから」
唐突に、力が緩む。
体勢を崩すまいと、とっさに踏ん張った足は、雪にとられた。よろめく彼女を、鋭い蹴りが襲う。強引に半歩分体をひねって辛うじて避け、追撃を、苦しい跳躍でようやくかわす。
前髪が数本、地に落ちた。もちろん剣は、デニスの腕の中。片膝をつくに留められたのは、幸い……そう思わせるような、隙のない攻め方だった。
事態は再び、膠着する。だが、確実に悪化していた。先のやり取りで、挟み撃ちの構図が失われたのだ。褐色の巨獣を警戒してかまだその素振りはないが、デニスにとっては逃げやすくなったと言える。そして、相手は抜剣してしまっていた。あの剣の怖さは、自分が良く知っている。もはや、迂闊には懐に入れない。
迷う必要など、ないではないか。魔法を使えば片がつく。
睨み合う彼女の脳裏に、囁きが、響いた。
それは、デニスを殺すことと同義だ。
震えが走る。
いや。
レベッカは抵抗する。
まだ、手はあるはずだ。彼女の命を奪うことなく、剣を取り戻す方法が――。
(御前は、アンドヴァリと彼の女の命。何方が大事なのだ?)
冷ややかな囁きがこだまする。
(優先為可き物の為に、最も確かな手段を用いる。其れが道理では無いか)
冷や汗が噴き出る。
息が、詰まる。
「レベッカ、後ろ‼」
彼女を重圧から解放したのは、相棒の鬼気迫る警句と、新たに出現した気配だった。
疾る数条の銀光を短剣で叩き落とし、発生させた魔力の壁で後続を断つ。
クロリスはこの期に及んでもなお、加勢する気配がない。
かすかに苛立ちを滲ませて、
「例の魔法を――」
攻撃は、彼女の反応速度を上回っていた。
死角からの、迅速かつ無駄のない一撃が、レベッカを捉える。
視界の端に、くずおれていく相棒を納めながら、彼女もまた、沈むほかなかった。
§§§
黒髪の青年が地に伏すと、デニスは傍らの巨鳥を見上げた。
依然、攻撃を仕掛けてはこない。どうやら、賭けに勝ったようだ。
ふぅ、と吐息を吐き出して白刃を鞘にしまう。
虚飾の静寂が、姿を現した。
今はもう動かなくなった二人に向けられていた矢の群れは、ない。だが、撤収したわけではなかった。逡巡する気配が、ありありと伝わってきている。ひそやかに取り交される相談の声さえ、聞こえてきそうだった。
「出てきな、アンタ達。なにも、あたし相手に警戒することないでしょう?」
反応は、ない。息を殺して、じっとこちらを窺っている。
デニスはほんの少し肩をすくめると、倒れた二人の向こう、森の際に向かって剣を放る。
彼女の武器は、あれだけではない。剣はむしろ、わかりやすく脅せる道具として欲しかっただけだ。手放すのは惜しいが、騒ぎを起こさずに「砦」に入れるのなら、それに越したことはない。
「ホラ、これであたしは丸腰。たかだか女一人相手にこれでも姿見せないようじゃ、アンタら男じゃないよ」
挑発が効いたのか、はたまた、端からの段取りだったのか。
薄暗い木々の間から、手に手に武器を装備した若者が出現した。
ザッと十五人ほど。ほとんどが知った顔で、かつ、彼女より年下だ。同じ、あるいは年上はチラホラ。そもそも、この集団を構成する総勢三十人の構成員のうち、首魁であるフランクより年長なのはたったの数人だ。
「いやぁ、姐御は相変わらずの腕前で。ほれぼれしやすねぇ」
他よりも半歩ぐらい前へ出た一人が、口を開く。
へらへらとした、愛想笑い。知った顔だ。
「しばらくぶりだね、ピーター。皆も。達者でやってたかい?」
彼は、フランクの信もそれなりに厚い。間違いなく、この場の指導者だろう。様子から察するに、案の定、フランクは彼女にケジメをつけさせようとはしていないらしい。
「ええ、そりゃあもう。ノロマの商人どものおかげで、懐もあったかでさぁ」
応じながら目配せをして、倒れている二人のもとに人を遣らせる。連れ帰ろうというのか。普段のやり方とは異なるが、まあ、彼らがどうなろうと知ったことではない。
「それでー、今日はどういったご用件で来なすったんです?」
「アンタたちは、ちょっと居なかったぐらいで、仲間を客人扱いするようになったのかい。ようやっと野暮用を済ませて帰ってきたってのに、あんまりだねぇ。フランクから、聞いてないの?」
どこか凄みのある笑みを向ける。
ピーターはたじろいだように僅かに上体をそらし、首を千切れんばかりの勢いで振った。
「いいえェ、全くそんなこと、これっぽっちもございませんよォ。ただ、あんなことがあったばかりだから、姐御が心配で。なァ、みんな」
肩越しに視線を向けて同意を求めるのへ、周りにいる連中がてんでに頷く。
デニスは、フンと鼻を鳴らした。
「人が死んだくらいで、いまさら動揺なんかするもんかい。あたしはこの手で、幾人か殺してきてるんだよ?第一、あたしにとって大切なのはフランクだけ。家族なんてもんとは、とっくに縁を切っちまってるさね」
ピーターが、わざとらしく口笛を吹く。
「あいかわらず、お熱いことで。それはそうと、そこの野郎どもとはどういったご関係なんで?」
分かりきった質問にうんざりして、気怠く、
「アンタも、一部始終はみてたんでしょ?そいつが」縛られて転がされている、黒づくめの男へ顎をしゃくる。「いかにも高価そうな剣を堂々と吊るしてるのを、みかけてね。フランクへの土産に、ちょうどいいと思ってパクったのさ。そしたらそいつらが、執念深くこんなトコまで追っかけてきたってワケ。なんなら、アンタがもっていきな」
「そうですか?それじゃあ、ありがたくお預かりさせていただきます」
剣を回収すると、とりあえず彼女の処遇は保留としたようだ。根城まで供をすると、申し出た。
予想通り、通された部屋には監視がつけられた。しかも、わざわざドアがない部屋を選んで。だが、これはかえって彼女にとっては好都合だった。
(うう、さぶ)
監視の姿が見えるように、不自然でない程度に暖炉から離れた位置に座ったデニスは、小さく身を震わせた。
なにげない所作で、髪をまとめていたバレッタをはずし、軽く頭を振る。前に落ちかかってきた髪を払いのけながらバレッタを裏返すと、そこには青銅製で楕円形の飾り玉がついた細い針が、二本嵌っていた。飾り玉の中央には、めずらしい青ガラス。砕いたラピスラズリで彩色した透かし彫りに囲まれている。動かすと、飾り玉の内側に液体が入っていることが分かる。細工としては、美しい部類の一品だ。しかしこれは、幸か不幸か細工物ではなかった。
『抜楔』
つぶやくと、ガラスが微かな光を放つ。輝きが収まるのを待って、見張り目がけて投げつけた。
男は壁にもたれるようにして、ごくゆっくりと座り込む。
すり切れた絨毯の上を、そっと近づく。
彼は、事切れていた。そして、この死者を死者たらしめた凶器は、どこにも見当たらない。
