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罪科の現出
彷徨えるこころ
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外は嵐だった。
「駄目です!家に居なさい!」
「へーきよ。すぐそこなんだから」
「ジェナ!」
母親の制止を振り切って、外に飛び出した。
強風が、背後で大きな音を立てて、決して建てつけの良いとはいえない戸を閉める。
少女を衝き動かす胸の内にあるのは、一種の使命感にも似た意志だった。
うねる風に足を取られそうになり、攻撃的な雨に全身を打たれながらも、必死に歩を進める。一瞬、足下に濃い影が浮かび、間を置かずに轟音と振動が彼女を襲った。
悲鳴をあげ、反射的に身をすくませる。
どうやら、すぐ近くに雷が落ちたらしい。
それでも、ジェナはめげなかった。
駆け出す。
ほどなくして角の部分に大きな傷のある、見慣れた戸が目に入った。無我夢中でそれに取りつき、なかば倒れ込むようにして家に踏み込む。
ひと間の家の左端の方にあるベッドで寝ていた人物が、頭をもたげて彼女の名を呼んだ。驚いたという表情だ。
「ごめんね、アネット。遅くなっちゃって。そうそう、このイマイマしい嵐のせいで、スープは持ってこられなかったの。でも、ゲンジュウに包んできたからパンはぬれてないはずよ」抱えていた布をベッド脇の卓に広げ、中身が無事なことを確かめるとニコリとする。「ほら、ね?」
アネットは、しかし、笑わなかった。
むしろ沈んだ声で、
「こんな日まで来なくていいのに。おばさんに悪いわ」
「水臭いこと言わないの」ジェナは親友に顔を近づけると腰に手を当て、めっ、とした。「あたしたちのモットーは、助け合い。困ってる時はお互い様よ」
ここは、古都でも比較的収入が低い者達が住む一角。その日暮らしの者も少なくないこの界隈では、それゆえに連帯感が強く、相互扶助は暗黙の了解となっていた。
親友のまっすぐな瞳から、アネットは、つと顔を背ける。
「でもわたしは、してもらってばかりだし……」
「いいのいいの。アネットにはパパもママもいないんだから」
アネットの両親は一年前に病で亡くなっていた。貯蓄は僅かばかり。苦労して得た収入も、税金を納めるとほとんど手元に残らない。だから周囲の人達は皆、何かにつけ彼女の面倒を見ていた。
「それより、今日お医者様が来てくれたのでしょう。なんて言ってらしたの?」
医者に診てもらうことができたのは、ほとんど僥倖のようなものだった。最近住み着いた流れの医者が親切な人物で、無償で引き受けてくれたのだ。
色素が薄く、見ようによっては金色に見える亜麻色の髪を揺らしながら、アネットが上体を起こす。
察して、ベッドのすぐ脇に移動していた丈の低い丸椅子に座り、水差しから水を注いで差し出した。
弱々しく微笑んで一口飲むと、ポツリとつぶやく。
「このままだと長くはない、そうおっしゃったわ」
「そんな!」
にわかには、アネットの告げた診察結果が事実だとは信じられなかった。
親友の顔色は依然優れなかったものの、声はだいぶ元気を取り戻しているように感じたのに…………。
「そうだ、薬草!」すがるように、その名を口にする。「薬草があれば助かるんでしょう。お医者様は薬草をくださらなかったの?」
「無理なのよ、ジェナ」
希望の細糸は、あっけなく断たれた。
アネットが、諦念の入り混じった表情で頭を振る。
「急患が出て、薬草を切らせているそうなの。これは特別な薬草で、しばらくは取りに行けないらしいわ」
「納得できないわ!そこを何とかするのが医者のギムってものじゃないっ」
ジェナは憤慨した。
「仕方ないのよ」瞳を伏せる。「薬草は、あのギャヴラウグの谷に生えているらしいの。予定では明日取りに行くはずだったのだけれど、この嵐で延期になったそうよ。それに、もし行けたとしても、これでは駄目になっているかも知れないわ……」
ギャヴラウグの谷。
そこは、古都の住民ならば知らない者はいない、そして誰もが恐れる場所だ。大人にとっても危険だというのに、とても彼女一人では――。
(そういえば)
母が、この近くに国の軍人が来ているというようなことを話していた。
国のために戦っている、強くて偉い人なのだ。きっと助けてくれるに違いない。
「ごめん、アネット」勢いよく立ち上がる。「ちょっと用を思い出したの。もう行くね」
「うん。ありがとう、ジェナ」
そこで、ふと。
何かを言いさして、不安げに彼女を見つめる。
「……ねぇ、まさか無茶なことをしようとしてないわよね?」
「アネットったら、シンパイしょー」からからと笑う。「だいじょうぶ。あたし一人じゃ、谷に行くことさえできないもの」
真顔に戻ると、親友の手をしっかりと握る。
「がんばってね。きっと……きっとウンメイが味方して病気がよくなるように計らって下さるわ」
そしてジェナは、再び風と雨の狂騒の渦中に飛び出した。
§§§
安っぽい壁を通して、不機嫌な雨音が直接的に伝わってくる。目をつむれば外にいるのかと錯覚しそうだ。
連れと共にかなり質素な夕食をとりながら、レベッカはいつものように闇魔法についての講義をしていた。もはや、食事の時の習慣と化したといっても過言ではない。彼は驚くべき飲み込みの良さを発揮し、一度言ったことを聞き返したことは現在までなかった。
物凄い音が耳に入ってきたのは、ちょうど水を飲もうとコップを持ち上げた時だった。
「ここに軍人さんがいるって聞いたんだけど!」
レベッカも含め、皆が注目する先にいたのは、一二、三の少女だった。この嵐の中を走ってきたのか荒い呼吸を繰り返していて、栗色の髪や服からはとめどなく水が滴り落ちている。
宿の主人が血相を変えて飛び出し、少女を追い出しにかかる。しかし、少女はすばしっこく脇をすり抜け、左右をキョロキョロと見回しながら店内をうろちょろしだした。それを主人が追う。
一部の客が好奇をもって見守る中、少女は彼女達の傍らを通り過ぎ――。
他の屈強そうな客ではなく、軍人というイメージからはほど遠いクロリスに注意を向かせたものは、何であったのか。
少女がピタッと足を止めた。
「お願い、助けて‼アネットが、親友が死んじゃうの!」
少女の言葉に、主人の怒号が覆い被さる。
逃がすまいと強く握られた手首の痛みに叫び声をあげ、少女が主人をにらみつけた。
「すいませんねぇ、お騒がせしてしまって。すぐに放り出しますんで」
「待って呉れ」抵抗する少女を引きずって行こうとする主人を、レベッカが制した。「話を聞こう」
抗議をしようとした連れに、鋭い視線を投げつける。
クロリスは呆れをにじませて小さく肩をすくめたが、それ以上言葉を費やそうとはしなかった。
困惑の体の主人に無言でうなずきかけ、少女を解放させる。
さっそく話を始めようとした少女だったが、しかし、連れは片手をあげて黙らせた。マイペースに最後の一匙を平らげ、コップを空にして席を立つ。とまどう少女へ彼は、部屋で聞く、と告げた。
「わたしの親友が病気になっちゃったの」
少女、ジェナが語る。その胸にはホースケが人形のごとくしっかりと抱きかかえられている。紹介されてホースケを認識した彼女は、いたく気に入ったようで、嫌がる鳥を格闘の末に屈服させたのだ。
