夢幻の終焉

入江瑞溥

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罪科の現出

虚像

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 くぐもったうめき声。人の倒れる音。
(クロリス……!)
 僅かに気が乱れる。
 それを狙っていたかのように飛来する、水のやり
 体をひねってかろうじてかわす。荷袋をかすめた一撃が、中身を散乱させた。
 息つく暇もなく次々と撃ち込まれる矢を、後方に跳んでやり過ごす。
 と。
 クロリスを倒した気配が荷――というよりも、魔法書まほうしょに向かい始めた。
(させるか!)
 先ほどの攻撃で、彼女の方がやや距離が離れてしまっている。その上、妨害ぼうがいするように放たれる矢が、全力疾走しっそうはばむ。
 あと一歩――。 
 紙一重かみひとえの差で、相手の方が早かった。
 けれど、まだ、間に合う。
 踏み込む。
 右の二の腕に、矢が突き刺さった。
 反射的に引きそうになる腕を意志の力で制御して、剣を突き出す。
 が。
 矢でほんの一瞬動きが止まったことがわざわいして、必殺の一撃は敵を浅くとらえるだけに終わった。
 指笛ゆびぶえが吹き鳴らされる。
 敵が撤収する動きを始めた。
 レベッカは、チラとれが倒れているだろう方を一瞥いちべつして――駆けだした。
 相変あいかわらず引く気配のない魔力のきりは敵の姿を完全に覆ってしまっているが、たとえ視認できなくても、魔法書の魔力を辿れば追いかけられる。今ならば、追い付けないにしても探知可能圏内をはずされることはないはずだった。
 だが。
 いくらも行かないうちに、思惑おもわくは早くも狂うこととなった。魔法書の魔力がかき消えたのだ。しかも時を同じくして、逃亡とうぼう者たちは三方向に別れたようだった。
 三分さんぶんの一の確率。
 余りは良くはない。
 それでも、追求ついきゅうを続けることを選んだ彼女の前に、ホースケが割り込んできた。
「……分かった、御前おまえまかせる」言いたいことは、何となく伝わってきた。「クロリスを放って置く訳にも行か無いしな」
 軽くくちびるみ締めて、いまだ居座る未練の念をち切ると、レベッカは同行者の介抱かいほうに向かった。

 
 クロリスは、薬か何かをがされたらしい。
 外傷らしい外傷はなかったが、覚醒かくせいするまでにおよそ一日という時間を要した。
 同行者が動けるようになると、レベッカはホースケの報告を待たずに、当初の予定通りの道を進むことにした。襲撃者が逃げた方向がグリケノック方面だったということもあるし、なによりれの証言があった。彼によると、服装がグリケノックの流儀だったという。どのみち、かの国には用があるのだ。はずれていた場合には確かに痛いが、まったくの無駄足にはならない。それに、いよいよともなれば、取り返しがつかないこともない。そういう意味では、若干じゃっかんの優位があると言えた。
 長い夜が支配する冬は、曇天どんてんになってしまうと正確な時を把握はあくするのは難しい。そのような場合には、四回見張りを交代したら朝ということにしている。今朝けさはクロリスが最後だった。
 眠そうに欠伸あくびをしていた連れに声を掛けたレベッカは、とある変化に気づいた。
 クロリスの服装が、変わっていたのである。昨日まで着ていたローブは、旅をする者にとっては恐ろしく実用性を欠いた代物しろものであったのに、今は非常に常識的なものになっている。ピアスと両手の指輪は相変あいかわらずだが、二連も掛けていたネックレスは外しているので、全体的には以前より控え目か。
「もうすぐ国境だからね。あんなものでも一応軍服ぐんぷくだから、あれで他国に入ると色々とまずいだろう?まして、グリケノックとリルガースはそれほど仲が良いわけでもないし」
う言えば、良いのか?軍務の方は」
 共に旅をして、もう四カ月になろうとしている。休暇きゅうかにしても長いのではないか。
「ああ、まあ問題ないでしょう」
 指摘されて、初めて思い至ったらしい。意表を突かれたような面持おももちだった。
魔法隊ディゼンスだからね。それに、君のためになら惜しくはないかな」
 最後の方は軽く受け流して、かえりみる。
 土地はだいぶ上りになっていたので、薄明かりでも目を引く眼下がんかの黄金の、白っぽい広がりが一望できた。
(リルガースを、出るのか……)
 こうしてみると、やはりある種の感慨のようなものが湧きあがる。
 想像などできなかったし、そのような余地もなかった。
 あの閉じた、狭い村。行き場のない想いを抱え、殺すことにも殺されることにも無頓着むとんちゃくだった。
 外の世界に出て、得たものは多い――失ったものも。
 そう、この手は汚れている。その事実は、なかったことには出来ない。してはいけないのだ。
 握り締めた手に、力がこもる。
 冷えて強張こわばったほおに、ぬくもりが伝わった。
「君も大概たいがい自虐的じぎゃくてきだねぇ」頬杖ほおづえをつきながら、無関心そうに彼女を視界に収めていたクロリスが、鼻を鳴らす。「そろそろめたら?血がにじんでいるよ。君が自分をどうしようと僕が口をはさ筋合すじあいではないけれど、剣を握るのに支障が出ることだけはしないで欲しいね。僕の命もかっているんだから」
 ハッと顔を上げると、レベッカは不思議そうに涙の跡を辿った。


