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罪科の現出
偽りの気配
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ガタゴトと揺れる馬車での旅は、決して快適とはいえなかった。だが、安い馬車よりもずっとマシな乗り心地だろうということは察せられたので、不満を言っては罰が当たるというものだ。
「あの、一つ聞いてもよろしいですか、マリー様」
沈黙を破ったのは、サムだった。
彼女と同様に外の景色を見ていたマリーが名残惜しそうに視線を外して、向かいの茶髪の青年を見る。
「何ですか?」
サムがレベッカをチラッと見て、
「どうして俺がこいつの隣なんですか?」
「あら、だって」マリーが荷物を指差した。「わたしの隣には荷物があるんですもの」
「そうじゃなくて!」サムが声に多少のいらだちを含ませながら言った。「どうしてこいつが荷物の隣じゃないんですか!」
「良いじゃありませんか、たまには」
「よくありません。大体――」
「あ、レベッカさん見て下さい」
さらに何か言い募ろうとしてきた従者を無視して、
「今窓の外を流れている川、何て言うか知ってます?」
「否」
横目でサムを見ると、諦めたのか反対側の窓から外を見ている。その姿には何とも言えない哀愁が漂っていた。
「あの川は、スカタ川と言うんですよ。リルガースの暮らしを支えている、大切な川なんです」
川面に陽光が乱反射している。その輝きは眩く、神々しく、レベッカには手の届かない遠い世界の情景であるかのように感じられた。
ガタン、と大きく馬車が揺れた。どうやら橋を渡り終えたらしい。
彼女は、遠ざかってゆくスカタ川を見つめ続けた。自分を押し流そうとする運命の流れを、見極めようとするかのように……。
「ありがとうございました」
馬車を降りた彼女たちを、初夏の薫りを含んだ風が包み込む。
旅を始めて、はやひと月。季節の移り変わりは、いやおうなく時の経過を意識させた。
「さて、これからどうしましょうか」
チャールズが提供してくれた情報によると、ここ、ヴィセコ近辺で魔物被害に遭ったという報告が増えているとのことだった。
ヴィセコは首都リルガースと古都ヴァドイとの中間地点にあり、また、古都と商都への分岐路近くにある街である。それゆえ、昔から宿場町として発展してきた。宿屋はもちろん酒場などの施設もリルガースに負けず劣らず整っているので、多くの人が立ち寄る。必要そうな情報を入手するのは、そう難しいことでもないだろう。
「然うだな……先ずは宿に行かないか?」
「そうですね。あと二、三時間もすれば日も暮れてしまいますし」
レベッカの提案に、マリーがうなずく。
と、
「お待ち下さい、マリー様。お腹もすいてきましたし、先に腹ごしらえをしてからにしませんか?」
「でも、食堂なら宿屋にもありますよ」
マリーがいぶかしげに言う。
主人があまり乗り気でないことを悟ったのか、サムは慌てて付け加える。
「いや、それにですね、酒場とかに行けば何か情報が得られたりするんじゃないかなー、と思ったり」
(要するに、わたしの意見が通るのが気に食わないと言う訳か)
マリーも同様に思ったらしい。ため息をつき、
「分かりました、そうしましょう。レベッカさん、良いですか?」
隣に立つレベッカを見上げ、申し訳なさそうな口調で言う。
「嗚呼、異存は無い」
サムが瞳を輝かせる。
「意見をいれていただき、光栄です」
意気揚々といった様子で、先頭に立った。
薄暗い酒場の中は、煙草とアルコールの臭いが充満してむせ返るようであった。昼間だというのに、既に酔って机に突っ伏している者や床に転がっている者もいる。
酒場に入ったレベッカたち――特にマリー――は好奇の目を向けられた。
それもそのはず。荒くれ者の男たちが多数集うこの場において、若くて美しい娘は明らかに異彩を放つ存在であった。
威圧するように、サムが鋭い睨みをきかせる。
「まったく、これだからこういう場所は困りますよ」ぼやきながら、主人のために椅子を引く。「さ、どうぞマリー様」
「ありがとう、サム」
椅子に腰掛けると軽くため息をつき、マリーが給仕に飲み物と軽い食事を注文する。
「それじゃあまず――」
「だから本当だってば‼突然魔物が現れたんだ!」
マリーの声を遮ったのは、隣のテーブルに座る冒険者風の恰好をした、二十歳そこそこの若者の言葉だった。
「そんなことある訳ねぇだろうが。近くに魔物の巣でもあったんじゃねぇのか?」
と言ったのは、若者のつれらしき人物だ。こちらは少し年上に見える。
レベッカの脳裏を、ラシーバの一件がよぎる。
「気になりますね」
同じことを考えたようだ。マリーがポツリとつぶやく。
「詳しい話を聞いて来ます」
席を立とうとした従者を、マリーが制止した。
「それには及びません。わたしが行きます」
「し、しかしマリー様……」
当然、サムは難色を示す。
「大丈夫です。こういう場合の交渉の仕方は、心得ていますから」
従者に微笑みかけると、止める暇もあらばこそ、スタスタと二人の若者が座るテーブルへと近付いて行き、にこやかに話し掛ける。会話は周囲の騒音で切れ切れにしか聞こえてこないが、ずいぶん手馴れた様子だ。
おっとりとしているようだが、マリーは時折こうしたしたたかな側面をのぞかせるのである。
十五分ぐらい経ったころ。
銅貨二枚をテーブルの上に置くと、マリーは彼女たちのもとに戻って来た。
「目ぼしい感じだったか?」
「ええ」
席に着いて、少しさめた紅茶を一口飲む。
「ですが、宿に行ってからにしませんか?」
「そうですね、そうしましょう!では俺が清算をしますので、マリー様は外で待っていて下さい」
サムが勢いよく席を立った。
「で、何と言って居たのだ?」
開口一番そう言ったレベッカに、
「ああ、もう我慢ならん!」
サムが青筋を浮かべ、胸ぐらをつかむ。
「貴様の常日頃からの、その不躾な態度‼今だってそうだ!マリー様がお話しになられるまで、待てないのか!即刻、今までの非礼の数々を詫び、態度を改めることを誓え‼」
レベッカは大声に顔をしかめながら、冷たい視線を投げ付ける。
「貴様っ‼」
サムの握りしめられた拳が震える。
「止めなさい、サム!」見かねたマリーの鋭い声が飛んだ。「ここは村ではないのですよ。レベッカさんとわたしを隔てるものは、何もないのです」
「ですが」サムの手は緩まらない。「こいつの態度は雇い主に対するものとしても余りにひどすぎます」
「サム」マリーが静かに従者に語りかける。「生まれも育ちも違う、赤の他人同士が旅をしているのです。気に入らないことの一つや二つ、あるのは当然ではないですか。それでもどうしても耐えられないのであれば、あなたは旅を降りなさい」
この一言の効果は絶大だった。
サムの表情が、沈痛なものへと変わる。力なく、手が滑り落ちた。
乱れた襟元を整えていると、マリーが席を立った。
そっと従者の手を取り、包み込む。
「あなたのまっすぐで、忠義に篤い心。わたしには、それだけで充分です。ですから、あなたの拳を仲間に向けて振るう必要は、ないのですよ」
優しく微笑みかけると、
「さて、本題に入りますね」
酒場で聞いたことを話し始める。
「この間あのお二人――ケビンさんとシャシさんは、路銀を手早く稼ぐために、野盗のアジト探しの依頼を引き受けました。彼らはここから歩いて五日程の所にある、はなれ山と呼ばれる山の麓の洞窟に、アジトがあると睨みました。道中、特に危険な箇所もなく、調査は順調にいくかのように思われました。ところが、四日目の深夜になったかならないかという頃。見張りをしていたケビンさん――若いほうの方が胸騒ぎのようなものを覚えて、洞窟の方向にふと目をやると、数分前までは確かにいなかった魔物が、二、三十匹ぐらい突如として現れていたのだそうです。驚いた彼は慌ててシャシさんを起こして、命からがら逃げて来ました」
意見を問うように、順繰りに彼女たちに視線を向けつつ、
「これが事の次第なのですが、どう思われます?」
「調べて見る価値は有りそうだな」
「そうでしょう。魔物が発生する前に感じたという『胸騒ぎ』が魔力の波動を感じ取ったものだとすれば、この前のケースとほとんど同じです」
レベッカは腕組みを解き、小さくうなずく。サムにも異論はなく、次の目的地は、はなれ山の麓の洞窟と定まった。
ドンドン、という激しいノック音。そして、サムの慌てた声が、心地よい眠りの中にいたレベッカの耳に飛び込んできた。
「起きろ!マリー様が誘拐された」
尋常ならざる単語に、一気に眠気が吹き飛ぶ。
大急ぎで戸を開けると、そこには、血相を変えたサムが立っていた。
「マリーが誘拐されただと?」
「ああ。今朝、マリー様をお起こししようと思ってドアをノックしたら、いつもと違ってお返事がなかったんだ。おかしいと思ってドアノブを回したら鍵が掛かってなくて、テーブルの上にこんなものが……」
サムが小さな紙切れを差し出してくる。
読め、ということなのだろう。
紙を受け取り、目を通す。
この娘の仲間に告ぐ。娘を返してほしくば、七度日が沈むまでに、はなれ山の
麓にある洞窟まで来い。期日を過ぎるか、領主への通報が確認された場合には
――娘 の 命 は な い
紙を持つ手に、力がこもる。
「……大変な事に為ったな」
「ああ。わざわざ場所を指定してきたからには、それなりの罠も覚悟しなければならない」サムが深々と頭を下げる。「危険を承知で頼む!マリー様をお助けするために、力を貸してくれ‼」
答えなど、決まっていた。
「無論だ。依頼主の身の安全の確保は、契約の基本だからな」
「レベッカ…………すまない、ありがとう」
顔を上げたサムの瞳は、涙でにじんでいた。
§§§
さかのぼること、数時間前。
レベッカとサムが自室に引き上げ、マリーが眠る準備をしようとしたとき。誰かが、ドアをノックした。
「はい」