「お医者様は薬草がないと助からないとおっしゃったそうなんだけど、カンジンの薬草が切れてしまっているみたいで……。だからわたしが採りに行こうと思うの。クロリスにはその護衛をしてもらいたいのよ」
「それは医者の仕事だろう。君の出張るようなことじゃない」
指摘に、ジェナは首を左右に振った。
「お医者様はこの嵐で当分いらっしゃれないそうなの。一刻を争うのよ。お願い!」
「どこが目的地なのか聞いてみないことには、ね。まさか、ギャヴラウグの谷なんて言わないよね」
ややの沈黙を挟んだ後に、ジェナは決然と頭をもたげて肯定した。
「冗談じゃない!」眉を跳ね上げる。「お断りだね。付き合ってられないよ」
「危険な場所なのか?」
「君、あの悪名高い谷を知らないの?」
クロリスが驚きを十二分に込めて、問い返してきた。
うなずく。
「はー、君って意外なところで世間知らずなんだね。まあ、十六年間ロクに村の外に出たことがないんじゃ無理もないけど」寝台に座していたクロリスが、足を組んで左手を後ろにつく。「ギャヴラウグの谷は良質の薬草が採れることで有名だけれど、かなりの難所なんだ。特にこんな風に雨が降ると、しばらくは落石なんかが多発して危険度が増す。でも、この谷を真に難所たらしめているのは地形的条件よりも、魔物が頻出するからというのが大きい。谷に出掛けて死んだ人の七割は、魔物によるものだという話もある。こんな少人数で、しかも最悪の条件の時に挑むなんて、死にたい奴ぐらいなものだね」
なるほど。確かに無謀な挑戦だ。だが、この少女にとって、アネットという存在はそれを決意させるほどのものなのだ。
そう、もしあの時、手段さえあったならば……………。
「ジェナ、わたしが護衛を為様」言葉は、ほとんど考えるよりも先に流れ出ていた。「軍人では無いが、或いはクロリスよりも役に立つかも知れない」
連れが、首を振って肩をすくませた。
ギャヴラウグの谷は、リョースデック山脈にあるという。幸いなことに、フロースヴェルグ山より南にあるため、道筋は全く違った。あの山には……近づきたくはなかった。
頻繁に活用されているからか、街道ほどではないにしろ、道はだいぶ整備されていた。おかげで、想定よりはかなり順調に進めた。
谷は一つ山を越えた先の山にある。そこへは途中でグリフィンを使ったので、計十八日という早さで着いたが、ここからがこの旅の正念場だった。俗称試練の山というらしいが全くもってその通りで、切り立った崖が多く、人一人通るのがやっとという崖道がいく度もあった。現在彼女達が歩いているのもそうで、ジェナによると、もうずっとこんな調子なのだそうだ。
「薬草をとるには谷を横断しなくちゃいけないんだけど、カンジンの洞窟へは決まった地点で降りないと道がなくなったり、見つけにくかったり、危険が伴ったりするらしいの。鉄の杭が打ち込んであるって言ってたからすぐ分かるとぉ、わっ⁉」
暮れ方の、やや悪い視界の中。
ジェナの足下が、前触れもなく崩落した。
後ろにいたレベッカが右腕と左肩をつかんで引き寄せ、危ういタイミングで自由落下を防ぐ。
「ほらね、これも大雨の影響だよ」
先頭にいたクロリスが振り返る。
結局、彼も付いてきたのだ。やっぱり君を放ってはおけないから、と。
「少し先が広くなっているみたいだ。今日はそこまでにした方が良いんじゃないかな…………ん?」
手をかざして振り仰ぎ――息をのむ。
「落石だ!」
レベッカの耳にも、はっきりと不吉な低音が聞こえてきていた。
裂け目を飛び越え、細かなつぶてが降りそそぐ最中を、できうる限りの速度で疾走する。
後方から、次々と震動が襲った。
と。
落ちてきた石につまずき、ジェナが転倒する。
煽りをくらい、彼女の足も止まる。
フッと影がさした。
見上げる目に映じたのは、ひときわ大きな岩。
レベッカは岩の中心付近に意識を集中し――――魔力を解き放つ。
大岩が爆発、四散する。
落ちてくる岩の破片から、ジェナをかばう。
篭手や具足、鎧が、場違いにリズミカルな楽を奏でる。運の良いことに、頭などの露出した部分には、大きな塊は落ちてこなかった。
「ふぅ、ききいっぱつぅ~」
ジェナが額の汗をぬぐった。
季節ははや、秋から冬への移行期に差し掛かっている。ここは下界との標高差がさほどでもないため少し辛い、で済んでいるが寒いものは寒い。マントをしっかりと体に巻き付けて最初の見張りをしていると、小声が耳に届いてきた。
ジェナだった。厳重にくるまった毛布の下で、ぶるっと大きく身震いしたのがわかる。
「大丈夫か?我慢出来無い様なら、わたしのマントを貸すが」
貧しい生まれとはいっても、都会育ちなのだ。このような環境で眠るのは、なかなか酷なはずだ。
しかしジェナは気丈に微笑み、少しすれば慣れるから平気、と断る。
「クロリス、起きて居るか」身じろぎを確認して、続ける。「御前は光魔法を使えるのだろう?記憶が正しければ、暖を取れる物が有った筈だ」
「こんな所で、そんな高等魔法を扱えと?」
暗いながらも、同行者が盛大に顔をしかめているのが認識できた。
「気候に干渉するというのは、大変な事なんだけどね。君らにとっては、何でもないんだろうけど。一族以外でそんなものをほいほい扱えるとしたら、それこそ化け物だよ。君こそ使ったら良いじゃないか。魔法書だってあるんだからさ」
「知らないのか。王家の者は、対する王家の魔法を使おうと為ると、必ず拒否反応が出る」
「拒否反応?」
不機嫌さから、一転。興味津々に、クロリス。
「酷い者では、死に至る場合も有ると言う。わたしも幼い頃、戯れに行って後悔為た事が有る故、確かな話だ。だから、御前の様に全種の魔法を扱える人間と言うのは、然うは居無い筈だ」
「ねぇ、さっきから一族とか王家とか言ってるけど、まさか、まさかとは思うけど……」眼力で穴ができるのではないかというくらい、上から下まで彼女を観察する。「レベッカって、あの伝説の一族の生き残りなの?」
肯定すると、ジェナは瞳をきらめかせた。
「すっごーい!わたし、よく子守歌で聴いていたわ。黄金の髪とぬばたまの髪を持つ一族、その光はあまねく人々の癒し、その闇は絶対の断罪の剣。清き水と深き夜をその眼に宿したかの一族は、もろもろの民を統べる高貴なる存在なのだ、ってね。ただのお話だと思ってたけど、本当にいたなんて!じゃあ、レベッカは……神様、なの?」
恐る恐る、その単語を口にする。
「神」は忌み言葉なのだ。
「王家の者、と言う意味では然うだな。けれども、神話の其れの様に万能では無い。人より、多少魔力が強い丈だ」
ホースケの鋭い鳴き声が空気を切り裂いたのは、その時。彼女が剣をつかむのと、ほぼ同時だった。
左方と右方、つまり進行方向と退路に、切り立った崖を身軽く蹴って、魔物が着地した。
以前エリスを襲ったものと同種のようだ。
火は絶やしていなかったのだが。この魔物には効果的でないということか。
レベッカは右方の魔物ににらみを利かせつつ、ジェナを連れて先行するようにと指示を出す。
連れの返事と、直後に熱気が彼女のもとに届く。
断末魔の絶叫が、空気を震わせた。
やや肩の荷がおりた心地で、暗闇の小さな光点を見すえながら、呪文を唱える。
魔虎の眼前に、不意に光が発生した。
目をやられ、たじろぐ。
その隙をつき、抜剣して肉薄する。
低いうなり声の残響と共に、首が宙を舞った。
しかしながら、彼女に一息をつく余裕はなかった。
姿勢を低くし、後方に跳ぶ。