デニスはそれを確認して、足早に離れた。
あの針には、仕掛けが施されている。呪文を解放して対象に突き刺すと、先端近くに空けられた穴から、飾り玉の猛毒の水が体内に注がれるのだ。針は用を果たすと、跡形もなく消える。いわゆる、暗殺用具だった。
目的の部屋に着いた。
すばやく左右に視線を走らせ、中に入る。
ここは、かつてフランクと出会って間もない頃に使っていた部屋。現在は彼女の私物置き場と化している。
(左、三。窓、三)
分厚く埃が積ったベッドに近寄り、壁の石を数えて引き抜く。現れた空洞には、木箱が孤独に置かれていた。
蓋を、そっと開ける。
中身は先程の針だ。
(二十本、ちゃんとあるね)
バレッタの裏にあった片割れを合流させて、前肘部に装着する。
この針は、とある仕事で懇意になった知人に作ってもらったものだ。製作費はかなりの額だったはずだが、彼はただ同然で売ってくれた。結局、今日に至るまで使うことはなかったのだけれども。まさか、こんな形で活躍の機会を与えることになろうとは……。
「ヒィ⁉し、死んでる……」
耳朶を打つ、悲鳴。喧騒。
デニスは、我に返った。
にわかに部屋の外が、騒がしくなる。
廊下から階段へ行くのは、きっと危険。
デニスは窓を開け、花を飾るために設けられた乏しい足場に乗った。脚力と腕力を併用して、屋根に身軽に飛びうつる。
雪が厄介だが、幸い、傾斜はさほどきつくはない。風も微風だ。気を抜かなければ、しくじることはないハズ。
うっとうしい髪の毛を手早くまとめあげてバレッタをし直すと、デニスは足を滑らせないように神経を集中させた。
§§§
「ずいぶんいい剣、持ってんじゃねぇか。ん?どっから掠めてきたんだ?チクらないでおいてやるから、吐いてみろよ」
品なく、にやついた顔を近づけてくる、薄汚れた服を着た三十路くらいの男。この男が、ごろつきどものリーダーのフランクだった。
彼も、彼に追従する者共も、刀身に目をくれたのなどほんの数秒。金、銀、宝石をあしらった拵えの華美さから与えられた評価だった。アンドヴァリに対する侮辱もいいところだ。
「兄貴ぃ、そいつぁ酷ってもんでしょう。猿ぐつわをはめられてちゃ、しゃべりたくてもしゃべれませんて」
「おお、そうだったな。悪ぃ悪ぃ」
安っぽい会話が飛びかう。
こうなってみると、クロリスが印章指輪を置いてきたのは不幸中の幸いだった。さもなくば、事態はとんでもなく大事に発展してしまったかもしれない。
「それで、この剣どうすんです?」
片ピアスの男が物欲しそうに剣の鞘をためつすがめつしながら、
「やっぱり、総帥に献上するんすか?」
「ギルシグ様に、か……」欲がたっぷりとこもった視線で、注視する。「あー、後でゆっくり考えるわ。とりあえず、おれの部屋に持ってっとけ。――さて、と。お待ちかねの、おまえたちの処分についてだが」
フランクは彼女の顎の下に短剣の鞘を当て、天井方向に力を加えた。あえてそれには逆らわず、代わりに、このチンピラを射貫く目差しに一層の力を籠める。
「ふん、なるほど」目を細めて、一人で納得する。「確かに、これはめったにお目にかかれねぇ逸品だな。残念ながら、おれにはソッチの趣味はねぇんだが、売っ払うまでの観賞用には悪くねぇかもな。……それにしても、もったいねぇなぁ。女だったら、このおれ直々に丁重に扱ってやるのによ」
そう言って、ひとしきり下卑た笑声をあげると、クロリスを向いた。
「さて、オマエさんについてだが……」
相棒の体が、びくりと震える。彼と付き合ってそれなりになるレベッカの目には、少々わざとらしいぐらいに。
「おう、よく分かってるみてぇじゃねぇか」
反応を楽しむように、抜いた短剣の刀身で彼の頬を軽くはたく。うっすらと、血が滲んだ。
「そうだ、オマエには商品としての価値はねぇ。つまり――」
逆手に持った凶器を振りかざす。
クロリスは身を縮こまらせ、哀願の瞳をごろつきに送る。
「くくっ。まあ、おれも慈悲深いからなぁ。よぅく話し合って、決めてやるよ。命拾い、するといいなぁ」
怯えきった獲物に唾を吐きつけると、フランクは手下どもを引き連れて去っていった。
§§§
昨日の事のように、鮮明に思い出す。ここがおれの城なんだ、と語る彼の横顔はとても無邪気で。
まだ、彼と彼女だけの場所で、不良集団の根城ではなかった頃のこと。
あれからもう、十年近くも経つ。ここは最早、彼女の第二の家。どこをどう通ればいいのかは、完璧に把握していた。
デニスは距離をザッと測り、慎重につま先を降ろしていく。寒さにかじかんだ手が、思い通りに言うことを聞いてくれず苦労したものの、何とか無事に足場を確保できた。
針を巧みに操って鎧戸と窓の鍵を外し、忍び込む。
ここは、この屋敷の前の主の部屋の一つ。今は、フランクの浴室として使われている。
そっと、主部屋をうかがう。
見慣れた姿は、ない。
あと二つある間にも、フランクは居なかった。
(ちっ、間が悪いね)
闇雲に捜し回っても、立場が悪化するだけ。適当なヤツを捕まえて、吐いてもらうしかない。
ホント、昔から行き当たりばったりだ。
苦笑を漏らしつつドアノブに触れようとしたデニスの手が、ピクリと震える。
誰か、来る。
一人だ。
(フランク!)
胸が、高鳴る。
自然、眉間に力がこもる。
が、
(これは……違うね)
聞こえてくる足音は、彼のものよりずっと軽かった。
居所がバレた――という訳ではないだろう。ならば、もっと戦力を用意するはずだ。
入り口から死角になる位置に潜み、気配を断つ。
扉が、開く。
背中が見えた。
素人目には、瞬く間の出来事だったに違いない。
青年の腰の短剣は、いつの間にか首筋に。
足蹴にされた扉の閉まる音が、時間差で響いた。
突きつけられた刃は、その冷たさを感じさせるために、肌に押し当てられている。そして、それを支える手には、震えがない。つまり迷いがないということだ。
チンピラながらに、いや、チンピラだからこそかもしれない。事の危険性を、理解してもらえたようだ。小さく息を呑むのが、さらに怯えが、伝わってきた。剣を持つ手が強く握られる。場にそぐわない――見方によっては、この上なく相応しくもあるのだが――豪奢な一振り――あの黒髪の男の剣だ。
「フランクは、どこだい」
「……地下。囚人の……ところ……」
あわれな被食者は震える唇で、ようやくそれだけの言葉を紡いだ。
デニスは首筋に、針を突き立てる。
腕の中の、重みが増す。
仕事ではなく、単なる私情のために殺しをしたことは、これまでない。
手慣れたこと。まして、善人とは言えない人物だ。
それでも、再び苦い味が広がった。
喉まで出かかった謝罪をすんでのところで飲み込んで、デニスは小声で魂の安寧を祈った。