 三連山の中央の山に入った。ホースケは、まだ戻ってこない。
 運の悪いことに、この頃ちょうど雪が降ってしまい、彼女たちは足止めを余儀なくされた。ペンドックという町との分岐ぶんき路に立てられていた看板によると、作業はあと五日ほど掛かるらしい。
「クロリス、ペンドックと言うのはような町なのだ?」
 途上には、レベッカらの他にも商人や旅人らしい人影がいくつかあった。それらを見るともなしに見やりながら、
此処ここは、余り水事情は良く無いと思うのだが……」
「ここは大陸――と言っても、サザイライ=ロヴァール東部のことは知らないけれど――有数の石英せきえいの産地なんだよ。リルガースで使われているガラスの大部分、というより、ほぼすべてがここの石英を原材料としているんだ」
 おりよく町に到着したので、ザッと周囲を観察してみる。
 なるほど、このような奥まった場所にしては活気がある。刃物のようなこの空気に対抗するように黒煙こくえんを生産しているあれらは、加工場だろうか。
 レベッカたちと同じ理由でここに居る者も結構いるのか、それなりににぎやかな通りを宿へと急ぐ。このぶんでは、一杯になってしまっているかもしれない。
 と、その進路を妨害ぼうがいするかのように、角から人影が飛び出してきた。レベッカが迂回うかいしようとすると、その人物は手を突き出し、通せんぼをした。
 やむなく足を止め、鋭い調子で意図を問う。
 窓からの明かりと降り積もった雪の照り返しで、その人物の姿は割合はっきりと確認できた。
 女だ。
 彼女は、ほとんど懇願こんがんに近いものを瞳に浮かべてレベッカをあおぎ、訴えてきた。
「お願い、剣を貸して!そのわり、あたしの家に泊めてあげるから」
 レベッカは余りといえば余りにも突拍子とっぴょうしのない申し出に、しばし呆気あっけにとられて女を見据みすえた。
 その間に、女は彼女の両腕をしっかりと握ると、さらに言い寄ってくる。
「ねえ、頼むよ‼家族のかたきちたいんだ」
「仇を討つ、だと……」
 よぎったのは、復讐ふくしゅうを求めた旅の果てにおかした罪。漏れ出たのは、黄泉よみの底から響いてきたかのようなくらい声だった。
 その声音こわねに、そして、恐ろしい形相ぎょうそうに、女がビクッと身をすくませる。
 いな
 彼女の瞳には、もはや眼前がんぜんの女は映じていなかった。
 腕をつかんでいるのは、彼女と同じ顔で、こごえるような復讐への意志を目に宿した少女――彼女自身であった。
 レベッカは腕の傷が痛むのにもかまわず、その手を強く振り払い、
目障めざわりだ。わたしの前からとっととせろ!」
 女を突き飛ばすと、マントをひるがえして足早にあゆみ去った。

 
 何故なぜ
 レベッカは自分にまどっていた。
 近頃、たまにこんな風になる。まるで彼女から切り離されてしまったかのように、感情が一人歩きをするのだ。
 理解わかってはいた。幻影に過ぎない、と。それでも、情動はいともあっさりと理性を押し流してしまった。
 クロリスはこういうとき、余計な詮索せんさくをしてこない。こういう所が、このれの好ましい所だった。もしそうでなかったら、彼との旅はこんなに長く続きはしなかっただろう。
 宿は、酒場付きだった。
 足止めのさが溜まっているのだろう。まだ朝と呼べる時間だというのに、戸をくぐった二人はさっそく喧騒けんそうとアルコール臭に出迎えられることとなった。きっと、夕方には仕事帰りの坑夫こうふも加わり、さらに騒然とすることだろう。
 不幸中のさいわいにも、レベッカたちはギリギリ部屋を取ることができた。わりにあい部屋になってしまったが。
 だからその夜、かすかな音が聞こえたとき、同行者が帰ってきたのだろうと考えてしまったのは、無理からぬことだった。
 時刻は深夜ごろ。
 覚醒かくせいと休眠の狭間はざまで、しかし、そのおかしさに気がつく。
 余りにも、気配が無さすぎるのだ。
 ゆっくりとまぶたを押し開き――ちょうど、彼女の様子をうかがっていた何者かと、目が合ってしまった。
「やばっ」
 侵入者が、小さく声を漏らす。
 女のようだ。
 聞き覚えがあるようにも感じたが、ゆっくりと考えるいとまは与えられなかった。
 不審者は素早くくびすを返して、ひらりと窓から身をおどらせる。その腕に抱えられているのは、彼女の剣。
「待て!」
 無駄だと知りつつも一応そうさけんで、彼女も飛び降りる。
 武装していなかったので、つねよりは質量の総和が少なかったのが幸いしたのだろう。足をくじかず、無事地に立てた。
 追跡ついせきしつつ、レベッカはこの盗人ぬすっと今朝けさの女であることに思いいたった。
 女はあきらかに、只者ただものではなかった。凍りついて滑りやすい地面を軽々かるがると駆け抜け、狭い小路こうじたくみに利用して彼女をこうとする。
 義母にほどこされた修練の甲斐かいあってか足を取られるようなことはなかったものの、いかんせん土地かんがない。追いつめることは容易よういではなかった。とはいえ、れぬ剣を抱えているためか、しばらくすると女にも疲れが見え始めた。ここぞとばかりに追い上げて、あと二メートルほどに迫る。
 女がチラッと彼女を振り向いた。
 かすかにした打ちの音を響かせ、何かを投げつけてくる。街灯がいとうのない、頼りない光源のもとで視認し得た範囲では、黒い小さな物体だった。
 正体しょうたい不明ということもあり、レベッカは、ほぼ反射的にこの物体を横っ飛びにかわす。それとほぼ一緒に、謎の物体が派手はでな音を立てて四散しさんした。
 自分を襲ってくるだろう圧力を予想し受け身を取ったレベッカは、しかし、なかなかやって来ない衝撃と、そして、その代わりであるかのように漂ってくるげ臭い臭いとに眉をひそめて、そっと目を開けた。
 あたり一面には、もうもうと白煙はくえんがたちめている。
(仕舞った、目眩めくらましか!)
 我知らず、奥歯をみしめる。
 爆音を聞きつけた近くの家々の明かりがけむり越しにぼんやりとともり、わらわらと野次馬やじうまが集まってきはじめた。煙幕えんまくはすでに行動に支障をきたさない程度に終息しゅうそくしてきてはいたが、女の姿も完全に消失していた。