レベッカの頭が先刻まで存在していた場所を、鋭利な爪を備えた前肢が薙いでいった。
「新手か……厄介だな」
小さく舌打ちする。
現在対峙しているものだけではなく、さらにもう二匹いるらしい。気配がする。
(厄介だな)
同じ科白を、胸中で繰り返す。
瞬発力では、到底敵うはずもない。それでも、一対一でなら打つ手はあるが、複数相手では一匹避ける間に絶対にやられる。
(三十六計逃げるに如かず、か)
『昏き檻を以て、彼の者達を孤独の牢獄に繋ぎ止めよ』
わずかに黒みがかった半透明の壁が、魔物の四方を囲む。
それを確認し、レベッカは反転して先を急いだ。
猶予は余りない。あの魔法は中簡略――正式な呪文よりは短いが、簡略魔法よりは長い呪文――を適用しても効果が見込める。一方で、短くすればするほど拘束時間が減少し、殺傷効果もなくなる。なるべく差をつけておかなければならなかった。
前方に、二点の灯火が舞い降りた。ほとんど無音であったので、それがなければ気が付かなかっただろう。
獰猛な咆哮を引き連れて躍りかかってくるのへ、速度を緩めることなく向かって行き、魔力を叩きつける。
重力に逆らった体勢そのまま、虎は瞬きの合間に灰になり、崩れた。
杭が見えた。
最後の距離を駆け抜ける。
褪色し、朽ちかけた荒縄が無造作に脇に置かれ、用意してきた真新しい荒縄がしっかりと結わえつけられていた。やや不器用ではあったが。
布製の靴へと手早くはき替え、具足をひとまとめに紐でくくり、肩からたすき掛けに提げる。降りる前に下をのぞき込むと、風に、肩よりやや長く伸ばした栗色の髪を巻き上げられながら、ジェナが懸命な顔つきで縄につかまって移動していた。クロリスの姿は確認できない。
連れの所在を尋ねて、眼下へ叫ぶ。
「よかった。無事だったんだ」手を止めて目を上げた少女が眉を開くのが、辛うじて視てとれた。「下で待ってる」
「然うか。では、わたしが名を呼んだらクロリスを信じて手を離せ。良いな」
戸惑いの色を浮かべたジェナは、しかし、彼女の無言の圧力に屈してコクコクとうなずく。
「クロリス」
どの程度の距離があるか分からない。あらん限りの大声で呼びかける。
「ジェナを頼むぞ」
一方的に告げ、降り始める。
ややして。
(来たか)
三匹の魔物が、暗がりの中にぼんやりと姿を現した。それらから視線を外さないままに、少女の名を呼ぶ。間を置かず、呪文を唱え――――
最後に網膜に焼き付いたのは、魔物の鋭い爪の下敷きにされた命綱。
次の瞬間には、世界は加速し、逆巻く空気の轟きだけが全ての音を支配していた。
§§§
寄り添う二つの人影があった。
一つは、間違いなくレベッカ自身に違いない。
あと一つは、誰なのか。
彼女の位置からでは、自身の影となっていて判然としない。
無性に知りたくて近づこうとしたが、それは果せなかった。どこからともなく巻き起こった砂塵が、視界を覆い隠してしまったのだ。
けれど、そうなる前の刹那。
見えたのだ。
もう一人の彼女が身じろぎをした拍子に。
その人物は――
「レベッカ‼」
唐突に耳に入った大声に、ハッと我に返る。
「ちょっと、聞いてるの⁉」
上目遣いに彼女をにらみつけ、少女が言う。
くせのない長い髪は金色。その瞳は澄んだ碧。
レベッカは息をのんだ。
それらの色彩が、彼女が命を奪ってしまった少女を、否応なしに連想させたからだ。
無意識のうちに言葉を紡ぎかけ、ふとまじまじと目を凝らすと、まるで別人であるということに気づいた。この少女はマリーよりもずっと活発そうな印象だし、それ以前に、まったく似ていない。しかし、それなのに何故だろう。妙にマリーを彷彿とさせるものがあった。
「ナニよ、まるで初対面みたいにジロジロ見て」
僅かに怪訝な表情になった少女が何かを言いさして、口をつぐむ。
「あんた――」
鋭い音を引き連れて、突風が二人の間を吹き過ぎた。
その先を耳にすることなく、舞い踊る落ち葉によってレベッカと少女とは隔てられた。
長いつややかな黒髪を腰まで伸ばした少女が振り向いた。
どこかで会ったような…………
そう、彼女と瓜二つなのだ。
(わたし……なのか?否、そんな筈が無い)
少女は年の頃こそ同じぐらいで顔だちも共通するものがあったが、華奢で背もレベッカより低かった。
「如何為たの?」
鮮やかな朱唇から、心地よい調べが漏れる。
少女には彼女が認識できていないようだ。視線が素通りしていた。
つられて後方を顧みる。
そこには、金髪の少年が立っていた。
姉弟だろうか?
先ほどの金色の髪の少女と似通っているところがあった。
彼には、レベッカが認識えるらしい。ひどく驚いた様子で、彼女に目を据えている。
「いや、君の後ろに突然人が現れたんだ。ほら、前に見せただろう?肖像画。あの人だよ」
その口調はあやふやで、つかめば消えてしまいそうであった。自分で自分の喋っていることが信じられない。そんな調子だった。
「わたしには見えないわ」レベッカのいる空間を凝視した少女が、首を横に振る。「幻覚よ。疲れて居るんだわ、屹度」
少年は小首をかしげ、少女を追って駆けだした。
彼女の脇を通り過ぎる際に、未練げな一瞥を残して……。
気がつくと、そこは柔らかな日射しが燦々とそそぐ花畑だった。
とりどりの、そして色鮮やかな花々。それらに囲まれて少女が座り、花を摘んでいる。その傍らには、少女を見守る青年。
言葉を失い立ち尽くすレベッカに、マリーが微笑みかける。サムも親しみを込めて手を挙げた。
合わせる顔など、無いというのに。
それなのに、体はまるで別の生き物であるかのように動きだしていた。
だが。
近寄れば近寄るほど、周囲は蝋のように溶けだし、遂にはわけのわからないグチャグチャの光景が広がった。
見慣れた鳥の影が、視界をよぎったような気がした。
景色が変化を始める。
焦点が定まるように、徐々に物体の輪郭があきらかになる。
そこは森だった。
ごつごつとした樹皮をまとい、濃緑の針状の葉を戴いた木がつらなっている。
そして、正面には、一人の女性。
一見して、若い。しかし、そう断定できないものがあった。
玉虫色というのだろうか、女性の髪は実にさまざまな色彩で構成されていた。そして、それは僅かに揺れるたびに、金剛石のように頻々と変化した。
女性が上品に微笑み、その唇が動く。
すべての音が放逐されたようなこの空間では、やはり声も届くことはなかった。
にも拘らず、確かに伝わったのだ。
帰りなさい、と。
§§§
控え目なせせらぎが、聞こえてきた。まぶた越しに光を感じる。
ゆっくりと瞳を開く。まぶしさに、思わず目を細めた。
谷底だった。崖から力なく垂れ下がった、ロープの生き残りが見える。彼女から数メートル離れた所には、四つの黒こげの物体が点々と転がっていた。
「クロリス、レベッカが目を覚ましたよ!」
ジェナの声。続いて、接近してくるテンポの速い足音と遅い足音。
「だいじょうぶ?はい、お水」
椀を受け取り、口に含む。冷たさが、渇いた喉を心地よく潤した。
「しっかし、君も余程運が強いみたいだね。普通死ぬよ」
あきれたような、感心したような。そんな面持ちで、クロリス。
やはり、彼がどうにかしてくれたわけではなかったのだ。
では、なぜ。
何か得体の知れない者の意図が働いているのではないか。
脳裏にちらついた考えは、そう確信できる材料があったはずなのに、思い出すことはできなかった。