二人のうちのどちらかだろうというマリーの予想に反して、外に立っていたのは宿の使用人だった。
「食堂に、お客様がお見えになっております」
「何という方ですか?」
「ケビン様です」
思い当たる人物は、一人しかいなかった。今頃、なんの用なのだろうか。
夜がまだ始まったばかりのこの時間、町中の酒場には劣るものの、食堂はそれなりの賑わいを見せていた。
「やあ、こんばんは」
キョロキョロとしていると、横手から親し気に話し掛けてくる声があった。
「ああ、やっぱり貴方でしたか」
「良かった、覚えててくれたんだ」
昼間酒場で情報を聞き出した冒険者だった。
別行動中なのか、つれの姿はない。
「何の御用でしょうか?」
尋ねると、ケビンが気さくな笑みを浮かべる。
「いや、大した用じゃないよ。昼間話したことでちょっと言い忘れたことがあって、それを言いにきたんだ」
「そうですか。わざわざ御丁寧にありがとうございます。それでは、そこの席にでも座って伺いましょう」
しかし、ケビンは慌てた調子で、
「い、いや待ってくれ。その……そう、話のことは俺の相棒の方が詳しいんだ。今から案内するから、ついてきてくれないか?」
こころなしか、額に脂汗を浮かべているようだ。
「……では、仲間を呼んできますね」
踵を返しかけたマリーは、強く腕をつかまれて引き止められた。
「ええと、その」ぱっと彼女の腕を放す。「すぐ終わるから、わざわざ呼びにいくことはないよ。あっ、道中のことを心配しているのなら大丈夫。いくらも歩かないし、俺、腕は立つ方だから」
不審な態度だった。
行かないほうがいい。
彼女の直感がそう告げる。
が、断ろうと口を開きかけて、マリーは言葉を飲み込んだ。
ケビンの様子を観察する。
そわそわして、落ち着かない。なにか、心に掛かることがあるようだ。そして、あせっている。けれども、彼からは悪意を感じ取ることはできない。
もしかしたら、なんらかのトラブルに巻き込まれて、わらにもすがる想いで彼女を頼ってきているのかもしれない。情報を提供してくれた恩もある。力になれることがあるのなら、協力してあげたかった。
「……分かりました」
「良かった」ケビンがホッとしたような表情になる。「じゃあ、はぐれないようにしっかりついて来てくれよ」
ヴィセコの夜の通りは、リルガースには到底及ばないものの、人々の往来で騒がしかった。真夜中にはまだ遠いこの時間帯。家々の窓のほとんどには、明かりが灯っている。
初夏のヴィセコは、魔法によって常春の気候が保たれているマリーの故郷とは違い、上着を羽織らずに夜出歩いても、涼しいと感じる程度だった。
ケビンはやがて明るい大通りからそれ、薄暗く、人通りもまばらな裏通りへと入っていった。だんだんと、歩調が早くなる。
「あの、まだ着かないのでしょうか?」
マリーはやや息を乱しながら、前を歩くケビンの背中に問い掛けた。
「ん、ああもう少しだ。このまままっすぐ進むと小さい広場に出る。そこで待ち合わせたんだ」
振り返って、ぎこちない笑みを作る。そこに一抹のやましさを読み取って、マリーは眉をひそめた。
自分の見立ては、間違っていたのか。嵌められたというのだろうか?
ケビンへの疑いを強め始めたとき、彼が言っていた広場に着いた。そこは寂れた、辛うじて広場と呼べるような空間だった。
「これは……」
彼女たちを待ち受けていたのはケビンのつれなどではなく、いかにも柄の悪い、薄汚れた身なりをした男五人だった。
マリーは唇をきつく噛み締め、鋭い口調で言葉を放つ。
「どういう事ですか、ケビンさん!」
彼女の詰問に、しかし、ケビンはうつむいたまま何も答えようとしない。
「そいつを非難するのはかわいそうってもんだぜ、お嬢さん」
一番背が高く、体格の良い男が言った。
リーダー格と思われるその男は、小馬鹿にしたような視線をケビンに投げ付ける。
「そいつは相棒を助けるために必死だったんだから、なぁ?」
後ろに控える仲間たちに呼び掛ける。
彼らは、ニヤニヤとした笑みをケビンに向けた。
「さて、俺たちが用があるのはそちらのお嬢さんだけだ。お前の相棒は酒場の裏に転がしておいた。ほれ、とっとと行け。早くしねぇと野良犬に喰われちまうぞ」
面白くもない冗談を飛ばし、ケビンを手で追い払うしぐさをする。
彼は何も言わずマリーの横を通り過ぎて、路地の暗闇へと消えていった。
「お嬢さんは特別に、俺たちの城にエスコートしてさしあげましょう」
「お断りします!」
ジリジリと後退する。
「無駄な抵抗はやめたほうが身のためですぜ。さもないと……」
紡ぎかけた『眠り』の魔法は、突然背後に現れた気配によって中断させられた。
硬い何かで、後頭部を殴打される。
マリーはそのまま気を失って、ドサリと地面の上に倒れた。
§§§
ヴィセコを発って、四日が過ぎようとしていた。この四日間は天候にも恵まれ、レベッカ達は比較的滞りなく進んでいた。この調子なら、期限までには辿り着くことができそうだった。あとは……本当にまだマリーが無事なのかどうか。
焦りは、容易に判断ミスへとつながる。
気を抜くとのど元までせり上がってくるそれを、いかに抑えるか。ある意味、それが最大の正念場だった。
約半日歩き続け昼を少しまわった頃、つり橋が見えてきた。
「これを渡れば、洞窟は目と鼻の先のはずだ。敵が待ち構えているかもしれない。今日は暗くなる前に、安全そうな場所を見つけ次第休もう」
レベッカはうなずくと、先に立ってつり橋を渡り始める。
つり橋は一応丈夫なロープで支えられてはいるものの、足を踏み出す度にギシギシと音をたてて軋んだ。おまけに風が吹く度に大きく揺れて、何とも頼りない感じだ。
なるべく下を見ないように、出来る限りの早さで前進する。その歩みが止まったのは、中ほど辺り。
ジッと前方に目を凝らす。
「おい、どうしたんだ?」
サムが訝し気に声を掛けてきた。
「魔物だ。此方に近付いて来る」
「げっ!どうするんだ⁉こんな所じゃまともに戦えないぞ」
「走るぞ。上手く行けば、奴が来る前に渡り切れるかも知れない」
駆け出す。
橋が前にも増して激しく揺れたが、二人は構わず突き進んだ。
対岸まで、あと約五、六メートル。
その距離まで迫った所で、足下に先端が鋭く尖った羽がいく枚か突き刺さった。
「間に合わなかったか」
レベッカは小さく舌打ちをして、行く手を阻むかのごとく滞空している、魔鷲を睨め付けた。
むやみに近づけば、酸を吐かれる危険性がある。ここで戦うしかない。
魔物が一際大きくはばたく。
数枚の羽が、レベッカたち目がけて飛んできた。
剣を抜き、冷静にそれを叩き落とす。が、やはり落とし損ねたものがあったらしい。彼女の足に、小さな傷がいく筋か作られた。
「サム、無事か?」
「ああ、なんとか」
とは言ってはいるものの、彼も腕や足の所々に傷ができている。さらに、
「!」
橋が大きく傾いた。
体勢を崩しかけて、とっさに近くのロープをつかむ。
見ると、橋を支えているロープのうち何本かが切れていた。先程の攻撃のとばっちりをくったらしい。
頬を、冷たいものが伝う。
サムの手前、魔法を使うわけにはいかない。さりとて、当然のことながら、敵は剣が届く範囲に降りてきてくれる気はなさそうだった。
彼女が懸命に思考を巡らせる隣で、サムが腰の革袋から素早く一対の火打ち石と火打金を取り出した。
「援護を頼む」
言いおいて、サムが小声で呪文を唱え始める。
第二撃が来た。
細かい傷が増え、橋がさらに傾く。
鷲が三度羽を広げ――
呪文が、完成した。
火打道具がひとりでに宙に浮き、彼の周りをクルクルと回りだす。
「行け!」
サムの命令で、石が鷲に向かって飛んでいく。
攻撃目標が石に変更された。
飛んでくる羽をものともせず、火打ち石は目にも止まらぬ早さで鷲に突き進む。しかし、すんでのところで避けられてしまった。時間差を置いて飛ばした火打金も余裕でかわす。
鷲が勝ち誇ったように翼を大きく広げる。二人に止めの一撃が繰り出されようとした――まさにそのとき。
弧を描いて戻ってきた火打金の鋭角が、魔物の身を貫いた。
グラリと姿勢を崩し、錐揉みしながら谷底へと落下していく。
レベッカは、ホッと胸をなで下ろした。
任務を終えて戻ってきた道具に、サムが何事かをつぶやく。途端、火打道具はたちまちのうちに浮力を失い、彼の手の上に落ちた。
「凄いではないか、サム。御前にも此の様な魔法が使えたのだな」
「まあな」
やや照れたように、
「さすがにマリー様のような魔法は使えないが、俺の村では魔法など使えて当たり前だったからな。この程度のことはできるさ」
二人は残り僅かの道のりを、慎重な足取りで進む。
サムが大地に足を付ける。
と、同時。
ついに重みに耐えかねたのか、橋が崩れた。
心もち青い顔で、サムが飛びのく。
「じ、じゃあそろそろ行くか。早くしないと日が暮れる……し……」
言葉の途中で、サムは彼女の方を向いたまま硬直してしまった。
「如何した?」
「あ、あれ……」
彼女の背後の空を指差す。
ただならぬ様子に、急いでそちらを見たレベッカの目に映ったものは――。
「先程の魔物……其れもあんなに沢山居る」
「ど、どうする⁉さっきの方法じゃあんなに多くの数を相手にできない。あっという間に蜂の巣にされてしまうぞ!」
魔鷲の大軍は、どんどん近付いてきている。
レベッカは剣を抜いた。
「森に逃げ込むぞ。然う為れば、奴らも追っては来まい。攻撃は、極力わたしが防ぐ。確り付いて来い」
言うが早いか、飛んできた羽を弾き返しつつ、レベッカは森へと一目散に走り出した。
§§§
わたしの歩む道に、わたしの意志など関係なくて。けれど、それを不満に感じたことなどない。少なくとも、そう思っていた。わたしに期待を掛けてくれる父と母、それに皆の思いに応えることは嬉しかった。けれど――
――ああ、わたしは今、生まれて初めて自由に羽ばたいている。籠の中に押し込められていたのは、身体だけではなかったと知ってしまった。
飛ぶことを覚えた鳥は、果たして、籠の中に戻れるのだろうか?