 軽い運動でもたらされた火照ほてりも、大量の冷気によって、たちまちの内に奪われた。こごえた四肢ししには、アルコール臭に満ちたこの場のぬくもりでさえ、心地ここちよく思える。
「君、大丈夫だいじょうぶ?」
 宿の前で偶然はち合わせたれに事情を説明したところ、彼は肩をすくませながらこう言った。
魔法書まほうしょを失うのみならず、剣も盗まれるとはね。もう駄目なんじゃないかな。いっその事こんな事はめて、村でも町でも好きな所に落ち着いたら?」
 沈痛ちんつう面持おももちでこうべれる彼女のほおを、空気の動きに合わせて蝋燭ろうそく熱気ねっきがいく度もなで過ぎていく。
「お客さん、剣を盗まれたのかい?」
 連れのグラスにワインをそそいでいた宿の親父おやじが、反応を示した。
「もしかして、その盗人ぬすっとってのは、くすんだ金色の髪の女の子じゃなかったかい?」
 だいたい、こっちのお兄さんと同じ年の頃の、と補足する。
「日の光の下で見た訳では無いから、髪の色までは良く分から無かったが……」あごに手をやって、二度の遭遇の場面を脳裏のうりに描く。「りそうな人物に心当たりが有るのか?」
 親父は眉をひそめると、部分部分が白くなった口ひげの奥で、ああ、やっぱり、とつぶやいた。
「あの子、デニスちゃんの家とは昔からのつきあいでね。小さい時からよく知っている。好奇心旺盛おうせいで、心根こころねのまっすぐな子だったよ――」
 けれども、その好奇心がわざわいの種だったのかもしれない。
 若者にありがちな都会への無防備なあこがれを、彼女もまた、いだいていた。デニスは両親との約束を反故ほごにし、のぞいてはいけない世界を覗いてしまったのだという。
 悪い男に捕まった彼女は、放蕩三昧ほうとうざんまいの日々を過ごした。
 それだけなら、まだ良かったのだ。デニスは、ついには悪事にも手を染めるようになってしまった。
 連絡の途絶とだえた娘を心配する両親が、彼女の所業を風の便たよりに聞いたのは、随分ずいぶんな年月がってからのことだった。デニスの両親は娘を連れ戻すために、あたう限りの手を尽くした。彼もそんな彼らの相談に乗ったり、あるいは職業柄できた伝手つてを頼っての協力を惜しまなかった。だが、なしのつぶてだった。
 そして半月はんつきほど前。彼女の家族が、殺された。
 下手人げしゅにんは、くだんのデニスの恋人。とはいっても、この事を彼が知ったのは、彼女本人の口より聞いてからだった。
「――大層たいそう寒い日で、外は吹雪ふぶいていた。ウチに入ってきたデニスちゃんは真っさおで、ガタガタと震えていたよ。あの子はひと通りの事情をおれに話すと、こう言ってきたんだ。『わたしはお父さんとお母さん、そして、妹のかたきちたい。だから、武器を持っていたら貸して欲しい』と。おれは、ばかな考えは捨てるよう説得しようとした。けど、あの子は傷ついた表情をすると、ふらふらの体で飛び出していっちまったんだ。止めるヒマもなかったよ。それからだ。デニスちゃんが道行く旅人に声をかけて回っている、というウワサがつようになったのは。おれも何回か見かけて、なんとか気を変えてもらおうとしたんだが、あれ以来、避けられちまっててな……。そうか、剣を……。お客さん、できる範囲でかまわねぇ、あの子の目をまさせてやってくんねぇかい。このままじゃきっと、殺されっちまう」
 親父の頼みを、レベッカは曖昧あいまい承諾しょうだくした。
 正直しょうじき、デニスとやらを変心させられる可能性は低いだろう。復讐ふくしゅうに駆られた人間を立ち直らせるのは、容易よういな事ではない……余程よほどのきっかけがなければ。
「それで、そのデニスっての居所について、心当たりはない?」
 クロリスが尋ねる。
「うーん、こんな時間に町の外に出られるハズねぇしなぁ」親父が右手で髭をしごきながら、考え込む。「とりあえず、デニスちゃんの家を教えるよ」
 丁寧ていねいに場所を説明すると、親父は仕事に戻っていった。


 デニスの家は、レベッカが彼女を見失った地点から、そう遠くない場所であった。外から気配をうかがうに、人がいる感じではない。あれだけの立ち回りを演じた人間だ。無防備にも寝ているなどという事は、考えにくいが……。
 息をひそめて戸に近づき、慎重に押してみる。かぎはかかっておらず、戸は抵抗することなく内へずれた。こうなると、留守るすの可能性はいよいよ高い。
「居無いようだが、一応中を調べて見るか」
「まるで泥棒どろぼうだね」肩をすくませ、こぼす。「まあでも、君なら上から下までほとんど真っ黒だから目立たないし、うってつけか」
 家畜を飼っていたようで、懐かしい臭いが嗅覚きゅうかくを刺激した。にわとりだろう。
 やはり、無人だ。人のいた形跡けいせきすらない。
 中はとてもきれいに片づけられていた。ほんの半月はんつきしかっていないというのに、惨劇さんげきを想起させるようなものは、一見いっけんしたところない。デニスの振る舞いを考えれば、家財はもちろん家すら売り払われてしまっていても、おかしくはないはずだ。そうでないのは、おそらく近所の人々の厚意こうい賜物たまものだろう。
 ひと通り捜索してはみたものの、やはり剣は発見できなかった。想定内のことであるとはいえ、あせりと苛立いらだちは、どうしようもなく込み上げてくる。
 他の適当な場所に潜伏せんぷくしているのか。それとも、町の外に出て行ったのだろうか……。
「取りえず、帰って休んだらどうだい。現状でやれることは、もうないんだしさ」
 レベッカは大きく息を吸い込む。
 そうだ。目的がはっきりしただけマシなのだ。行き先は、しぼられたのだから。