屋敷の規模に比べて、人数は少ない。
誰よりも長く、ここに住まってきた彼女のことだ。広さと複雑さを利用して彼らを撹乱するのは、容易なことだった。それでも、念願の対面までこぎつけたときには、針は一本もなくなっていた。
いや、かえって丁度良かったのだ。
思う。
もう二度と、彼女がこれを使う日は訪れないのだから――。
さあ、ここからが本当の舞台。きっと今日までの人生の中で五本の指に入れてもいいぐらい、繊細な駆け引きが必要になるはず。
呼吸を整え気を引き締め直すと、デニスは彼と自分とを隔てる最後の障壁を、勢いよく押し開けた。
§§§
凍えるような寒さが、次第に響いてきた。室の壁には松明が点されてはいるが、部屋の広さに比べて余りにも儚すぎる存在だ。石造りであることも災いしている。
ここは元々、そういった目的の部屋であったらしい。鎖は錆びついていて使えなかったのか彼女たちの手足を拘束しているのは縄だったが、それらは壁に設けられた通し穴にしっかりと接続されている。お陰で、これみよがしに置かれている役立ちそうな道具にも、触れることは勿論、近づくことすらできなかった。
この状況を打開する方法は、ないでもない。声なしでの魔法の発動さえ行なえれば。ただ、そうするには相当の技量と、感性とでも言うべき特殊な才能が必要とされる。故をもって、魔法を行使する者を封じてしまうには発声を妨げればよい、と一般には認知されているのだ。
レベッカは、僅かな可能性に賭けてみることにした。
すべての雑念を払いのけ、普段は意識しないような些末な段階から、最大限の集中力で魔力を組み上げ、解き放つ。
力の流れる感覚。
しかしながら、それは奔流する前に、細く途切れてしまった。
技量というよりも、感性の問題か。けれども、これしか逃れる術はない。
再度意識を研ぎ澄まそうとした彼女の眉が、人の気配に跳ね上がる。
入ってきたのは、一人だけだった。囚人たちが無力だと踏んで、大胆になっているのだろう。事実、その通りなのだが。
「オマエの処遇が決まったぜぇ。教えてほしいか、ん?」
相棒がいかにも卑屈な態度で、媚びるようにチンピラを見つめる。
「そうだなぁ」にやつきながら、遊び甲斐のある玩具を覗き込む。「頭、下げてみな。そしたら、考えてやるよ」
飼い馴らされた犬のごとく、従順に命令に従った――
直後、鈍い音が響く。
うめきが漏れた。
「頭が高ぇぞ。下々のモンは、もっと下げるもんだろうが」
愉悦の表情で、クロリスの頭を踏みにじる――荒々しく戸が開かれたのは、その時だった。
「どうした。やっとあの女が――」
当の本人を目にして、言葉を失う。
会話の空白に、太く頑丈な錠前が下ろされる音が重なった。
訊きたいことがあるの、とデニスが数歩踏みだす。携えたアンドヴァリの装飾が、彼女の動きに合わせて煌めきを放つ。
仇と対面して、だが、彼女の物腰はいたって平静だった。
…………怖いくらいに。
それが、かえって危うさを秘めているように、レベッカには感じられた。
「よぉ、デニス」
彼の態度には、もはや動揺は垣間みえなかった。
「なんだ、そんなところで止まってないで、もっとよく顔みせろよ。久しぶりの再会なんだぜ?」
短剣を持つ手に、力がこもる。意図は明白だった。
それに気づいたのか、どうか。
デニスは恋人の言葉を無視して、続きを述べた。
「どうして、あたしの家族を殺ったの?」
「あぁん?んなの決まってんだろうが」
当たり前のことをわざわざ言わせるな、といった素振りで、
「ウザかったからだよ」
「ウザい?」
跳ね上がりそうになる声を、必死に押し殺して。それでも、握りしめた剣がかすかに震えた。表情は、笑うべきか。泣くべきか。その狭間で、中途半端に崩れかかっていた。
彼女の心を逆なでるように、フランクの科白がつながる。
「あの、クソじじい。店にきてオレを呼びだしたあげく、なんて言ったと思う?オマエを返さなければお上につきだす、とかつまんねぇ脅しをかけてきやがったんだ。それも、客の前でだぜ?んで、ムカついたからぶっ殺してやったってわけ。あー、あとオマエのお袋と妹な。まぁ、あのクソじじいがあんなだから、一緒になって余計なことをたくらんでやがるかもしれねぇってのもあったけど、一番の理由はアレだな。見せしめってヤツ?愉しかったぜぇ」口元を歪ませる。「特に妹が。今になって考えてみりゃ、惜しいことをしたかもな。ま、家族仲良くあの世へいけて、幸せだろ。でもなんつっても、オレはオマエのために労を割いてやったんだぜぇ。オマエ、親どものことウザがってたじゃねぇか。だから、喜ぶと思ったんだけどなー」
「フランク……」
デニスが、おもむろに顔を上げる。予想に反して、その瞳はただ苦悩によってのみ揺れていた。憎悪や、悲しみによってではなく。
零れ落ちた涙が、そっと頬を滑る。
「あたしはやっぱり、アンタを許せない」
魔剣の鞘を打ち払い、水平に振りかぶって投げつける。それを追うようにして、隠し持っていた武器を構えて疾る。心なしか、光沢の具合が普通の刃と違うようだ。もしかすると、何らかの薬物が塗ってあるのかもしれない。いずれにせよ、彼女の戦い方は、一度剣を交えた感触からするとやや違和感を感じるような、稚拙なやり口だった。迷い、なのだろうか。
次手の予想が容易にできる行動に鼻を鳴らして、フランクは飛んでくる剣を軽くいなそうとする。その判断は、的確なものだった――
アンドヴァリでさえなかったなら。
湿り気を帯びた鈍い音が、確かに耳に届いた。
剣は易々とごろつきの短剣を砕き、心臓を貫いていた。
驚愕の表情で身体に食い込んだ凶器を見下ろしたまま、数歩後ろによろめいて倒れ込む。それに、悲鳴が重なった。
武器を放り捨てて、恋人の下へと駆け寄る。もはや二度と動かない最愛の人をかき抱き、震える手でまぶたを閉じた。そして、そっと囁く。
「あたしは、アンタが憎い。けど……けど、どうしようもないくらい、好きだったから――だから、殺して欲しかった。アンタに、苦しみを終らせてもらいたかった」
息を吸い込むと、柔らかな笑みをたたえる。
流れる澄んだ滴が、その輪郭を縁どった。
「ごめんね。アタシも、すぐ逝くから――」
何故だろう。
まるで、吸い寄せられるように、レベッカは彼女の「死」から目が離せなかった。
(クロリス……!)
僅かに気が乱れる。
それを狙っていたかのように飛来する、水の槍。
体をひねって辛うじてかわす。荷袋をかすめた一撃が、中身を散乱させた。
息つく暇もなく次々と撃ち込まれる矢を、後方に跳んでやり過ごす。
と。
クロリスを倒した気配が荷――というよりも、魔法書に向かい始めた。
(させるか!)