§§§
ここに連れてこられて、もうどのくらい経ったのだろうか。
はっきりとしない意識を浮上させて、もういく度考えたかわからない問を再びもてあそぶ。
覚えのある魔力の波動から、ここがどこかも、戸の向こうにいる集団がどういったものなのかも見当はついていた。
今のところ野盗は彼女に危害を加えるつもりはないようだが、空腹感とのどの渇きが身を苛むこの状況は、あまり楽観視できるものではない。
「お頭、ただいま戻りました」
若い男の声が、マリーの耳に届いた。
彼らの会話は聞いていて気分の良いものではなかったが、聞こえてきてしまうものは仕方がない。再び意識が遠のくまでの辛抱だ。
「で、どうだった?外の様子は」
「へい。奴ら、橋を渡りやした」
「まぁ、予想通りってやつだな」
「でも、妙でしたぜ奴ら。お頭の話では、黒いのはえらい強い魔法を使うっつーことでしたが、実際魔法らしいものを使っていたのは青いのでした」
「どっちでも、始末することにゃあ変わりねぇ。やつらはもう、虫の息も同然よ。どんだけ強かろうが、数にゃあかないっこねぇんだからな」
おぼろげな世界の中。妙にはっきりと耳に届いた一言が、急速にマリーの意識から騒音を閉め出していった。
(レベッカさんが、魔法を……?)
夜闇を映し込んだかのような髪と瞳が、脳裏をかすめる。
(まさか……。いえ、このような不確かな情報を鵜呑みにしてどうするのです)
心に差した予感を、マリーは慌てて打ち消した。
§§§
焚火のはぜる音だけが、空間を支配している。
突然、サムが愛用のナックルをいじる手を止めて、沈黙を破った。
「やけに静かだと思わないか?」
「然うだな」
剣をかざして――あの程度の攻撃ではまずあり得ないが――刃こぼれがないか点検しながら、応じる。
「俺が思うにこれは――」
「罠、か」
レベッカが言葉を継ぐ。
サムがコクリとうなずいた。
剣を鞘に収めて、立ち上がる。
「まったく、森の外も中も魔物。魔物だらけ。嫌になるな、本当」
こぼしながら、サムが荷物を担ぎ上げた。
脅威は確実に迫ってきている。けれども、それがいつ来るのか分からない。
更なる精神への加重が、彼らを蝕んでいた。
なるべく無心を心がけて、進む。
洞窟が姿を現したのは、もう空が白み始めた頃だった。
「やっと……着いたな」
まぶしいものでも見るように目を細めて眼下を眺めながら、レベッカは深い息と共に言葉を吐き出した。
洞窟発見の喜びで、新たな活力を得たらしい。サムが力強い足どりを取り戻す。
洞窟はひんやりとしていたが、湿っぽくはなく、松明がよく燃えた。
内部に足を踏み入れた途端、レベッカは妙な気配――ブリミルの森で感じたのと同じような――を感じ取った。
「其れ以上先に進むな」
「何だよ。一体どうしたんだ?」
眉をひそめるサムに、彼女は無言で前方にあごをしゃくる。
「何だこれは‼どうなってるんだ⁉」
前を見たサムが、驚愕の声を発した。
二人の視線の先には、いくつもの分岐した通路があった。
「おかしいぞ。さっきまでは確かに、一本道だったのに」
「魔法陣の所為では無いか?此の間みたいにバラバラに成ら無かった丈でも増しだ」
「でも、これじゃあ――」
「落ち着け。騒ぎ立てた所で、何にも成りは為無い」
腕を組み、目差しを鋭くして眼前の空間を見すえる。
こうなったからには、魔法陣の破壊を優先したほうが良いのだろう。が、こうも滅茶苦茶に空間が歪められているのでは、波動を辿るのも難しい。発動さえしてくれれば、すぐに判るのだが……。
「マリー様!」
思考は、サムの声によって中断された。
「如何した」
「しっ!ちょっと黙っててくれ」
鋭い調子で返される。
(成程、『光』の神授魔法か。然う言えば、僅かに光魔法の気配が為るな)
リネス王家に伝わる、最も高度な魔法である。詠唱を必要とせず、ある一定範囲内にいる魔力を持った者一人に、自分の思念を送ることができる。相手も同じ魔法の使い手か、あるいは対象の思念を読み取れるほど高度な術者ならば、会話をすることも可能なようだ。ただ後者の方は、技術だけでなく、ある程度その人物との付き合いがないと難しいとされているが。
「マリー様が魔法陣のところまで、俺達を案内して下さるそうだ」
マリーの誘導は的確だった。徐々に波動が近くなる。
そして――。
「行き止まりですよ、マリー様」
目の前に立ち塞がる岩壁を、コンコンと叩く。押しても引いても、やはり何も起こらない。
どこかに、仕掛けの類があるのではないか。
レベッカは扉の近くから、目線の高さのところを石で叩いていく。
目的の場所は、すぐに見つかった。念のためにもう一度叩いてみる。やはりそこだけ、微妙に音が軽い。
試しに、その部分の石をつかんで引き寄せてみる。さほどの抵抗もなく石がすっぽりと抜け、現われた空洞にレバーがあった。
「仕掛けが有ったぞ」
「本当か!」駆け寄ってくる。「マリー様、ありました!え?あ、はい。わかりました。……マリー様?」会話の途中で、訝しげに顔をしかめる。「どうしたんですか⁉マリー様‼」
「何か有ったのか‼」
「わからない」憔悴した様子で、首を振る。「とにかく、急ごう!」
レバーを引く。石の扉が重い音をたてて、右方向へスライドした。
抑えきれない焦りが、二人の歩調を早める。
通路の半ばぐらいまで来たとき。
床が沈み込むような感覚がした。ガコンという音と、何かが動くような重い音が続けざまに聞こえてくる。思わず立ち止まりそうになったが、すんでの所で踏み止まり、全力で駆け出す。
魔法陣のものと思われる青白い光が、だんだんと大きくなる。
そうして、ついに。
巨大な逆五忙星が床一面に描かれた、広い空間に飛び出した。
出迎えは、ない。
剣に掛けていた手をはずす。
発動している魔法陣の輝きのお陰で、サムが走るために投げ出してしまった松明がなくても、視界の確保に不自由はなかった。
魔法陣はブリミルの森で見たものと、非常に似通っている。性能はこちらの方が幾分か上のようだが、同一人物の手によるものだろう。途上の魔物の襲撃も、これによって引き起こされたものだ。証明こそできないものの、魔物増加との関連性がますます濃くなった。
「無事か?」
「なんとかな」
振り返ると、サムは肩で息をしながら壁に寄り掛かっていた。やはり、昨夜からの強行軍が響いているらしい。
「危ないところだった。見てみろよ、アレを」
親指で後ろを示す。
通路の壁に空いた無数の穴から、槍が突き出していた。
「さて、マリー様をお助けしたいのは山々だが、まずはこのいけ好かない魔法陣の息の根を止めるか」
「ちょっと待ちな、お二人さん」
だみ声が、彼女たちの足を止めた。
前方の壁にポッカリと穴が開き、六人ほどの男達がバラバラと出てくる。
「ここまで来るたぁ、運のいいやつらだ」
得物をかまえ、
「だが、そろそろ年貢の納めどきだ」
レベッカは剣を抜き放ちざま、間近にまで迫っていた野盗の一人に閃かせた。
ギィンという剣と剣がぶつかりあう音が耳につく。その一瞬の後には、野盗の剣はさほどの抵抗も感じさせずに折れていた。
「ひぃ」
逃げ腰になったその野盗の首の後ろを、すれ違いざまに柄頭で一撃する。気を失って倒れたのをチラと確認して、次の標的へ。
標的とした野盗は、レベッカが近づくなり、動揺したのかデタラメに斬り掛かってきた。それを余裕でかわすと、鳩尾に思いきり蹴りを叩き込んで気絶させる。そのまま全速力で頭目のところに行き、
「ま、待ってくれ」
という命乞いをあっさりと無視して、剣を振り下ろした。
レベッカは、仰向けに倒れた男を冷ややかに睥睨した。
頭目は額にわずかに血が滲んでいることを除けば、特に目立った外傷は無い。彼女は斬る寸前で剣を止めたのである。
「其方も片付いた様だな」
呼び掛けに、サムが簡潔に答えを返す。
彼の傍らには、野盗三人がきれいにノックアウトされて倒れていた。
レベッカは、逆五忙星の頂点に設置されている装置へと歩み寄る。
「装置」といっても、大がかりなものではない。水をたたえた水盤の上に、一メートルほどの大きさの水晶が浮かんでいるだけ。いたって簡素なものだ。大した技術である。
何らかの魔法的処置を施したのか、水晶の表面には紋様の他に傷一つない。内側からは、魔法陣と同じ青白い光が滲み出ている。
剣を薙ぎ払う。
水晶は綺麗な切り口を見せて、盛大な水しぶきと共に水盤の中に落ちた。
魔法陣の輝きが失せる。
部屋全体に満ちていた濃密な魔力の気配が、消失した。
野盗たちがねぐらとしていたらしい部屋は、かなり散らかっていた。略奪品と思われる高そうな机の上や椅子の周りには、大量のスルス硬貨と少量の金貨や銀貨、銅貨や宝石といった金目の物が、見事なまでに散乱している。部屋の奥にはいかにも急ごしらえの、立てつけの悪い戸があった。
「なんで開かないんだ⁉」
急く二人を焦らすかのように、戸は僅かに軋むだけでビクともしない。
業を煮やしたサムが、気合いと共に見事な蹴りを放つ。大きく湾曲した戸が、派手な音をたてて地に叩きつけられた。
サムが一目散に主人のもとに駆け寄った。
震える手で、猿轡と荒縄を解く。白く美しい肌には、荒縄の痛々しい跡がくっきりとついていた。
「マリー様、マリー様‼しっかりなさって下さい。目を開けて下さい、マリー様!」