 
れにしても、良く付いて来たな」
 吐息といきが薄明かりにぼんやりと浮かんでは消えゆくのを見るともなしに見やりながら、ポツリと漏らす。それは問いかけというより、本当に偶然漏れ出たものだった。だかられからあいの手が返ってきた時、彼女は少々驚いて顔を向けた。
「そりゃあ、君をひとりにしておけるわけないじゃないか。見るからに無茶しそうな表情かおしてさ」
「余計な気は回さ無くて良い」連れの微笑ほほえみをかしながら、苦笑くしょう混じりにレベッカ。「研究に差しさわりが出る事が心配だったのだろう?」
 クロリスのことだ。ダルクト王家に魔法書まほうしょが存在しないということを知っていたとしても、不思議ではない。それに、彼にとっての利益はもう一つある。王家の魔法は、現代の一般的な魔法の習得法とは違うようなのだ。つまり、彼女と共に居れば――推測をまじえることもあるにせよ――魔法書の記述を解析かいせきする手間もはぶける、というわけだ。事実、レベッカは何度か助言を与えたことがあった。
「そうだね」首を振ると、あっさりと認める。「君にこういったたぐい手管てくだは意味がないみたいだしね」
 彼は、どこまでも正直しょうじきな男だ。だからこそ、信頼できた。


 宿の親父おやじによると、デニスの恋人、フランクはふだつきのわるで、野盗まがいのこともやっているらしい。この町から東、リソーンという町の途中にある貴族の別荘べっそう跡地あとち根城ねじろなのではないかと、旅人や商人の間ではうわさされているそうだ。
 レベッカは心づけを十二分じゅうにぶんに払い、さらに、丁重ていちょうに礼を述べて宿を出た。
 外は、白ぼやけた光で満たされていた。正面の空はやがて来る太陽に染め上げられて、もも色とあかつき色に輝いている。街道かいどう封鎖ふうさにより地元民しか知らない脇道わきみちを利用しなければならないということもあって、このような時間まで待たざるを得なかった。
 デニスが昨夜町をったとして、この寒い中、よもや悪路を休みなく進んではいないだろうが……。はたして、土地かんのない彼女らが追いつけるだけの余裕よゆうたり得るか、どうか。


 迂回路うかいろは、ほとんどけもの道のようなものであった。あまり迷いなく進むことができたのは宿の親父おやじの説明、そして、人の行き来がそれなりにあったお陰だ。しかしながら、デニスの姿をとらえられたのは四日も後、別荘べっそう跡地あとちへと続く細道に差しかかってからのことであった。針葉樹しんようじゅ小暗おぐらやみの中に浮かぶ道は、奥の方が明度が高い。少し先は、見通しが良くなっているのだろう。
 なかば凍った雪を踏みしめる音しかこの世にないような、そんな錯覚さっかくすら覚える静けさ。白く立ち昇る呼気が、静寂せいじゃくをより際立きわだたせる。
 顔のすじがこわばるような寒さも、防具の内側が毛皮で覆われているので、比較的快適にやり過ごせた。寒気かんきよりもむしろ、腰のあたりがスカスカしていることの方が、身にしみた。剣帯けんたいが脱力してしまったようにえているのも、余計にその感を増している。
 馬車ばしゃ二台が並走へいそうできそうな広い道に出て、行くことしばし。全力で走れば、すぐにでもデニスをとらえられる位置にまで迫った。気配を極力殺している成果か、まだ気取けどられていない。日のもとで、宿の親父がくすんだ金髪と評した髪の色が、はっきりと分かった。
 空を振りあおぐ。遠目に、頼もしい協力者がうなずくのが視認された。
 スッと影がよぎり、盗人ぬすっとの進路をふさぐ。短い悲鳴をあげて、彼女は一歩、二歩、後退あとじさった。
 クルリと方向転換をする。走り出そうとしたところでレベッカに気がついて、自然、足が止まった。
「こないで!」
 追い詰められたデニスは、グリフィンゆえかおもて蒼白そうはくにしながらも、気丈きじょうに声を張りあげた。
 魔剣のさやを打ち払おうとする。その手を、ふところへ踏み込んだレベッカがつかごと押さえつけた。そのまま力ずくで奪おうとするが、その細腕からは予想もされなかった強い抵抗を受けた。
 デニスが歯を食いしばりながら、めつけてくる。
 クロリスの加勢は、期待できない。彼は高度な光魔法ひかりまほうを使えないし、不安定な合成魔法は危険だ。この態勢では、彼女も巻き込まれる可能性がある。
 ほんの少しで良い。隙を作れれば……。
「宿の親父が、大層たいそう心配て居た。引き返す気には、ら無いか?」
 デニスの瞳が揺れる。が、
「ウソだ!そんなコト言って、この剣を取り戻したいだけなんだろ!」
 溜め息をつく。
折角せっかく、止めてれる者が居ると言うのに……。まあ、良い。けれども、一つ忠告を為て置いてろう。御前おまえの心は、れを本当に望んで居るのか?後悔こうかい為無いと、言い切れるのか?」
「アンタなんかに……あたしの何がわかるって言うのさ‼」
 剣を引く手に、さらなる力がめられる。腕は小刻みに震え、指先は白くなっている。もう感覚も覚束おぼつかなくなってきているだろうに、それでも一向いっこうに抵抗が弱まらない。強固な意志が、そこにはあった。
「……すべてを、などとは考えて居無いし、到底無理だ。ただ、わたしもかつては復讐ふくしゅうに生きた。して今、我が身は消せ無い罪に焼かれ、底知れぬ悔悟の沼に沈んで居る」
「――ないよ。わかるはずないじゃないか‼」彼女の言葉をさえぎるように響いた声は、悲鳴に近いものだった。「あんたはっ、あたしじゃないんだから」
 唐突に、力が緩む。
 体勢を崩すまいと、とっさに踏ん張った足は、雪にとられた。よろめく彼女を、鋭いりが襲う。強引ごういんに半歩分体をひねってかろうじて避け、追撃を、苦しい跳躍でようやくかわす。
 前髪が数本、地に落ちた。もちろん剣は、デニスの腕の中。片膝かたひざをつくにとどめられたのは、さいわい……そう思わせるような、隙のない攻め方だった。
 事態は再び、膠着こうちゃくする。だが、確実に悪化あっかしていた。先のやり取りで、はさちの構図が失われたのだ。褐色かっしょく巨獣きょじゅうを警戒してかまだその素振そぶりはないが、デニスにとっては逃げやすくなったと言える。そして、相手は抜剣ばっけんしてしまっていた。あの剣の怖さは、自分が良く知っている。もはや、迂闊うかつには懐に入れない。
 