川を渡るのは、それほど大変なことではなかった。というのも、幸いなことにあの嵐以来雨が降ることはなかったので、川の勢いが余り強くなかったのだ。
対岸の崖に沿ってしばらく進むと、奥まっている地点があった。目指す洞窟はその部分の側面に位置しており、さらに、崖がそれを覆うようにせり出していた。ジェナが指摘しなければ、気づかずに過ぎてしまったかもしれない。いや、彼女の言が真実なのだとすれば、実際、気づくのはほぼ不可能だったのだ。
いわく、
「特別な札の持ち主にしか見いだせない魔法がかけられているんですって。しかも札の本来の持ち主でない場合には、本当に薬草を必要としていないと駄目らしいわ」
「へぇ、面白いね。確かに、そう言われてみれば、若干違和感を感じないでもないかな」
クロリスが興味深げに辺りを見回す。これほど自然に魔法を溶け込ませるというのは、大層な技術を要することであった。
ジェナが荷袋から探し物をひっぱり出した。なんらかの葉を模したと推測される、手の平ほどの大きさの木の札だ。ジェナと、医師のものだろう名前が記されている。
洞窟の右横の、ちょうどピタリとはまる窪みに木の札を押し当て、名乗りをあげる。これを忘れると、洞窟の中を一生さまようことになるのだという。こうして幾重にも保護されているからこそ、医者も彼女たちのような部外者に薬草のありかを知られる危険を認めたのだろう。
涼しく、なぜか気持ちが落ち着いてくる匂いが吹き込む風に薫る。
外に広がる景色にジェナが嘆声を漏らし、レベッカに燭台を押しつけて飛び出していった。
「ふしぎ!どうしてココだけこうなっているのかしら?」
四方をそびえ立つ高い崖に囲まれたそこは、一面の薬草の海だった。他の植物は見当たらない。切り立った壁面も同様で、地衣類を除いては何もなかった。
レベッカはかがみ込み、薬草の状態を仔細に観察する。嵐による影響は、どうやらそれほど深刻ではないようだった。
各人が用意してきた綿製の小袋に、傷つけないようにそっと引き抜いた薬草を詰めていく。
これは相当珍しい種類のものらしい。幼い頃から薬草の知識を叩き込まれてきた彼女でさえ、初めて目にするものであった。
珍しい薬草が必要だということは、往々にして難病であるということを暗に示してもいるのだが……。
道を探す必要がないため、帰りはグリフィンを大いに活用できた。とはいえ、そのまま街に近づくわけにもいかない。七日ほどの道のりは徒歩になった。時はもう初冬。出立から約二月が経とうとしていた。
薬草が詰まった小袋を大事そうに両手で抱え、ジェナが鼻歌混じりに歩く。彼女は親の了解を得たと話していたが、どうやらそうではなかったらしい。井戸端会議をしている女たちや通りすがりの人々に何やかやと言われていた。彼女はそのつどごとに殊勝な態度を表明していはしたものの、それが本心かは怪しいところだ。
随分前についたと推測される大きな傷がある戸の家を、ここがアネットの家よ、と指し示し、勢いよく入っていく。中には三人の人物がいて、一人はベッドに横たわっていた。椅子に座った壮年の男性――医者だろう――とその隣の女性に隠れているので、表情はうかがえない。膨らんだ粗末な毛布で、それと分かるだけだ。
親族だろうか。やや、やつれた感じの女性がチラリと視線を寄越し――そのまま、石像と化したようにしばし驚きの表情で絶句した。
彼女達の方へ駆け寄ってくる。
「ジェナ‼心配かけて。どこで何をしていたの⁉」
女性はジェナの母親だったようだ。そういえば、よくよく観察してみると、どことなく似ている。
ジェナはきまりが悪そうに目を逸らしてから、アネットを助けたくて、と呟くように答えた。
「そうなんじゃないかと思っていたよ。悪い子だね、まったく。……無事でよかった」
娘を抱き寄せ、涙をこぼす。
ジェナも謝罪を口にしながら、堰を切ったように嗚咽し始めた。
少しして顔を上げたジェナの母親は、ようやくレベッカ達の存在に気が回ったようだった。娘を後ろに庇いつつ、
「あんたたちは?」
「ヘイカの兵士様とその護衛の方よ。わたしの無理な頼みに付き合って下さったの」
ジェナが彼女らの身分を説明する。微妙にズレていたが。
しかし、ジェナの母親の不信はこれぐらいでは解けないようだった。それどころか、ますます募ったようだ。まなじりを険しくして、自称軍人に対する。
「確かにここらじゃ見ない上等な恰好だけど、あたしたち庶民は本物にお目にかかる機会なんてないからねぇ。恐れ多くも王師様の名をかたる輩がいるとは思えないけれど……」
「御安心を」柔らかな物腰で、レベッカ。「此の件は当方の勝手で行った事ですので」
「そう?それなら良いんだけれど」
母親はようやく目差しを和らげると、クロリスに深々と頭を下げた。
「娘のワガママで大変なご迷惑をおかけしてしまって、申し訳ありませんでした。ウチじゃあ大したおもてなしはできませんけれど、せめてどうか今日はお泊まり下さい」
「お構いなく。困っている民を助けるのが、僕らの役目ですから」
「ねぇ」母が二の句を継ごうとしたのに一歩先んじて、ジェナがもどかしげに親友の様子を尋ねる。「アネット、眠ってるの?」
母の顔が曇る。それは、如実にすべてを物語っていた。
ジェナは息をのみ、表情を凍りつかせる。その手から、薬草の袋が滑り落ちた。
悲痛な声で親友の名を呼び、ベッドへと駆ける。
「ウソ……でしょう?」
身じろぎ一つしない友の姿に、かすかな呟きが重なった。
早朝。
肌を刺す空気の中、街を発った二人と一羽を、呼び止める声があった。
空耳かと疑い振り返ると、肩を激しく上下させてジェナが立っていた。彼女の服装は旅の時の活動的なものから、あの嵐の日のスカートへと変わっている。
「お別れと、ありがとうって言いたくて」
「ジェナ……」
何か言葉をかけてやりたいのだが、見つからない。
重(かさ)なる気持ちがあるからこそ、余計に、それは難しいことだった。
そんな彼女の様子を察したのだろうか。ジェナは瞳を閉じ、空を仰いだ。
「わたしがもっと頑張っていれば、助けられたんじゃないか。そう思うと、やりきれないわ。本当に……」大きく息を吸い込む。「でもね。だからといって、自分の時間を止めてしまってはいけないの。悔やむからこそ、わたしはしっかり前を向いて生きていく。それがきっと、生きている人のギムなのよ」
口にしているほど完全に、親友の死を受け止めきれているわけではないだろう。けれども、彼女はそう在ろうと努めようとしている。
強いな。
そんな言葉が、ふと浮かんだ。
街道は黄色の大麦畑の間を縫い、北西へと伸びていた。リルガース王国と、隣の大国グリケノックとの実質的境である三連山へ向けて、緩やかに勾配していく。
ここの辺りは主街道で、グリケノックで産出された良質な石英が通る経路でもある。治安は比較的安定しているものの、よからぬ輩が出没しないわけではない。商人とはかけ離れた彼女たちをよもや襲撃するとは思えないが、万が一ということもありうる。警戒はしておかなければなるまい。
林に差し掛かった。
まだ朝が明けて間もないからだろうか。いつの間にか、白いもやが周囲を覆ってきていた。
この時期、この時間帯でこのような場所では、変わった現象ではない。
別段気にかけることもなく進もうとし――異常を察知した。
前後左右、何も見えない。自分の手でさえ、目の前に持って来なければ認識できないのだ。
(此れは……魔法か?)