先ほどの攻撃で、彼女の方がやや距離が離れてしまっている。その上、妨害するように放たれる矢が、全力疾走を阻む。
あと一歩――。
紙一重の差で、相手の方が早かった。
けれど、まだ、間に合う。
踏み込む。
右の二の腕に、矢が突き刺さった。
反射的に引きそうになる腕を意志の力で制御して、剣を突き出す。
が。
矢でほんの一瞬動きが止まったことが災いして、必殺の一撃は敵を浅く捉えるだけに終わった。
指笛が吹き鳴らされる。
敵が撤収する動きを始めた。
レベッカは、チラと連れが倒れているだろう方を一瞥して――駆けだした。
相変らず引く気配のない魔力の霧は敵の姿を完全に覆ってしまっているが、たとえ視認できなくても、魔法書の魔力を辿れば追いかけられる。今ならば、追い付けないにしても探知可能圏内を外されることはないはずだった。
だが。
いくらも行かないうちに、思惑は早くも狂うこととなった。魔法書の魔力がかき消えたのだ。しかも時を同じくして、逃亡者たちは三方向に別れたようだった。
三分の一の確率。
余り分は良くはない。
それでも、追求を続けることを選んだ彼女の前に、ホースケが割り込んできた。
「……分かった、御前に任せる」言いたいことは、何となく伝わってきた。「クロリスを放って置く訳にも行か無いしな」
軽く唇を噛み締めて、未だ居座る未練の念を断ち切ると、レベッカは同行者の介抱に向かった。
クロリスは、薬か何かを嗅がされたらしい。
外傷らしい外傷はなかったが、覚醒するまでにおよそ一日という時間を要した。
同行者が動けるようになると、レベッカはホースケの報告を待たずに、当初の予定通りの道を進むことにした。襲撃者が逃げた方向がグリケノック方面だったということもあるし、なにより連れの証言があった。彼によると、服装がグリケノックの流儀だったという。どのみち、かの国には用があるのだ。外れていた場合には確かに痛いが、まったくの無駄足にはならない。それに、いよいよともなれば、取り返しがつかないこともない。そういう意味では、若干の優位があると言えた。
長い夜が支配する冬は、曇天になってしまうと正確な時を把握するのは難しい。そのような場合には、四回見張りを交代したら朝ということにしている。今朝はクロリスが最後だった。
眠そうに欠伸をしていた連れに声を掛けたレベッカは、とある変化に気づいた。
クロリスの服装が、変わっていたのである。昨日まで着ていたローブは、旅をする者にとっては恐ろしく実用性を欠いた代物であったのに、今は非常に常識的なものになっている。ピアスと両手の指輪は相変らずだが、二連も掛けていたネックレスは外しているので、全体的には以前より控え目か。
「もうすぐ国境だからね。あんなものでも一応軍服だから、あれで他国に入ると色々とまずいだろう?まして、グリケノックとリルガースはそれほど仲が良いわけでもないし」
「然う言えば、良いのか?軍務の方は」
共に旅をして、もう四カ月になろうとしている。休暇にしても長いのではないか。
「ああ、まあ問題ないでしょう」
指摘されて、初めて思い至ったらしい。意表を突かれたような面持ちだった。
「魔法隊だからね。それに、君のためになら惜しくはないかな」
最後の方は軽く受け流して、顧みる。
土地はだいぶ上りになっていたので、薄明かりでも目を引く眼下の黄金の、白っぽい広がりが一望できた。
(リルガースを、出るのか……)
こうしてみると、やはりある種の感慨のようなものが湧きあがる。
想像などできなかったし、そのような余地もなかった。
あの閉じた、狭い村。行き場のない想いを抱え、殺すことにも殺されることにも無頓着だった。
外の世界に出て、得たものは多い――失ったものも。
そう、この手は汚れている。その事実は、なかったことには出来ない。してはいけないのだ。
握り締めた手に、力がこもる。
冷えて強張った頬に、温もりが伝わった。
「君も大概、自虐的だねぇ」頬杖をつきながら、無関心そうに彼女を視界に収めていたクロリスが、鼻を鳴らす。「そろそろ止めたら?血が滲んでいるよ。君が自分をどうしようと僕が口を挟む筋合ではないけれど、剣を握るのに支障が出ることだけはしないで欲しいね。僕の命も懸かっているんだから」
ハッと顔を上げると、レベッカは不思議そうに涙の跡を辿った。
三連山の中央の山に入った。ホースケは、まだ戻ってこない。
運の悪いことに、この頃ちょうど雪が降ってしまい、彼女たちは足止めを余儀なくされた。ペンドックという町との分岐路に立てられていた看板によると、作業はあと五日ほど掛かるらしい。
「クロリス、ペンドックと言うのは何の様な町なのだ?」
途上には、レベッカらの他にも商人や旅人らしい人影がいくつかあった。それらを見るともなしに見やりながら、
「此処は、余り水事情は良く無いと思うのだが……」
「ここは大陸――と言っても、サザイライ=ロヴァールのことは知らないけれど――有数の石英の産地なんだよ。リルガースで使われているガラスの大部分、というより、ほぼ全てがここの石英を原材料としているんだ」
折よく町に到着したので、ザッと周囲を観察してみる。
なるほど、このような奥まった場所にしては活気がある。刃物のようなこの空気に対抗するように黒煙を生産しているあれらは、加工場だろうか。
レベッカたちと同じ理由でここに居る者も結構いるのか、それなりに賑やかな通りを宿へと急ぐ。このぶんでは、一杯になってしまっているかもしれない。
と、その進路を妨害するかのように、角から人影が飛び出してきた。レベッカが迂回しようとすると、その人物は手を突き出し、通せんぼをした。
やむなく足を止め、鋭い調子で意図を問う。
窓からの明かりと降り積もった雪の照り返しで、その人物の姿は割合はっきりと確認できた。
女だ。
彼女は、ほとんど懇願に近いものを瞳に浮かべてレベッカを仰ぎ、訴えてきた。
「お願い、剣を貸して!その代わり、あたしの家に泊めてあげるから」
レベッカは余りといえば余りにも突拍子のない申し出に、しばし呆気にとられて女を見据えた。
その間に、女は彼女の両腕をしっかりと握ると、さらに言い寄ってくる。
「ねえ、頼むよ‼家族の仇を討ちたいんだ」
「仇を討つ、だと……」
過ったのは、復讐を求めた旅の果てに犯した罪。漏れ出たのは、黄泉の底から響いてきたかのような昏い声だった。
その声音に、そして、恐ろしい形相に、女がビクッと身をすくませる。
否。
彼女の瞳には、もはや眼前の女は映じていなかった。
腕を掴んでいるのは、彼女と同じ顔で、凍えるような復讐への意志を目に宿した少女――彼女自身であった。
レベッカは腕の傷が痛むのにも構わず、その手を強く振り払い、
「目障りだ。わたしの前からとっとと失せろ!」
女を突き飛ばすと、マントを翻して足早に歩み去った。
何故。
レベッカは自分に惑っていた。
近頃、たまにこんな風になる。まるで彼女から切り離されてしまったかのように、感情が一人歩きをするのだ。
理解ってはいた。幻影に過ぎない、と。それでも、情動はいともあっさりと理性を押し流してしまった。
クロリスはこういうとき、余計な詮索をしてこない。こういう所が、この連れの好ましい所だった。もしそうでなかったら、彼との旅はこんなに長く続きはしなかっただろう。
宿は、酒場付きだった。
足止めの憂さが溜まっているのだろう。まだ朝と呼べる時間だというのに、戸をくぐった二人はさっそく喧騒とアルコール臭に出迎えられることとなった。きっと、夕方には仕事帰りの坑夫も加わり、さらに騒然とすることだろう。
不幸中の幸いにも、レベッカたちはギリギリ部屋を取ることができた。代わりに相部屋になってしまったが。
だからその夜、かすかな音が聞こえたとき、同行者が帰ってきたのだろうと考えてしまったのは、無理からぬことだった。
時刻は深夜ごろ。
覚醒と休眠の狭間で、しかし、そのおかしさに気がつく。
余りにも、気配が無さすぎるのだ。
ゆっくりとまぶたを押し開き――ちょうど、彼女の様子を窺っていた何者かと、目が合ってしまった。
「やばっ」
侵入者が、小さく声を漏らす。
女のようだ。
聞き覚えがあるようにも感じたが、ゆっくりと考える暇は与えられなかった。
不審者は素早く踵を返して、ひらりと窓から身を躍らせる。その腕に抱えられているのは、彼女の剣。
「待て!」
無駄だと知りつつも一応そう叫んで、彼女も飛び降りる。
武装していなかったので、常よりは質量の総和が少なかったのが幸いしたのだろう。足を挫かず、無事地に立てた。
追跡しつつ、レベッカはこの盗人が今朝の女であることに思い至った。
女はあきらかに、只者ではなかった。凍りついて滑りやすい地面を軽々と駆け抜け、狭い小路を巧みに利用して彼女を捲こうとする。
義母に施された修練の甲斐あってか足を取られるようなことはなかったものの、いかんせん土地勘がない。追いつめることは容易ではなかった。とはいえ、慣れぬ剣を抱えているためか、しばらくすると女にも疲れが見え始めた。ここぞとばかりに追い上げて、あと二メートルほどに迫る。
女がチラッと彼女を振り向いた。
微かに舌打ちの音を響かせ、何かを投げつけてくる。街灯のない、頼りない光源のもとで視認し得た範囲では、黒い小さな物体だった。
正体不明ということもあり、レベッカは、ほぼ反射的にこの物体を横っ飛びにかわす。それとほぼ一緒に、謎の物体が派手な音を立てて四散した。
自分を襲ってくるだろう圧力を予想し受け身を取ったレベッカは、しかし、なかなかやって来ない衝撃と、そして、その代わりであるかのように漂ってくる焦げ臭い臭いとに眉をひそめて、そっと目を開けた。
あたり一面には、もうもうと白煙がたち籠めている。
(仕舞った、目眩ましか!)