 迷う必要など、ないではないか。魔法を使えば片がつく。
 
 にらみ合う彼女の脳裏のうりに、ささやきが、響いた。
 
 それは、デニスを殺すことと同義だ。
 
 震えが走る。
 
 いや。
 レベッカは抵抗する。
 まだ、手はあるはずだ。彼女の命を奪うことなく、剣を取り戻す方法が――。

(御前は、アンドヴァリとの女の命。何方どちらが大事なのだ?)
 冷ややかな囁きがこだまする。
(優先き物のために、もっとも確かな手段をもちいる。其れが道理では無いか)  
 
 冷や汗がき出る。

 息が、詰まる。

「レベッカ、後ろ‼」
 彼女を重圧から解放したのは、相棒あいぼう鬼気きき迫る警句と、新たに出現した気配だった。
 はしる数条の銀光ぎんこうを短剣でたたき落とし、発生させた魔力の壁で後続をつ。
 クロリスはこのおよんでもなお、加勢する気配がない。
 かすかに苛立いらだちをにじませて、
「例の魔法を――」
 攻撃は、彼女の反応速度を上回うわまわっていた。
 死角しかくからの、迅速じんそくかつ無駄のない一撃が、レベッカを捉える。
 視界の端に、くずおれていく相棒をおさめながら、彼女もまた、沈むほかなかった。

                  §§§

 黒髪の青年が地に伏すと、デニスはかたわらの巨鳥を見上げた。
 依然、攻撃を仕掛けてはこない。どうやら、けに勝ったようだ。
 ふぅ、と吐息といきき出して白刃はくじんさやにしまう。
 虚飾の静寂せいじゃくが、姿をあらわした。
 今はもう動かなくなった二人に向けられていた矢のれは、ない。だが、撤収したわけではなかった。逡巡しゅんじゅんする気配が、ありありと伝わってきている。ひそやかに取りかわされる相談の声さえ、聞こえてきそうだった。
「出てきな、アンタ達。なにも、あたし相手に警戒することないでしょう?」
 反応は、ない。息を殺して、じっとこちらをうかがっている。
 デニスはほんの少し肩をすくめると、倒れた二人の向こう、森のきわに向かって剣を放る。
 彼女の武器は、あれだけではない。剣はむしろ、わかりやすくおどせる道具として欲しかっただけだ。手放すのは惜しいが、騒ぎを起こさずに「とりで」に入れるのなら、それに越したことはない。
「ホラ、これであたしは丸腰まるごし。たかだか女一人相手にこれでも姿見せないようじゃ、アンタら男じゃないよ」
 挑発がいたのか、はたまた、はなからの段取だんどりだったのか。
 薄暗い木々の間から、手に手に武器を装備した若者が出現した。
 ザッと十五人ほど。ほとんどが知った顔で、かつ、彼女より年下だ。同じ、あるいは年上はチラホラ。そもそも、この集団を構成する総勢そうぜい三十人の構成員のうち、首魁しゅかいであるフランクより年長ねんちょうなのはたったの数人だ。
「いやぁ、姐御あねごは相変わらずの腕前で。ほれぼれしやすねぇ」
 他よりも半歩ぐらい前へ出た一人が、口を開く。
 へらへらとした、愛想笑い。知った顔だ。
「しばらくぶりだね、ピーター。みんなも。達者たっしゃでやってたかい?」
 彼は、フランクの信もそれなりに厚い。間違いなく、この場の指導者だろう。様子から察するに、案のじょう、フランクは彼女にをつけさせようとはしていないらしい。
「ええ、そりゃあもう。ノロマの商人どものおかげで、ふところもあったかでさぁ」
 応じながら目配めくばせをして、倒れている二人のもとに人をらせる。れ帰ろうというのか。普段のやりかたとは異なるが、まあ、彼らがどうなろうと知ったことではない。
「それでー、今日はどういったご用件で来なすったんです?」
「アンタたちは、ちょっと居なかったぐらいで、仲間を客人扱いするようになったのかい。ようやっと野暮やぼ用を済ませて帰ってきたってのに、あんまりだねぇ。フランクから、聞いてないの?」
 どこかすごみのある笑みを向ける。
 ピーターはたじろいだように僅かに上体をそらし、首を千切ちぎれんばかりの勢いで振った。
「いいえェ、まったくそんなこと、これっぽっちもございませんよォ。ただ、あんなことがあったばかりだから、姐御が心配で。なァ、みんな」
 肩越しに視線を向けて同意を求めるのへ、まわりにいる連中がてんでにうなずく。
 デニスは、フンと鼻を鳴らした。
「人が死んだくらいで、いまさら動揺どうようなんかするもんかい。あたしはこの手で、幾人いくにんか殺してきてるんだよ?第一、あたしにとって大切なのはフランクだけ。家族なんてもんとは、とっくに縁を切っちまってるさね」
 ピーターが、わざとらしく口笛くちぶえを吹く。
「あいかわらず、お熱いことで。それはそうと、そこの野郎やろうどもとはどういったご関係なんで?」
 分かりきった質問にうんざりして、気怠けだるく、
「アンタも、一部始終しじゅうはみてたんでしょ?そいつが」しばられてころがされている、黒づくめの男へあごをしゃくる。「いかにも高価そうな剣を堂々どうどうるしてるのを、みかけてね。フランクへの土産みやげに、ちょうどいいと思ってパクったのさ。そしたらそいつらが、執念深しゅうねんぶかくこんなトコまで追っかけてきたってワケ。なんなら、アンタがもっていきな」
「そうですか?それじゃあ、ありがたくお預かりさせていただきます」
 剣を回収すると、とりあえず彼女の処遇は保留としたようだ。根城ねじろまでともをすると、申し出た。