レベッカが歩みを止めたと同時、後方から気配が迫ってきた。
「駄目です!家に居なさい!」
「へーきよ。すぐそこなんだから」
「ジェナ!」
母親の制止を振り切って、外に飛び出した。
強風が、背後で大きな音を立てて、決して建てつけの良いとはいえない戸を閉める。
少女を衝き動かす胸の内にあるのは、一種の使命感にも似た意志だった。
うねる風に足を取られそうになり、攻撃的な雨に全身を打たれながらも、必死に歩を進める。一瞬、足下に濃い影が浮かび、間を置かずに轟音と振動が彼女を襲った。
悲鳴をあげ、反射的に身をすくませる。
どうやら、すぐ近くに雷が落ちたらしい。
それでも、ジェナはめげなかった。
駆け出す。
ほどなくして角の部分に大きな傷のある、見慣れた戸が目に入った。無我夢中でそれに取りつき、なかば倒れ込むようにして家に踏み込む。
ひと間の家の左端の方にあるベッドで寝ていた人物が、頭をもたげて彼女の名を呼んだ。驚いたという表情だ。
「ごめんね、アネット。遅くなっちゃって。そうそう、このイマイマしい嵐のせいで、スープは持ってこられなかったの。でも、ゲンジュウに包んできたからパンはぬれてないはずよ」抱えていた布をベッド脇の卓に広げ、中身が無事なことを確かめるとニコリとする。「ほら、ね?」
アネットは、しかし、笑わなかった。
むしろ沈んだ声で、
「こんな日まで来なくていいのに。おばさんに悪いわ」
「水臭いこと言わないの」ジェナは親友に顔を近づけると腰に手を当て、めっ、とした。「あたしたちのモットーは、助け合い。困ってる時はお互い様よ」
ここは、古都でも比較的収入が低い者達が住む一角。その日暮らしの者も少なくないこの界隈では、それゆえに連帯感が強く、相互扶助は暗黙の了解となっていた。
親友のまっすぐな瞳から、アネットは、つと顔を背ける。
「でもわたしは、してもらってばかりだし……」
「いいのいいの。アネットにはパパもママもいないんだから」
アネットの両親は一年前に病で亡くなっていた。貯蓄は僅かばかり。苦労して得た収入も、税金を納めるとほとんど手元に残らない。だから周囲の人達は皆、何かにつけ彼女の面倒を見ていた。
「それより、今日お医者様が来てくれたのでしょう。なんて言ってらしたの?」
医者に診てもらうことができたのは、ほとんど僥倖のようなものだった。最近住み着いた流れの医者が親切な人物で、無償で引き受けてくれたのだ。
色素が薄く、見ようによっては金色に見える亜麻色の髪を揺らしながら、アネットが上体を起こす。
察して、ベッドのすぐ脇に移動していた丈の低い丸椅子に座り、水差しから水を注いで差し出した。
弱々しく微笑んで一口飲むと、ポツリとつぶやく。
「このままだと長くはない、そうおっしゃったわ」
「そんな!」
にわかには、アネットの告げた診察結果が事実だとは信じられなかった。
親友の顔色は依然優れなかったものの、声はだいぶ元気を取り戻しているように感じたのに…………。
「そうだ、薬草!」すがるように、その名を口にする。「薬草があれば助かるんでしょう。お医者様は薬草をくださらなかったの?」
「無理なのよ、ジェナ」
希望の細糸は、あっけなく断たれた。
アネットが、諦念の入り混じった表情で頭を振る。
「急患が出て、薬草を切らせているそうなの。これは特別な薬草で、しばらくは取りに行けないらしいわ」
「納得できないわ!そこを何とかするのが医者のギムってものじゃないっ」
ジェナは憤慨した。
「仕方ないのよ」瞳を伏せる。「薬草は、あのギャヴラウグの谷に生えているらしいの。予定では明日取りに行くはずだったのだけれど、この嵐で延期になったそうよ。それに、もし行けたとしても、これでは駄目になっているかも知れないわ……」
ギャヴラウグの谷。
そこは、古都の住民ならば知らない者はいない、そして誰もが恐れる場所だ。大人にとっても危険だというのに、とても彼女一人では――。
(そういえば)
母が、この近くに国の軍人が来ているというようなことを話していた。
国のために戦っている、強くて偉い人なのだ。きっと助けてくれるに違いない。
「ごめん、アネット」勢いよく立ち上がる。「ちょっと用を思い出したの。もう行くね」
「うん。ありがとう、ジェナ」
そこで、ふと。
何かを言いさして、不安げに彼女を見つめる。
「……ねぇ、まさか無茶なことをしようとしてないわよね?」
「アネットったら、シンパイしょー」からからと笑う。「だいじょうぶ。あたし一人じゃ、谷に行くことさえできないもの」
真顔に戻ると、親友の手をしっかりと握る。
「がんばってね。きっと……きっとウンメイが味方して病気がよくなるように計らって下さるわ」
そしてジェナは、再び風と雨の狂騒の渦中に飛び出した。
§§§
安っぽい壁を通して、不機嫌な雨音が直接的に伝わってくる。目をつむれば外にいるのかと錯覚しそうだ。
連れと共にかなり質素な夕食をとりながら、レベッカはいつものように闇魔法についての講義をしていた。もはや、食事の時の習慣と化したといっても過言ではない。彼は驚くべき飲み込みの良さを発揮し、一度言ったことを聞き返したことは現在までなかった。
物凄い音が耳に入ってきたのは、ちょうど水を飲もうとコップを持ち上げた時だった。
「ここに軍人さんがいるって聞いたんだけど!」
レベッカも含め、皆が注目する先にいたのは、一二、三の少女だった。この嵐の中を走ってきたのか荒い呼吸を繰り返していて、栗色の髪や服からはとめどなく水が滴り落ちている。
宿の主人が血相を変えて飛び出し、少女を追い出しにかかる。しかし、少女はすばしっこく脇をすり抜け、左右をキョロキョロと見回しながら店内をうろちょろしだした。それを主人が追う。
一部の客が好奇をもって見守る中、少女は彼女達の傍らを通り過ぎ――。
他の屈強そうな客ではなく、軍人というイメージからはほど遠いクロリスに注意を向かせたものは、何であったのか。
少女がピタッと足を止めた。
「お願い、助けて‼アネットが、親友が死んじゃうの!」
少女の言葉に、主人の怒号が覆い被さる。
逃がすまいと強く握られた手首の痛みに叫び声をあげ、少女が主人をにらみつけた。
「すいませんねぇ、お騒がせしてしまって。すぐに放り出しますんで」
「待って呉れ」抵抗する少女を引きずって行こうとする主人を、レベッカが制した。「話を聞こう」