我知らず、奥歯を噛みしめる。
爆音を聞きつけた近くの家々の明かりが煙越しにぼんやりと灯り、わらわらと野次馬が集まってきはじめた。煙幕はすでに行動に支障をきたさない程度に終息してきてはいたが、女の姿も完全に消失していた。
軽い運動でもたらされた火照りも、大量の冷気によって、たちまちの内に奪われた。凍えた四肢には、アルコール臭に満ちたこの場のぬくもりでさえ、心地よく思える。
「君、大丈夫?」
宿の前で偶然はち合わせた連れに事情を説明したところ、彼は肩をすくませながらこう言った。
「魔法書を失うのみならず、剣も盗まれるとはね。もう駄目なんじゃないかな。いっその事こんな事は止めて、村でも町でも好きな所に落ち着いたら?」
沈痛な面持ちで頭を垂れる彼女の頬を、空気の動きに合わせて蝋燭の熱気がいく度もなで過ぎていく。
「お客さん、剣を盗まれたのかい?」
連れのグラスにワインを注いでいた宿の親父が、反応を示した。
「もしかして、その盗人ってのは、くすんだ金色の髪の女の子じゃなかったかい?」
だいたい、こっちのお兄さんと同じ年の頃の、と補足する。
「日の光の下で見た訳では無い故、髪の色迄は良く分から無かったが……」顎に手をやって、二度の遭遇の場面を脳裏に描く。「行りそうな人物に心当たりが有るのか?」
親父は眉をひそめると、部分部分が白くなった口髭の奥で、ああ、やっぱり、とつぶやいた。
「あの子、デニスちゃんの家とは昔からのつきあいでね。小さい時からよく知っている。好奇心旺盛で、心根のまっすぐな子だったよ――」
けれども、その好奇心が災いの種だったのかもしれない。
若者にありがちな都会への無防備な憧れを、彼女もまた、抱いていた。デニスは両親との約束を反故にし、覗いてはいけない世界を覗いてしまったのだという。
悪い男に捕まった彼女は、放蕩三昧の日々を過ごした。
それだけなら、まだ良かったのだ。デニスは、ついには悪事にも手を染めるようになってしまった。
連絡の途絶えた娘を心配する両親が、彼女の所業を風の便りに聞いたのは、随分な年月が経ってからのことだった。デニスの両親は娘を連れ戻すために、あたう限りの手を尽くした。彼もそんな彼らの相談に乗ったり、あるいは職業柄できた伝手を頼っての協力を惜しまなかった。だが、梨のつぶてだった。
そして半月ほど前。彼女の家族が、殺された。
下手人は、件のデニスの恋人。とはいっても、この事を彼が知ったのは、彼女本人の口より聞いてからだった。
「――大層寒い日で、外は吹雪いていた。ウチに入ってきたデニスちゃんは真っ青で、ガタガタと震えていたよ。あの子はひと通りの事情をおれに話すと、こう言ってきたんだ。『わたしはお父さんとお母さん、そして、妹の仇を討ちたい。だから、武器を持っていたら貸して欲しい』と。おれは、ばかな考えは捨てるよう説得しようとした。けど、あの子は傷ついた表情をすると、ふらふらの体で飛び出していっちまったんだ。止めるヒマもなかったよ。それからだ。デニスちゃんが道行く旅人に声をかけて回っている、というウワサが起つようになったのは。おれも何回か見かけて、なんとか気を変えてもらおうとしたんだが、あれ以来、避けられちまっててな……。そうか、剣を……。お客さん、できる範囲で構わねぇ、あの子の目を覚まさせてやってくんねぇかい。このままじゃきっと、殺されっちまう」
親父の頼みを、レベッカは曖昧に承諾した。
正直、デニスとやらを変心させられる可能性は低いだろう。復讐に駆られた人間を立ち直らせるのは、容易な事ではない……余程のきっかけがなければ。
「それで、そのデニスって娘の居所について、心当たりはない?」
クロリスが尋ねる。
「うーん、こんな時間に町の外に出られるハズねぇしなぁ」親父が右手で髭をしごきながら、考え込む。「とりあえず、デニスちゃんの家を教えるよ」
丁寧に場所を説明すると、親父は仕事に戻っていった。
デニスの家は、レベッカが彼女を見失った地点から、そう遠くない場所であった。外から気配をうかがうに、人がいる感じではない。あれだけの立ち回りを演じた人間だ。無防備にも寝ているなどという事は、考えにくいが……。
息を潜めて戸に近づき、慎重に押してみる。鍵はかかっておらず、戸は抵抗することなく内へずれた。こうなると、留守の可能性はいよいよ高い。
「居無い様だが、一応中を調べて見るか」
「まるで泥棒だね」肩をすくませ、こぼす。「まあでも、君なら上から下までほとんど真っ黒だから目立たないし、うってつけか」
家畜を飼っていたようで、懐かしい臭いが嗅覚を刺激した。鶏だろう。
やはり、無人だ。人のいた形跡すらない。
中はとてもきれいに片づけられていた。ほんの半月しか経っていないというのに、惨劇を想起させるようなものは、一見したところない。デニスの振る舞いを考えれば、家財はもちろん家すら売り払われてしまっていても、おかしくはないはずだ。そうでないのは、おそらく近所の人々の厚意の賜物だろう。
ひと通り捜索してはみたものの、やはり剣は発見できなかった。想定内のことであるとはいえ、焦りと苛立ちは、どうしようもなく込み上げてくる。
他の適当な場所に潜伏しているのか。それとも、町の外に出て行ったのだろうか……。
「取り敢えず、帰って休んだらどうだい。現状でやれることは、もうないんだしさ」
レベッカは大きく息を吸い込む。
そうだ。目的がはっきりしただけマシなのだ。行き先は、絞られたのだから。
「其れにしても、良く付いて来たな」
吐息が薄明かりにぼんやりと浮かんでは消えゆくのを見るともなしに見やりながら、ポツリと漏らす。それは問いかけというより、本当に偶然漏れ出たものだった。だから連れから相の手が返ってきた時、彼女は少々驚いて顔を向けた。
「そりゃあ、君を独りにしておける訳ないじゃないか。見るからに無茶しそうな表情してさ」
「余計な気は回さ無くて良い」連れの微笑みを透かしながら、苦笑混じりにレベッカ。「研究に差し障りが出る事が心配だったのだろう?」
クロリスのことだ。ダルクト王家に魔法書が存在しないということを知っていたとしても、不思議ではない。それに、彼にとっての利益はもう一つある。王家の魔法は、現代の一般的な魔法の習得法とは違うようなのだ。つまり、彼女と共に居れば――推測を交えることもあるにせよ――魔法書の記述を解析する手間も省ける、というわけだ。事実、レベッカは何度か助言を与えたことがあった。
「そうだね」首を振ると、あっさりと認める。「君にこういった類の手管は意味がないみたいだしね」
彼は、どこまでも正直な男だ。だからこそ、信頼できた。
宿の親父によると、デニスの恋人、フランクは札つきの悪で、野盗まがいのこともやっているらしい。この町から東、リソーンという町の途中にある貴族の別荘跡地が根城なのではないかと、旅人や商人の間では噂されているそうだ。
レベッカは心づけを十二分に払い、さらに、丁重に礼を述べて宿を出た。
外は、白ぼやけた光で満たされていた。正面の空はやがて来る太陽に染め上げられて、桃色と暁色に輝いている。街道の封鎖により地元民しか知らない脇道を利用しなければならないということもあって、このような時間まで待たざるを得なかった。
デニスが昨夜町を発ったとして、この寒い中、よもや悪路を休みなく進んではいないだろうが……。はたして、土地勘のない彼女らが追いつけるだけの余裕たり得るか、どうか。