 予想通り、通された部屋には監視かんしがつけられた。しかも、わざわざドアがない部屋を選んで。だが、これはかえって彼女にとっては好都合こうつごうだった。
(うう、さぶ)
 監視の姿が見えるように、不自然でない程度に暖炉だんろから離れた位置に座ったデニスは、小さく身を震わせた。
 なにげない所作しょさで、髪をまとめていたバレッタをはずし、軽く頭を振る。前に落ちかかってきた髪を払いのけながらバレッタを裏返すと、そこには青銅せいどう製で楕円形だえんけいの飾り玉がついた細い針が、二本はまっていた。飾り玉の中央には、めずらしい青ガラス。くだいたラピスラズリで彩色したかし彫りに囲まれている。動かすと、飾り玉の内側に液体が入っていることがかる。細工さいくとしては、美しい部類の一品だ。しかしこれは、幸か不幸か
抜楔ばっせつ
 つぶやくと、ガラスがかすかな光を放つ。かがやきが収まるのを待って、見張り目がけて投げつけた。
 男は壁にもたれるようにして、ごくゆっくりと座り込む。
 すり切れた絨毯じゅうたんの上を、そっと近づく。
 彼は、事切れていた。そして、この死者を死者たらしめた凶器きょうきは、どこにも見当たらない。
 デニスはそれを確認して、足早に離れた。
 あの針には、仕掛けがほどこされている。呪文じゅもんを解放して対象に突き刺すと、先端近くにけられたあなから、飾り玉の猛毒もうどくの水が体内にそそがれるのだ。針は用を果たすと、跡形あとかたもなく消える。いわゆる、暗殺あんさつ用具だった。
 目的の部屋に着いた。
 すばやく左右に視線を走らせ、中に入る。
 ここは、かつてフランクと出会って間もない頃に使っていた部屋。現在は彼女の私物しぶつ置き場と化している。
(左、三。窓、三)
 分厚ぶあつほこりつもったベッドに近寄り、壁の石を数えて引き抜く。あらわれた空洞くうどうには、木箱が孤独に置かれていた。
 ふたを、そっと開ける。
 中身は先程さきほどの針だ。
(二十本、ちゃんとあるね)
 バレッタの裏にあった片割れを合流させて、前肘ぜんちゅう部に装着する。
 この針は、とある仕事で懇意こんいになった知人に作ってもらったものだ。製作費はかなりの額だったはずだが、彼はただ同然で売ってくれた。結局、今日にいたるまで使うことはなかったのだけれども。まさか、こんな形で活躍の機会を与えることになろうとは……。
「ヒィ⁉し、死んでる……」
 耳朶じだを打つ、悲鳴。喧騒けんそう
 デニスは、我に返った。
 にわかに部屋の外が、騒がしくなる。
 廊下ろうかから階段へ行くのは、きっと危険。
 デニスは窓を開け、花を飾るためにもうけられたとぼしい足場に乗った。脚力きゃくりょく腕力わんりょく併用へいようして、屋根に身軽に飛びうつる。
 雪が厄介やっかいだが、さいわい、傾斜けいしゃはさほどきつくはない。風も微風だ。気を抜かなければ、しくじることはないハズ。
 うっとうしい髪の毛を手早てばやくまとめあげてバレッタをし直すと、デニスは足をすべらせないように神経を集中させた。

                  §§§

「ずいぶんいい剣、持ってんじゃねぇか。ん?どっからかすめてきたんだ?チクらないでおいてやるから、いてみろよ」
 品なく、にやついた顔を近づけてくる、薄汚れた服を着た三十路みそじくらいの男。この男が、ごろつきどものリーダーのフランクだった。
 彼も、彼に追従ついじゅうする者共も、刀身とうしんに目をくれたのなどほんの数秒。金、銀、宝石をあしらったこしらえの華美さから与えられた評価だった。アンドヴァリに対する侮辱ぶじょくもいいところだ。
兄貴あにきぃ、そいつぁ酷ってもんでしょう。さるぐつわをはめられてちゃ、しゃべりたくてもしゃべれませんて」
「おお、そうだったな。わりぃ悪ぃ」
 安っぽい会話が飛びかう。
 こうなってみると、クロリスが印章指輪を置いてきたのは不幸中のさいわいだった。さもなくば、事態はとんでもなく大事に発展してしまったかもしれない。
「それで、この剣どうすんです?」
 片ピアスの男が物欲しそうに剣のさやをためつすがめつしながら、
「やっぱり、総帥そうすい献上けんじょうするんすか?」
「ギルシグ様に、か……」欲がたっぷりとこもった視線で、注視する。「あー、後でゆっくり考えるわ。とりあえず、おれの部屋に持ってっとけ。――さて、と。お待ちかねの、おまえたちの処分についてだが」
 フランクは彼女のあごの下に短剣の鞘を当て、天井てんじょう方向に力を加えた。あえてそれにはさからわず、わりに、このチンピラを射貫いぬ目差まなざしに一層の力をめる。
「ふん、なるほど」目を細めて、一人で納得する。「確かに、これはめったにお目にかかれねぇ逸品いっぴんだな。残念ながら、おれにはソッチの趣味はねぇんだが、売っぱらうまでの観賞用には悪くねぇかもな。……それにしても、もったいねぇなぁ。女だったら、このおれ直々じきじきやるのによ」
 そう言って、ひとしきり下卑げびた笑声をあげると、クロリスを向いた。
「さて、オマエさんについてだが……」
 相棒あいぼうの体が、びくりと震える。彼と付き合ってそれなりになるレベッカの目には、少々わざとらしいぐらいに。
「おう、よく分かってるみてぇじゃねぇか」
 反応を楽しむように、抜いた短剣の刀身で彼のほおを軽くはたく。うっすらと、血がにじんだ。
「そうだ、商品としての価値はねぇ。つまり――」
 逆手に持った凶器きょうきを振りかざす。
 クロリスは身を縮こまらせ、哀願あいがんの瞳をごろつきに送る。
「くくっ。まあ、おれも慈悲じひ深いからなぁ。よぅく話し合って、決めてやるよ。命拾い、するといいなぁ」
 おびえきった獲物えものつばを吐きつけると、フランクは手下どもを引きれて去っていった。
 