主人をしっかりと抱きかかえ、頬を軽く叩きながら、涙混じりに何度も呼び掛ける。
横たわるその姿は、いかにも弱々しく儚気だ。
(呼吸は為て居るし、目立った外傷も無い。と、為ると残る可能性は――)
「毒を盛られたのかも知れないな」
眉間に深いしわを刻み、つぶやく。
「町に行って、医者を連れてくる」
「待て」立ち上がった彼を、レベッカが引き止めた。「わたしが行く。若しマリーが目を覚ましたら、其の時は、御前が居る方が心強いだろう」
「……すまない」
と。
去りかけた彼女の耳に、微かな声が届いた。
マリーがうっすらと目を開ける。
「……サム。レベッカ……さん」
咳き込む。
気づいたサムが、主人の口に水を含ませる。
「マリー……良かった。何処も変わり無いのだな?」
「ええ。お手数お掛けして、すみませんでした。それから、ありがとうございます」
弱々しくはあったが穏やかな微笑みを、二人に向けた。
荒縄で拘束しておいた野盗たちは、まだ気絶しているようだった。
レベッカは頭目の肩を強く揺する。
「んあ。誰だ?もう少し寝かせろ……」
「答えてもらおうか」
喉元に、鋭い輝きを放つ刃を押し付ける。
情けない声をあげて、頭目が恐る恐る剣の持ち主を見上げる。
「しっ、死神⁉頼む、命だけは助けてくれ‼なんでも答えるから!」
ありきたりな言葉で、必死に命乞いをする。
それへ凍てついた視線を送りつつ、
「良いだろう。では単刀直入に聞くが、誰に頼まれてこんな事を為た?」
「し、知らない」
「知らない?然うか。ならば、仕方無いな」
剣を退け、振り上げる。
頭目の顔からたちまち血の気が引いた。
「頼むから‼……その化け物めいた剣をしまってくれ」あえぎながら、ワナワナと震える唇で声を絞り出す。「そんなものを突きつけられたひにゃ、恐ろしくてまともに話なんかできねぇ」
必死の懇願を呑んでやると、安堵したような吐息をつき、
「俺が知らないと言ったのは、依頼人のことだ。二週間くらい前だったか、あれは。俺たちのアジトに妙なヤツがきて、こう言ったんだ。『仕事をする気はないか?』って。どうも嫌な臭いがしたから、最初は断ろうと思った。ところが、だ。そう言おうとした矢先に、金貨十枚が入った袋を投げてよこしてきたんだ。金貨十枚ったら大金だぞ?しかもヤツは、成功したらその倍を報酬として出していい、とまで言ったんだ。内容も、小娘二人と小僧一人を始末するだけだっていうし。楽な仕事だと思った。それで、一も二もなく飛びついたって訳さ」
「其奴の特徴は?」
「そうだなぁ」
しばし考え込む。
「背かっこうは、だいたいあんたと同じぐらいだな。顔は、暗かったしフードを目深に被っていたから分からねぇ。ご丁寧に、口元も覆っていやがったな。年は三、四十代ってところか。けど、捜しても無駄だと思うぜ。あいつ、こなれた感じだったからな」
「この魔法陣について、知っていることはありませんか?」
問うマリーの顔色は、薬湯を飲んだために先程までよりは良い。
「いや、知らねぇな。俺たちが造ったわけじゃねぇし」
「そうですか……」
「どういたします?マリー様。こいつらの始末」
「やはり、領主様に引き渡すのが一番じゃないでしょうか」
その言葉に、頭目が慌てた。
「おい、約束が違うじゃねぇか。さっきお前、命は助けてくれるって言っただろ⁉そんなことされたら、俺達は確実に――」
「黙れ」口上を遮って、冷たく言い放つ。「約束通り、わたし達は御前達を殺さ無い。だが、領主に引き渡さ無い等とは一言も言って居無いし、其の後如何成るか等知った事では無い」
なおも喚き立てている頭目は完全に無視し、後ろの二人に問い掛ける。
「さて、如何為る?此の調子だと、梃でも動きそうに無いが」
「良い考えがあります」
マリーが野盗たちを指差す。
『我、汝らに安息と支配を与えん』
唱えるや否や、先程まで騒いでいたことなど嘘のように、頭目が気持ち良さそうに眠り始めた。
(リネス王家十八番の『眠り』の魔法か。だが……支配?)
「此の魔法には、どんな効果が有るのだ?」
「見ての通り、相手を眠らせる魔法です。それと、もう一つ……」いたずらっぽく笑いながら、器用にウインクをする。「通常の魔法に少しだけアレンジを加えて、眠っている間だけ術者の言う通りに動くようにしたんです。例えば、こんな風に……」
荒縄を解くと、
「整列!」
野盗たちが、いっせいに立ち上がる。そして、背筋をピンと伸ばし、足をきちんと揃えて手を真横にビシッとつけた――まさにお手本通りの――姿勢できれいに縦一列に並んだ。
「ほう」
思わず、感嘆の声が漏れる。
「では、参りましょう」
野盗たちを従えて、歩き出す。
続こうと足を踏み出しかけたところで、彼女はサムに呼び止められた。
「レベッカ、待ってくれ」
「如何為た?珍しいな。わたしを名前で呼ぶ等」
振り返り、好奇の目でサムを眺める。
サムは少し頬を赤く染め、
「そ、その……今回のことで、あんたにマリー様を害するつもりがないことが分かった。だから……仲間として認めてやろう。これからもよろしく頼む」
ぎこちない動作で、手を差し出す。
微笑を浮かべ、レベッカはしっかりと手を握りしめた。
複雑な、心境だった。
つり橋が使えなくなってしまったため、帰路は北に大きく渓谷を迂回せざるを得なくなってしまった。ヴィセコに着いたのは、マリー誘拐から半月ほども経った頃だった。
「それにしても、緊張しましたねー」
「本当ですね。俺、謁見なんて初めてだったから、最後までずっとドキドキしっぱなしでしたよ。でも、助かりましたね。こんなに報奨金を貰えるなんて」
金の入った袋を振りながら、嬉しそうに言う。
レベッカは話には加わらず、窓辺に腰掛けて闇に沈んだ町並みをボンヤリと眺めていた。
ふと、脳裏に村で過ごしていた日々の記憶が蘇る。両親が死んでから、村を発つまでの日々の記憶が……。
(彼の日から、カタリナ様は変わられた。リネス王家と和を結ぶ事に異を唱えて居たロバートに共鳴し、復讐を声高に唱える様に成った。稽古は、以前とは比に成ら無い程厳しさを増した……)
体中に刻まれた傷跡が、疼く。
カタリナにとって、彼女はもはや後継者ではなく、道具でしかなかった。
(リネスを憎む事丈が、わたしの支えだった。然うでも為無ければ、きっと、わたしは、立っては居られ無かった…………)
目を閉じる。大きく息を吸い込む。
二人の心はほぼ確実につかんだ。やるには、今が絶好の好機だ。心の片をつけなければならない。それに、そろそろ報告を求められるはずだった。
(……自分の気持ちに、嘘は吐け無いな)
マリーに毒が盛られたかもしれないと思った、あの時。生きて欲しいと、心の底から願った。
(リネスに対して、痼が無い訳では無い。けれども、マリーなら信用出来る。此の旅が終わったら師と父上、母上の志を継ぎ、今度こそ長きに渡って来た不毛な争いに、決着を付けよう)
「どうしたんですか?レベッカさん」ふいに、心配そうなマリーの顔が目の前に広がった。
「すごく厳しい顔をしていますよ?」
「否、何でも無い。有り難う」
微笑む。見せかけではなく、初めて本当の笑顔を向けることができた。
ヴィセコ。領主の館の地下牢。普段滅多に使われることのないそこには、現在六人の囚人がいる。
刻は深夜。
静寂が支配するその空間に、今、一人の闖入者が現れた。
年の頃は、三十代半ばといったところだろうか。きちんと整えられた銀髪、厳しい顔つきのその男は、軍人らしい規則正しい歩調で牢の前までやってきた。
手に持っていた鍵で扉を開け、低くつぶやく。
「起きろ」
野盗の頭目は身じろぎをすると、眠そうな声を出した。
「あんた、誰だ?」
「お前達の依頼人だ。助けにきた」
「本当か⁉」
今の一言で、眠気が吹っ飛んだらしい。口調がはっきりとしたものになる。
「おい、野郎ども。起きろ!」
残りの五人が、バラバラと起きる。うち一人が、あくびをしながら言った。
「何かあったんすか?」
「そこの御仁が、俺たちを助けてくれるらしい。ほら、ボサッとしてないでとっとと立て!」
野盗たちは、大急ぎで男の後に従った。
月光を映した銀光が、ほんの少しの間暗い森の中をきらめく。
「ここまでは計画通り、か」
銀髪の男は血の滴を払い落として、剣を収めた。その場を立ち去る。
後には、六つの死体と静けさだけが残された。
「あの、一つ聞いてもよろしいですか、マリー様」
沈黙を破ったのは、サムだった。
彼女と同様に外の景色を見ていたマリーが名残惜しそうに視線を外して、向かいの茶髪の青年を見る。
「何ですか?」
サムがレベッカをチラッと見て、
「どうして俺がこいつの隣なんですか?」
「あら、だって」マリーが荷物を指差した。「わたしの隣には荷物があるんですもの」
「そうじゃなくて!」サムが声に多少のいらだちを含ませながら言った。「どうしてこいつが荷物の隣じゃないんですか!」
「良いじゃありませんか、たまには」
「よくありません。大体――」
「あ、レベッカさん見て下さい」
さらに何か言い募ろうとしてきた従者を無視して、
「今窓の外を流れている川、何て言うか知ってます?」
「否」
横目でサムを見ると、諦めたのか反対側の窓から外を見ている。その姿には何とも言えない哀愁が漂っていた。