迂回路は、ほとんど獣道のようなものであった。あまり迷いなく進むことができたのは宿の親父の説明、そして、人の行き来がそれなりにあったお陰だ。しかしながら、デニスの姿を捉えられたのは四日も後、別荘跡地へと続く細道に差しかかってからのことであった。針葉樹の小暗い闇の中に浮かぶ道は、奥の方が明度が高い。少し先は、見通しが良くなっているのだろう。
なかば凍った雪を踏みしめる音しかこの世にないような、そんな錯覚すら覚える静けさ。白く立ち昇る呼気が、静寂をより際立たせる。
顔の筋がこわばるような寒さも、防具の内側が毛皮で覆われているので、比較的快適にやり過ごせた。寒気よりもむしろ、腰の辺りがスカスカしていることの方が、身にしみた。剣帯が脱力してしまったように萎えているのも、余計にその感を増している。
馬車二台が並走できそうな広い道に出て、行くことしばし。全力で走れば、すぐにでもデニスを捕えられる位置にまで迫った。気配を極力殺している成果か、まだ気取られていない。日の下で、宿の親父がくすんだ金髪と評した髪の色が、はっきりと分かった。
空を振り仰ぐ。遠目に、頼もしい協力者がうなずくのが視認された。
スッと影が過り、盗人の進路を塞ぐ。短い悲鳴をあげて、彼女は一歩、二歩、後退った。
クルリと方向転換をする。走り出そうとしたところでレベッカに気がついて、自然、足が止まった。
「こないで!」
追い詰められたデニスは、グリフィンゆえか面を蒼白にしながらも、気丈に声を張りあげた。
魔剣の鞘を打ち払おうとする。その手を、懐へ踏み込んだレベッカが柄ごと押さえつけた。そのまま力ずくで奪おうとするが、その細腕からは予想もされなかった強い抵抗を受けた。
デニスが歯を食いしばりながら、睨めつけてくる。
クロリスの加勢は、期待できない。彼は高度な光魔法を使えないし、不安定な合成魔法は危険だ。この態勢では、彼女も巻き込まれる可能性がある。
ほんの少しで良い。隙を作れれば……。
「宿の親父が、大層心配為て居た。引き返す気には、成ら無いか?」
デニスの瞳が揺れる。が、
「ウソだ!そんなコト言って、この剣を取り戻したいだけなんだろ!」
溜め息をつく。
「折角、止めて呉れる者が居ると言うのに……。まあ、良い。けれども、一つ忠告を為て置いて行ろう。御前の心は、其れを本当に望んで居るのか?後悔為無いと、言い切れるのか?」
「アンタなんかに……あたしの何がわかるって言うのさ‼」
剣を引く手に、さらなる力が籠められる。腕は小刻みに震え、指先は白くなっている。もう感覚も覚束なくなってきているだろうに、それでも一向に抵抗が弱まらない。強固な意志が、そこにはあった。
「……全てを、等とは考えて居無いし、到底無理だ。只、わたしも嘗ては復讐に生きた。然して今、我が身は消せ無い罪に焼かれ、底知れぬ悔悟の沼に沈んで居る」
「――ないよ。わかるはずないじゃないか‼」彼女の言葉をさえぎるように響いた声は、悲鳴に近いものだった。「あんたはっ、あたしじゃないんだから」
唐突に、力が緩む。
体勢を崩すまいと、とっさに踏ん張った足は、雪にとられた。よろめく彼女を、鋭い蹴りが襲う。強引に半歩分体をひねって辛うじて避け、追撃を、苦しい跳躍でようやくかわす。
前髪が数本、地に落ちた。もちろん剣は、デニスの腕の中。片膝をつくに留められたのは、幸い……そう思わせるような、隙のない攻め方だった。
事態は再び、膠着する。だが、確実に悪化していた。先のやり取りで、挟み撃ちの構図が失われたのだ。褐色の巨獣を警戒してかまだその素振りはないが、デニスにとっては逃げやすくなったと言える。そして、相手は抜剣してしまっていた。あの剣の怖さは、自分が良く知っている。もはや、迂闊には懐に入れない。
迷う必要など、ないではないか。魔法を使えば片がつく。
睨み合う彼女の脳裏に、囁きが、響いた。
それは、デニスを殺すことと同義だ。
震えが走る。
いや。
レベッカは抵抗する。
まだ、手はあるはずだ。彼女の命を奪うことなく、剣を取り戻す方法が――。
(御前は、アンドヴァリと彼の女の命。何方が大事なのだ?)
冷ややかな囁きがこだまする。
(優先為可き物の為に、最も確かな手段を用いる。其れが道理では無いか)
冷や汗が噴き出る。
息が、詰まる。
「レベッカ、後ろ‼」
彼女を重圧から解放したのは、相棒の鬼気迫る警句と、新たに出現した気配だった。
疾る数条の銀光を短剣で叩き落とし、発生させた魔力の壁で後続を断つ。
クロリスはこの期に及んでもなお、加勢する気配がない。
かすかに苛立ちを滲ませて、
「例の魔法を――」
攻撃は、彼女の反応速度を上回っていた。
死角からの、迅速かつ無駄のない一撃が、レベッカを捉える。
視界の端に、くずおれていく相棒を納めながら、彼女もまた、沈むほかなかった。
§§§
黒髪の青年が地に伏すと、デニスは傍らの巨鳥を見上げた。
依然、攻撃を仕掛けてはこない。どうやら、賭けに勝ったようだ。
ふぅ、と吐息を吐き出して白刃を鞘にしまう。
虚飾の静寂が、姿を現した。
今はもう動かなくなった二人に向けられていた矢の群れは、ない。だが、撤収したわけではなかった。逡巡する気配が、ありありと伝わってきている。ひそやかに取り交される相談の声さえ、聞こえてきそうだった。
「出てきな、アンタ達。なにも、あたし相手に警戒することないでしょう?」
反応は、ない。息を殺して、じっとこちらを窺っている。
デニスはほんの少し肩をすくめると、倒れた二人の向こう、森の際に向かって剣を放る。
彼女の武器は、あれだけではない。剣はむしろ、わかりやすく脅せる道具として欲しかっただけだ。手放すのは惜しいが、騒ぎを起こさずに「砦」に入れるのなら、それに越したことはない。
「ホラ、これであたしは丸腰。たかだか女一人相手にこれでも姿見せないようじゃ、アンタら男じゃないよ」
挑発が効いたのか、はたまた、端からの段取りだったのか。
薄暗い木々の間から、手に手に武器を装備した若者が出現した。
ザッと十五人ほど。ほとんどが知った顔で、かつ、彼女より年下だ。同じ、あるいは年上はチラホラ。そもそも、この集団を構成する総勢三十人の構成員のうち、首魁であるフランクより年長なのはたったの数人だ。
「いやぁ、姐御は相変わらずの腕前で。ほれぼれしやすねぇ」
他よりも半歩ぐらい前へ出た一人が、口を開く。
へらへらとした、愛想笑い。知った顔だ。
「しばらくぶりだね、ピーター。皆も。達者でやってたかい?」
彼は、フランクの信もそれなりに厚い。間違いなく、この場の指導者だろう。様子から察するに、案の定、フランクは彼女にケジメをつけさせようとはしていないらしい。
「ええ、そりゃあもう。ノロマの商人どものおかげで、懐もあったかでさぁ」
応じながら目配せをして、倒れている二人のもとに人を遣らせる。連れ帰ろうというのか。普段のやり方とは異なるが、まあ、彼らがどうなろうと知ったことではない。
「それでー、今日はどういったご用件で来なすったんです?」
「アンタたちは、ちょっと居なかったぐらいで、仲間を客人扱いするようになったのかい。ようやっと野暮用を済ませて帰ってきたってのに、あんまりだねぇ。フランクから、聞いてないの?」
どこか凄みのある笑みを向ける。
ピーターはたじろいだように僅かに上体をそらし、首を千切れんばかりの勢いで振った。
「いいえェ、全くそんなこと、これっぽっちもございませんよォ。ただ、あんなことがあったばかりだから、姐御が心配で。なァ、みんな」