抗議をしようとした連れに、鋭い視線を投げつける。
クロリスは呆れをにじませて小さく肩をすくめたが、それ以上言葉を費やそうとはしなかった。
困惑の体の主人に無言でうなずきかけ、少女を解放させる。
さっそく話を始めようとした少女だったが、しかし、連れは片手をあげて黙らせた。マイペースに最後の一匙を平らげ、コップを空にして席を立つ。とまどう少女へ彼は、部屋で聞く、と告げた。
「わたしの親友が病気になっちゃったの」
少女、ジェナが語る。その胸にはホースケが人形のごとくしっかりと抱きかかえられている。紹介されてホースケを認識した彼女は、いたく気に入ったようで、嫌がる鳥を格闘の末に屈服させたのだ。
「お医者様は薬草がないと助からないとおっしゃったそうなんだけど、カンジンの薬草が切れてしまっているみたいで……。だからわたしが採りに行こうと思うの。クロリスにはその護衛をしてもらいたいのよ」
「それは医者の仕事だろう。君の出張るようなことじゃない」
指摘に、ジェナは首を左右に振った。
「お医者様はこの嵐で当分いらっしゃれないそうなの。一刻を争うのよ。お願い!」
「どこが目的地なのか聞いてみないことには、ね。まさか、ギャヴラウグの谷なんて言わないよね」
ややの沈黙を挟んだ後に、ジェナは決然と頭をもたげて肯定した。
「冗談じゃない!」眉を跳ね上げる。「お断りだね。付き合ってられないよ」
「危険な場所なのか?」
「君、あの悪名高い谷を知らないの?」
クロリスが驚きを十二分に込めて、問い返してきた。
うなずく。
「はー、君って意外なところで世間知らずなんだね。まあ、十六年間ロクに村の外に出たことがないんじゃ無理もないけど」寝台に座していたクロリスが、足を組んで左手を後ろにつく。「ギャヴラウグの谷は良質の薬草が採れることで有名だけれど、かなりの難所なんだ。特にこんな風に雨が降ると、しばらくは落石なんかが多発して危険度が増す。でも、この谷を真に難所たらしめているのは地形的条件よりも、魔物が頻出するからというのが大きい。谷に出掛けて死んだ人の七割は、魔物によるものだという話もある。こんな少人数で、しかも最悪の条件の時に挑むなんて、死にたい奴ぐらいなものだね」
なるほど。確かに無謀な挑戦だ。だが、この少女にとって、アネットという存在はそれを決意させるほどのものなのだ。
そう、もしあの時、手段さえあったならば……………。
「ジェナ、わたしが護衛を為様」言葉は、ほとんど考えるよりも先に流れ出ていた。「軍人では無いが、或いはクロリスよりも役に立つかも知れない」
連れが、首を振って肩をすくませた。
ギャヴラウグの谷は、リョースデック山脈にあるという。幸いなことに、フロースヴェルグ山より南にあるため、道筋は全く違った。あの山には……近づきたくはなかった。
頻繁に活用されているからか、街道ほどではないにしろ、道はだいぶ整備されていた。おかげで、想定よりはかなり順調に進めた。
谷は一つ山を越えた先の山にある。そこへは途中でグリフィンを使ったので、計十八日という早さで着いたが、ここからがこの旅の正念場だった。俗称試練の山というらしいが全くもってその通りで、切り立った崖が多く、人一人通るのがやっとという崖道がいく度もあった。現在彼女達が歩いているのもそうで、ジェナによると、もうずっとこんな調子なのだそうだ。
「薬草をとるには谷を横断しなくちゃいけないんだけど、カンジンの洞窟へは決まった地点で降りないと道がなくなったり、見つけにくかったり、危険が伴ったりするらしいの。鉄の杭が打ち込んであるって言ってたからすぐ分かるとぉ、わっ⁉」
暮れ方の、やや悪い視界の中。
ジェナの足下が、前触れもなく崩落した。
後ろにいたレベッカが右腕と左肩をつかんで引き寄せ、危ういタイミングで自由落下を防ぐ。
「ほらね、これも大雨の影響だよ」
先頭にいたクロリスが振り返る。
結局、彼も付いてきたのだ。やっぱり君を放ってはおけないから、と。
「少し先が広くなっているみたいだ。今日はそこまでにした方が良いんじゃないかな…………ん?」
手をかざして振り仰ぎ――息をのむ。
「落石だ!」
レベッカの耳にも、はっきりと不吉な低音が聞こえてきていた。
裂け目を飛び越え、細かなつぶてが降りそそぐ最中を、できうる限りの速度で疾走する。
後方から、次々と震動が襲った。
と。
落ちてきた石につまずき、ジェナが転倒する。
煽りをくらい、彼女の足も止まる。
フッと影がさした。
見上げる目に映じたのは、ひときわ大きな岩。
レベッカは岩の中心付近に意識を集中し――――魔力を解き放つ。
大岩が爆発、四散する。
落ちてくる岩の破片から、ジェナをかばう。
篭手や具足、鎧が、場違いにリズミカルな楽を奏でる。運の良いことに、頭などの露出した部分には、大きな塊は落ちてこなかった。
「ふぅ、ききいっぱつぅ~」
ジェナが額の汗をぬぐった。
季節ははや、秋から冬への移行期に差し掛かっている。ここは下界との標高差がさほどでもないため少し辛い、で済んでいるが寒いものは寒い。マントをしっかりと体に巻き付けて最初の見張りをしていると、小声が耳に届いてきた。
ジェナだった。厳重にくるまった毛布の下で、ぶるっと大きく身震いしたのがわかる。
「大丈夫か?我慢出来無い様なら、わたしのマントを貸すが」
貧しい生まれとはいっても、都会育ちなのだ。このような環境で眠るのは、なかなか酷なはずだ。
しかしジェナは気丈に微笑み、少しすれば慣れるから平気、と断る。
「クロリス、起きて居るか」身じろぎを確認して、続ける。「御前は光魔法を使えるのだろう?記憶が正しければ、暖を取れる物が有った筈だ」
「こんな所で、そんな高等魔法を扱えと?」
暗いながらも、同行者が盛大に顔をしかめているのが認識できた。
「気候に干渉するというのは、大変な事なんだけどね。君らにとっては、何でもないんだろうけど。一族以外でそんなものをほいほい扱えるとしたら、それこそ化け物だよ。君こそ使ったら良いじゃないか。魔法書だってあるんだからさ」
「知らないのか。王家の者は、対する王家の魔法を使おうと為ると、必ず拒否反応が出る」
「拒否反応?」
不機嫌さから、一転。興味津々に、クロリス。
「酷い者では、死に至る場合も有ると言う。わたしも幼い頃、戯れに行って後悔為た事が有る故、確かな話だ。だから、御前の様に全種の魔法を扱える人間と言うのは、然うは居無い筈だ」