「あの川は、スカタ川と言うんですよ。リルガースの暮らしを支えている、大切な川なんです」
川面に陽光が乱反射している。その輝きは眩く、神々しく、レベッカには手の届かない遠い世界の情景であるかのように感じられた。
ガタン、と大きく馬車が揺れた。どうやら橋を渡り終えたらしい。
彼女は、遠ざかってゆくスカタ川を見つめ続けた。自分を押し流そうとする運命の流れを、見極めようとするかのように……。
「ありがとうございました」
馬車を降りた彼女たちを、初夏の薫りを含んだ風が包み込む。
旅を始めて、はやひと月。季節の移り変わりは、いやおうなく時の経過を意識させた。
「さて、これからどうしましょうか」
チャールズが提供してくれた情報によると、ここ、ヴィセコ近辺で魔物被害に遭ったという報告が増えているとのことだった。
ヴィセコは首都リルガースと古都ヴァドイとの中間地点にあり、また、古都と商都への分岐路近くにある街である。それゆえ、昔から宿場町として発展してきた。宿屋はもちろん酒場などの施設もリルガースに負けず劣らず整っているので、多くの人が立ち寄る。必要そうな情報を入手するのは、そう難しいことでもないだろう。
「然うだな……先ずは宿に行かないか?」
「そうですね。あと二、三時間もすれば日も暮れてしまいますし」
レベッカの提案に、マリーがうなずく。
と、
「お待ち下さい、マリー様。お腹もすいてきましたし、先に腹ごしらえをしてからにしませんか?」
「でも、食堂なら宿屋にもありますよ」
マリーがいぶかしげに言う。
主人があまり乗り気でないことを悟ったのか、サムは慌てて付け加える。
「いや、それにですね、酒場とかに行けば何か情報が得られたりするんじゃないかなー、と思ったり」
(要するに、わたしの意見が通るのが気に食わないと言う訳か)
マリーも同様に思ったらしい。ため息をつき、
「分かりました、そうしましょう。レベッカさん、良いですか?」
隣に立つレベッカを見上げ、申し訳なさそうな口調で言う。
「嗚呼、異存は無い」
サムが瞳を輝かせる。
「意見をいれていただき、光栄です」
意気揚々といった様子で、先頭に立った。
薄暗い酒場の中は、煙草とアルコールの臭いが充満してむせ返るようであった。昼間だというのに、既に酔って机に突っ伏している者や床に転がっている者もいる。
酒場に入ったレベッカたち――特にマリー――は好奇の目を向けられた。
それもそのはず。荒くれ者の男たちが多数集うこの場において、若くて美しい娘は明らかに異彩を放つ存在であった。
威圧するように、サムが鋭い睨みをきかせる。
「まったく、これだからこういう場所は困りますよ」ぼやきながら、主人のために椅子を引く。「さ、どうぞマリー様」
「ありがとう、サム」
椅子に腰掛けると軽くため息をつき、マリーが給仕に飲み物と軽い食事を注文する。
「それじゃあまず――」
「だから本当だってば‼突然魔物が現れたんだ!」
マリーの声を遮ったのは、隣のテーブルに座る冒険者風の恰好をした、二十歳そこそこの若者の言葉だった。
「そんなことある訳ねぇだろうが。近くに魔物の巣でもあったんじゃねぇのか?」
と言ったのは、若者のつれらしき人物だ。こちらは少し年上に見える。
レベッカの脳裏を、ラシーバの一件がよぎる。
「気になりますね」
同じことを考えたようだ。マリーがポツリとつぶやく。
「詳しい話を聞いて来ます」
席を立とうとした従者を、マリーが制止した。
「それには及びません。わたしが行きます」
「し、しかしマリー様……」
当然、サムは難色を示す。
「大丈夫です。こういう場合の交渉の仕方は、心得ていますから」
従者に微笑みかけると、止める暇もあらばこそ、スタスタと二人の若者が座るテーブルへと近付いて行き、にこやかに話し掛ける。会話は周囲の騒音で切れ切れにしか聞こえてこないが、ずいぶん手馴れた様子だ。
おっとりとしているようだが、マリーは時折こうしたしたたかな側面をのぞかせるのである。
十五分ぐらい経ったころ。
銅貨二枚をテーブルの上に置くと、マリーは彼女たちのもとに戻って来た。
「目ぼしい感じだったか?」
「ええ」
席に着いて、少しさめた紅茶を一口飲む。
「ですが、宿に行ってからにしませんか?」
「そうですね、そうしましょう!では俺が清算をしますので、マリー様は外で待っていて下さい」
サムが勢いよく席を立った。
「で、何と言って居たのだ?」
開口一番そう言ったレベッカに、
「ああ、もう我慢ならん!」
サムが青筋を浮かべ、胸ぐらをつかむ。
「貴様の常日頃からの、その不躾な態度‼今だってそうだ!マリー様がお話しになられるまで、待てないのか!即刻、今までの非礼の数々を詫び、態度を改めることを誓え‼」
レベッカは大声に顔をしかめながら、冷たい視線を投げ付ける。
「貴様っ‼」
サムの握りしめられた拳が震える。
「止めなさい、サム!」見かねたマリーの鋭い声が飛んだ。「ここは村ではないのですよ。レベッカさんとわたしを隔てるものは、何もないのです」
「ですが」サムの手は緩まらない。「こいつの態度は雇い主に対するものとしても余りにひどすぎます」
「サム」マリーが静かに従者に語りかける。「生まれも育ちも違う、赤の他人同士が旅をしているのです。気に入らないことの一つや二つ、あるのは当然ではないですか。それでもどうしても耐えられないのであれば、あなたは旅を降りなさい」
この一言の効果は絶大だった。
サムの表情が、沈痛なものへと変わる。力なく、手が滑り落ちた。
乱れた襟元を整えていると、マリーが席を立った。
そっと従者の手を取り、包み込む。
「あなたのまっすぐで、忠義に篤い心。わたしには、それだけで充分です。ですから、あなたの拳を仲間に向けて振るう必要は、ないのですよ」
優しく微笑みかけると、
「さて、本題に入りますね」
酒場で聞いたことを話し始める。
「この間あのお二人――ケビンさんとシャシさんは、路銀を手早く稼ぐために、野盗のアジト探しの依頼を引き受けました。彼らはここから歩いて五日程の所にある、はなれ山と呼ばれる山の麓の洞窟に、アジトがあると睨みました。道中、特に危険な箇所もなく、調査は順調にいくかのように思われました。ところが、四日目の深夜になったかならないかという頃。見張りをしていたケビンさん――若いほうの方が胸騒ぎのようなものを覚えて、洞窟の方向にふと目をやると、数分前までは確かにいなかった魔物が、二、三十匹ぐらい突如として現れていたのだそうです。驚いた彼は慌ててシャシさんを起こして、命からがら逃げて来ました」
意見を問うように、順繰りに彼女たちに視線を向けつつ、
「これが事の次第なのですが、どう思われます?」
「調べて見る価値は有りそうだな」
「そうでしょう。魔物が発生する前に感じたという『胸騒ぎ』が魔力の波動を感じ取ったものだとすれば、この前のケースとほとんど同じです」
レベッカは腕組みを解き、小さくうなずく。サムにも異論はなく、次の目的地は、はなれ山の麓の洞窟と定まった。
ドンドン、という激しいノック音。そして、サムの慌てた声が、心地よい眠りの中にいたレベッカの耳に飛び込んできた。
「起きろ!マリー様が誘拐された」
尋常ならざる単語に、一気に眠気が吹き飛ぶ。
大急ぎで戸を開けると、そこには、血相を変えたサムが立っていた。
「マリーが誘拐されただと?」
「ああ。今朝、マリー様をお起こししようと思ってドアをノックしたら、いつもと違ってお返事がなかったんだ。おかしいと思ってドアノブを回したら鍵が掛かってなくて、テーブルの上にこんなものが……」
サムが小さな紙切れを差し出してくる。
読め、ということなのだろう。
紙を受け取り、目を通す。
この娘の仲間に告ぐ。娘を返してほしくば、七度日が沈むまでに、はなれ山の
麓にある洞窟まで来い。期日を過ぎるか、領主への通報が確認された場合には
――娘 の 命 は な い
紙を持つ手に、力がこもる。
「……大変な事に為ったな」
「ああ。わざわざ場所を指定してきたからには、それなりの罠も覚悟しなければならない」サムが深々と頭を下げる。「危険を承知で頼む!マリー様をお助けするために、力を貸してくれ‼」
答えなど、決まっていた。
「無論だ。依頼主の身の安全の確保は、契約の基本だからな」
「レベッカ…………すまない、ありがとう」
顔を上げたサムの瞳は、涙でにじんでいた。
§§§
さかのぼること、数時間前。
レベッカとサムが自室に引き上げ、マリーが眠る準備をしようとしたとき。誰かが、ドアをノックした。
「はい」
二人のうちのどちらかだろうというマリーの予想に反して、外に立っていたのは宿の使用人だった。
「食堂に、お客様がお見えになっております」
「何という方ですか?」
「ケビン様です」
思い当たる人物は、一人しかいなかった。今頃、なんの用なのだろうか。
夜がまだ始まったばかりのこの時間、町中の酒場には劣るものの、食堂はそれなりの賑わいを見せていた。
「やあ、こんばんは」
キョロキョロとしていると、横手から親し気に話し掛けてくる声があった。
「ああ、やっぱり貴方でしたか」
「良かった、覚えててくれたんだ」
昼間酒場で情報を聞き出した冒険者だった。
別行動中なのか、つれの姿はない。
「何の御用でしょうか?」
尋ねると、ケビンが気さくな笑みを浮かべる。