                  §§§

 昨日の事のように、鮮明に思い出す。ここがおれの城なんだ、と語る彼の横顔はとても無邪気で。
 まだ、彼と彼女だけの場所で、不良集団の根城ねじろではなかった頃のこと。
 あれからもう、十年近くもつ。ここは最早もはや、彼女の第二の家。どこをどう通ればいいのかは、完璧かんぺき把握はあくしていた。
 デニスは距離をザッと測り、慎重につま先を降ろしていく。寒さにかじかんだ手が、思い通りに言うことを聞いてくれず苦労したものの、何とか無事に足場を確保できた。
 針をたくみに操って鎧戸よろいどと窓のかぎはずし、しのび込む。
 ここは、この屋敷の前の主の部屋の一つ。今は、フランクの浴室として使われている。
 そっと、しゅ部屋をうかがう。
 見慣みなれた姿は、ない。
 あと二つあるにも、フランクは居なかった。
(ちっ、が悪いね)
 闇雲やみくもに捜し回っても、立場が悪化するだけ。適当なヤツを捕まえて、いてもらうしかない。
 ホント、昔から行き当たりばったりだ。
 苦笑を漏らしつつドアノブにれようとしたデニスの手が、ピクリと震える。
 
 誰か、来る。

 一人だ。

(フランク!)
 胸が、高鳴る。
 自然、眉間みけんに力がこもる。
 が、
(これは……違うね)
 聞こえてくる足音は、彼のものよりずっと軽かった。
 居所がバレた――というわけではないだろう。ならば、もっと戦力を用意するはずだ。
 入り口から死角しかくになる位置にひそみ、気配をつ。
 
 扉が、開く。
 背中が見えた。
 
 素人しろうと目には、またたく間の出来事だったに違いない。
 青年の腰の短剣は、いつの間にか首筋くびすじに。
 足蹴あしげにされた扉の閉まる音が、時間差で響いた。
 突きつけられたやいばは、その冷たさを感じさせるために、肌に押し当てられている。そして、それを支える手には、震えがない。つまり迷いがないということだ。
 チンピラながらに、いや、チンピラだからこそかもしれない。事の危険性を、理解してもらえたようだ。小さく息をむのが、さらにおびえが、伝わってきた。剣を持つ手が強く握られる。場にそぐわない――見方みかたによっては、この上なく相応ふさわしくもあるのだが――豪奢ごうしゃ一振ひとふり――あの黒髪の男の剣だ。
「フランクは、どこだい」
「……地下。囚人しゅうじんの……ところ……」
 あわれな被食者は震えるくちびるで、ようやくそれだけの言葉をつむいだ。
 デニスは首筋に、針を突き立てる。
 腕の中の、重みが増す。
 仕事ではなく、単なる私情しじょうのために殺しをしたことは、これまでない。
 手慣てなれたこと。まして、善人とは言えない人物だ。
 それでも、再び苦い味が広がった。
 のどまで出かかった謝罪をすんでのところで飲み込んで、デニスは小声でたましい安寧あんねいを祈った。


 屋敷の規模に比べて、人数は少ない。
 誰よりも長く、ここに住まってきた彼女のことだ。広さと複雑さを利用して彼らを撹乱かくらんするのは、容易よういなことだった。それでも、念願の対面までこぎつけたときには、針は一本もなくなっていた。
 
 いや、かえって丁度ちょうど良かったのだ。
 
 思う。
 
 もう二度と、彼女がこれを使う日はおとずれないのだから――。
 
 さあ、ここからが本当の舞台ぶたい。きっと今日までの人生の中で五本の指に入れてもいいぐらい、繊細せんさいな駆け引きが必要になるはず。
 呼吸をととのえ気を引き締め直すと、デニスは彼と自分とをへだてる最後の障壁を、勢いよく押し開けた。
 