「ねぇ、さっきから一族とか王家とか言ってるけど、まさか、まさかとは思うけど……」眼力で穴ができるのではないかというくらい、上から下まで彼女を観察する。「レベッカって、あの伝説の一族の生き残りなの?」
肯定すると、ジェナは瞳をきらめかせた。
「すっごーい!わたし、よく子守歌で聴いていたわ。黄金の髪とぬばたまの髪を持つ一族、その光はあまねく人々の癒し、その闇は絶対の断罪の剣。清き水と深き夜をその眼に宿したかの一族は、もろもろの民を統べる高貴なる存在なのだ、ってね。ただのお話だと思ってたけど、本当にいたなんて!じゃあ、レベッカは……神様、なの?」
恐る恐る、その単語を口にする。
「神」は忌み言葉なのだ。
「王家の者、と言う意味では然うだな。けれども、神話の其れの様に万能では無い。人より、多少魔力が強い丈だ」
ホースケの鋭い鳴き声が空気を切り裂いたのは、その時。彼女が剣をつかむのと、ほぼ同時だった。
左方と右方、つまり進行方向と退路に、切り立った崖を身軽く蹴って、魔物が着地した。
以前エリスを襲ったものと同種のようだ。
火は絶やしていなかったのだが。この魔物には効果的でないということか。
レベッカは右方の魔物ににらみを利かせつつ、ジェナを連れて先行するようにと指示を出す。
連れの返事と、直後に熱気が彼女のもとに届く。
断末魔の絶叫が、空気を震わせた。
やや肩の荷がおりた心地で、暗闇の小さな光点を見すえながら、呪文を唱える。
魔虎の眼前に、不意に光が発生した。
目をやられ、たじろぐ。
その隙をつき、抜剣して肉薄する。
低いうなり声の残響と共に、首が宙を舞った。
しかしながら、彼女に一息をつく余裕はなかった。
姿勢を低くし、後方に跳ぶ。
レベッカの頭が先刻まで存在していた場所を、鋭利な爪を備えた前肢が薙いでいった。
「新手か……厄介だな」
小さく舌打ちする。
現在対峙しているものだけではなく、さらにもう二匹いるらしい。気配がする。
(厄介だな)
同じ科白を、胸中で繰り返す。
瞬発力では、到底敵うはずもない。それでも、一対一でなら打つ手はあるが、複数相手では一匹避ける間に絶対にやられる。
(三十六計逃げるに如かず、か)
『昏き檻を以て、彼の者達を孤独の牢獄に繋ぎ止めよ』
わずかに黒みがかった半透明の壁が、魔物の四方を囲む。
それを確認し、レベッカは反転して先を急いだ。
猶予は余りない。あの魔法は中簡略――正式な呪文よりは短いが、簡略魔法よりは長い呪文――を適用しても効果が見込める。一方で、短くすればするほど拘束時間が減少し、殺傷効果もなくなる。なるべく差をつけておかなければならなかった。
前方に、二点の灯火が舞い降りた。ほとんど無音であったので、それがなければ気が付かなかっただろう。
獰猛な咆哮を引き連れて躍りかかってくるのへ、速度を緩めることなく向かって行き、魔力を叩きつける。
重力に逆らった体勢そのまま、虎は瞬きの合間に灰になり、崩れた。
杭が見えた。
最後の距離を駆け抜ける。
褪色し、朽ちかけた荒縄が無造作に脇に置かれ、用意してきた真新しい荒縄がしっかりと結わえつけられていた。やや不器用ではあったが。
布製の靴へと手早くはき替え、具足をひとまとめに紐でくくり、肩からたすき掛けに提げる。降りる前に下をのぞき込むと、風に、肩よりやや長く伸ばした栗色の髪を巻き上げられながら、ジェナが懸命な顔つきで縄につかまって移動していた。クロリスの姿は確認できない。
連れの所在を尋ねて、眼下へ叫ぶ。
「よかった。無事だったんだ」手を止めて目を上げた少女が眉を開くのが、辛うじて視てとれた。「下で待ってる」
「然うか。では、わたしが名を呼んだらクロリスを信じて手を離せ。良いな」
戸惑いの色を浮かべたジェナは、しかし、彼女の無言の圧力に屈してコクコクとうなずく。
「クロリス」
どの程度の距離があるか分からない。あらん限りの大声で呼びかける。
「ジェナを頼むぞ」
一方的に告げ、降り始める。
ややして。
(来たか)
三匹の魔物が、暗がりの中にぼんやりと姿を現した。それらから視線を外さないままに、少女の名を呼ぶ。間を置かず、呪文を唱え――――
最後に網膜に焼き付いたのは、魔物の鋭い爪の下敷きにされた命綱。
次の瞬間には、世界は加速し、逆巻く空気の轟きだけが全ての音を支配していた。
§§§
寄り添う二つの人影があった。
一つは、間違いなくレベッカ自身に違いない。
あと一つは、誰なのか。
彼女の位置からでは、自身の影となっていて判然としない。
無性に知りたくて近づこうとしたが、それは果せなかった。どこからともなく巻き起こった砂塵が、視界を覆い隠してしまったのだ。
けれど、そうなる前の刹那。
見えたのだ。
もう一人の彼女が身じろぎをした拍子に。
その人物は――
「レベッカ‼」
唐突に耳に入った大声に、ハッと我に返る。
「ちょっと、聞いてるの⁉」
上目遣いに彼女をにらみつけ、少女が言う。
くせのない長い髪は金色。その瞳は澄んだ碧。
レベッカは息をのんだ。
それらの色彩が、彼女が命を奪ってしまった少女を、否応なしに連想させたからだ。
無意識のうちに言葉を紡ぎかけ、ふとまじまじと目を凝らすと、まるで別人であるということに気づいた。この少女はマリーよりもずっと活発そうな印象だし、それ以前に、まったく似ていない。しかし、それなのに何故だろう。妙にマリーを彷彿とさせるものがあった。
「ナニよ、まるで初対面みたいにジロジロ見て」
僅かに怪訝な表情になった少女が何かを言いさして、口をつぐむ。
「あんた――」
鋭い音を引き連れて、突風が二人の間を吹き過ぎた。
その先を耳にすることなく、舞い踊る落ち葉によってレベッカと少女とは隔てられた。
長いつややかな黒髪を腰まで伸ばした少女が振り向いた。
どこかで会ったような…………
そう、彼女と瓜二つなのだ。
(わたし……なのか?否、そんな筈が無い)
少女は年の頃こそ同じぐらいで顔だちも共通するものがあったが、華奢で背もレベッカより低かった。
「如何為たの?」
鮮やかな朱唇から、心地よい調べが漏れる。
少女には彼女が認識できていないようだ。視線が素通りしていた。
つられて後方を顧みる。
そこには、金髪の少年が立っていた。
姉弟だろうか?