「いや、大した用じゃないよ。昼間話したことでちょっと言い忘れたことがあって、それを言いにきたんだ」
「そうですか。わざわざ御丁寧にありがとうございます。それでは、そこの席にでも座って伺いましょう」
しかし、ケビンは慌てた調子で、
「い、いや待ってくれ。その……そう、話のことは俺の相棒の方が詳しいんだ。今から案内するから、ついてきてくれないか?」
こころなしか、額に脂汗を浮かべているようだ。
「……では、仲間を呼んできますね」
踵を返しかけたマリーは、強く腕をつかまれて引き止められた。
「ええと、その」ぱっと彼女の腕を放す。「すぐ終わるから、わざわざ呼びにいくことはないよ。あっ、道中のことを心配しているのなら大丈夫。いくらも歩かないし、俺、腕は立つ方だから」
不審な態度だった。
行かないほうがいい。
彼女の直感がそう告げる。
が、断ろうと口を開きかけて、マリーは言葉を飲み込んだ。
ケビンの様子を観察する。
そわそわして、落ち着かない。なにか、心に掛かることがあるようだ。そして、あせっている。けれども、彼からは悪意を感じ取ることはできない。
もしかしたら、なんらかのトラブルに巻き込まれて、わらにもすがる想いで彼女を頼ってきているのかもしれない。情報を提供してくれた恩もある。力になれることがあるのなら、協力してあげたかった。
「……分かりました」
「良かった」ケビンがホッとしたような表情になる。「じゃあ、はぐれないようにしっかりついて来てくれよ」
ヴィセコの夜の通りは、リルガースには到底及ばないものの、人々の往来で騒がしかった。真夜中にはまだ遠いこの時間帯。家々の窓のほとんどには、明かりが灯っている。
初夏のヴィセコは、魔法によって常春の気候が保たれているマリーの故郷とは違い、上着を羽織らずに夜出歩いても、涼しいと感じる程度だった。
ケビンはやがて明るい大通りからそれ、薄暗く、人通りもまばらな裏通りへと入っていった。だんだんと、歩調が早くなる。
「あの、まだ着かないのでしょうか?」
マリーはやや息を乱しながら、前を歩くケビンの背中に問い掛けた。
「ん、ああもう少しだ。このまままっすぐ進むと小さい広場に出る。そこで待ち合わせたんだ」
振り返って、ぎこちない笑みを作る。そこに一抹のやましさを読み取って、マリーは眉をひそめた。
自分の見立ては、間違っていたのか。嵌められたというのだろうか?
ケビンへの疑いを強め始めたとき、彼が言っていた広場に着いた。そこは寂れた、辛うじて広場と呼べるような空間だった。
「これは……」
彼女たちを待ち受けていたのはケビンのつれなどではなく、いかにも柄の悪い、薄汚れた身なりをした男五人だった。
マリーは唇をきつく噛み締め、鋭い口調で言葉を放つ。
「どういう事ですか、ケビンさん!」
彼女の詰問に、しかし、ケビンはうつむいたまま何も答えようとしない。
「そいつを非難するのはかわいそうってもんだぜ、お嬢さん」
一番背が高く、体格の良い男が言った。
リーダー格と思われるその男は、小馬鹿にしたような視線をケビンに投げ付ける。
「そいつは相棒を助けるために必死だったんだから、なぁ?」
後ろに控える仲間たちに呼び掛ける。
彼らは、ニヤニヤとした笑みをケビンに向けた。
「さて、俺たちが用があるのはそちらのお嬢さんだけだ。お前の相棒は酒場の裏に転がしておいた。ほれ、とっとと行け。早くしねぇと野良犬に喰われちまうぞ」
面白くもない冗談を飛ばし、ケビンを手で追い払うしぐさをする。
彼は何も言わずマリーの横を通り過ぎて、路地の暗闇へと消えていった。
「お嬢さんは特別に、俺たちの城にエスコートしてさしあげましょう」
「お断りします!」
ジリジリと後退する。
「無駄な抵抗はやめたほうが身のためですぜ。さもないと……」
紡ぎかけた『眠り』の魔法は、突然背後に現れた気配によって中断させられた。
硬い何かで、後頭部を殴打される。
マリーはそのまま気を失って、ドサリと地面の上に倒れた。
§§§
ヴィセコを発って、四日が過ぎようとしていた。この四日間は天候にも恵まれ、レベッカ達は比較的滞りなく進んでいた。この調子なら、期限までには辿り着くことができそうだった。あとは……本当にまだマリーが無事なのかどうか。
焦りは、容易に判断ミスへとつながる。
気を抜くとのど元までせり上がってくるそれを、いかに抑えるか。ある意味、それが最大の正念場だった。
約半日歩き続け昼を少しまわった頃、つり橋が見えてきた。
「これを渡れば、洞窟は目と鼻の先のはずだ。敵が待ち構えているかもしれない。今日は暗くなる前に、安全そうな場所を見つけ次第休もう」
レベッカはうなずくと、先に立ってつり橋を渡り始める。
つり橋は一応丈夫なロープで支えられてはいるものの、足を踏み出す度にギシギシと音をたてて軋んだ。おまけに風が吹く度に大きく揺れて、何とも頼りない感じだ。
なるべく下を見ないように、出来る限りの早さで前進する。その歩みが止まったのは、中ほど辺り。
ジッと前方に目を凝らす。
「おい、どうしたんだ?」
サムが訝し気に声を掛けてきた。
「魔物だ。此方に近付いて来る」
「げっ!どうするんだ⁉こんな所じゃまともに戦えないぞ」
「走るぞ。上手く行けば、奴が来る前に渡り切れるかも知れない」
駆け出す。
橋が前にも増して激しく揺れたが、二人は構わず突き進んだ。
対岸まで、あと約五、六メートル。
その距離まで迫った所で、足下に先端が鋭く尖った羽がいく枚か突き刺さった。
「間に合わなかったか」
レベッカは小さく舌打ちをして、行く手を阻むかのごとく滞空している、魔鷲を睨め付けた。
むやみに近づけば、酸を吐かれる危険性がある。ここで戦うしかない。
魔物が一際大きくはばたく。
数枚の羽が、レベッカたち目がけて飛んできた。
剣を抜き、冷静にそれを叩き落とす。が、やはり落とし損ねたものがあったらしい。彼女の足に、小さな傷がいく筋か作られた。
「サム、無事か?」
「ああ、なんとか」
とは言ってはいるものの、彼も腕や足の所々に傷ができている。さらに、
「!」
橋が大きく傾いた。
体勢を崩しかけて、とっさに近くのロープをつかむ。
見ると、橋を支えているロープのうち何本かが切れていた。先程の攻撃のとばっちりをくったらしい。
頬を、冷たいものが伝う。
サムの手前、魔法を使うわけにはいかない。さりとて、当然のことながら、敵は剣が届く範囲に降りてきてくれる気はなさそうだった。
彼女が懸命に思考を巡らせる隣で、サムが腰の革袋から素早く一対の火打ち石と火打金を取り出した。
「援護を頼む」
言いおいて、サムが小声で呪文を唱え始める。
第二撃が来た。
細かい傷が増え、橋がさらに傾く。
鷲が三度羽を広げ――
呪文が、完成した。
火打道具がひとりでに宙に浮き、彼の周りをクルクルと回りだす。
「行け!」
サムの命令で、石が鷲に向かって飛んでいく。
攻撃目標が石に変更された。
飛んでくる羽をものともせず、火打ち石は目にも止まらぬ早さで鷲に突き進む。しかし、すんでのところで避けられてしまった。時間差を置いて飛ばした火打金も余裕でかわす。
鷲が勝ち誇ったように翼を大きく広げる。二人に止めの一撃が繰り出されようとした――まさにそのとき。
弧を描いて戻ってきた火打金の鋭角が、魔物の身を貫いた。
グラリと姿勢を崩し、錐揉みしながら谷底へと落下していく。
レベッカは、ホッと胸をなで下ろした。
任務を終えて戻ってきた道具に、サムが何事かをつぶやく。途端、火打道具はたちまちのうちに浮力を失い、彼の手の上に落ちた。
「凄いではないか、サム。御前にも此の様な魔法が使えたのだな」
「まあな」
やや照れたように、
「さすがにマリー様のような魔法は使えないが、俺の村では魔法など使えて当たり前だったからな。この程度のことはできるさ」
二人は残り僅かの道のりを、慎重な足取りで進む。
サムが大地に足を付ける。
と、同時。
ついに重みに耐えかねたのか、橋が崩れた。
心もち青い顔で、サムが飛びのく。
「じ、じゃあそろそろ行くか。早くしないと日が暮れる……し……」
言葉の途中で、サムは彼女の方を向いたまま硬直してしまった。
「如何した?」
「あ、あれ……」
彼女の背後の空を指差す。
ただならぬ様子に、急いでそちらを見たレベッカの目に映ったものは――。
「先程の魔物……其れもあんなに沢山居る」
「ど、どうする⁉さっきの方法じゃあんなに多くの数を相手にできない。あっという間に蜂の巣にされてしまうぞ!」
魔鷲の大軍は、どんどん近付いてきている。
レベッカは剣を抜いた。
「森に逃げ込むぞ。然う為れば、奴らも追っては来まい。攻撃は、極力わたしが防ぐ。確り付いて来い」
言うが早いか、飛んできた羽を弾き返しつつ、レベッカは森へと一目散に走り出した。
§§§
わたしの歩む道に、わたしの意志など関係なくて。けれど、それを不満に感じたことなどない。少なくとも、そう思っていた。わたしに期待を掛けてくれる父と母、それに皆の思いに応えることは嬉しかった。けれど――
――ああ、わたしは今、生まれて初めて自由に羽ばたいている。籠の中に押し込められていたのは、身体だけではなかったと知ってしまった。
飛ぶことを覚えた鳥は、果たして、籠の中に戻れるのだろうか?