                  §§§

 こごえるような寒さが、次第しだいに響いてきた。室の壁には松明たいまつともされてはいるが、部屋の広さに比べて余りにもはかなすぎる存在だ。石造りであることもわざわいしている。
 ここは元々、そういった目的の部屋であったらしい。くさりびついていて使えなかったのか彼女たちの手足を拘束こうそくしているのはなわだったが、それらは壁にもうけられた通しあなにしっかりと接続されている。お陰で、これみよがしに置かれている役立ちそうな道具にも、れることは勿論もちろん、近づくことすらできなかった。
 この状況を打開する方法は、ないでもない。声なしでの魔法の発動さえ行なえれば。ただ、そうするには相当の技量と、感性とでも言うべき特殊な才能が必要とされる。ゆえをもって、魔法を行使する者をふうじてしまうには発声はっせいさまたげればよい、と一般には認知されているのだ。
 レベッカは、僅かな可能性にけてみることにした。
 すべての雑念を払いのけ、普段は意識しないような些末さまつな段階から、最大限の集中力で魔力を組み上げ、解き放つ。
 力の流れる感覚。
 しかしながら、それは奔流ほんりゅうする前に、細く途切れてしまった。
 技量というよりも、感性の問題か。けれども、これしかのがれるすべはない。
 再度意識をぎ澄まそうとした彼女のまゆが、人の気配に跳ね上がる。
 入ってきたのは、一人だけだった。囚人しゅうじんたちが無力だと踏んで、大胆だいたんになっているのだろう。事実、その通りなのだが。
「オマエの処遇が決まったぜぇ。教えてほしいか、ん?」
 相棒がいかにも卑屈ひくつな態度で、びるようにチンピラを見つめる。
「そうだなぁ」にやつきながら、遊び甲斐がいのある玩具おもちゃのぞき込む。「頭、下げてみな。そしたら、考えてやるよ」
 飼いらされた犬のごとく、従順に命令に従った――
 直後、にぶい音が響く。
 うめきが漏れた。
たけぇぞ。下々しもじものモンは、もっと下げるもんだろうが」
 愉悦ゆえつの表情で、クロリスの頭を踏みにじる――荒々あらあらしく戸が開かれたのは、その時だった。
「どうした。やっとあの女が――」
 当の本人を目にして、言葉を失う。
 会話の空白くうはくに、太く頑丈な錠前じょうまえが下ろされる音がかさなった。
 きたいことがあるの、とデニスが数歩踏みだす。たずさえたアンドヴァリの装飾そうしょくが、彼女の動きに合わせてきらめきを放つ。
 かたきと対面して、だが、彼女の物腰ものごしはいたって平静だった。
 …………怖いくらいに。
 それが、かえってあやうさを秘めているように、レベッカには感じられた。
「よぉ、デニス」
 彼の態度には、もはや動揺どうよう垣間かきまみえなかった。
「なんだ、そんなところで止まってないで、もっとよく顔みせろよ。久しぶりの再会なんだぜ?」
 短剣を持つ手に、力がこもる。意図いと明白めいはくだった。
 それに気づいたのか、どうか。
 デニスは恋人の言葉を無視して、続きを述べた。
「どうして、あたしの家族をったの?」
「あぁん?んなの決まってんだろうが」
 当たり前のことをわざわざ言わせるな、といった素振そぶりで、
「ウザかったからだよ」
「ウザい?」
 跳ね上がりそうになる声を、必死に押し殺して。それでも、握りしめた剣がかすかに震えた。表情は、笑うべきか。泣くべきか。その狭間はざまで、中途半端ちゅうとはんぱに崩れかかっていた。
 彼女の心をさかなでるように、フランクの科白せりふがつながる。
「あの、クソじじい。店にきてオレを呼びだしたあげく、なんて言ったと思う?オマエを返さなければおかみにつきだす、とかつまんねぇおどしをかけてきやがったんだ。それも、客の前でだぜ?んで、ムカついたからぶっ殺してやったってわけ。あー、あとオマエのお袋と妹な。まぁ、あのクソじじいがあんなだから、一緒になって余計なことをたくらんでやがるかもしれねぇってのもあったけど、一番の理由はアレだな。見せしめってヤツ?たのしかったぜぇ」口元をゆがませる。「特に妹が。今になって考えてみりゃ、惜しいことをしたかもな。ま、家族仲良くあの世へいけて、幸せだろ。でもなんつっても、オレはオマエのために労をいてやったんだぜぇ。オマエ、親どものことウザがってたじゃねぇか。だから、喜ぶと思ったんだけどなー」
「フランク……」
 デニスが、おもむろに顔を上げる。予想に反して、その瞳はただ苦悩によってのみ揺れていた。憎悪ぞうおや、悲しみによってではなく。
 こぼれ落ちた涙が、そっとほおすべる。
「あたしはやっぱり、アンタを許せない」
 魔剣のさやを打ち払い、水平に振りかぶって投げつける。それを追うようにして、隠し持っていた武器をかまえてはしる。心なしか、光沢こうたくの具合が普通の刃と違うようだ。もしかすると、何らかの薬物が塗ってあるのかもしれない。いずれにせよ、彼女の戦い方は、一度剣をまじえた感触からするとやや違和感を感じるような、稚拙ちせつなやり口だった。迷い、なのだろうか。
 手の予想が容易よういにできる行動に鼻を鳴らして、フランクは飛んでくる剣を軽くいなそうとする。その判断は、的確なものだった――
 アンドヴァリでさえなかったなら。
 湿りを帯びた鈍い音が、確かに耳に届いた。
 剣は易々やすやすとごろつきの短剣をくだき、心臓をつらぬいていた。
 驚愕きょうがくの表情で身体からだに食い込んだ凶器きょうきを見下ろしたまま、数歩後ろによろめいて倒れ込む。それに、悲鳴がかさなった。
 武器を放り捨てて、恋人の下へと駆け寄る。もはや二度と動かない最愛の人をかきいだき、震える手でまぶたを閉じた。そして、そっとささやく。
「あたしは、アンタがにくい。けど……けど、どうしようもないくらい、好きだったから――だから、殺して欲しかった。アンタに、苦しみを終らせてもらいたかった」
 息を吸い込むと、柔らかな笑みをたたえる。
 流れる澄んだしずくが、その輪郭りんかくふちどった。
「ごめんね。アタシも、すぐくから――」
 
 何故なぜだろう。
 
 まるで、吸い寄せられるように、レベッカは彼女の「死」から目が離せなかった。
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