肩越しに視線を向けて同意を求めるのへ、周りにいる連中がてんでに頷く。
デニスは、フンと鼻を鳴らした。
「人が死んだくらいで、いまさら動揺なんかするもんかい。あたしはこの手で、幾人か殺してきてるんだよ?第一、あたしにとって大切なのはフランクだけ。家族なんてもんとは、とっくに縁を切っちまってるさね」
ピーターが、わざとらしく口笛を吹く。
「あいかわらず、お熱いことで。それはそうと、そこの野郎どもとはどういったご関係なんで?」
分かりきった質問にうんざりして、気怠く、
「アンタも、一部始終はみてたんでしょ?そいつが」縛られて転がされている、黒づくめの男へ顎をしゃくる。「いかにも高価そうな剣を堂々と吊るしてるのを、みかけてね。フランクへの土産に、ちょうどいいと思ってパクったのさ。そしたらそいつらが、執念深くこんなトコまで追っかけてきたってワケ。なんなら、アンタがもっていきな」
「そうですか?それじゃあ、ありがたくお預かりさせていただきます」
剣を回収すると、とりあえず彼女の処遇は保留としたようだ。根城まで供をすると、申し出た。
予想通り、通された部屋には監視がつけられた。しかも、わざわざドアがない部屋を選んで。だが、これはかえって彼女にとっては好都合だった。
(うう、さぶ)
監視の姿が見えるように、不自然でない程度に暖炉から離れた位置に座ったデニスは、小さく身を震わせた。
なにげない所作で、髪をまとめていたバレッタをはずし、軽く頭を振る。前に落ちかかってきた髪を払いのけながらバレッタを裏返すと、そこには青銅製で楕円形の飾り玉がついた細い針が、二本嵌っていた。飾り玉の中央には、めずらしい青ガラス。砕いたラピスラズリで彩色した透かし彫りに囲まれている。動かすと、飾り玉の内側に液体が入っていることが分かる。細工としては、美しい部類の一品だ。しかしこれは、幸か不幸か細工物ではなかった。
『抜楔』
つぶやくと、ガラスが微かな光を放つ。輝きが収まるのを待って、見張り目がけて投げつけた。
男は壁にもたれるようにして、ごくゆっくりと座り込む。
すり切れた絨毯の上を、そっと近づく。
彼は、事切れていた。そして、この死者を死者たらしめた凶器は、どこにも見当たらない。
デニスはそれを確認して、足早に離れた。
あの針には、仕掛けが施されている。呪文を解放して対象に突き刺すと、先端近くに空けられた穴から、飾り玉の猛毒の水が体内に注がれるのだ。針は用を果たすと、跡形もなく消える。いわゆる、暗殺用具だった。
目的の部屋に着いた。
すばやく左右に視線を走らせ、中に入る。
ここは、かつてフランクと出会って間もない頃に使っていた部屋。現在は彼女の私物置き場と化している。
(左、三。窓、三)
分厚く埃が積ったベッドに近寄り、壁の石を数えて引き抜く。現れた空洞には、木箱が孤独に置かれていた。
蓋を、そっと開ける。
中身は先程の針だ。
(二十本、ちゃんとあるね)
バレッタの裏にあった片割れを合流させて、前肘部に装着する。
この針は、とある仕事で懇意になった知人に作ってもらったものだ。製作費はかなりの額だったはずだが、彼はただ同然で売ってくれた。結局、今日に至るまで使うことはなかったのだけれども。まさか、こんな形で活躍の機会を与えることになろうとは……。
「ヒィ⁉し、死んでる……」
耳朶を打つ、悲鳴。喧騒。
デニスは、我に返った。
にわかに部屋の外が、騒がしくなる。
廊下から階段へ行くのは、きっと危険。
デニスは窓を開け、花を飾るために設けられた乏しい足場に乗った。脚力と腕力を併用して、屋根に身軽に飛びうつる。
雪が厄介だが、幸い、傾斜はさほどきつくはない。風も微風だ。気を抜かなければ、しくじることはないハズ。
うっとうしい髪の毛を手早くまとめあげてバレッタをし直すと、デニスは足を滑らせないように神経を集中させた。
§§§
「ずいぶんいい剣、持ってんじゃねぇか。ん?どっから掠めてきたんだ?チクらないでおいてやるから、吐いてみろよ」
品なく、にやついた顔を近づけてくる、薄汚れた服を着た三十路くらいの男。この男が、ごろつきどものリーダーのフランクだった。
彼も、彼に追従する者共も、刀身に目をくれたのなどほんの数秒。金、銀、宝石をあしらった拵えの華美さから与えられた評価だった。アンドヴァリに対する侮辱もいいところだ。
「兄貴ぃ、そいつぁ酷ってもんでしょう。猿ぐつわをはめられてちゃ、しゃべりたくてもしゃべれませんて」
「おお、そうだったな。悪ぃ悪ぃ」
安っぽい会話が飛びかう。
こうなってみると、クロリスが印章指輪を置いてきたのは不幸中の幸いだった。さもなくば、事態はとんでもなく大事に発展してしまったかもしれない。
「それで、この剣どうすんです?」
片ピアスの男が物欲しそうに剣の鞘をためつすがめつしながら、
「やっぱり、総帥に献上するんすか?」
「ギルシグ様に、か……」欲がたっぷりとこもった視線で、注視する。「あー、後でゆっくり考えるわ。とりあえず、おれの部屋に持ってっとけ。――さて、と。お待ちかねの、おまえたちの処分についてだが」
フランクは彼女の顎の下に短剣の鞘を当て、天井方向に力を加えた。あえてそれには逆らわず、代わりに、このチンピラを射貫く目差しに一層の力を籠める。
「ふん、なるほど」目を細めて、一人で納得する。「確かに、これはめったにお目にかかれねぇ逸品だな。残念ながら、おれにはソッチの趣味はねぇんだが、売っ払うまでの観賞用には悪くねぇかもな。……それにしても、もったいねぇなぁ。女だったら、このおれ直々に丁重に扱ってやるのによ」
そう言って、ひとしきり下卑た笑声をあげると、クロリスを向いた。
「さて、オマエさんについてだが……」
相棒の体が、びくりと震える。彼と付き合ってそれなりになるレベッカの目には、少々わざとらしいぐらいに。
「おう、よく分かってるみてぇじゃねぇか」
反応を楽しむように、抜いた短剣の刀身で彼の頬を軽くはたく。うっすらと、血が滲んだ。
「そうだ、オマエには商品としての価値はねぇ。つまり――」
逆手に持った凶器を振りかざす。
クロリスは身を縮こまらせ、哀願の瞳をごろつきに送る。
「くくっ。まあ、おれも慈悲深いからなぁ。よぅく話し合って、決めてやるよ。命拾い、するといいなぁ」
怯えきった獲物に唾を吐きつけると、フランクは手下どもを引き連れて去っていった。
§§§
昨日の事のように、鮮明に思い出す。ここがおれの城なんだ、と語る彼の横顔はとても無邪気で。
まだ、彼と彼女だけの場所で、不良集団の根城ではなかった頃のこと。
あれからもう、十年近くも経つ。ここは最早、彼女の第二の家。どこをどう通ればいいのかは、完璧に把握していた。
デニスは距離をザッと測り、慎重につま先を降ろしていく。寒さにかじかんだ手が、思い通りに言うことを聞いてくれず苦労したものの、何とか無事に足場を確保できた。
針を巧みに操って鎧戸と窓の鍵を外し、忍び込む。
ここは、この屋敷の前の主の部屋の一つ。今は、フランクの浴室として使われている。
そっと、主部屋をうかがう。
見慣れた姿は、ない。
あと二つある間にも、フランクは居なかった。
(ちっ、間が悪いね)
闇雲に捜し回っても、立場が悪化するだけ。適当なヤツを捕まえて、吐いてもらうしかない。
ホント、昔から行き当たりばったりだ。
苦笑を漏らしつつドアノブに触れようとしたデニスの手が、ピクリと震える。
誰か、来る。
一人だ。
(フランク!)