§§§
ここに連れてこられて、もうどのくらい経ったのだろうか。
はっきりとしない意識を浮上させて、もういく度考えたかわからない問を再びもてあそぶ。
覚えのある魔力の波動から、ここがどこかも、戸の向こうにいる集団がどういったものなのかも見当はついていた。
今のところ野盗は彼女に危害を加えるつもりはないようだが、空腹感とのどの渇きが身を苛むこの状況は、あまり楽観視できるものではない。
「お頭、ただいま戻りました」
若い男の声が、マリーの耳に届いた。
彼らの会話は聞いていて気分の良いものではなかったが、聞こえてきてしまうものは仕方がない。再び意識が遠のくまでの辛抱だ。
「で、どうだった?外の様子は」
「へい。奴ら、橋を渡りやした」
「まぁ、予想通りってやつだな」
「でも、妙でしたぜ奴ら。お頭の話では、黒いのはえらい強い魔法を使うっつーことでしたが、実際魔法らしいものを使っていたのは青いのでした」
「どっちでも、始末することにゃあ変わりねぇ。やつらはもう、虫の息も同然よ。どんだけ強かろうが、数にゃあかないっこねぇんだからな」
おぼろげな世界の中。妙にはっきりと耳に届いた一言が、急速にマリーの意識から騒音を閉め出していった。
(レベッカさんが、魔法を……?)
夜闇を映し込んだかのような髪と瞳が、脳裏をかすめる。
(まさか……。いえ、このような不確かな情報を鵜呑みにしてどうするのです)
心に差した予感を、マリーは慌てて打ち消した。
§§§
焚火のはぜる音だけが、空間を支配している。
突然、サムが愛用のナックルをいじる手を止めて、沈黙を破った。
「やけに静かだと思わないか?」
「然うだな」
剣をかざして――あの程度の攻撃ではまずあり得ないが――刃こぼれがないか点検しながら、応じる。
「俺が思うにこれは――」
「罠、か」
レベッカが言葉を継ぐ。
サムがコクリとうなずいた。
剣を鞘に収めて、立ち上がる。
「まったく、森の外も中も魔物。魔物だらけ。嫌になるな、本当」
こぼしながら、サムが荷物を担ぎ上げた。
脅威は確実に迫ってきている。けれども、それがいつ来るのか分からない。
更なる精神への加重が、彼らを蝕んでいた。
なるべく無心を心がけて、進む。
洞窟が姿を現したのは、もう空が白み始めた頃だった。
「やっと……着いたな」
まぶしいものでも見るように目を細めて眼下を眺めながら、レベッカは深い息と共に言葉を吐き出した。
洞窟発見の喜びで、新たな活力を得たらしい。サムが力強い足どりを取り戻す。
洞窟はひんやりとしていたが、湿っぽくはなく、松明がよく燃えた。
内部に足を踏み入れた途端、レベッカは妙な気配――ブリミルの森で感じたのと同じような――を感じ取った。
「其れ以上先に進むな」
「何だよ。一体どうしたんだ?」
眉をひそめるサムに、彼女は無言で前方にあごをしゃくる。
「何だこれは‼どうなってるんだ⁉」
前を見たサムが、驚愕の声を発した。
二人の視線の先には、いくつもの分岐した通路があった。
「おかしいぞ。さっきまでは確かに、一本道だったのに」
「魔法陣の所為では無いか?此の間みたいにバラバラに成ら無かった丈でも増しだ」
「でも、これじゃあ――」
「落ち着け。騒ぎ立てた所で、何にも成りは為無い」
腕を組み、目差しを鋭くして眼前の空間を見すえる。
こうなったからには、魔法陣の破壊を優先したほうが良いのだろう。が、こうも滅茶苦茶に空間が歪められているのでは、波動を辿るのも難しい。発動さえしてくれれば、すぐに判るのだが……。
「マリー様!」
思考は、サムの声によって中断された。
「如何した」
「しっ!ちょっと黙っててくれ」
鋭い調子で返される。
(成程、『光』の神授魔法か。然う言えば、僅かに光魔法の気配が為るな)
リネス王家に伝わる、最も高度な魔法である。詠唱を必要とせず、ある一定範囲内にいる魔力を持った者一人に、自分の思念を送ることができる。相手も同じ魔法の使い手か、あるいは対象の思念を読み取れるほど高度な術者ならば、会話をすることも可能なようだ。ただ後者の方は、技術だけでなく、ある程度その人物との付き合いがないと難しいとされているが。
「マリー様が魔法陣のところまで、俺達を案内して下さるそうだ」
マリーの誘導は的確だった。徐々に波動が近くなる。
そして――。
「行き止まりですよ、マリー様」
目の前に立ち塞がる岩壁を、コンコンと叩く。押しても引いても、やはり何も起こらない。
どこかに、仕掛けの類があるのではないか。
レベッカは扉の近くから、目線の高さのところを石で叩いていく。
目的の場所は、すぐに見つかった。念のためにもう一度叩いてみる。やはりそこだけ、微妙に音が軽い。
試しに、その部分の石をつかんで引き寄せてみる。さほどの抵抗もなく石がすっぽりと抜け、現われた空洞にレバーがあった。
「仕掛けが有ったぞ」
「本当か!」駆け寄ってくる。「マリー様、ありました!え?あ、はい。わかりました。……マリー様?」会話の途中で、訝しげに顔をしかめる。「どうしたんですか⁉マリー様‼」
「何か有ったのか‼」
「わからない」憔悴した様子で、首を振る。「とにかく、急ごう!」
レバーを引く。石の扉が重い音をたてて、右方向へスライドした。
抑えきれない焦りが、二人の歩調を早める。
通路の半ばぐらいまで来たとき。
床が沈み込むような感覚がした。ガコンという音と、何かが動くような重い音が続けざまに聞こえてくる。思わず立ち止まりそうになったが、すんでの所で踏み止まり、全力で駆け出す。
魔法陣のものと思われる青白い光が、だんだんと大きくなる。
そうして、ついに。
巨大な逆五忙星が床一面に描かれた、広い空間に飛び出した。
出迎えは、ない。
剣に掛けていた手をはずす。
発動している魔法陣の輝きのお陰で、サムが走るために投げ出してしまった松明がなくても、視界の確保に不自由はなかった。
魔法陣はブリミルの森で見たものと、非常に似通っている。性能はこちらの方が幾分か上のようだが、同一人物の手によるものだろう。途上の魔物の襲撃も、これによって引き起こされたものだ。証明こそできないものの、魔物増加との関連性がますます濃くなった。
「無事か?」
「なんとかな」
振り返ると、サムは肩で息をしながら壁に寄り掛かっていた。やはり、昨夜からの強行軍が響いているらしい。
「危ないところだった。見てみろよ、アレを」
親指で後ろを示す。
通路の壁に空いた無数の穴から、槍が突き出していた。
「さて、マリー様をお助けしたいのは山々だが、まずはこのいけ好かない魔法陣の息の根を止めるか」
「ちょっと待ちな、お二人さん」
だみ声が、彼女たちの足を止めた。
前方の壁にポッカリと穴が開き、六人ほどの男達がバラバラと出てくる。
「ここまで来るたぁ、運のいいやつらだ」
得物をかまえ、
「だが、そろそろ年貢の納めどきだ」
レベッカは剣を抜き放ちざま、間近にまで迫っていた野盗の一人に閃かせた。
ギィンという剣と剣がぶつかりあう音が耳につく。その一瞬の後には、野盗の剣はさほどの抵抗も感じさせずに折れていた。
「ひぃ」
逃げ腰になったその野盗の首の後ろを、すれ違いざまに柄頭で一撃する。気を失って倒れたのをチラと確認して、次の標的へ。
標的とした野盗は、レベッカが近づくなり、動揺したのかデタラメに斬り掛かってきた。それを余裕でかわすと、鳩尾に思いきり蹴りを叩き込んで気絶させる。そのまま全速力で頭目のところに行き、
「ま、待ってくれ」
という命乞いをあっさりと無視して、剣を振り下ろした。
レベッカは、仰向けに倒れた男を冷ややかに睥睨した。
頭目は額にわずかに血が滲んでいることを除けば、特に目立った外傷は無い。彼女は斬る寸前で剣を止めたのである。
「其方も片付いた様だな」
呼び掛けに、サムが簡潔に答えを返す。
彼の傍らには、野盗三人がきれいにノックアウトされて倒れていた。
レベッカは、逆五忙星の頂点に設置されている装置へと歩み寄る。
「装置」といっても、大がかりなものではない。水をたたえた水盤の上に、一メートルほどの大きさの水晶が浮かんでいるだけ。いたって簡素なものだ。大した技術である。
何らかの魔法的処置を施したのか、水晶の表面には紋様の他に傷一つない。内側からは、魔法陣と同じ青白い光が滲み出ている。
剣を薙ぎ払う。
水晶は綺麗な切り口を見せて、盛大な水しぶきと共に水盤の中に落ちた。
魔法陣の輝きが失せる。
部屋全体に満ちていた濃密な魔力の気配が、消失した。
野盗たちがねぐらとしていたらしい部屋は、かなり散らかっていた。略奪品と思われる高そうな机の上や椅子の周りには、大量のスルス硬貨と少量の金貨や銀貨、銅貨や宝石といった金目の物が、見事なまでに散乱している。部屋の奥にはいかにも急ごしらえの、立てつけの悪い戸があった。
「なんで開かないんだ⁉」
急く二人を焦らすかのように、戸は僅かに軋むだけでビクともしない。