先ほどの金色の髪の少女と似通っているところがあった。
彼には、レベッカが認識えるらしい。ひどく驚いた様子で、彼女に目を据えている。
「いや、君の後ろに突然人が現れたんだ。ほら、前に見せただろう?肖像画。あの人だよ」
その口調はあやふやで、つかめば消えてしまいそうであった。自分で自分の喋っていることが信じられない。そんな調子だった。
「わたしには見えないわ」レベッカのいる空間を凝視した少女が、首を横に振る。「幻覚よ。疲れて居るんだわ、屹度」
少年は小首をかしげ、少女を追って駆けだした。
彼女の脇を通り過ぎる際に、未練げな一瞥を残して……。
気がつくと、そこは柔らかな日射しが燦々とそそぐ花畑だった。
とりどりの、そして色鮮やかな花々。それらに囲まれて少女が座り、花を摘んでいる。その傍らには、少女を見守る青年。
言葉を失い立ち尽くすレベッカに、マリーが微笑みかける。サムも親しみを込めて手を挙げた。
合わせる顔など、無いというのに。
それなのに、体はまるで別の生き物であるかのように動きだしていた。
だが。
近寄れば近寄るほど、周囲は蝋のように溶けだし、遂にはわけのわからないグチャグチャの光景が広がった。
見慣れた鳥の影が、視界をよぎったような気がした。
景色が変化を始める。
焦点が定まるように、徐々に物体の輪郭があきらかになる。
そこは森だった。
ごつごつとした樹皮をまとい、濃緑の針状の葉を戴いた木がつらなっている。
そして、正面には、一人の女性。
一見して、若い。しかし、そう断定できないものがあった。
玉虫色というのだろうか、女性の髪は実にさまざまな色彩で構成されていた。そして、それは僅かに揺れるたびに、金剛石のように頻々と変化した。
女性が上品に微笑み、その唇が動く。
すべての音が放逐されたようなこの空間では、やはり声も届くことはなかった。
にも拘らず、確かに伝わったのだ。
帰りなさい、と。
§§§
控え目なせせらぎが、聞こえてきた。まぶた越しに光を感じる。
ゆっくりと瞳を開く。まぶしさに、思わず目を細めた。
谷底だった。崖から力なく垂れ下がった、ロープの生き残りが見える。彼女から数メートル離れた所には、四つの黒こげの物体が点々と転がっていた。
「クロリス、レベッカが目を覚ましたよ!」
ジェナの声。続いて、接近してくるテンポの速い足音と遅い足音。
「だいじょうぶ?はい、お水」
椀を受け取り、口に含む。冷たさが、渇いた喉を心地よく潤した。
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あきれたような、感心したような。そんな面持ちで、クロリス。
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では、なぜ。
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いわく、
「特別な札の持ち主にしか見いだせない魔法がかけられているんですって。しかも札の本来の持ち主でない場合には、本当に薬草を必要としていないと駄目らしいわ」
「へぇ、面白いね。確かに、そう言われてみれば、若干違和感を感じないでもないかな」
クロリスが興味深げに辺りを見回す。これほど自然に魔法を溶け込ませるというのは、大層な技術を要することであった。
ジェナが荷袋から探し物をひっぱり出した。なんらかの葉を模したと推測される、手の平ほどの大きさの木の札だ。ジェナと、医師のものだろう名前が記されている。
洞窟の右横の、ちょうどピタリとはまる窪みに木の札を押し当て、名乗りをあげる。これを忘れると、洞窟の中を一生さまようことになるのだという。こうして幾重にも保護されているからこそ、医者も彼女たちのような部外者に薬草のありかを知られる危険を認めたのだろう。
涼しく、なぜか気持ちが落ち着いてくる匂いが吹き込む風に薫る。
外に広がる景色にジェナが嘆声を漏らし、レベッカに燭台を押しつけて飛び出していった。
「ふしぎ!どうしてココだけこうなっているのかしら?」
四方をそびえ立つ高い崖に囲まれたそこは、一面の薬草の海だった。他の植物は見当たらない。切り立った壁面も同様で、地衣類を除いては何もなかった。
レベッカはかがみ込み、薬草の状態を仔細に観察する。嵐による影響は、どうやらそれほど深刻ではないようだった。
各人が用意してきた綿製の小袋に、傷つけないようにそっと引き抜いた薬草を詰めていく。
これは相当珍しい種類のものらしい。幼い頃から薬草の知識を叩き込まれてきた彼女でさえ、初めて目にするものであった。
珍しい薬草が必要だということは、往々にして難病であるということを暗に示してもいるのだが……。
道を探す必要がないため、帰りはグリフィンを大いに活用できた。とはいえ、そのまま街に近づくわけにもいかない。七日ほどの道のりは徒歩になった。時はもう初冬。出立から約二月が経とうとしていた。
薬草が詰まった小袋を大事そうに両手で抱え、ジェナが鼻歌混じりに歩く。彼女は親の了解を得たと話していたが、どうやらそうではなかったらしい。井戸端会議をしている女たちや通りすがりの人々に何やかやと言われていた。彼女はそのつどごとに殊勝な態度を表明していはしたものの、それが本心かは怪しいところだ。
随分前についたと推測される大きな傷がある戸の家を、ここがアネットの家よ、と指し示し、勢いよく入っていく。中には三人の人物がいて、一人はベッドに横たわっていた。椅子に座った壮年の男性――医者だろう――とその隣の女性に隠れているので、表情はうかがえない。膨らんだ粗末な毛布で、それと分かるだけだ。
親族だろうか。やや、やつれた感じの女性がチラリと視線を寄越し――そのまま、石像と化したようにしばし驚きの表情で絶句した。
彼女達の方へ駆け寄ってくる。
「ジェナ‼心配かけて。どこで何をしていたの⁉」
女性はジェナの母親だったようだ。そういえば、よくよく観察してみると、どことなく似ている。
ジェナはきまりが悪そうに目を逸らしてから、アネットを助けたくて、と呟くように答えた。
「そうなんじゃないかと思っていたよ。悪い子だね、まったく。……無事でよかった」
娘を抱き寄せ、涙をこぼす。
ジェナも謝罪を口にしながら、堰を切ったように嗚咽し始めた。
少しして顔を上げたジェナの母親は、ようやくレベッカ達の存在に気が回ったようだった。娘を後ろに庇いつつ、
「あんたたちは?」
「ヘイカの兵士様とその護衛の方よ。わたしの無理な頼みに付き合って下さったの」
ジェナが彼女らの身分を説明する。微妙にズレていたが。
しかし、ジェナの母親の不信はこれぐらいでは解けないようだった。それどころか、ますます募ったようだ。まなじりを険しくして、自称軍人に対する。
「確かにここらじゃ見ない上等な恰好だけど、あたしたち庶民は本物にお目にかかる機会なんてないからねぇ。恐れ多くも王師様の名をかたる輩がいるとは思えないけれど……」
「御安心を」柔らかな物腰で、レベッカ。「此の件は当方の勝手で行った事ですので」
「そう?それなら良いんだけれど」
母親はようやく目差しを和らげると、クロリスに深々と頭を下げた。
「娘のワガママで大変なご迷惑をおかけしてしまって、申し訳ありませんでした。ウチじゃあ大したおもてなしはできませんけれど、せめてどうか今日はお泊まり下さい」
「お構いなく。困っている民を助けるのが、僕らの役目ですから」
「ねぇ」母が二の句を継ごうとしたのに一歩先んじて、ジェナがもどかしげに親友の様子を尋ねる。「アネット、眠ってるの?」
母の顔が曇る。それは、如実にすべてを物語っていた。
ジェナは息をのみ、表情を凍りつかせる。その手から、薬草の袋が滑り落ちた。
悲痛な声で親友の名を呼び、ベッドへと駆ける。
「ウソ……でしょう?」
身じろぎ一つしない友の姿に、かすかな呟きが重なった。
早朝。
肌を刺す空気の中、街を発った二人と一羽を、呼び止める声があった。
空耳かと疑い振り返ると、肩を激しく上下させてジェナが立っていた。彼女の服装は旅の時の活動的なものから、あの嵐の日のスカートへと変わっている。
「お別れと、ありがとうって言いたくて」
「ジェナ……」
何か言葉をかけてやりたいのだが、見つからない。
重(かさ)なる気持ちがあるからこそ、余計に、それは難しいことだった。
そんな彼女の様子を察したのだろうか。ジェナは瞳を閉じ、空を仰いだ。
「わたしがもっと頑張っていれば、助けられたんじゃないか。そう思うと、やりきれないわ。本当に……」大きく息を吸い込む。「でもね。だからといって、自分の時間を止めてしまってはいけないの。悔やむからこそ、わたしはしっかり前を向いて生きていく。それがきっと、生きている人のギムなのよ」
口にしているほど完全に、親友の死を受け止めきれているわけではないだろう。けれども、彼女はそう在ろうと努めようとしている。
強いな。
そんな言葉が、ふと浮かんだ。
街道は黄色の大麦畑の間を縫い、北西へと伸びていた。リルガース王国と、隣の大国グリケノックとの実質的境である三連山へ向けて、緩やかに勾配していく。
ここの辺りは主街道で、グリケノックで産出された良質な石英が通る経路でもある。治安は比較的安定しているものの、よからぬ輩が出没しないわけではない。商人とはかけ離れた彼女たちをよもや襲撃するとは思えないが、万が一ということもありうる。警戒はしておかなければなるまい。
林に差し掛かった。
まだ朝が明けて間もないからだろうか。いつの間にか、白いもやが周囲を覆ってきていた。
この時期、この時間帯でこのような場所では、変わった現象ではない。
別段気にかけることもなく進もうとし――異常を察知した。
前後左右、何も見えない。自分の手でさえ、目の前に持って来なければ認識できないのだ。
(此れは……魔法か?)
レベッカが歩みを止めたと同時、後方から気配が迫ってきた。
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