胸が、高鳴る。
自然、眉間に力がこもる。
が、
(これは……違うね)
聞こえてくる足音は、彼のものよりずっと軽かった。
居所がバレた――という訳ではないだろう。ならば、もっと戦力を用意するはずだ。
入り口から死角になる位置に潜み、気配を断つ。
扉が、開く。
背中が見えた。
素人目には、瞬く間の出来事だったに違いない。
青年の腰の短剣は、いつの間にか首筋に。
足蹴にされた扉の閉まる音が、時間差で響いた。
突きつけられた刃は、その冷たさを感じさせるために、肌に押し当てられている。そして、それを支える手には、震えがない。つまり迷いがないということだ。
チンピラながらに、いや、チンピラだからこそかもしれない。事の危険性を、理解してもらえたようだ。小さく息を呑むのが、さらに怯えが、伝わってきた。剣を持つ手が強く握られる。場にそぐわない――見方によっては、この上なく相応しくもあるのだが――豪奢な一振り――あの黒髪の男の剣だ。
「フランクは、どこだい」
「……地下。囚人の……ところ……」
あわれな被食者は震える唇で、ようやくそれだけの言葉を紡いだ。
デニスは首筋に、針を突き立てる。
腕の中の、重みが増す。
仕事ではなく、単なる私情のために殺しをしたことは、これまでない。
手慣れたこと。まして、善人とは言えない人物だ。
それでも、再び苦い味が広がった。
喉まで出かかった謝罪をすんでのところで飲み込んで、デニスは小声で魂の安寧を祈った。
屋敷の規模に比べて、人数は少ない。
誰よりも長く、ここに住まってきた彼女のことだ。広さと複雑さを利用して彼らを撹乱するのは、容易なことだった。それでも、念願の対面までこぎつけたときには、針は一本もなくなっていた。
いや、かえって丁度良かったのだ。
思う。
もう二度と、彼女がこれを使う日は訪れないのだから――。
さあ、ここからが本当の舞台。きっと今日までの人生の中で五本の指に入れてもいいぐらい、繊細な駆け引きが必要になるはず。
呼吸を整え気を引き締め直すと、デニスは彼と自分とを隔てる最後の障壁を、勢いよく押し開けた。
§§§
凍えるような寒さが、次第に響いてきた。室の壁には松明が点されてはいるが、部屋の広さに比べて余りにも儚すぎる存在だ。石造りであることも災いしている。
ここは元々、そういった目的の部屋であったらしい。鎖は錆びついていて使えなかったのか彼女たちの手足を拘束しているのは縄だったが、それらは壁に設けられた通し穴にしっかりと接続されている。お陰で、これみよがしに置かれている役立ちそうな道具にも、触れることは勿論、近づくことすらできなかった。
この状況を打開する方法は、ないでもない。声なしでの魔法の発動さえ行なえれば。ただ、そうするには相当の技量と、感性とでも言うべき特殊な才能が必要とされる。故をもって、魔法を行使する者を封じてしまうには発声を妨げればよい、と一般には認知されているのだ。
レベッカは、僅かな可能性に賭けてみることにした。
すべての雑念を払いのけ、普段は意識しないような些末な段階から、最大限の集中力で魔力を組み上げ、解き放つ。
力の流れる感覚。
しかしながら、それは奔流する前に、細く途切れてしまった。
技量というよりも、感性の問題か。けれども、これしか逃れる術はない。
再度意識を研ぎ澄まそうとした彼女の眉が、人の気配に跳ね上がる。
入ってきたのは、一人だけだった。囚人たちが無力だと踏んで、大胆になっているのだろう。事実、その通りなのだが。
「オマエの処遇が決まったぜぇ。教えてほしいか、ん?」
相棒がいかにも卑屈な態度で、媚びるようにチンピラを見つめる。
「そうだなぁ」にやつきながら、遊び甲斐のある玩具を覗き込む。「頭、下げてみな。そしたら、考えてやるよ」
飼い馴らされた犬のごとく、従順に命令に従った――
直後、鈍い音が響く。
うめきが漏れた。
「頭が高ぇぞ。下々のモンは、もっと下げるもんだろうが」
愉悦の表情で、クロリスの頭を踏みにじる――荒々しく戸が開かれたのは、その時だった。
「どうした。やっとあの女が――」
当の本人を目にして、言葉を失う。
会話の空白に、太く頑丈な錠前が下ろされる音が重なった。
訊きたいことがあるの、とデニスが数歩踏みだす。携えたアンドヴァリの装飾が、彼女の動きに合わせて煌めきを放つ。
仇と対面して、だが、彼女の物腰はいたって平静だった。
…………怖いくらいに。
それが、かえって危うさを秘めているように、レベッカには感じられた。
「よぉ、デニス」
彼の態度には、もはや動揺は垣間みえなかった。
「なんだ、そんなところで止まってないで、もっとよく顔みせろよ。久しぶりの再会なんだぜ?」
短剣を持つ手に、力がこもる。意図は明白だった。
それに気づいたのか、どうか。
デニスは恋人の言葉を無視して、続きを述べた。
「どうして、あたしの家族を殺ったの?」
「あぁん?んなの決まってんだろうが」
当たり前のことをわざわざ言わせるな、といった素振りで、
「ウザかったからだよ」
「ウザい?」
跳ね上がりそうになる声を、必死に押し殺して。それでも、握りしめた剣がかすかに震えた。表情は、笑うべきか。泣くべきか。その狭間で、中途半端に崩れかかっていた。
彼女の心を逆なでるように、フランクの科白がつながる。
「あの、クソじじい。店にきてオレを呼びだしたあげく、なんて言ったと思う?オマエを返さなければお上につきだす、とかつまんねぇ脅しをかけてきやがったんだ。それも、客の前でだぜ?んで、ムカついたからぶっ殺してやったってわけ。あー、あとオマエのお袋と妹な。まぁ、あのクソじじいがあんなだから、一緒になって余計なことをたくらんでやがるかもしれねぇってのもあったけど、一番の理由はアレだな。見せしめってヤツ?愉しかったぜぇ」口元を歪ませる。「特に妹が。今になって考えてみりゃ、惜しいことをしたかもな。ま、家族仲良くあの世へいけて、幸せだろ。でもなんつっても、オレはオマエのために労を割いてやったんだぜぇ。オマエ、親どものことウザがってたじゃねぇか。だから、喜ぶと思ったんだけどなー」
「フランク……」
デニスが、おもむろに顔を上げる。予想に反して、その瞳はただ苦悩によってのみ揺れていた。憎悪や、悲しみによってではなく。
零れ落ちた涙が、そっと頬を滑る。
「あたしはやっぱり、アンタを許せない」
魔剣の鞘を打ち払い、水平に振りかぶって投げつける。それを追うようにして、隠し持っていた武器を構えて疾る。心なしか、光沢の具合が普通の刃と違うようだ。もしかすると、何らかの薬物が塗ってあるのかもしれない。いずれにせよ、彼女の戦い方は、一度剣を交えた感触からするとやや違和感を感じるような、稚拙なやり口だった。迷い、なのだろうか。
次手の予想が容易にできる行動に鼻を鳴らして、フランクは飛んでくる剣を軽くいなそうとする。その判断は、的確なものだった――
アンドヴァリでさえなかったなら。
湿り気を帯びた鈍い音が、確かに耳に届いた。
剣は易々とごろつきの短剣を砕き、心臓を貫いていた。
驚愕の表情で身体に食い込んだ凶器を見下ろしたまま、数歩後ろによろめいて倒れ込む。それに、悲鳴が重なった。
武器を放り捨てて、恋人の下へと駆け寄る。もはや二度と動かない最愛の人をかき抱き、震える手でまぶたを閉じた。そして、そっと囁く。
「あたしは、アンタが憎い。けど……けど、どうしようもないくらい、好きだったから――だから、殺して欲しかった。アンタに、苦しみを終らせてもらいたかった」
息を吸い込むと、柔らかな笑みをたたえる。
流れる澄んだ滴が、その輪郭を縁どった。
「ごめんね。アタシも、すぐ逝くから――」
何故だろう。
まるで、吸い寄せられるように、レベッカは彼女の「死」から目が離せなかった。
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