業を煮やしたサムが、気合いと共に見事な蹴りを放つ。大きく湾曲した戸が、派手な音をたてて地に叩きつけられた。
サムが一目散に主人のもとに駆け寄った。
震える手で、猿轡と荒縄を解く。白く美しい肌には、荒縄の痛々しい跡がくっきりとついていた。
「マリー様、マリー様‼しっかりなさって下さい。目を開けて下さい、マリー様!」
主人をしっかりと抱きかかえ、頬を軽く叩きながら、涙混じりに何度も呼び掛ける。
横たわるその姿は、いかにも弱々しく儚気だ。
(呼吸は為て居るし、目立った外傷も無い。と、為ると残る可能性は――)
「毒を盛られたのかも知れないな」
眉間に深いしわを刻み、つぶやく。
「町に行って、医者を連れてくる」
「待て」立ち上がった彼を、レベッカが引き止めた。「わたしが行く。若しマリーが目を覚ましたら、其の時は、御前が居る方が心強いだろう」
「……すまない」
と。
去りかけた彼女の耳に、微かな声が届いた。
マリーがうっすらと目を開ける。
「……サム。レベッカ……さん」
咳き込む。
気づいたサムが、主人の口に水を含ませる。
「マリー……良かった。何処も変わり無いのだな?」
「ええ。お手数お掛けして、すみませんでした。それから、ありがとうございます」
弱々しくはあったが穏やかな微笑みを、二人に向けた。
荒縄で拘束しておいた野盗たちは、まだ気絶しているようだった。
レベッカは頭目の肩を強く揺する。
「んあ。誰だ?もう少し寝かせろ……」
「答えてもらおうか」
喉元に、鋭い輝きを放つ刃を押し付ける。
情けない声をあげて、頭目が恐る恐る剣の持ち主を見上げる。
「しっ、死神⁉頼む、命だけは助けてくれ‼なんでも答えるから!」
ありきたりな言葉で、必死に命乞いをする。
それへ凍てついた視線を送りつつ、
「良いだろう。では単刀直入に聞くが、誰に頼まれてこんな事を為た?」
「し、知らない」
「知らない?然うか。ならば、仕方無いな」
剣を退け、振り上げる。
頭目の顔からたちまち血の気が引いた。
「頼むから‼……その化け物めいた剣をしまってくれ」あえぎながら、ワナワナと震える唇で声を絞り出す。「そんなものを突きつけられたひにゃ、恐ろしくてまともに話なんかできねぇ」
必死の懇願を呑んでやると、安堵したような吐息をつき、
「俺が知らないと言ったのは、依頼人のことだ。二週間くらい前だったか、あれは。俺たちのアジトに妙なヤツがきて、こう言ったんだ。『仕事をする気はないか?』って。どうも嫌な臭いがしたから、最初は断ろうと思った。ところが、だ。そう言おうとした矢先に、金貨十枚が入った袋を投げてよこしてきたんだ。金貨十枚ったら大金だぞ?しかもヤツは、成功したらその倍を報酬として出していい、とまで言ったんだ。内容も、小娘二人と小僧一人を始末するだけだっていうし。楽な仕事だと思った。それで、一も二もなく飛びついたって訳さ」
「其奴の特徴は?」
「そうだなぁ」
しばし考え込む。
「背かっこうは、だいたいあんたと同じぐらいだな。顔は、暗かったしフードを目深に被っていたから分からねぇ。ご丁寧に、口元も覆っていやがったな。年は三、四十代ってところか。けど、捜しても無駄だと思うぜ。あいつ、こなれた感じだったからな」
「この魔法陣について、知っていることはありませんか?」
問うマリーの顔色は、薬湯を飲んだために先程までよりは良い。
「いや、知らねぇな。俺たちが造ったわけじゃねぇし」
「そうですか……」
「どういたします?マリー様。こいつらの始末」
「やはり、領主様に引き渡すのが一番じゃないでしょうか」
その言葉に、頭目が慌てた。
「おい、約束が違うじゃねぇか。さっきお前、命は助けてくれるって言っただろ⁉そんなことされたら、俺達は確実に――」
「黙れ」口上を遮って、冷たく言い放つ。「約束通り、わたし達は御前達を殺さ無い。だが、領主に引き渡さ無い等とは一言も言って居無いし、其の後如何成るか等知った事では無い」
なおも喚き立てている頭目は完全に無視し、後ろの二人に問い掛ける。
「さて、如何為る?此の調子だと、梃でも動きそうに無いが」
「良い考えがあります」
マリーが野盗たちを指差す。
『我、汝らに安息と支配を与えん』
唱えるや否や、先程まで騒いでいたことなど嘘のように、頭目が気持ち良さそうに眠り始めた。
(リネス王家十八番の『眠り』の魔法か。だが……支配?)
「此の魔法には、どんな効果が有るのだ?」
「見ての通り、相手を眠らせる魔法です。それと、もう一つ……」いたずらっぽく笑いながら、器用にウインクをする。「通常の魔法に少しだけアレンジを加えて、眠っている間だけ術者の言う通りに動くようにしたんです。例えば、こんな風に……」
荒縄を解くと、
「整列!」
野盗たちが、いっせいに立ち上がる。そして、背筋をピンと伸ばし、足をきちんと揃えて手を真横にビシッとつけた――まさにお手本通りの――姿勢できれいに縦一列に並んだ。
「ほう」
思わず、感嘆の声が漏れる。
「では、参りましょう」
野盗たちを従えて、歩き出す。
続こうと足を踏み出しかけたところで、彼女はサムに呼び止められた。
「レベッカ、待ってくれ」
「如何為た?珍しいな。わたしを名前で呼ぶ等」
振り返り、好奇の目でサムを眺める。
サムは少し頬を赤く染め、
「そ、その……今回のことで、あんたにマリー様を害するつもりがないことが分かった。だから……仲間として認めてやろう。これからもよろしく頼む」
ぎこちない動作で、手を差し出す。
微笑を浮かべ、レベッカはしっかりと手を握りしめた。
複雑な、心境だった。
つり橋が使えなくなってしまったため、帰路は北に大きく渓谷を迂回せざるを得なくなってしまった。ヴィセコに着いたのは、マリー誘拐から半月ほども経った頃だった。
「それにしても、緊張しましたねー」
「本当ですね。俺、謁見なんて初めてだったから、最後までずっとドキドキしっぱなしでしたよ。でも、助かりましたね。こんなに報奨金を貰えるなんて」
金の入った袋を振りながら、嬉しそうに言う。
レベッカは話には加わらず、窓辺に腰掛けて闇に沈んだ町並みをボンヤリと眺めていた。
ふと、脳裏に村で過ごしていた日々の記憶が蘇る。両親が死んでから、村を発つまでの日々の記憶が……。
(彼の日から、カタリナ様は変わられた。リネス王家と和を結ぶ事に異を唱えて居たロバートに共鳴し、復讐を声高に唱える様に成った。稽古は、以前とは比に成ら無い程厳しさを増した……)
体中に刻まれた傷跡が、疼く。
カタリナにとって、彼女はもはや後継者ではなく、道具でしかなかった。
(リネスを憎む事丈が、わたしの支えだった。然うでも為無ければ、きっと、わたしは、立っては居られ無かった…………)
目を閉じる。大きく息を吸い込む。
二人の心はほぼ確実につかんだ。やるには、今が絶好の好機だ。心の片をつけなければならない。それに、そろそろ報告を求められるはずだった。
(……自分の気持ちに、嘘は吐け無いな)
マリーに毒が盛られたかもしれないと思った、あの時。生きて欲しいと、心の底から願った。
(リネスに対して、痼が無い訳では無い。けれども、マリーなら信用出来る。此の旅が終わったら師と父上、母上の志を継ぎ、今度こそ長きに渡って来た不毛な争いに、決着を付けよう)
「どうしたんですか?レベッカさん」ふいに、心配そうなマリーの顔が目の前に広がった。
「すごく厳しい顔をしていますよ?」
「否、何でも無い。有り難う」
微笑む。見せかけではなく、初めて本当の笑顔を向けることができた。
ヴィセコ。領主の館の地下牢。普段滅多に使われることのないそこには、現在六人の囚人がいる。
刻は深夜。
静寂が支配するその空間に、今、一人の闖入者が現れた。
年の頃は、三十代半ばといったところだろうか。きちんと整えられた銀髪、厳しい顔つきのその男は、軍人らしい規則正しい歩調で牢の前までやってきた。
手に持っていた鍵で扉を開け、低くつぶやく。
「起きろ」
野盗の頭目は身じろぎをすると、眠そうな声を出した。
「あんた、誰だ?」
「お前達の依頼人だ。助けにきた」
「本当か⁉」
今の一言で、眠気が吹っ飛んだらしい。口調がはっきりとしたものになる。
「おい、野郎ども。起きろ!」
残りの五人が、バラバラと起きる。うち一人が、あくびをしながら言った。
「何かあったんすか?」
「そこの御仁が、俺たちを助けてくれるらしい。ほら、ボサッとしてないでとっとと立て!」
野盗たちは、大急ぎで男の後に従った。
月光を映した銀光が、ほんの少しの間暗い森の中をきらめく。
「ここまでは計画通り、か」
銀髪の男は血の滴を払い落として、剣を収めた。その場を立ち去る。
後には、六つの死体と静けさだけが残された。
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